距離

 サイテーサイアクのクリスマスを迎えた。彼女にプレゼントを用意していたのに、結局彼女はあの日、歩いて駅まで行き、電車で帰ってしまったようだ。そして、そのまま、連絡が途絶えた。
 ぼく自身、謝るつもりがなかった。言い過ぎたという感じはしたけど、彼女が現実から逃げているような気がして、彼女がそのまま変わらずにいる限り、その苦しみは永遠に消えないような気がして、そのことを彼女に分かってもらいたかった。彼女自身が変わろうとしない限り、何も変えられないのだということに、気づいてほしかった。
 彼女が生きてくれさえすればいいと思っていたぼくは、彼女がもっと自分らしく生きてほしいと願うようになっていた。
 誰も彼女を救うことはできない。だとしたら、彼女が自分で楽になる方法を見つけるしかないじゃないか。
 しっかりと現実を見てほしかったんだ。自分で歩けるようになってほしかったんだ。

 後期試験が終わり、ぼくはクラブの練習とバイトに明け暮れた。なるべく一人の時間を作らないようにした。彼女のことを考えないようにした。・・・いや、本当はいつも彼女のことがこころの中心にあったけど、寂しさに負けて連絡をしたら、彼女が強くなれないような気がしていた。
 合コンも行った。一緒に食事する女の子もできた。ぼくは、それでも菜穂以外の誰をも恋愛の対象としては見れなかった。

 単位はとりあえず全て取って、2回生に進級した。相変わらず講義数は多かったけど、ブッチできるものはブッチして、連れとパチンコしたりナンパしたりして、「学生生活」を楽しんだ。ぼくもある意味、逃げていたのかもしれない。その時だけの楽しみを求めて、彼女との関係について考えようとしなかった。
 勿論、彼女から電話がかかってくることはなかった。
 このまま終わってしまうのかと思うと、悔しさに押し潰されそうだった。ぼくの部屋の本棚には、彼女の写真と、彼女に渡し損ねたクリスマスプレゼントがずっと置かれていた。捨てることも、誰かにあげることもできなかった。

 彼女との距離を縮めることもできないまま、そんな状態に少しずつ、ぼくは慣れていった。

 6月に入ったばかりの最初の土曜日、ぼくはいつものように練習とバイトを終えて、車をアパートの駐車場に止めた。汚れたジャージを抱えて部屋に向かうと、ぼくの部屋の前に、人影が見えた。
 ・・・菜穂だった・・・。
 半年振りに会った彼女は、髪を短くして、少しだけふっくらとしていた。

 「夏休みに入ったら、一年、留学することにしたよ」
ぼくの部屋で彼女は紅茶を飲みながら、そう切り出した。あまりに突然の話で、ぼくの気持ちがついてこない。突然現れた彼女が、突然一年もの間、日本から居なくなるというのだ。
「大学の奨学生になれたから、英語をもっとしっかりと勉強してくるの」
 そして彼女は、一回生の頃から興味を持ち始めた同時通訳の勉強を、もっとしっかりと積んで、その道に進みたいのだとぼくに話した。
「・・・びっくりした?」
彼女の目がいたずらっぽく笑う。
「当たり前だろ。そんな・・・いきなりこっちに来て、一年留学するなんて言われたら、俺じゃなくたって驚くわ」
そうだよね、と彼女はまた笑う。
 ・・・ああ、彼女は変われたんだな、と、ぼくはぼんやりと感じることができた。今目の前に居る彼女は、あの頃と確実に違う雰囲気を持っていた。あの頃はいつか消えてしまいそうだったのが、今は、地に足が付いているような感じだった。彼女のなかでどんな変化があったのだろう?もしかして、新しい彼氏ができて、だから変われたのだろうか?
 そんなことを考えると、今日までの日々を彼女がどうやって過ごしてきたのかをきくのが怖くなった。
 ぼくたちは、当たり障りのないことばかり選ぶようにして、喋り続けた。大学のこと、バイトのこと、クラブのこと・・・そんなことばかりを何度も何度も話した。彼女がいつ帰るのか、気になっていたけど、それもぼくからは切り出すことができなかった。それをきくことで、彼女が本当に帰ってしまうのが、怖かった。
 「帰らなくていいのか、ってきかないんだね」
ぼくの思いを見透かしたように、彼女は言った。
「・・・まぁ、俺の車で送って行ってもいいと思ってたし、さ・・・」
ぼくは適当に誤魔化す。それ以上話が発展しないように願いながら。
 彼女はふふふと笑った。
「いいよ、もう無理して家に帰らなくていいんだもん」
彼女がぼくの顔を、ぼくの目を見つめながら、そう言う。
「わたし、一人暮らししてるんだよ」
「・・・・えぇっ・・・・!?」
「そんな驚き方しなくたっていいじゃない?”もうおとななんだから”。」
ああ・・・あの日にぼくが彼女に投げつけた言葉だ・・・。

 彼女はそうやって半年前のことをふざけて話せるまでに、強くなっていた。そして、今度は恥ずかしそうに机に視線を落として小さな声で囁くように言った。「ケンがイヤじゃなかったら・・・困らないなら・・・泊まって行ってもいい?」
 ぼくは、これまでの時間を埋めようと、強く彼女を抱きしめた。

 その夜、ぼくたちはたくさんのことを話した。彼女は、あれから一ヶ月以上殆ど眠れずに過ごしたこと、食べ物を身体が受け付けなくなって入院したこと、病室で初めて両親に自分の辛さを訴えたこと、そして一人暮らしをしたいと主張したことを、淡々と話した。一人暮らしはこの春に始めたばかりで、大学の側のマンションを、おとうさんが借りてくれたらしい。大切な一人娘だから、安全管理のしっかりしたところを、と、あちこちを見て回ったらしい。「うちの親、過保護だから、さ」と彼女は笑って言えるまでになっていた。家賃も学費も両親に負担してもらっているものの、生活費ぐらいは自分で何とかしようと、接客のバイトも始めたらしい。仕送りから余ったお金は、毎月親に返していて、最近ようやくいろんなものを食べられるようになったと言った。

 「ヒトとご飯食べるのって、すごくいやらしいことのように感じてたのね、ずぅっと。」
・・・ああ、確か彼女は高校生の頃、そうぼくに説明してくれたよなぁ・・・。ぼくにはそれがよく分からなかったんだっけ。
「なんで食べることがいやらしく思えたんだろう?」
今なら、尋ねても大丈夫なような気がしたぼくは、ずっと不思議でならなかったその問いをことばにしてみた。彼女は少し言葉を選ぶように考えながら、ゆっくりと答えてくれた。
「食べることって、本能的な欲求を満たすことでしょ?その、本能的な欲求を、ヒトに見られるのが、怖かったの。食べたいっていう、自分が持つすごく原始的な欲求を、とてもいやらしく感じてたの。」
・・・ぼくには、分かるような、いまいちわからないような感じがした。でもそれが彼女の答えなら、そのまま受け取ろうと思った。
「ほんのちょっとでも知り合いって程度の仲になるとね、そういうヒトたちに自分がご飯食べてるところを見られるのが恥ずかしく思えてね・・・自分にとってより大事な人になればなるほど、一緒にご飯食べるのが苦痛になっていったの。」
だから、と彼女はぼくを見つめて、続けた。
「だから、わたしは、ケンと一緒にご飯食べるときが、いちばん苦しかった・・・」
 そうしてふぅっと息を吐き出してから、彼女は続けた。
「わたしね、ヒトに自分の気持ちとか・・・不安とか怯えとか、そういったものを見られたくなかったの。そういうものを表に出すのはみっともないことだって思いこんできたの。自分はいつも完璧じゃなきゃいけない、みっともない姿を人目に晒しちゃいけないんだ、って、ずっと思って頑張ってきたの。ご飯食べるときも、みっともなくない姿でいようと思えば思うほど、どんどん食べられなくなっていって、だったら最初から何も食べないほうがいいって思うようになってっちゃってね・・・」
ばかみたいでしょ?と彼女は笑う。ぼくは、もし本当にそう感じて生きている人がいるのなら、多分その人にとって、やっぱり食べることはとても難しくて苦痛なことなんだと、想像した。
「菜穂がそうほんとに感じていたのなら、それはばかみたいなことじゃないよ。すごくしんどかったんだろうなあと思うよ」
ぼくがそう答えると、彼女はずっと溜め込んできたものが一気に流れ出すように、涙を零した。そのときに、ぼくは、彼女がほんとうに辛い思いをしながら生きてきたんだと感じた。そうして必死に生きてきた彼女を、凄いと思った。
 ぼくは彼女の髪を撫でながら「よくがんばってきたな」と何度も何度も繰り返した。

 彼女は次の日の朝、ゆっくりと起きてきた。ぼくの貸したスウェットは、彼女にはやっぱりブカブカだった。その格好のままで、メイクもせずに、彼女はぼくと彼女の二人分の朝食を用意してくれた。トーストとベーコンエッグとサラダ。冷蔵庫に材料があんまりなくてこの程度しか作れなかったよ、と彼女は意地悪に笑いながら、それをベッドに運んだ。
 「なんでそっちに持ってくんだよ?」
「だぁって、こういう映画っぽいこと、一回やってみたかったんだもん♪」
「だったらもうちょっとお洒落な服とか着とかなきゃ似合わないって」
「いいんだってば」
 ぼくたちは、そんなふうに笑いながら、ふたりで一つのベッドに足を突っ込んで、食事をした。彼女が美味しそうに食事をする姿を、ぼくは初めて見た。こんな当たり前のことができないほどに苦しんでいた彼女、それを頑張って乗り越えた彼女、すべてがぼくにとって愛しい存在だった。彼女はもう、あの頃のように誰かの支えがなければ生きていけないようなか弱さを持っていなかったけど、一本の筋が通った立派な女性になりつつあるように、ぼくには見えた。

 この愛しい存在が、やがて海を越えて行ってしまうことが、寂しくてたまらなかった。

原稿用紙

It's my...

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