鯉のぼり

 突然に彼女が現れて、突然に帰って行ったあの日から、ぼくは彼女と連絡が取れずにいる。無事帰れただろうか?叱られなかっただろうか?あんなに取り乱していたけど、大丈夫だろうか?不安がつきないけれど、携帯は繋がらないしメールも返事が来ない。自宅に電話しても、誰も応じない。どうなっているのか、彼女が大丈夫なのかを確かめたかった。でも、授業が詰まっていて、どうしても休めなかった。バイトも予定を入れてしまっていて、人手が足りないし、休めなかった。
 それでもいつもいつも、菜穂のことが気がかりだった。また増えていた傷・・・このまま彼女に任せていていいのだろうか?ぼくには判断がつかなかった。彼女の両親に相談しようにも、あの秋の夜のことがあってから、ぼくの信用はがた落ちで、彼女へ電話を取り次いでももらえない。ぼくにも彼女にも、相談できる相手が居なかった。

 やっとゴールデンウィークに入って、クラブも休みが貰えて、ぼくは帰省した。彼女とは連絡が取れないまま。ぼくは一昨日納車されたばかりの車を運転していた。高校卒業前に免許を取って、大阪に引っ越してからは、運転する機会がなかった。別に車がなくても大学には通えるし、わざわざ親父に借金してまで今車が必要なわけでもなかったが、あの夜の彼女の様子を見たとき、車を買おうと思った。ぼくに車があれば、彼女が必死の思いでこっちに来たときに、帰るのに電車を使わせなくてもすむ。ぼくが運転している間、菜穂は眠っていればいい。
 窓からちらっと鯉のぼりが見えた。どこかの家のものだろうが、とても大きくて立派なやつだ。どんな家族なんだろう?ふとそんなことを考えながら、ぼくは彼女の家族のことも考えた。
 銀行のトップにいるおとうさん。専業主婦のおかあさん。ひとりっこの菜穂。大切に大切に育てられた彼女は、それでも幸せではなかった。家族の間で苦しみ、身体を傷つけることを止められなかった。

 初めて彼女を見たときのことを、ぼくははっきりと覚えている。
 3年生になった春、進学コースの授業の教室が、一緒だった。それまで、ぼくと彼女は校舎の違うクラスにいて、お互いの存在を知らなかった。いや、ぼくは生徒会の活動もしてたから、彼女はぼくのことを知っていたけれど、ぼくは彼女のことを知らなかった。あの教室で、彼女は、一番窓際の一番後ろの席で、じっと空を見つめていた。周りのみんなが受験目指してぴりぴりしているなかで、菜穂の存在はちょっと異質だった。勉強をしている様子が見受けられない。何度か授業を受けながら、ぼくは一番廊下側の一番後ろの席で、ちらちらと彼女を見ていた。授業を聞いているふうには見えなかった。いつも彼女は空を見ていた。それなのに、英語のテストはいつも満点だった。授業中は寝てるか空を見てるかしかしてないのに、一体どこから知識を得ているのだろう、と、不思議でならなかった。
 彼女は、その細い身体と同じように、細くて小さな字を書いていた。日本語で書く名前は、ほどほどに崩れて、でも読みやすい。アルファベットは、ところどころに筆記体が混じって、それでもやっぱり識別し難いということはなく、寧ろ崩れ具合がバランス良くさえ感じられた。ぼくは彼女の文字を見るのが好きになった。彼女の解答用紙の採点をするのが、好きになった。
 彼女の解答用紙に、「いつも満点で、すごいね」とぼくが書いたところから、ぼくたちはお互いの存在を意識していることを、確認するようになった。彼女は文系クラスで、ぼくは理系クラスだったから、話す機会になかなか恵まれなかったけど、あの夏の日から、ぼくたちの関係は大きく変わった。ぼくにとって、彼女はかけがえのない存在となった。

 そういえば・・・。

 運転しながら、ぼくはまた思い出す。

 菜穂は、ぼくと居るときにも、よく空を見ていた。ふたりで出かけるときにも、待ち合わせの場所に着くと、いつも彼女は空を眺めていた。「どうしていつも空を見てるの?」と尋ねたとき、彼女は笑って「空になりたいから」と答えたっけ。あのときには、彼女はもう相当に苦しんでいたのだろう。そして、ずっと一人で荷物を抱えていたんだ。。。ぼくがどんなに頑張っても、彼女の荷物を軽くすることはできなかった・・・。その事実に気づいて、ぼくは悔しくてアクセルを踏んだ。

 ほとんど休憩も取らずに実家に着いたぼくは、ちょうど家にいた弟に顔だけ見せて、そのまま彼女の暮らす街まで車を走らせた。途中、何度も携帯に繋ごうとするのだけど、繋がらない。彼女が今どんな状態なのか、気が気じゃない。どうか生きていてほしいと、それだけを祈る。
 やがて、彼女の住む市内に入った。もう一度連絡しようとするけど、やっぱり繋がらない。途中でコンビニを見つけ、公衆電話から電話してみる。コール12回待ったけど、誰も出ない。家族で旅行でもしているのだろうか。それならそれでいいのだけど・・・。
 コンビニで、彼女が好きなプリンを買った。あの夜の様子だと、また吐いているかもしれないけど、これなら食べてくれるかもしれない、と密かに期待もしていた。
 ・・・彼女の家が見えてくる。煉瓦の外構、その向こうに大きな松の木が見える。とても広い、3人で暮らすには広すぎる家だ。ぼくの中古の車じゃ似合わない。正面の玄関のほうに回ると、大きな門は閉ざされている。警備会社のステッカーの他に、センサーもついている。そう言えば昔、彼女が「ウチはおとうさんの仕事の都合で、警備がすごいの。時々わたしも泥棒に間違われて、警備会社の人が駆けつけたりするのよ」と笑っていたっけ。
 ・・・そんな家だから、ぼくはなかなかドアフォンを鳴らせない。カメラ付きだし、彼女以外の人に見られたら入れてもらえる筈がない。ここまで来たのはいいけれども、中に入ることができなくて、ぐるぐると彼女の家の周りを何周もする。
 意気地なしだなぁと苦笑しかけたとき、裏口から、彼女が現れた。ぼくは慌ててブレーキを踏む。彼女がぼくの車を驚いて眺め、そしてぼくを見つけて更に目を丸くする。
 「いつ帰ってきてたの?」「この車、買ったの?」「エンジンの音がずぅっとするから、おかしいなと思って出て来たの」
 彼女が次々と言葉を繰り出す。ぼくは、とりあえず彼女に今から話せないかと尋ねた。
 彼女は、困った顔をした。そして、「おかあさんにきいてくるから、ちょっと待ってて」と塀の向こうに消えた。・・・真っ昼間なのに、しかもぼくたちはもうこどもじゃないのに、何故こんなにも親の意見を確認しなきゃいけないんだ。むっとする。彼女の家がそういうふうになってるんだと分かっているつもりでも、やっぱり親から離れられない彼女に苛立ちを感じてしまう。会いたくて、心配で、車を飛ばしてきたのに・・・。

 15分ほどして、彼女は玄関から出てきた。ぼくの見慣れない、大人びた洋服に着替えていた。ヒールの高いミュールでぼくの車に駆け寄ってきて、助手席に座った。
 「ごめん、ケンが来てるって言えなくて、大学の女の子の友達が来たんだ、って言っちゃった。そしたら着替えて行きなさい、って。。。」
 ああ・・・やっぱりぼくには理解できない・・・。

 ぼくは目的地もないまま車を走らせた。何にしても、彼女の地元の地理が、ぼくには分からない。カーナビを着けるだけのお金の余裕がなくて、地図も持ってない。彼女にどこかゆっくりできそうな場所はないかと尋ねても、あまり一人で外出したことのない彼女は、自分の住んでいる市内のこともよく分からない。彼女の生活の基盤はそこにあっても、彼女が行く場所は、彼女の大学がある中心地なんだ。でも彼女がそこに行くのは、いつも決まっておかあさんと洋服やら靴やらを買うときにであって、彼女はデパートとか行きつけのブティックくらいと、その周辺でお茶できるおしゃれなお店しか知らない。しかもいつもそこへは運転手さん付きで行くのだから、地理なんて分かる筈もない。
 ぼくは、あの夏にふたりで初めて行った海へ向かうことにした。あの場所が、ぼくたちにとっての「原点」だから。全てがあそこで始まった。ぼくと彼女が繋がったのも、彼女が初めて一大決心をして「家出」したのも、あの海だった。あの海でなら、ぼくたちは少しだけ素直に話せそうな気がした。
 彼女は、黙ったまま助手席に座っていた。あの夜に来たような、必死な感じが、今の彼女にはない。かといって落ち着いた感じがするわけでもない。・・・彼女から、生気が失われているような、そんな感じがした。ぼくが大阪に出てから、この一ヶ月の間に、彼女のこころにどんなことが起きたのか。ぼくは想像するのが怖くなった。
 彼女は「何処へ行くの?」とも尋ねず、ずっと黙って外を眺めていた。・・・いや、空を眺めていた。彼女が遠くへ行ってしまったような感じがした。

 あの海に着いた時、お昼を少し回っていた。ぼくはお腹が空いていたんだけど、彼女はきっと何も食べないだろう。・・・そういえば、あのプリン、後部シートに置きっぱなしだ・・・。
 「菜穂の好きなプリン、コンビニで買ってきたんだけど、食う?」
「ありがとう。・・・でも、ごめん・・・食べられないから、ケンが食べて」
彼女は、また少し痩せていた。ぼくもプリンを食べる気にはなれなくて、そのまま車を降りた。

 ぼくたちは暫く黙ったまま、海岸を歩いた。彼女が創ろうとしていた砂時計のことを、思い出した。あの夜、彼女がひとりで泣きながらここにうずくまっていたことも、あの干物屋にお世話になったことも、思い出した。彼女は何を考えているのだろう・・・?ふと振り返ってみると、彼女は海と空を眺めていた。
 「また空を眺めてるの?」
彼女は笑って頷く。
「空になりたい、って、昔菜穂は言ったけど、それってどういう意味?」
ぼくはずっと気になっていたことを尋ねてみた。彼女は困ったように表情を歪めて、それでもひとつひとつことばを丁寧に選ぶようにして、話し出した。
 「逃げたいとか、そういうわけじゃないのかもしれない。ただね、・・・うーん・・・こんなにちっちゃな人間じゃなくって、もっともっと大きくて広い存在になりたい、っていうか・・・。いろんなひとのいろんな思いを、包み込めるようになりたい、のかもしれない。。。」
「じゃあ、菜穂は、今ここにいる菜穂は、どこへ行くの?」
「・・・さぁ。。。どうなるのかな、わたしにも分からないよ」困ったように笑う彼女。
 ぼくには分からない。空になって、他の人たちのいろんな思いを、包み込みたい?それで満足できるのか?今ここにいる菜穂は、じゃあ、どうなるんだよ?今ぼくが向き合っている菜穂は、どこへ行ってしまうんだよ?
 そんな、言いたい言葉が溢れてくる。
 消えるのはずるいじゃないか。残されたぼくは、どうすればいい?菜穂じゃなきゃダメなことが、ぼくにとって沢山ある。それは他の誰にも代わりはできないんだ。それなのに、一人だけ消えるなんて、あまりに勝手でずるいじゃないか。
 怒りが込み上げてくる。
 ・・・大体、突然ぼくの部屋の前に現れて、突然また帰って行って、そのまま音沙汰なし、っていうのも、自分勝手過ぎないか?どれだけぼくが心配したと思うんだ?せめて携帯くらい繋いでおいてほしかった。そうしたら、ぼくはもっと安心できた。菜穂のこころを見つめることができた。例えぼくが何の助けも施してあげられなくとも、少なくとも、ぼくのこころは菜穂の側に居ることができたのに。

 ・・・気が付いたら、それらの思いを一気に彼女にぶつけていた・・・。

 彼女は、じっと足下の砂を見つめていた。ぼくから彼女の表情は見えない。そのまま彼女は、ゆっくりと波打ち際まで歩いて行った。キラキラと輝くミュールが、海の砂で汚れた。そんなことに、彼女は気づいていないようだった。彼女はただただ、俯いていた。
 彼女のこころが閉ざされていくような感じがして、ぼくは不安でいっぱいになった。
 「どうしてそうやっていつもこころを隠そうとするんだよ?!どうして俺にも何も話してくれないんだよ?!菜穂が俺に話してくれないなら、・・・俺は菜穂にとって何なんだよ?!」
小さな、細い彼女の背中に、怒りの感情をぶつける。こんなつもりじゃなかったのに、彼女の話をただ聞いてあげたかったのに。こころのなかで声がする。”彼女を苦しめるためにここへ来たのか?””いや、違う。分かり合いたかったんだ””でもお前のしていることは、彼女を傷つけているだけじゃないか?”

 ・・・・・。

 言い過ぎた・・・。幾ら何でも、今の彼女にこんな言葉は、耐えられない筈だ。
 どうしたらいい?

 どうしようもできずに立ち尽くしているぼくに、彼女が振り向いて笑った。
「ケンはわたしにとって大切な人だよ」
そこまで言って、彼女の顔が歪んだ。
「だからわたしはケンを巻き込みたくない。誰かに頼ったら、わたしは一気にダメになっちゃうから。ほんとは頼りたくてたまらないけど、そんなことしたら、わたしはこんなふうに遠く離れたところでケンのことを信じて待っていることなんて、できなくなる。いつもいつも会いたくてたまらなくなる。そうなっちゃいけないんだよ」
「どうしてそれがいけないんだよ?別にそんなこと、菜穂が気にする問題じゃないじゃないか?それを迷惑と思うかどうかは、俺の問題だろう?」
 彼女が、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、悲鳴にも似た声で叫んだ。
「誰かが居なければ生きていけなくなるのは、怖いのよ!」
そのまま、彼女はうずくまって泣いた。
 ぼくにはわからなかった。どうして誰かが居なきゃ生きていけないと思うのがいけないのか?みんなそうやって生きてるじゃないか。みんなそうやって、好きな人のことを想いながら頑張ってるじゃないか。どうしてそれを菜穂は自分に許そうとしない?どうしてそんなに自分を責め続ける?どうしてそんなにも自分を追い詰めるのか?・・・ぼくにはわからなかった・・・。どうすれば彼女を救えるのか、分からなかった。
 ぼくは泣き続ける彼女に、その小さな身体を抱きしめて包み込んで、伝えた。
「俺は、菜穂が居なきゃ生きていけないよ。少なくとも今は、菜穂が生きていてくれなきゃ、頑張れないよ」
 彼女は・・・耳を塞いだ。聞いてはいけない言葉を言われた子どものように、耳を塞いで頭を激しく振り続けた。そんな彼女を、それでもぼくはずっと包み込んでいた。いつか彼女にぼくの言葉が届くまで、ぼくはいくらでも待とうと思った。いくらでも待てると思った。

 「帰らなきゃ・・・」
彼女がふらふらと立ち上がった。もう夕方になっていた。
「早く帰らなきゃ、また叱られるわ」
 ・・・どうしてそんなにしてまで、家に縛られ続けるのだろう?どうして彼女の両親は、彼女をこんなに追い詰めるまでに縛り付けるのだろう?このままいったら、彼女はきっと魂の抜けた人形になってしまう。そうじゃなかったら・・・彼女はほんとうに深い傷をつくるかもしれない。。。
 このまま帰していいのだろうか?ぼくにはわからなかった。
「その家に、それでも帰っていくのか?」
ぼくが問いかけると、彼女は力無く、諦めたような顔で笑った。そして頷いた。
「それでもわたしの親だから。。。」

 ぼくは彼女を家に送り届けた。
 彼女は、ぼくを見ずに、大きな門の中へ入って行った。

 翌日。
 ぼくは彼女からの電話を待った。でも、電話はかかってこなかった。もうおしまいかもしれない。ぼくでは彼女を救えなかったんだ。
 そしてぼくは、大阪へ戻った。

原稿用紙

It's my...

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