援助するということ
「援助」を必要としている人は、この世界にどのくらいいるでしょうか。食糧・衣服・住居、教育・養育・療育、医療・介護、いろんな「援助」があります。私たちは様々なものを求め、与えようとしています。それでも追いつかない程に、世界は目まぐるしく変化していきます。食べるものも着るものもなく、最低限の教育すら受けることもできず、必死に生きている人がいます。狭いアパートやマンションの一室で、泣くしか気持ちを伝える術を持たない赤ちゃんと一日中向き合って、虐待してしまう母親がいます。加齢と共に、或いは関係なく、痴呆のために徘徊したお年寄りを、昼夜関係なく必死に捜し回ってくたくたになっている家族がいます。生きたくとも生きられずに消えていく命があれば、生きたいのに自ら絶ってしまう命もあります。
それらは全て、「人は一人では生きていけないのだ」ということを、私に伝えてくれます。
では、「援助すること」とはどんなことでしょうか。政治が不安定で、或いは偏った人種差別や思想差別・排除の中で、繰り返される紛争の犠牲として、食べることも学ぶこともできずにいる子どもや赤ちゃんに、ほんの少しの余裕がある人が、ほんの少しの善意をお金や物資という形で送ること、これも援助することです。不自然な赤ちゃんの泣き声が、マンションの上や隣りや下の部屋から聞こえてきたら、少し勇気を出してその家のお母さんと話してみること・それが不可能なら、そっと援助機関に連絡すること、これも援助することです。介護疲れが目に見えている家族に、デイサービスの利用を薦めてみる・それが無理ならほんの数時間だけでも交代して、疲れ切った人に休息を取ってもらう、これもやはり援助することです。
ここで、私は、「こころの援助」に絞って掘り下げてみようと思います。
相談窓口や病院、或いは個人開業のカウンセリングルーム等を訪れる人は、「必要性」を感じています。感じているのが本人ではなく家族で、本人は「連れて来られた」という様子だったり不在だったりすることもあります。いずれにしても、本人か或いはそのごく身近なところにいる人が、何らかの専門的援助を必要としているという状態を認識しています。場合によっては、「症状」が突然現れて病院に運び込まれる人もいるかもしれません。そのときには、本人は混乱していても、同じく混乱の中にいるであろう家族は、やはり援助の必要性を認めるでしょう。
そのときに大切なのが、「本人のペースに合った援助ができるかどうか」だと、私は感じています。援助に当たる人は専門知識も経験も豊かかもしれません。援助することが日常となってしまっていたなら、「新しい患者さん(或いは相談者さん)だな」という認識だけで取りかかってしまう可能性も、絶対に無いとは言い切れません。しかし、人間は誰一人として同じ存在はあり得ません。似たようなタイプとして、ある種の病名や特徴的行動で括ることはできても、その人が今どの地点に居て、これからどの程度のペースで歩いていくかは、その人だけのオリジナルです。早すぎても遅すぎても、逆効果になる危険があります。何某かの「資格」を持った人は「専門家」として責任を負いますが、気を付けなければならないのは「同じ人間なんてあり得ない」という基本的な事実を忘れないことです。「その人が今現在この段階で必要としている援助」を適切に与えることができるかどうか。患者・クライエントにとって重要なのは、そのことだけです。例えば高学歴で立派な資格を持っていたとしても、「自分に合わないスピードで面接を展開していくカウンセラー」は、患者・クライエントにとっては何の役にも立たないどころか、混乱を引き起こしかねない存在なのです。
これを書いている「私」は、専門家ではなく援助を受ける者です。と同時に、いつか誰かの斜め後ろ辺りを共に歩いていけたらと願ってもいます。ですから自戒の意味も込めて、綴っています。
看板に「○○療法」と謳っていない限り、単一の療法で援助を行うことはとても難しいでしょう。様々な療法のエッセンスを自分なりに抽出し、ミックスさせて、その人が今必要としている援助を行っていくことになるでしょう。それが噛み合わない感じがしたとき、勇気のある患者・クライエントは、不一致感を言葉にするかもしれません。言葉にできない人は、その不一致感を抱えたままそれでも”こういうものなのかもしれない”と自分で自分に言い聞かせていくかもしれません。行動力のある人なら、無言でそこを立ち去るかもしれません。そうなったとしたら、それは「その人に合った援助ができなかった」ということです。どれだけの学問を積んでいようとも、どれだけのロールプレイをこなしてきていたとしても、どれだけのスーパーヴィジョンを受けてきたとしても、その時目の前にいた患者・クライエントに必要な関わりができなかったということです。
その手法が、その人に合っているだろうか?今その言葉を掛けることが、その人にとって援助に繋がることだろうか?そういったことを、常に問いかけながら向き合っていくことが大切だと、私は感じています。私が学んでいる団体の講師の先生が、時々仰います。「カウンセリングで食べていくことになったとしても、5年間はクライエントさんに学ばせていただく状態です。10年経ったらなんとなく自分なりの手法が確立されてきます」と。この姿勢を忘れたくないといつも自分に言い聞かせます。「私が相手を癒すのではない。私はその人から学ばせていただくのだ」と。
辛い時期をイヤというほど経験してきた人は、向き合った相手がホンモノかニセモノかを、かなり早い段階で見分けます。それは本能的なものと言えるかもしれません。自分と共に歩んでくれそうな人か、スキルだけで誤魔化そうとする人か、嗅覚を働かせます。自分を傷つける可能性を持った人からは、必死になって身を守ろうとします。
だからこそ、「目の前にいるその人だけに合ったペースと方法で接していくこと」が重要になってくるのです。タイミングは、とても重要なのです。