落ち葉
彼女は、笑うことと食べることに不器用だった。彼女自身は気づいていないようだったけれども、少なくとも、ぼくの目にはそう映った。でも彼女自身が気づいていないのなら、わざわざぼくがそれを指摘することもないと思って、そのことに気づけない彼女が抱えている大きな何かを、どうすることもできなかった。
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ぼくと彼女は、あの夏の日、初めてふたりで海へ行った。本当は予備校に行かなきゃいけなかったのに、なんだかそんなのつまらなく思えて、楽しいことをしたかった。疋田に「この講義を受けなさい」と勝手に幾つか決められて、しょうがないから受講することにしたけど、高校最後の夏休み、勉強ばっかりに追われたくなかった。
彼女も、予備校に通うのはイヤそうだった。ぼくはずっと前から彼女のことを見てきたし、気になってたから、あの朝、駅で彼女に耳打ちした。「ブッチしようよ」。彼女はちょっと驚いた顔をして、それからいたずらっぽい目で頷いた。それからぼくたちは、反対方向の電車に乗ったんだ。
あの日、彼女は「砂時計を創っているの」と言った。ぼくにはよく分からなかったけど、彼女がひどく寂しそうにしているのがとても切なくて、そのまんまの彼女を本当に好きなんだと感じた。
彼女が手首に傷を持っていることには、すこし前から気が付いていた。彼女は夏服も長袖を選んでいたけど、授業で隣りの席になったりしたとき、彼女が教科書を開く度に手首が袖口からのぞいて、薄く細い線が数本見えた。最初はそれが何なのか分からなかったけど、あるとき、彼女の手首にかさぶたができているのを発見して、どういうことなのか分かった。自分の身体を傷つけるほど、どんな苦しみを背負っているのだろうと知りたくて、彼女を助けてあげたくて、何度も尋ねようとしたけれど、18のぼくじゃ助けてあげられないような気がして、中途半端に尋ねるのはいけないような気がして、何も言えなかった。
でもあの日、ぼくは勇気を出して、彼女に言った。「こんなこと、もうやめようよ」と。
彼女は、びっくりしたように目を見開いて少しの間固まっていたけれど、それから、涙をぽろぽろと零した。ぼくはそれ以上何もきけずに、黙って彼女の肩を抱いていた。そんなことしかできない自分を、情けなく思いながら。
予備校の食堂で、彼女はいつも何も食べなかった。友達から「食べなくても大丈夫?」ときかれても、彼女は笑って「ダイエット中なの」と答えていた。でもそれが嘘なのは、誰の目にも明らかだった。彼女はダイエットが必要な体型ではなく、寧ろ痩せ気味だった。
予備校通いが2週間程続いたとき、ぼくは帰りの電車の中で、彼女とふたりだけになった。きいてもいいのか迷いながら、思い切って尋ねてみた。「どうしていつもご飯を食べないの?」彼女は、困ったような顔をしながら、暫く黙っていた。「イヤなら答えなくていいから」と言おうとしたとき、彼女が呟いた。「・・・食べれないの・・・」。どうして食べれないのかぼくには理解できなかった。でも、それ以上きいてはいけないような気がして、ぼくは「そっか。。。」としか言えなかった。中途半端にしかきけないのなら、最初からきかなければよかったのに、と後悔した。彼女が傷ついてしまったんじゃないかと、とても気になった。
その翌日から、彼女は、食堂でご飯を食べるようになった。量は多くなく、菓子パン1個だけ、というときもあったけど、予備校通いが終わるまで、彼女はお昼ご飯を食べ続けた。ぼくはそんな彼女を見ていられなかった。食べているときの彼女は、とても苦しそうだったから。
彼女の手首の傷は、時々やはりかさぶたになっていた。
夏休みが終わる2週間程前、ぼくは彼女に「付き合おう」と伝えた。お互いの気持ちはあの夏の日に確認していたけれども、ぼくはやっぱり彼女にきちんと「付き合いたいと思っていること」を伝えたかった。彼女は、恥ずかしそうに、ぼくの目を見ずに俯いたまま、頷いた。
ぼくは東京と大阪の大学を受験するつもりだった。彼女が実家から通学できる範囲内の大学にしか進めないということは、知っていた。だから彼女が春からの生活に対して不安を抱いていることも予測できたし、そんな状態で付き合おうと言うのは無責任かもしれないと思った時期もあった。それでも、ぼくは彼女の抱えている「何か」を、少しでもいいから軽くしてあげたかった。
学校では毎日顔を合わせているけれども、ぼくと彼女はクラスが違ったし、毎日学校から彼女が電車に乗る駅までの道のりを一緒に歩くだけの時間では、話したいことも話しきれなかった。だから毎日電話をしていた。毎日1時間くらい、電話をしていた。でも、彼女はあまり喋らなかった。なんだかとても言葉を選びながら話している感じがして、いつも学校にいるときの彼女と電話口にいる彼女が別人のように思えていた。それでも彼女は電話を切ることはなかったし、そのうちぼくもふたりでただ黙っていることに苦痛を感じなくなっていった。時間を共有できるだけでいいと思えるようになっていった。
手首の傷のことも、ご飯を食べることも、ぼくはずっと気になっていたけれども、きけなかった。ふたりで週末に遊びに行っても、彼女はやっぱり何かを食べるとき、少し表情がいつもと違っていた。そして、ご飯を食べた後に彼女は長い時間トイレに行くようになった。
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2学期が始まり、ぼくたちは受験校を絞らなければいけなくなった。ぼくは、やっぱり東京と大阪の大学を受験することにした。彼女は、やっぱり自宅から通えるところにある大学を受験することにした。ぼくたちはやがて訪れる春のことを不安に感じながら、それでも毎日を楽しく過ごそうとしていた。彼女もそうしようとしていたけれど、段々彼女が学校でも遠い目をすることが多くなってきた。
「何を考えているの?」とぼくが尋ねると、彼女は決まって「ぼーっとしちゃってたみたいだね」と笑った。でもその笑顔は、ひどく作り笑いっぽかった。ぼくにまでも彼女がこころを閉ざそうとしていることに、ぼくは段々耐えられなくなってきた。
ぼくたちは喧嘩をすることが多くなった。そのまんまの彼女が好きなんだと思っていたのに、もうぼくは、そのまんまの彼女では物足りなくなっていた。もっとほんとの姿を見せてほしかった。もっと感情を現してほしかった。ぼくは何度もそのことを彼女に伝えた。彼女はその度に何かを言いかけて、悲しそうに俯いた。彼女が涙を見せることも多くなった。ぼくたちは受験が近づいているのに、勉強に集中できずにいた。
「わたしは、ケンをダメにしてしまう」。何度も繰り返してきた喧嘩の後で、あるとき、彼女が突然そう言った。「わたしじゃケンを満たしてあげられない。怒らせてばかり。大切な時期なのに、こんなふうに喧嘩ばかり繰り返してることが、わたしには辛いよ」。彼女は泣いていた。
「どうして自分のことばかり責めるんだよ?」とぼくは彼女に問いかけた。そう、ぼくはそんな彼女を見ているのが辛かったんだ。いつも全てを自分のせいにして、手首の傷も消えない。そんなにまでしなきゃ守れないものって、一体何なのか、教えてほしかった。でも彼女は、黙って泣くばかりだった。
「いつも何処を見てるの?」自分のこころを落ち着かせてから、ぼくは今度は静かに彼女に尋ねた。「一緒にいても、菜穂が何処かへ行ってしまいそうな気がするんだよ。俺の手の届かないところに行ってしまいそうな気がするんだよ。」
彼女は、「ごめん」と言ったきり、答えをくれなかった。
ぼくは、放課後の教室を飛び出した。その日は、彼女を駅まで送らなかった。
翌日、学校に行ってみると、彼女は欠席していた。携帯も電源が切ってあるようだった。メールをしても、返事はこなかった。ぼくは言い過ぎたのかもしれないと、彼女を深く傷つけてしまったのかもしれないと、後悔していた。
授業が終わって、もう一度携帯に連絡してみると、彼女の声が聞こえた。強い風の吹く音が聞こえてきた。
「ごめん、昨日は言い過ぎた・・・」。ぼくが言うと、彼女は「あのね・・・」と言い、それから言葉を選んでいるようだった。外は日が沈み始めている。こんな日に、何処にいるのだろう?学校も家の周辺も、こんなに風は吹いていない。何処にいて、何をしているのだろう?ぼくのこころに不安がよぎった。
そのとき、彼女が電話の向こうで言った。「わたしたち、別れよう。そうすればケンも楽になれる・・・」最後の方の声が、震えていた。言いたい言葉が込み上げてきたけれど、ぼくはとりあえずそれを飲み込み、彼女に尋ねた。「今、どこにいる?」
彼女は「家だよ」とバレバレの嘘をついた。いつも彼女はそうだ。嘘をつくのが下手で、すぐに嘘だってばれてしまうのに、それを一生懸命本当らしく言おうとする。どうして素直に本当のことが言えないんだろう?
「家じゃないだろ?家の中で、そんなに風の音がするかよ」とぼくが返すと、彼女はまた黙った。電話を切られそうな気がした。慌ててぼくは続けた。「外、寒いだろ?風邪ひいたら受験勉強できなくなるから、とりあえず家に帰りなよ」。すると彼女は「帰らない」と答えた。いつもは門限もしっかり守るのに、彼女らしくない言葉だった。
何をしようとしているのだろう?イヤな予感がした。
「怒らないから、今、何処に居るのか教えてほしい。今、すっごい不安なんだよ」と彼女にそのまま伝えると、彼女は暫く黙った後、「海・・・」と答えた。・・・海?ここら辺に海なんてない。何処の海なんだ?・・・やっと分かった。「あの海?」と尋ねたぼくに、彼女は小さな声で「うん」と答えた。
「そんなところにいて、何をしようとしてるんだよ?」彼女の泣き声だけが届く。この時間にあの海まで行く電車があるだろうか?分からないけれど、彼女をそのままにしておけなかった。
「今からそっちに行くから、携帯の電源は切らないようにしてくれな?それで、どこか泊めてくれそうな宿とかがあったら、そこに居て待っててほしい。」「でも、泊まるお金なんて持ってないよ」と言おうとする彼女に、「お金なんて俺が持ってくから、とにかく安全なところに居ろ、いいな?」と答え、ぼくは駅へ自転車を走らせた。
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ぼくがあの駅に着いたとき、もう空には月が輝いていた。辺りは真っ暗で、駅の窓口もしまっている。電車がなかなかなくて、あれから3時間が過ぎていた。何度か携帯に繋いでみたけれど、電波が届かないのか電源を切ってあるのか、繋がらない。メールの返事もない。とにかく行くしかなかったぼくは、そのままあの海へ走った。その間中、2度電話した。通じない。何処にいるのか?もう一度、走りながら電話する。今度は繋がった。5回コールが鳴った後で、彼女の声が聞こえた。
「今そっちに向かってるんだけど、何処にいる?」「・・・どう説明したらいいのか、分からないよ。」「宿、見つかったのか?」「・・・ううん・・・」
何をしてるんだ。。。苛立ちが込み上げてくる。
「目印になりそうなものはない?」ときくと、彼女が少し歩き回る音がして、波の音が聞こえてきた後に、「自動販売機がある・・・」という返事が届いた。とりあえず自販機を探すしかない。
砂浜を走りながら、5分ほどして、自販機の明かりが見えた。
彼女はいるだろうか?
その周辺を見回すと、小さな人影が見えた。一気に力が抜けていくようだった。
彼女だった。白いワンピースを着た彼女が、うずくまっていた。ぼくは彼女が足音に気づいて顔を上げたのとほぼ同時に、彼女を抱きしめた。彼女は激しく泣いた。ぼくも少し泣いた。
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それからぼくたちは、すこし歩いたところに干物の店を見つけた。シャッターが降りていたから、裏口へ回って声をかけてみると、中から体格のいいおばちゃんが出てきた。おばちゃんは彼女とぼくを見て、震えの止まらない彼女の姿をもう一度見て、「ここに泊まっていきなさい」と言ってくれた。明日は土曜日、学校に行かなくてもすむ。急にそんなことを思い出し、ぼくも疲れがどっと出た。
昔からの家なのか、畳の部屋ばかりだった。おじちゃんと、小学生の男の子2人がいた。上の子がぼくに「駆け落ちしてきたの?」ときいて、おばちゃんに叱られてた。おばちゃんは彼女にパジャマを渡して、お風呂に入ってくるように薦めてくれた。彼女は俯きながら小さな声で「ありがとうございます」と言い、お風呂に入っていった。おばちゃんが自分のパジャマを彼女に貸したらしいのだけど、パジャマは小柄な彼女には大きすぎて、ブカブカだった。それを見て二人で笑った。初めて、彼女が笑った。ぼくもお風呂に入らせてもらって、そのあとで、漁師をやっているおじちゃんが焼いてくれた干物を食べた。彼女は、やっぱりぎこちなく食べていた。それでも、その後でトイレにこもることはしなかった。
ぼくたちは、その日、お互いに何も話さなかった。ぼくは彼女が無事であったことを喜び、彼女はぼくの姿を見て安心していた。
そしてぼくはおじちゃんと2人の子どもと一緒に、彼女はおばちゃんと一緒に、それぞれ別の部屋で眠った。2人の子どもが眠った後も、興奮して眠れずにいたぼくに、おじちゃんはぼそぼそと釣りの話をしてくれた。釣りのことなんて全然ぼくには分からなかったけど、適当に相づちを打っていたら、気が付いたら眠ってしまっていた。
翌朝、すっかりと晴れ上がった空の下、ぼくたちはお礼を言ってその家を後にした。おばちゃんは彼女に、「彼氏を心配させるようなこと、もうしないのよ」と言い、彼女は小さく「はい」と答えていた。
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ぼくたちは別れることを選択しなかった。
彼女はそれから、少しずつ、ぼくに「荷物の中身」を教えてくれた。それはぼくにはとても信じられないようなものだったけれども、彼女がそのことで相当に疲れて追い詰められていることだけは、ぼくにも分かった。何もできない自分に腹が立つこともあったけれども、彼女はいつも「でもこれはわたしの問題だから」と笑った。やっぱりすこしぎこちない笑顔だった。
ご飯を食べられないことについても、彼女はありのままを話してくれた。そして、それから後は、ぼくの前では少しずつ食べることができるようになったし、その後でトイレに行くこともなくなっていった。
秋が過ぎ、冬になろうとしていた。
推薦入試を受験した彼女は、ぼくより一足早く合格の通知を手にした。ぼくは、第一志望は落ちたけれども、第二志望だった大阪の大学に受かった。
ぼくたちの生活が、離ればなれになる日が、近づいてきた。
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卒業式もすみ、新しく住むアパートも決まり、ぼくは大阪へ発つ前の日に、彼女と会った。彼女は卒業と同時にピアスを開け、緩いパーマをかけていた。大人びて見えた。眩しかった。
彼女と離れることが、不安になった。ぼくたちはこのままお互いを大切に想いながら過ごしていけるだろうか?彼女が新しい環境にとけ込み、いつかぼくの知らない世界での日常を選ぶのではないかと考えたとき、たまらなく不安で寂しくなった。彼女はぼくの手からすり抜けて旅立ってしまうかもしれない。そんなふうに思った。旅立つのは、ぼくの方なのに。
彼女はその日、泣かなかった。寧ろ、いつもより明るく、元気に振る舞っていた。それがぎこちなくて、無理してるってことが伝わってくるだけに、ぼくも寂しかった。
まだ寒さの残る春の日、ぼくは彼女と駅へ行った。出発の日だ。この駅へ、今までどれだけ彼女を送ってきただろう。今日は彼女がぼくを送ってくれる番だ。ぼくは泣かないつもりだった。彼女も、無口になって、泣かないように頑張っていた。
電車を待つ間、彼女がバッグから栞を取り出して、ぼくの手のひらに乗せた。落ち葉がくっついてた。彼女は「押し花にしたんだよ」と笑った。それは、彼女があの夜、あの海でぼくを待っている間に、どこかから飛んできたものらしかった。紅葉のようにきれいな形の葉ではなくて、くしゃくしゃになりかけた、名前も分からない葉っぱだけど、それはぼくにとっても彼女にとっても忘れることのできないものだった。
彼女がそれを持っているのは、辛いだろう。持ち続け、それを見る度に、あの夜のことを思い出すだろう。彼女にとっての「荷物」は、まだ片づいていないのだから。これから先も、彼女はまだ苦しみ続けることを余儀なくされるのだから。
それでもぼくは、この栞を大切にしよう。
あの日、ぼくは彼女を救うことができた。たった一晩でもいい、彼女を、彼女を取り巻く苦しい環境から救うことができた。彼女が初めて吐かずにご飯を食べることのできた日だ。彼女が初めて見知らぬ他人のお世話になることを受け入れられた日だ。そして、彼女が本当にぼくを頼ってくれた日だ。ぼくはそのことを、忘れない。
電車がホームに入ってくるアナウンスが流れた。
彼女は、ブラウスの袖を上げた。そこには、もう、かさぶたはなかった。薄い線は残ってしまっているけれど、新しい傷は、なかった。彼女なりに、精一杯頑張ったんだろう。
ぼくは彼女を抱きしめた。
彼女もぼくを抱きしめた。
「がんばろう・・・」。彼女の声が、耳元で、した。