それから少しの間、僕と彼女は言葉を交わすことをしなかった。僕自身、クリスマスシーズンで仕事が立て込んでいたし、彼女も僕たちの中に加わらずに一人で帰ってしまったりしていて、それは僕がとった言動に対する「拒否」でもあるのだろうと、僕は残念に感じていた。それでも、僕たちの関係が、彼女のほうから断たれるものではないということも、僕には分かっていたから、少し時間を空けることにした。同じモールで働いていながら、顔を合わせない日が続いた。
彼女に猛烈にぶつかっていたヤツが、その頃、彼女と関わろうと試行錯誤していた。どうやら毎日電話しているらしい。遊びに行こうと誘っているが、約束を取り付けることができないらしかった。そうやって追いかければ追いかけるほど、彼女が遠のいていくことを知っている僕は、それでもその噂を人づてに聞いてもそのままにしていた。いずれにしても結果は近いうちに出るだろうと感じながら。そして僕が思っていたよりも早い段階で、結果が出た。ヤツが匙を投げた。「もう彼女だけを追い続けて無駄な時間を過ごしたくない」とみんなにこぼしたらしい。これにはさすがに僕も「表現が酷くないか?」と感じたが、そうやって愚痴りたい時期をヤツが過ごしているのだと思い、黙っていた。ただ、彼女と一緒に仕事している子から、「少しサヤカも辛そうにしてる」と聞き、彼女がそれまでより少し弱くなってしまっていると感じた。それまでに数人が彼女を諦めていったが、それでも彼女が落ち込むことはなく、彼女はいつもふわふわと浮かんでいたのに、今回の出来事はダメージを彼女に与えたようだった。
彼女の姿を久しぶりに見かけたのは、ちょうどそんな頃だった。普段は厨房にいる筈の彼女が、何故だか制服のまま子どもの手を引いてモールを歩いていた。白い帽子が視界に入ったので追ってみたら、彼女だった。手を繋がれているのは、明らかに日本人ではない子どもだった。迷子だろうか、泣いてはいなかったが、彼女が何か話しかけながらインフォメーションセンターの方へ歩いて行った。彼女の後ろ姿を目だけで追いながら、彼女が表に出て日本人以外の人と言葉を交わしているのを、僕は少し不思議に感じていた。
彼女がまた店に戻ろうとするとき、偶然僕と目が合った。彼女は小さく手を振った。僕も少し笑って見せた。確かに彼女は少し苦しそうだった。でもそれが彼女の言うところの「私の問題」なら、僕は黙って見ているしかなかった。そのつもりでいた。
その日の夕方、彼女が僕の店にやって来た。「日曜日、空いてるかしら?」と彼女が僕にきいてきた。・・・恐らくそれは初めて彼女から受けた「誘い」だった。夜は約束があったけど、昼間は予定がなかったから、僕は「どこか遊びに行こうか」と答えた。彼女は「そうね」と笑って、また店に戻って行った。
僕たちは、何となくあの大学へ向かった。坂道を歩きながら、僕たちはクリスマスに仲間内で計画されているパーティーについて話した。「行くかもしれないし、行かないかもしれないわ」と彼女は言った。人からの誘いを断ることの少ない彼女だったから、来るような気もしながら、僕は「ふぅん」とだけ答えた。それから仲間たちのことを話して、仕事のことを話して、合間合間に沈黙もあったりして、僕たちは暫く話すこともなかった時間の空白をすんなりと埋めていった。
「前に話したことあるかしら?」チャペルの側のベンチに座ってから、彼女が話し出した。「ここに、少し特別な思い出がある、というようなこと」「・・・ああ、そう言っていたね」。僕も深入りしない程度に返事する。二人してステンドグラスを眺めながら、黙ったり話したり、そんな時間が過ぎていく。話題はやっぱりあちこちに飛んで、彼女が何故ここに来たのか、何故僕を誘ったのか、よくわからないまま、そういった彼女の距離の保ち方に合わせながら僕もそこに居た。
「昔、私、ここで学んでいたのよ」。彼女が自分から「過去」に触れる。「あの頃から、この風景が好きだったわ」「そっか・・・」。彼女にとってここは初めての場所ではない。いくらかの時間をここで過ごしてきたのだろう。その時に彼女が何を感じてどんな生活を過ごしていたのか、知りたくなかったと言えば嘘になるが、それは彼女が話したくなったら話すだろうし、話したくなければ話さないだろうから、僕は尋ねないことにした。「うちの店のオーナー、フランス語も話すでしょう?」「ああ、そうだったね」「・・・私、彼とは知り合いなのよ。昔ここに居たとき、やっぱりあの店でバイトさせてもらってたの。みんなには知らせてないけど、彼とフランス語で遣り取りしてることもあるわ」「・・・サヤカは英語もフランス語も、使いこなせているのかぁ・・・」。そう言えば僕の店でも、場合によってはフランス語を使わなければならないこともある。僕はやはりあまり使いこなせずにいるのだが。彼女はふっと遠くを眺めるような表情を見せ、それから少し黙った。「・・・私が辛そうにしていると感じるときがある。あなたはそう言ったわね」「うん、そうだったね」「それは・・・間違いではないかもしれないわ」。彼女が足下に視線を移す。「私には何もないの」。そう呟いて、彼女は笑った。「何もない」という言葉と、彼女の表情が、とてもアンバランスだった。
「何もない、かぁ・・・」僕は答え方を見つけられず、そのまま繰り返した。それがどういう意味なのか計りかねていた。彼女がいつものように、抽象的に過去に触れ、そのまま話題を逸らすかもしれないことも予想して、彼女のペースに合わせることにした。「そう、何にもないわ。思い出も、家族も、恋人も、何にもないのよ」と言いながら、彼女はまた笑った。
ーーー思い出も、家族も、恋人も、何にもないーーー
突きつけられてみると、その言葉はとても重いものだった。僕たちは帰る場所を持っている、ここで失敗してどうしようもなくなったときには、最終的には受け入れてくれる家族がいる。そして笑って話せる過去もある。それが彼女にはないということ。どういう意味でその言葉が出たのか、本当に彼女に何もないのか、それが抽象的な表現なのか、僕には分からなかった。
「だから私はここに居続けるの。失ったものを思い出すのは苦しいから、ここに逃げて、ここで生きていくの」「・・・この先ずっと?」「そうね、多分・・・ここなら私は一人でもやっていける。ほどほどに私を受け止めてくれる場所だから、ほどほどに私の過去を知っている場所だから、私はここでなら一人で生きていけるわ。」「ずっと一人、かぁ・・・」。つまりは僕は彼女と共に歩めるわけではないということなのかもしれない。敢えて言葉にされると、少し厳しい現実だった。それでもこうやって時々は二人で会ったり食事したりする関係が続いていけば、それもそれで楽しいかもしれない。そしていつか僕に、彼女以外で心を動かされる人が現れたら・・・これから先僕たちがどうなっていくのか分からない。その時がきたら、きっと僕も彼女も、それぞれの答えを出すだろう。
「あなたの気持ちも、ちゃんと分かっているわ。他の人の気持ちも、ちゃんと分かってる。その上でこんなふうにふわふわとしている私は、狡いかもしれない。でも私は自分も他人も傷つけたくないから、こうするしかないのかもしれない・・・」彼女の言葉がぽつぽつと続く。僕は黙って聞いていた。「私は誰も信じないことにしたの。だから誰とも生きていかない。私はひとりで生きていくことに決めたの。信じて裏切られるのは耐えられないの、もうそんな思いはしたくないの。こうすることでしか、私はやっていけないから・・・」。それでも彼女は笑い続ける。「私のことをおかしいと言う人もいたわ。私の存在そのものを消されたこともあったわ。だから私には何もない。それでいいと思うことにしたの。これでいいんだって、毎日毎日言い聞かせているわ。」「信じて裏切られるくらいなら、最初から誰も信じないほうが楽だってこと、分かったの。だから誰にも期待しない、要求しない。したいことは自分でして、去っていく人は追わない。これでいいんだって思うことにしてるの。」「ひとりでいれば楽だから・・・」。
彼女の言葉とこころが一致していないことは、途中からはっきりと見えていた。本当は誰かを信じたいのだろう。離れていかない存在を求めているのだろう。それでもそうしないように自分を制してしまうのには、それ相応の何かがあったのだろう。そしてそこに触れないように抽象的な表現しかしない彼女は、やっぱりまだ傷ついた自分を背負っているのだろう。
その彼女に、僕は何ができるだろうか?
「俺を信じろ」とは言えない。今言っても、それは彼女に届かない。何かを必死に守ろうとして、そのためにいろんなものに蓋をして、ひとりで歩いていこうとしている今の彼女を、誰も多分救うことはできないだろう。本当に救われるときは、多分、彼女が見つけだすだろう。そのときが来るまでは、誰がどんな言葉を掛けても、どんなに近づいても、彼女はしっかりと距離感を保つだろうし、拒否することもあるだろう。
やがて彼女は僕の方へ顔を向けた。
「あなたが言ったこと、間違ってはいなかったわ。辛いと感じるとき、私には沢山ある。それを隠そうとここまでやってきたけど、隠しきれない時もある。隠しきれていなかったと知ったときは、ショックだったわ。私は上手くやれていると思ってきたから。でも、言って貰えてよかったわ。私の思いを感じ取ってくれる人がいるということ、もしかしたらいつか私の中で安心感に変わるかもしれない。あなたとこれからどれだけ一緒にいられるのか分からないけど、何も持たない私を、受け止めようとしてくれたあなたが居たこと、もしかしたらこれから私が一人で生きていくときの、新しい思い出になるかもしれない。それをいつ伝えられるか、伝えられないか、分からなくて、だったら気づいた時点であなたに伝えようと思ったの。」
そして彼女は僕に右手を差し出した。
「教えてくれてありがとう。」
僕は初めて彼女と握手した。
僕たちは同じ道を歩いていくかもしれないし、違う道を進むことになるかもしれない。いずれにしても、今、僕はそんな彼女をまだ見つめていたいと感じている。いつか「その時」が来たら・・・もしかしたら、僕たちはこのステンドグラスのように、それぞれの色を重ねて一つの絵を完成させられるかもしれない。その時には、僕はここで彼女を待とう。