かたつむり
わたしは彼と連絡を取らないことにした。彼のことは好きだった。でも、好きになればなるほど、彼にとってわたしがお荷物になるんじゃないかという思いがどんどん膨らみ、彼に甘えることが怖くなっていった。わたしは誰のお荷物にもなりたくなかった。
携帯は、使うこともほとんどなくなった。大学でできた友達とも、必要最低限のお付き合いだけで、一緒にご飯を食べたりコンパに行ったりすることはなかった。わたしの毎日は、大学と家庭とバイト先の往復だけに限られていた。抗うつもりはなかった。そうやって適応することをずっとわたしは選んできたのだから。
いつもひとりで空を見上げているわたしに、話しかけてくれる男の子も居た。一緒に遊びに行こうと誘われたりもした。でもわたしは、もう恋なんてしたくなかった。わたしが抱えているお荷物を、もう誰にも見せたくなかった。そのことで誰かが苦しむのを見るのは、わたしが大きな荷物を抱え込むこと以上に、わたしにとっては耐えられないことだった。
ケンと最後に会ってから、2ヶ月弱が過ぎようとしていた。何度も手紙を書こうと思った。メールじゃ伝えきれないたくさんの思いを、正直にぶつけてみようかと考えたこともあった。でも結局、便せんを開いたまま、何も書けなくてまた閉じてしまうことの繰り返しだった。
梅雨入り宣言が出され、庭の紫陽花が雨の中きれいに映えていた。その大きな葉の裏に、小さなカタツムリを度々見つけるようになった。虫が大嫌いなおかあさんは、庭師さんにカタツムリを駆除してほしいと訴えた。わたしはそんなにまでしなくてもいいのにと思いながら、カタツムリたちが行き場を失っていくのを黙って見ているしかなかった。
まるでわたしみたいだ、と思った。カタツムリは、まるでわたしのようだ。都合の悪いときには駆除される。取るに足らない小さな存在。行き場を無くしたわたしは、カタツムリと同じだった。
傷はいつも更新されていった。かさぶたになる頃、新しい傷をつける。いつも長袖を着ていたから、誰にもばれずにいられた。家政婦さんが作る料理も、不味くはなかったけど、食べたくないときもあれば、食べたあとで戻してしまうときもあった。誰もそのことに気づいていなかった。苦しかった。それでも生きていくことが、辛かった。
人と話すのが怖くなった。誰かが側に来るだけでも、こころの中に入り込まれそうで、怖くてたまらなくなった。眠れない夜も続いていた。前期試験が迫ってきても、試験勉強に集中できなかった。バイト中も、ぼんやりすることが増えた。
わたしはおかしいのかもしれない。
そんなふうに思うようになった。こんなに苦しいのは、普通じゃない。普通に生きていける人は、こんなふうに傷をつくったりしないし、ご飯だって普通に食べられる。睡眠だって取れる筈だ。それができないわたしは、どこか身体の調子がおかしくなってきているのかもしれない。
そう思って、幼い頃からお世話になっている内科へ、こっそりと出かけた。先生は、わたしの手首を見て、紹介状を書くとおっしゃった。指定されたのは、精神科だった。
・・・精神科・・・?
ああ・・・わたしはやっぱりおかしいんだ・・・。
こんなわたしは、恋なんてしちゃいけない。結婚したいとも、子どもが欲しいとも思ってはいけない。そう考えながら、涙がこぼれた。
先生は、わたしが受診したことも、紹介状のことも、誰にも話さないと約束してくれた。そして、その紹介状を持って、なるべく早く病院で受診するようにと薦めてくださった。「少し大変な思いをすることになるかもしれないけれど、あなたはおかしいわけでも何でもないんだよ。今はこころが疲れてしまっているようだから、病院の先生とよく話し合って、少しでもあなたが楽に生きていけるようにしよう」とも付け加えてくださった。
生きること・・・それは、わたしにとっては、もうどうでもいいことだった。
その病院に出かける前、わたしは久しぶりにケンの携帯を鳴らした。まだ眠っているのか、留守電に切り替わった。ことばでメッセージを残す自信がなくて、わたしはそのまま電話を切った。今更、彼に伝えることでもないかもしれない。そんなふうに自分に言い聞かせ、雨の中、大学に行く振りをして紹介された病院へ行くための地下鉄に乗った。気を緩めると、泣いてしまいそうで、わたしはずっと歯を食いしばっていた。
駅から更に15分ほど歩いて、小さなビルに辿り着いた。「○○クリニック」ーーー一見普通のクリニックに見えるけど、その看板の下には小さな文字で「精神科・神経科」と書かれていた。わたしは誰にも顔を見られないように俯いて、ドアを開けた。
始めに、一つの部屋に案内された。今どんな症状があるのか、生い立ち、学歴、今までにかかった病気、アレルギーの有無、どんなことに困っているのか。そんなことを、1時間半ほどの間に尋ねられた。夜眠れないこと、食事が普通にとれないこと、手首を傷つけてしまうこと、涙もろくなったこと、生きていても仕方ないと感じることが多くなったこと、そんなことを話した。とにかく、楽になりたかった。恋を普通に楽しむことができるようになりたかった。・・・またケンと笑い合いたかった。
その後、心理テストを受けた。たくさんの問題があって、当てはまる度合いに応じて5段階に答えていく。随分時間がかかってしまった。
それからお医者様とお話。静かな感じのする、女医さんだった。最初の面接の用紙をざっと読みながら、「心理療法を受けてみましょうか」とおっしゃった。心理療法ってどんなことをするのかよく分からなかったけど、お医者様が薦めるのなら、その必要性があるのだろうと思い、次の週から心理療法も始めることになった。
次の週には、木を描く検査と、インクの染みを見て連想をするテストを受けることになっていた。また、課題も与えられた。すべてがわたしの状態を把握するためにツールになるらしい。
とりあえず、今日の診察を終えて、病院を後にした。切っておいた携帯の電源をONにすると、彼からのメールが届いていた。「まだ寝てた。ごめん。何かあったか?よかったら返事を・・・」控えめな言葉だった。
時間が時間なだけに、わたしは電話することもできず、とりあえずロングメールを送ることにした。「精神科を受診しました。これから心理療法を受けることにもなりそうです。ひとりで立って歩けるようになりたいと思っていたのに、こんなふうになってしまって、悲しくてたまらない。わたしはケンに似合わない。あなたはもっと明るくて素敵な人を見つけてください」。本当は、彼に会いたかったけど、それは言えなかった。彼の幸せを考えると、何も言えなかった。離れるしかないと思った。
わたしは、わたしの力で、なんとかしていこう。彼に迷惑は掛けまい。
そう、強く誓った。