クリスマス

 お盆に帰省したケンは、クラブの合宿があるからと、慌ただしく大阪に行ってしまった。そしてそのまま後期が始まり、バイトとクラブに追われる彼と、わたしは日に2,3度メールで繋がっていた。わたしのバイトも増え、家庭教師を週に5件、そのうちの2件は週に2回、それから塾の講師は中学生も担当することになった。結構忙しくて、忙しさで苦しさを紛らそうとしてもいた。大学の授業の方も、いろいろと課題が出されて、エッセイを書くのに夜中までかかったりした。
 病院へは、毎週通っていた。薬が効き始めたのか、夜に眠れる日が増えてきた。それでも気持ちの浮き沈みが激しくて、どうしても辛いときには身体に傷をつけてしまう。後悔するのに、止められない。自分を傷つけることを止められないわたしを、面接室で先生は落ち着いてしっかりと受け止めてくれていた。何を話しても叱られない、どんなわたしでもいい、そんな場所を生まれて初めて持つことができたわたしは、その面接室でだけは、自由を感じることができるようになってきた。そして、今まで悲しみや苦しみしか感じることができなかったのに、ケンと初めて海へ行ったあの日に感じた「あたたかさ」を、ほんのすこしずつ感じることができるようになってきた。それは、例えば道でベビーカーに乗った赤ちゃんとすれ違うときだったり、モネの絵を見に行ったりしたときに、胸の奥底にじんわりと広がっていった。そんな体験を面接室で話すと、先生は「そうやってひとつずつ、いろんなことを感じ取っていけるようになれたら、きっとあなたは苦しみから幸せへと目を向けることができるようになると思うわ」と笑ってくれた。
 そうなれるかな?そうなれたらいいね。いつかわたしは「幸せ」というものをしっかりと感じることができるようになりたいよ。

 大学のメインストリートに、小さな小屋が建った。何だろうと中を覗くと、生まれたばかりの赤ちゃんが馬小屋にいて、3人の男の人と、おかあさんらしき女性の姿をした、小さな陶器の置物が並べられていた。クリスマスだ・・・。そうだ、ここはキリスト教系の大学だから、こういった宗教的な行事も学生生活のなかに組み込まれているんだ。
 いつも通学に使う裏門から、校舎へ続く坂道沿いに植えられた樹木にも、クリスマスの飾り付けがされてライトアップされた。もうそんな季節になっていた。
 大学は12月20日から冬休み。年明けは1月10日から始まって、2月初めには後期試験。そして2月半ばから、長い長い春休み。この休みがどんなものになるかわからないけど、楽しく過ごしたい。楽しいことを探したい。

 23日の夜、ケンから電話があった。「帰ってきたよ」と。嬉しい。久しぶりに会える、一緒に過ごせる。あの夏以来ずっと会えずにきたから、会えると思うだけでこころがあたたかくなった。これが「幸せ」なんだなぁ、とわたしはその感覚をしっかりと抱きしめた。忘れないように、この感覚を覚えておこうと。
 24日、彼がわたしの家まで迎えに来てくれた。おとうさんもおかあさんも彼のことをよく思っていないけど、彼はちゃんと玄関でおかあさんに挨拶をしてくれた。おかあさんは表向き彼に優しく応じ、彼が車に戻ってから、出かけようとするわたしに「夕食までには帰っていらっしゃいね。今日はおとうさんも早く帰ってくるから」と言った。
 ・・・やっぱりわたしはこの家に縛られるんだ・・・。
 そう思うと、一気にブルーになった。いつまでもここから逃げ出せない。不本意だと思っていても、わたしはきっと夕方にはここに帰ってくるだろう。そして、また吐きそうになるのをこらえながら、食事をするのだろう。

 彼の車の助手席に乗り込むと、車がスタートする。ラジオからはクリスマスソングばかりが流れてくる。
 ・・・うん、今日は、今は、楽しいことだけ考えていよう・・・。
 自分で自分に言い聞かす。折角会えたのだから、ふたりで楽しく過ごしたい。彼の前で、たくさん笑っていたい。イヤなことは忘れてしまおう。胃の辺りが重いけど、気にしないようにしよう。

 「何処に行こうか?」と彼がきく。
 こういうとき、わたしは何処に行きたいのか分からない。だから決まって「何処でもいいよ」と答える。何処に行きたいのかわからないのもほんとうだし、彼と一緒に居られるのなら場所なんて関係ないって思ってるのもほんとうのこと。

 「高校、行ってみようか?」と彼。
 ・・・え・・・?ちょっと戸惑う。あんまり楽しいことのなかった3年間だったから、特別な思いもなくて。でもそんなこと言えずにいるうちに、車はどんどんそちらへ向かって行く。・・・まいっか、遠くに離れて暮らしてると、帰ってきたときにいろんな場所を懐かしく感じるんだよね、きっと。そんなふうに思って、景色を眺める。青い空。突き抜けるような、どこまでも青い空。いいなぁ。こんな空になりたいなぁ。。。
「今も、空になりたい、って思ってる?」
いきなりの図星。「・・・うん」と答えると、彼は「そっか・・・」とだけ言って、話題を大学生活のことに逸らした。クラブのこと、バイト先の友達のこと、今勉強している内容、ちゃんとご飯も作ってること・・・いろんなことを彼が次から次へと話していく。わたしはその彼の横顔を、じっと見つめていた。無理して喋ってるようだった。そんな思いをさせてしまう自分が、嫌いになりそうだった。

 見覚えのある街路樹が、姿を現した。そこの交差点を左折すれば、わたしたちが出会って一緒に過ごしたあの高校の正門だ。彼はゆっくりとハンドルを切り、校門を通り抜け、職員駐車場に車を止めた。
 「すこし、歩こうか」
 車から降りて、彼がわたしの右手を取る。手を繋ぐことも久しぶりで、恥ずかしくなる。顔が赤くなってないかな?俯いて、髪で顔を隠したまま、ふたりでゆっくりと歩く。校舎と職員室を繋げる石畳。大きなイチョウの木。体育館の横を通り抜けると、グランドが広がる。さすがに部活もないらしく、誰もいない。静かな空間。時折、冷たい風が通りすぎていく。
 桜の木の下のベンチに、ふたりで座る。なんにもないグランド。サッカーゴールがあるだけ。
 「俺さぁ」と彼が話し出す。
「文化祭のあと、ここでみんなとバカやってたんだよなぁ。佐々木が三原のセーラー服着て、志乃が化粧してさ・・・写真も撮って、みんなで缶ビール飲んでたんだ」
 懐かしそうな顔で、あの頃一緒に生徒会の役員をしていた子の名前を出す。佐々木くんの顔が思い出せなかったけど、セーラー服を貸したという有佳も、佐々木くんにメイクをしたらしい志乃も、それぞれに同じクラスになったことのある子だった。二人とも元気で明るい子だったね、人気者で。
「菜穂は2年の文化祭のとき、何してた?」
「うーん・・・確か、欠席してた」
「なんで?文化祭なんて一番バカやれるときじゃん」
「・・・だから、休んでたの・・・」
 ・・・あ・・・。また重い空気にしてしまった。。。わたしってダメだなぁ。。。慌てて彼に謝る。今日は楽しいことだけを探すつもりで来たんだから、楽しまなきゃ。

 「菜穂は・・・」
 彼が言い淀む。
 「なに?」
「・・・菜穂は、どうしてここに来たの?」
「・・・ここ、って?」
「この学校」
「んー・・・ここにしなさい、って、おとうさんとおかあさんに言われたから・・・」
イヤだなぁ、こんな話。
「そうやって、ずっと親の期待通りにこれからも生きてくの?」
 ・・・・・・・・。
 何でそんなこと、急にきくの?待って、わたしはまだその答えを見つけることができずにいるのに。
 「俺さ、ずっと菜穂の話聞いてきて、そういううちなら仕方ないよな、って思ったりしてきたんだけどさ、いつもいつも辛そうな菜穂を見てると、このままでほんとにいいのか、って思うときがあるんだよ。俺も大学行くまでは親に頼ってきてたし、今だって仕送りしてもらってるけどさ、それでも生活費くらいは何とかしようと思ってバイトして、金足りなくなったら飯抜いたりして、いろいろやってみると、結構俺でも何とかなるんだな、って分かってきて・・・」
彼がわたしの目をまっすぐに見つめる。
「・・・もうすぐ俺たち20歳になるじゃん?おとなになるんだよ?ほんとにこのままでいいのか?」
・・・ちょっと待って。わたしはまだそこまで考えられないの。あなたが見ている世界と、わたしが見ている世界は、高さが違うのよ。
 そう言いたくて、でも言えなくて。呼吸が苦しくなってくる。何も言い返せない自分が悲しくて、泣きそうになる。・・・今日は楽しい日にしようと思っていたのに・・・。
 「もう止めないか?」
彼がわたしの顔を覗き込む。止めるって、何を?
「そんなふうにして、自分で自分を縛り付けて窮屈に生きてくの、止めないか?」
・・・できないから苦しんでるんだよ・・・。あなたにこの辛さが分かる筈ない。分かる筈のない人にそんなことを言われて、悔しくて、もう涙をこらえきれなかった。
 それでも彼は、わたしに伝え続ける。
「そうやって泣くこと自体は悪くないけど、泣いても何も変わらないってことも菜穂がいちばんよく知ってるだろ?親がこうだからとか、親は変わらないからとか、そんなふうにずっと諦め続けてたら、いつか菜穂がほんとにやりたいことを見つけたとしても、できないかもしれないじゃないか?親は確かに大事だけど、親のための人生をおまえが歩いていく必要なんてないんだよ」
「そんなこと、分かってるよ」
遮るように、わたしも言い返す。
「分かってても、どうしようもできない世界がある、ってこと、ケンには分からないのよ。逃げたいのに、逃げたらいけないような気がして、自分でもどうしたらいいのか、どうしたいのか、分からなくてどうしようもなくて・・・そういう地獄みたいな世界があるってこと、ケンは見たことないから分かるわけないじゃない?」
・・・わたしはまた、自分の周りに壁を創っていた。彼にこれ以上こころを乱されたくなくて。
 「だから、俺には分からないんだよっ!!」
彼が地面を蹴る。砂が飛び散る。こんなふうに彼が怒るところを見たのは、去年の秋以来かもしれない。
 わたしは、ベンチから立ち上がって、歩き出した。もうこんな言い合いを続けたくない。これ以上こんなことが続いたら、わたしはおかしくなる。だから、帰ろうと思った。
 その手を、掴まれる。・・・左手首を、掴まれる。彼がわたしのコートの袖口を引き上げる。・・・かさぶたが数本・・・。
「こんなふうにしなきゃ生きていけないなんて、おかしいんだよ?そんな思いしなきゃやってけないなんて、おかしいんだよ?もっと楽になれる道を探そうと思わないのか?」
「あたしがおかしいって言いたいの?だったらあの時に別れればよかったじゃない?何で今更そんなこと言うのよ?」
彼の手を振り払って、わたしは走った。・・・ミュールは走りづらい。
 ・・・彼は、追って来なかった・・・。

 その夜、わたしは、両親と夕食をとったあとで、胃の中が空っぽになるまで吐いた。

原稿用紙

It's my...

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