彼女
「私には、来年の春に桜を見ることはできないような気がする・・・」。散りゆく桜吹雪の中、彼女はそう呟きました。「そんなことないよ」と言えない私がいました。私自身の中で、「きっと彼女は、来年の春に桜を見ることができないだろう」という思いが、あの時確かに存在していました。
そして、その言葉通り、彼女は次の春を迎える前に、21歳の若さで、たったひとりで遠い旅に出ました。
彼女がどれだけの幸せを感じて、その短い一生を終えたのか、誰にも分かりません。生き急ぐかのようにいろんなことを経験し、あっという間に旅立ってしまいました。「美人薄命って言うじゃない?」そう笑った顔を、忘れることはできません。
彼女は、入学間もない頃から、可愛いと評判の子でした。彼女の姿を見るために、何人もの生徒が、彼女の教室を覗きに行きました。上級生の姿もありました。厳格なカトリックの女子校で、彼女は芸能人になりたいと、オーディションを受けていました。そんなことがばれたら停学か退学モノでしたが、彼女はコソコソとしておらず、おおっぴらにオーディションの様子を周囲のクラスメイト達に伝えていました。一次予選を通過したこと、都合で二次予選に出られなかったこと、でも次のオーディションを受ける予定があること。そういったことを、隠したりせずに話していました。確かに彼女は可愛くて人目を引く存在だったのですが、女子校ならではというか、その可愛さと、それをちょっと自慢げに語る様子から、嫉妬の対象にもなりました。軽いいじめのようなものも、あの頃のあのクラスには存在しているようでした。一年後にクラス替えをして、彼女と同じクラスだった子から、「自分の容姿のことを自慢して、うざったい」という言葉を聞きました。それでも彼女はそんな自分に誇りを持っているようで、何となく浮いた存在でありながら、誰かに媚びることはしませんでした。
私が彼女と知り合ったのは、17歳の頃でした。実際に可愛い子でした。写真の写り方も、どうすれば自分が可愛く写れるのか把握していて、モデル並みのポーズを取っていました。そんなところも、高校1年生のクラスメイト達からの反感を買っていたようです。でも私が彼女と同じクラスで過ごした一年間、表向きはそのような嫉妬の感情が彼女に向けられている様子はありませんでした。彼女はいつも、話題の中心にいました。「私が、私が・・・」の話が尽きない子でした。
17歳になる年に、私は彼女と数人の同学年の生徒たちと、留学しました。小さな島への留学でした。半年前から始めた早朝英会話のレッスンで、初めて直接言葉を交わしました。自分に強い自信を持っている子だと、私は感じました。なんだか眩しい存在でした。
滞在先は3箇所に分かれており、私は彼女と同じグループで、代表を任されていました。都市でもなく、山も湖もある小さな街で、私たちは英語の世界を体験しました。代表の者には、それなりの責任がありました。スピーチをすること、一緒に留学に参加しているメンバーと、現地の女子高生たちとの交流を促進させること、レポートを書くこと・・・。そんな「責任」に負われていた私にとって、彼女の滞在中の姿は、正直厄介なものでもありました。何故かというと、彼女は彼の地で校則を破り通しだったからです。授業には参加しない、校則違反のパーマを勝手にかける、素性の知らない怪しげなパーティーに参加する、そんな自由奔放な生活を満喫していたのです。私は結構やきもきさせられていました。それでも彼女はあくまで彼女でした。
18歳になる年、彼女と同じクラスになりました。この頃の記憶はあまりないのですが、彼女はいつもメイクをして、放課になると教室の鏡で、髪をいじっていました。校則で縛らなければなかった髪型の、ゴムの跡を残したくないようでした。そして放課後には必ず洗顔をし、メイクもし直して帰っていました。お気に入りのシャネルのパウダーを、自慢していました。厳禁にされていた男女交際も、堂々としていました(見つかると停学か退学処分にされるのですが)。大好きな男の子がいて、いつも彼との出来事を話していました。彼女の語ることは、彼のこと、メイクのこと、ファッションのこと、遊びのこと、そして誰かの悪口、それだけでした。好きな男の子をめぐり、クラスメートと喧嘩をした時期もあったようです。どちらの言葉も耳に入ってくるけれども、どちらが正しいとも間違っているとも言えず、流れに任せて眺めていました。別に私は彼女を疎んではいませんでした。特別な仲良しというわけでもなかったのですが、留学経験をシェアしているということで、何となく私と彼女は同じグループにいました。とは言っても、プライベートな時間を共有することはありませんでした。
卒業後の進路は、彼女はもう一度彼の地での留学を選択しました。私は大学進学を選びました。彼女が選んだ留学には、私が親しくしていた友達も数人参加していました。そんなこともあり、友達全員にまとめてエアメールを送ることが度々ありました。彼女とも、暫くエアメールでの交流が続きました。英語の生活に四苦八苦しながらも、彼女なりに海外生活を楽しんでいるようでした。甘いモノが大好きな彼女は、留学数ヶ月の時点で10キロ以上も太ってしまったそうです。「スカートが履けなくなっちゃって、ジャージしか着れないよ〜」といった手紙が届くこともありました。学生時代にお付き合いしていた彼とは、一悶着を経て別れたのですが、ずっと忘れられなかったようです。
その年の夏頃、彼女は帰国しました。微熱が続いた彼女は、大きな病院で受診しました。そして、現地で白血病の宣告を受け、もう間に合わない状況だからと、緊急帰国したのです。その国では、ガン告知は当然のものとなっていました。彼女が聞き取れずに理解できないでいると、立ち会った通訳の方が、彼女の辞書を引いて、「白血病」の部分を示したそうです。そうなってみてから振り返ると、片道20分掛からない自転車通学で、彼女は高校3年の頃から、休憩を数度挟まなければ学校にたどり着けない状態になっていました。あの頃から、病は進行していたのでしょう。
血液疾患の治療としては先進の状態にある名古屋の病院を、彼女の両親は必死に探しました。患者会の救いも大きかったようです。そうして辿り着いた病院で、最初の治療が始まりました。彼女自身は、入院するといってもお泊まり的なものとして捉えていたのか、スーツケースいっぱいに荷物とぬいぐるみを詰め込んで到着し、看護婦さんに呆れられたようです。私は、ひとりで千羽鶴を折りました。そして彼女に渡しました。「病院生活が退屈でたまらない」とこぼしていました。こっそり元彼を病室に招いたこともあったそうです。そんな彼女を見て、「ああ、やっぱり彼女なんだな」と実感しました。本当は、先が不安で不安で、貪るように専門書を読み漁っていたのに、そんな部分を彼女は決して見せませんでした。
治療は2,3ヶ月に渡り、何とか寛解状態に至り、退院にこぎつけました。病気のために進学も諦めた彼女は、毎日をぶらぶらと過ごしました。そのことで、3つ下の妹さんと衝突することもありました。体力低下のために動けないでいることを「ゴロゴロしてるだけだ」と責められたこともあるようです。そして、水面下で彼女のご両親が行っていた、肉親関係に当たる人とのHLA検査の結果が、全て不一致だったことを、喧嘩した勢いで妹さんは彼女にぶつけました。混乱した彼女は、「もう私には死ぬしかないんでしょう?」と親に詰め寄ったそうです。
その時期、私は彼女と会いました。薬の副作用で、顔がムーンフェイスになっていました。髪も抜け落ち、カツラを使用していました。あんなにおしゃれに気を配り、体重だって数日で10キロ落とせる程に「容姿」にこだわっていた彼女が、それでも飲みに行きたいと言いました。もう一人の友達と3人で飲みに行きました(20歳になってました)。移動の地下鉄の中、彼女はマスクを外しませんでした。そのことが、彼女を病人だと認識させる唯一のものでした。飲んで食べて笑って、そんな楽しい時間を過ごしました。それでも彼女は、帰りの地下鉄の中で、こう呟きました。「このマスクがないと、私は生きていけないの」と。返す言葉が見つかりませんでした。
私たちは、時々集まりました。メンバーは7,8人程度。いずれも高校3年の頃のクラスメイト達です。お泊まりをしたりして、夜中までお喋りしたこともあります。恋のこと、母校の先生のこと、思い出話・・・その合間合間に、彼女は白血病について、そして今後行われるであろう治療法について、ぽつぽつと語っていました。お喋りの時間が長引くと、彼女は疲れた様子で横になっていました。その姿を、私は正視できませんでした。
やがて彼女は再入院します。微熱が続き、腫瘍のようなものもできていました。状態は悪化していました。退院してから再入院までの間に新しい彼のできた彼女は、ある意味「幸せの絶頂期」でもありました。一人暮らしの彼のアパートに遊びに行き、料理の本を見ながら煮物を作ったりして、「可愛い彼女」を楽しんでいました。彼もある意味医学に関連する仕事を目指して勉強中だったため、彼女の病気についてはそれなりの知識もあり、彼女が疲れたときには、いつでもゴロゴロできるようにそっと気を遣っていたようです。愛する人と巡り会え、愛される実感を得たばかりなのに、彼女の身体は言うことをきかなくなっていきました。
彼女の身体の中で、一旦は抑えられていた悪い白血球が一気に増殖し、慢性骨髄性白血病だった彼女は、急性骨髄性白血病になってしまいました。こうなってしまえば、少しでも早く骨髄移植をするしか方法がありません。移植をしても、助かる可能性は、本当は低かったのです。それでも彼女は移植を受け入れました。骨髄バンクに患者登録しても日本国内ではドナー登録者が見つからない。アメリカのバンクにも登録しました。すると、アメリカのバンクのドナー登録者のなかに、マッチする人が見つかりました。海外からの初めての骨髄移植です。マスコミが病院に集まりました。
移植の日が決まって再入院になるまでの間に、彼女は彼と神戸へ旅行しました。そしてそこで、ウェディングドレスを着ました。その旅行からの葉書が、私のところに届きました。「ウェディングドレスを結婚前に着ると婚期が遅れると言われているけど、子どもを生めない身体になってしまう私は、結婚もきっとできないから、着ちゃったよ。いつかみんなに子どもが生まれたら、私のこと、”おばちゃん”じゃなくて”お姉ちゃん”と呼ばせるようにしてね」と。どんな思いでこの言葉を綴ったのでしょう。これが彼との最後の旅行になるかもしれない。だから体調不良を押して、出かけたのです。どうしても思い出を残したかったのかもしれません。
移植にあたっての前処置は、想像を絶する苦痛を伴います。抗ガン剤の副作用で気持ちが悪くて食事がとれなくなる、身体が怠くなる、水を飲むだけでも吐きそうになる。それでも彼女は、涙を見せずに薬を飲み、耐えました。無菌室に入ってからは、殺菌されて美味しくない食事に文句を書いた手紙が届きました。髪の毛も眉毛も、抜け落ちてしまいました。それでも泣かなかったのは、彼女の意地だったのかもしれません。
移植の日程を知らせて貰った私たちは、色紙を持って病院へ集まりました。マスコミに追われました。顔を映されるのも、取材されるのもイヤでした。逃げるように病棟へ向かいました。スーパークリーンと言われる、最も殺菌の強い部屋にいる彼女に、その色紙が渡されることはないということは、分かっていました。それでも、スーパークリーンを出た後にでも、見てもらいたかったのです。看護婦さんに無理を承知でお願いし、移植を受けている最中の彼女と電話で話しました。「たこ焼きが食べたいよ」と彼女は言いました。「退院したら食べに行こうね」と約束しました。それが彼女と交わした最後の会話でした。
ある日、ニュース速報で、彼女の死を知りました。順調に快復に向かっているという報告を受けて間もない頃でした。何が何だか分かりませんでした。泣く間もありませんでした。そして混乱の最中に、彼女のお母さんから電話で弔辞の依頼を受けました。
発病するまでは、ボランティアにまるで関心のなかった彼女でしたが、発病し、骨髄バンクの当時の状況を知り、広告塔の役目を買って出ました。もともときれいな顔立ちの子です。地方の公演に行けば、必ずテレビに登場するといったかたちになりました。テレビに顔を出し、名前を出し、誰が見ているか分からない状況のなかで自らの病気について語り、ドナー登録を呼びかけることには、勇気が必要だったでしょう。それでも彼女は頑張りました。そんなことを思い出しながら、弔辞を書き上げました。深夜を回っていました。
時々集まっては食事したりお泊まり会をしたりしていた同級生たちで、お葬式の当日、市内の花屋さんでありったけの真っ赤なバラを買いました。「私が死んだら、お棺に菊は入れないで。真っ赤なバラを入れてね」と言われていました。「棘は抜いておいてね」としっかり注文がついていたので、みんなで泣きながら棘を抜きました。そして、不謹慎かもしれないけれど、青白くなった彼女の顔の周りに、バラを供えました。彼女は冷たくなっていました。ヒトが死ぬということは、こういうことなんだ、と初めて実感しました。
彼女が命を賭けて伝えたこと・・・それは、人種の違う人からの骨髄移植を受けるときには、遺伝子レベルでの合致まで確かめなければならないということでした。そのお陰で、今の骨髄移植は、あの頃よりうんと進歩しています。
彼女が結婚を願っていた彼は、それから数年後、結婚したそうです。もしかしたらもうパパになっているかもしれません。
私は、彼女のお墓に行くことができません。
怖いのです。本心からではなく彼女の遺志を継ごうというところにだけエネルギーを注いで書き上げた弔辞。そのおかげで、「親友」ではなかった私が「親友」にされてしまい、インタビューに応じる。彼女が伝えたかったメッセージを、代わりに伝えられるのなら、と思ってしたことですが、本当は相手の望む答えを差し出していました。
本当の彼女は、もっといろんな気持ちを抱えていたのに。私も彼女を美化する作業に荷担してしまった。その悔いが、今でも残っています。また、彼女が望んでも手に入れられなかった家庭と子どもを手中に入れた私を、彼女がどう思うのか、分からないのです。
私が結婚するときに持ってきた荷物の、一番大切なもののなかに、彼女からの手紙がしまわれています。最後に受け取った手紙は、震える筆跡でした。「今は副作用でうまく文字も書けないんだけど、順調に快復しています。」そう書かれてある手紙を、私は、まだ見る勇気がありません。生きることを最後まで信じ続けた彼女。最期には、強度の拒絶反応のために皮膚がただれ、悪夢にうなされ、旅だっていった彼女。何もかも、まだ「過去」にし切れない私がいます。
あれから9年。・・・私は、彼女の友達だったのでしょうか。自分でも分かりません。彼女が私に宛てた手紙の中から、意図的に選択されたメッセージが、いろんなかたちで全国に流れました。彼女がいなくなってしまってからも、彼女の姿が、テレビのコマーシャルに映されていました。一粒の涙をこぼす彼女の姿。泣きたいときもあったかもしれないのに、その気持ちを受け止めてあげられなかった自分の未熟さを悔いると共に、彼女があの病気を通して、人のこころに触れる「何か」を残すことのできる存在に変化していった運命の皮肉を感じています。