砂浜
わたしたちは、受験勉強そっちのけで、楽しいことばかり探してた。楽しいことに包まれてないと、ほんとは押し潰されてしまいそうだったんだけど、わたしもあなたもそんなことは口にしなかった。口にすれば、わたしたちが大切に温めてきた砂時計が、粉々に砕け散ってしまいそうだった。
進路指導の疋田先生は、なんとかしてわたしたちをイイ大学に合格させようと、躍起になってた。いつのまにやら予備校の夏期講習まで決められてしまってて。
行かないよーーー。
うん、行かないよーーー。
そう言って、わたしたちは笑い合った。折角厳しい校則から逃れられる夏休み、なんで先生にまた拘束されなくちゃいけないの?遊ばなきゃ。楽しまなきゃ。笑わなきゃ。この夏は一度だけなんだもの、おべんきょうなんかに縛られたくないわ。
「海へ行こうよ」。
あなたが言った。そして電車に飛び乗った。逃げよう、逃げよう。そしてわたしたちだけの砂時計を創ろう。わたしたちだけの時間を創ろう。予備校の最初の講義のある日に、私たちは、反対方向の電車に飛び乗った。進学クラスで一緒に講義を受けるようになっていた他の子たちは、呆気にとられてた。彼女たちに「ばいばい」と手を振ると、電車はお互いに反対方向へ進みだした。
「ばいばい」。
すごく気持ちがよかった。示された道を黙って従って歩いていくなんて、まっぴらだわ。あなたの顔を見ると、あなたもキラキラした目で笑っていた。
「逃げちゃったね」
「うん、逃げちゃった」
ふふ、とわたしは笑った。あなたは、あははと笑った。窓から射してくる夏の日差しが、眩しかった。
終点まで行って、そこから鈍行列車に乗り換え。
「海って、どこにあるの?」
「さぁ?そのうちたどり着けるよ」
アバウトなあなたはさらっと答える。
そうね、そのうちたどり着けるわ。それまでの道のりも、楽しめばいいよね。
そんなふうに思って、わたしはあなたとふたりで空いた席に座った。薄いピンクのマニキュアが、太陽に反射してきらきら光った。
「きれいな爪だね」
あなたはそう言いながら、わたしの手を取った。わたしの心臓が、ぎゅぅっとなった。嬉しくて、恥ずかしくて、そして幸せになった。
「いつも塗ってる色だよ」
「そっか。・・・気づかなかった」
うん。今まで気づかなかったんだね。でも、今気づいてくれたなら、それで充分。
斜め前の席では、3歳くらいの男の子が、食い入るように景色を眺めてる。通路側にはおかあさんらしき人。背中におぶわれた赤ちゃんが、気持ちよさそうに眠っている。
後ろの席からは、おばあちゃんの話し声が聞こえてくる。二組の席を向かい合わせにして、賑やかな笑い声も届く。温泉にでも旅行するのかな。
とても時間がゆっくりと流れているみたいだ。
「ふたりで何処かに行くのって、初めてだよね」
あなたが言う。わたしは頷く。いつもわたしはあなたを見つめてきたし、あなたもわたしを見つめていた。でも、なかなか言葉を交わすことができなかったね。進学クラスの特別授業で、顔を合わせてはいたけれども。疋田先生の英語の授業は全然好きじゃなかったけど、参考書丸写しのテストを毎回こなして、○付けをするときに先生がランダムに配る他人の解答用紙の中で、あなたのを採点することが割と多かった。こういう字を書く人なんだ、とか、ミススペル勿体なかったね、とか、こころの中で呟きながら、後であなたがこれに触れることを考えて、ひとりでドキドキしてた。あなたがわたしの解答用紙を採点してくれたときは、返ってきた答案用紙に触れるとやっぱりドキドキして、顔が赤くなりそうだった。
そのうちに、お互いの解答用紙にコメントをこっそり付けるようになったね。「今日は残念」とか「全問正解、やったね」とか。そして、授業中にこっそりと笑い合ったりしてた。「この授業、つまんない」と書いたわたしに、あなたは「この程度のことなら、参考書だけで充分補えるよね」と返してきて。お互いがつまんない授業をつまんないと感じながら受けているという「共通点」を見出した。
だから、夏期講習、ブッチできたんだよね。そう考えれば、疋田先生に感謝しなくちゃ。
「ずっと、気になってたんだ」
ぼそっとあなたが呟いた。
「わたしも、あなたのこと、ずっと気になってたよ」
肩の力が抜け落ちて、ふぅっと溜息のような安堵感がこころのなかに広がった。そしてわたしとあなたは、照れくさそうに笑い合った。繋いだ手から、あなたの温もりが、伝わってきた。あたたかくて、あたたかくて、涙がこぼれそうになった。
やっと通じ合えたね。そのことが、とても嬉しかった。
緑の景色が、突然、あおに変わった。キラキラと太陽の光を反射している海。
「着いたね。」
「うん、着いたね。降りよう」
あなたがわたしの手を引いた。わたしは、あなたから離れないように、少し強くあなたの手を握った。
ききたいことがあったけど、尋ねるのはやめた。そんな先のことは、今見つめたくないから。秋になれば、現実が迫ってくることに、ふたりとも気づいていたから、この夏を楽しもうと強く思った。楽しもう、楽しもう。ようやく通じ合えたこの想いが、やがて離れていってしまうこと、今は考えないようにしよう。楽しい思い出でこの夏をいっぱいにしよう。
胸に寂しさを抱えながら、わたしたちは、ゆっくりと歩いた。干物を積んだ軽トラックが通り過ぎて行く。のんびりとした時間が流れている、小さな小さな町のようだ。すれ違う人も少なくて、夏休みに入ったばかりなのに、海水浴に来る人も少なそう。
わたしたちは、たくさんのことばを交わすことなく、手を繋いで歩いた。時々「暑いね」とか「静かな町だね」とか、そんなことを話すだけで、わたしはわたしのこころの中に満たされていく幸せを、じっくりと抱きしめていた。忘れないように、この思いを、この感覚を、忘れないように、何度も何度も確認しながら歩いた。
目の前に、真っ白な砂浜が広がった。人気の少ない海岸。
「ここって穴場かも?」
「ラッキー!」
あなたが目を細めて笑う。わたしはこの笑顔を、ずぅっと見つめてきたんだ。この笑顔に、いつも支えられてきたんだ。
急に「ありがとう」と言いたくなった。そして、そう感じたと同時に、ことばがこぼれた。
「ありがとう。」
あなたは不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
わたしは黙って首を振った。わたしがそっとこころの中で、あなたの存在を支えにしてきてたことは、あなたに伝えなくてもいいことだと感じたから。わたしが抱えてきたいろんな思いは、あなたに伝えなくてもいいと思ったから。
あなたは少しの間わたしを見つめていたけど、やがて海へと視線を移した。
「折角だから、足だけでも海に浸かってくるよ」
あなたはそう言うと、繋いでいた手を放して、一人で波打ち際まで歩いて行った。わたしは急に寂しくなった左手を感じながら、あなたの背中を見つめていた。
わたしは、砂浜にしゃがんだ。サラサラとした、小さな真っ白な砂たち。「砂の城」は作れそうにない。握っては少しずつ落とし、また握っては落とし・・・何度も繰り返した。大きな砂時計を創っているつもりで。時間がもっとゆっくりと進むように、少しずつしか落ちない砂時計を、創っているつもりだった。
あなたの影が、私の視界に入った。見上げると、靴を持ったあなたが、不思議そうにわたしを見つめていた。
「何してるの?」
「砂時計・・・」
「砂時計・・・?」
「うん。。。この景色全部が砂時計のガラスの部分で、この砂がゆっくりと落ちていくような砂時計を創るの」
あなたは少し黙って、それから私の隣りに座った。
「大きな砂時計、か・・・」
あなたが呟く。わたしは頷いた。ほんとうは時間をこのまま止めてしまいたいけど、わたしたちは歩いていかなきゃいけないから、時を止めちゃいけないんだ。それなら、せめて、時間の流れを遅くしよう。そんなことは、あなたに伝えなかったけれども。
あなたが、砂を掬った。そして、私の手の上に、その手を重ねるようにして、ゆっくりと砂を私の手に落としていく。私はその砂を、もっとゆっくりと落としていく。そんなことを、どのくらい繰り返しただろう。ふとあなたの顔を見ると、寂しそうな表情をしていた。
「ね、お腹空いちゃった」
私は砂時計を創るのを止めて、あなたに言った。あなたをわたしの苦しみの世界に連れて行きたくない。
「何か食べよう。ね?」
あなたの手を引っ張る。あなたは何かを言いかけて、口を閉じた。そして、
「焼きそばがいいなあ」
と笑った。
それからわたしたちは、ふたりで焼きそばを食べて、ウーロン茶を飲んで、暫く海を見つめた。遠くで、ときどき魚が飛び跳ねるのを見ては、大きな声をあげて喜んだ。魚が飛び跳ねるのを見るのは、初めてだった。そして、あなたはもう一度波打ち際へ歩いて行った。わたしはあなたの背中を見送りながら、何故だか涙がこぼれてきた。あなたはずっとわたしに背中を向けて、ひとりでじっと水平線を見つめていた。
一日で、あなたは真っ黒に日焼けした。わたしも少し、黒くなった。キャミソールの肩ひもの跡がついているのを見て、あなたが笑った。わたしもあなたのシャツの腕に、日焼け前後の境目を見つけて、笑った。
手を繋いで、駅まで歩いた。帰り道のが、たくさん話せた。あなたは、昔何度も引っ越しをして、転校を繰り返した寂しさを、わたしに話してくれた。その土地その土地に友達がいること、思い出がたくさんあることを、聞かせてくれた。わたしは、飼っている犬のことや最近見た映画のことを話した。わたしはあなたに、抱えてきた複雑な思いや経験を、話すことができなかった。
楽しいことだけをしよう。そう言い聞かせていた。楽しい思い出でいっぱいにしよう。そう決めていた夏だったから。
30分待って、ようやく帰りの電車が駅に着いた。来たときよりもうんと空いていて、2両編成の車両のなかに、乗客は10人足らずだった。電車は、来たときより古くて、走りながらキイキイと音をたてた。その音が面白くて珍しくて、わたしたちは何度も笑った。
「・・・ねえ、これ・・・」
あなたは、突然私の左手首を掴んだ。
「・・・こんなこと、もうやめようよ」
そこには、うっすらとだけど、確かに細い線が何本か跡になって残っていた。
わたしは、何も言えなかった。泣かないように、ぎゅっと歯を食いしばった。
あなたがわたしの肩を抱いた。そして、何も言わずにそのままでいてくれた。
「・・・・砂時計・・・・」
わたしが口を開くと、あなたはわたしの目を見つめた。
「ふたりだけの砂時計、今日、創ったよね?」
「うん」
「あのことを、覚えておいてくれる?」
「・・・・うん」
「・・・ありがとう・・・」
笑おうとしたわたしの目から、涙がこぼれた。楽しい思い出として締めくくる筈だったのに、最後に湿っぽくなってしまった。
でも、これでいいと思った。
あなたがわたしと共有してくれるものが一つでもあるのなら、わたしはこれからも頑張っていけそうな気がしていた。
お互いが別々の方向へ帰る、乗り換えの駅に着いた。あなたは何も言わずに、わたしが乗る電車が来るのを、一緒に待ってくれた。そしてわたしが電車に乗ろうとしたときに、もう一度強く手を握ってくれた。振り向くと、あなたは笑っていた。
「だいじょうぶだから」
あなたはそう言った。そして扉が閉まり、電車が動き出しても、そのままずっと見送ってくれた。
わたしは、あなたの姿が見えなくなるまで、ずっと扉の前に立ち、ホームを見つめていた。