空港

 興味半分に科目登録をした「同時通訳」の授業は、それまできちんとした英語を聞き慣れていなかったわたしにとって、かなり高いハードルだった。と同時に、正確な日本語の語彙も要求され、毎回授業に備えて参考資料を読み漁るようになった。耳に入ってきた英語を、そのまま今度は日本語に置き換える。英語と日本語の構造が違うために、こつを掴むのに一苦労だった。帰国子女の学生ですら手を焼いていたのだから、そうじゃないわたしにはそれ以上の努力が必要で、何度も何度も授業の内容を録音したMDを聞き直して、何度も何度も練習した。こんなに勉強で苦労したことなんて、今までになかった。初めてぶつかる大きな壁ーーー自分のボキャブラリーの貧困さを情けなく感じながら、わたしはいろんな本を読み漁った。そうしているうちに、この作業を、大変だけど面白いと感じるようになった。
 「ことば」は、簡単でいて、難しい。本当に語学力を身につけたいのなら、留学が手っ取り早いと思う人もたくさんいて、実際にそうやって留学していく人もたくさんいた。でも、通訳を仕事と捉えたとき、国の歴史や政治経済、世界の流れを、常に把握しておかなければならないということに、気づいた。
 精神的な疲労が激しいこの作業を、それでもわたしは突き詰めていきたいと感じるようになった。わたし自身が、「ことば」を大切に扱いたいと強く感じるようになるのと同じ時期に、同じようにしてこの夢が膨らんだ。そうしてわたしは、学内の掲示板で奨学生応募資格等についての情報を仕入れ、勉強した。
 彼とのことを考えないようにする手段でもあった。あのクリスマスイブの日に別れてから、ずっと連絡がなかった。彼のことばが当たっているだけに、言い返せない自分が情けなかった。わたしにはわたしなりの進歩のスピードがあって、そこを彼に勝手に乱されてしまったことへの反撥も強かった。結局はそれが全てわたしを強くしてくれた。わたしは初めて、自分の力で自分の将来を決めたいと思い、その可能性を掴むことができた。

 心理療法の終了希望は、わたしから伝えた。一人暮らしを始めて親元を離れ、すこしずつわたしはわたしの力でなんとか歩いていけそうな気がしていた。一度援助から離れてみてもいいかな、と思えた。先生は、わたしの気持ちを、やっぱりそのまんま受け入れてくれた。

 その夜、わたしは彼のアパートを訪ねた。もしかしたら新しい彼女がいるかもしれない、何を今更と言われるかもしれない。それでも、わたしは彼にこれからのことを伝えたかった。あのときは本当に辛かったけど、彼のあの言葉がなければわたしはいつまでも変われなかったと思うから、彼に感謝していた。
 そして、許されるなら・・・彼の気持ちを確かめたかった。
 彼はわたしの姿を見てとても驚いていた。わたしはそれまでに経験したいろんなことを、彼に伝えた。夏からは留学することも、伝えた。
 未来のことは分からない。人の気持ちは絶対に一定なものではないから、わたしたちが海を隔ててもお互いを大切に想えるかどうかは、そのときそのときになってみなきゃ分からない。それでも、わたしは、あのときのわたしの素直な想いを、どうしても彼に伝えておきたかった。あのまま黙って旅立つことは、どうしてもできそうになかった。
 あの夜、わたしは一つの決心をした。それは、今日、この旅立ちの日に彼に伝えようと、わたしのなかで抱え続けてきた。ほんとうにその決心を伝えていいのか、何度も確認した。不安はあるけれども、いつかわたしは同じ決心をするだろう。それなら、一つの節目になるこの日に伝えてもいいと思った。

 空港には、ひとりで出かけた。両親が見送ると言ったけど、見送られたら辛いからと、玄関で別れた。おかあさんは泣いていた。わたしは泣かなかった。これは終わりなんじゃなくて、始まりなんだから。ひとりでタクシーに乗り、空港に着いた。
 携帯は、一週間前に解約していた。彼と連絡を取るのは、マンションの電話でのみ、だった。昨夜も電話はかかってきたけど、彼はわたしを見送るとも言わなかったし、わたしも彼に来てほしいとは言わなかった。彼の大学は、まだ試験中だったから。
 彼にわたしの決心を伝えるのは、留守電の伝言でもいいと思っていた。そのほうがあっさりと言えるかもしれない。狡いかもしれないけど、そう思ってもいた。

 大方の荷物は既に送っておいたから、スーツケース一つと小さなバッグだけを運ぶ。チェックインを済ませ、身軽になったわたしは、空港の二階に上がり、空を眺めた。少し雲がかかっている。初夏の空は、こんな感じだ。彼は来ないだろうと確信していた。

 公衆電話から彼の部屋に電話をかける。留守電に切り替わるのを待って、わたしはやっぱり気を変えた。「菜穂です。行ってきます」とだけ録音し、電話を切った。

 そのまま空港の売店に入り、便せんを探す。薄いブルーの封筒と便箋のセットを見つけ、それを買って、飛行機が見渡せる喫茶店に入り、窓際の席で紅茶を頼んだ。搭乗まで30分。バッグからペンを出して、深呼吸してから、わたしは彼に手紙を書いた。

原稿用紙

It's my...

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