手紙

 菜穂が発つ日、ぼくには試験が二コマあった。どう考えても彼女を見送りには行けない。かといって、試験があることを、彼女に伝えることもできなかった。ぼく自身、ほんとうは迷っていた。試験をブッチしてでも行くか、単位を取るか・・・決められなかったし、もしぼくが試験をすっぽかして来たと知ったら、彼女は間違いなく怒るだろう。
 あの夜から、ふたりでいろんなことを話したあのときから、彼女はより彼女らしくなっていった。ぼくたちは電話でよく喧嘩をした。喧嘩をまともにできなかった彼女が、言いたいことをすこしずつぼくにぶつけてくるようになった。時々は彼女が泣くこともあったけど、次の日には仲直りの電話をかけたり、彼女から「ごめんね」の電話がかかってきたりしていた。ぼくたちは、やっとほんとうに近づけたような気がしていた。
 ぼくは、悩みまくって、結局試験を受けることを選んだ。彼女がぼくだったら、多分そうするだろうと思ったから。ぼくが彼女だったら、多分見送りに来るよりも試験を受けることを選んでほしいと望むだろうと思ったから。
 ぼくたちは、彼女が発つ前夜、普通に会話して、普通に「おやすみ」を言った。そうじゃなきゃ彼女の未来を変えてしまうかもしれないような言葉を口にしかねなかったから。彼女も、いつもより少しオーバーに「普通」を意識しているようだった。それをお互いにことばにしなくとも、ふたりが分かっていればいいとぼくは思った。彼女も、もしかしたら、そう思っていたかもしれない。それは彼女に確認しなければ分からないことだけど。

 その日、ぼくはバイトも入れず、試験を終えたらまっすぐにアパートに帰った。そして、留守電メッセージのランプが点滅しているのを見て、彼女だと、確認するまえにそう感じた。
 電話の声は、とても冷静だった。後ろで人の声やら搭乗手続きの案内やらが聞こえてきて、それがなければ、ちょっと一人旅でもしてきます、と言っているかと間違いそうなくらい、とても「普段通り」だった。その声を聞いて、ぼくは、これでよかったんだと思った。
 ぼくたちはこれからのことを話し合わなかった。ぼくはそれを言うことで、彼女の未来を束縛してしまうかもしれないかもしれなかったし、彼女もそれを言うことで、ぼくと彼女自身の可能性を制限する事になってしまうかもしれなかった。
 「待っている」と言うのは、もしかしたら容易いことかもしれない。
 でも、ぼくはそれを安易に口にできなかった。彼女はやっぱりことばを大切にするから、このことに関しては、どうしても言えなかった。
 彼女も、同じだっただろうか。

 翌々朝、懐かしい文字をぼくは新聞と一緒に郵便受けに入っていた封筒に見つけた。手紙なんて貰うこともなかったから、郵便受けを夕方に確認することはしていなかった。
 彼女が見上げていた空のような色の封筒に、青いペンでぼくの名前が記されている。ひっくり返すと、「菜穂」とだけ書かれてあった。

『健へ

 今、空港にいます。目の前には、飛行機が、ざっと見ただけでも7,8機は待機しています。あと30分したら、わたしは飛行機に乗るでしょう。
 あなたと一緒に過ごした2年間、振り返ってみれば、あなたが居たからわたしは頑張れたのだと確信しています。人に頼ることをとても怯えていたわたしに、あなたはこんなにあたたかな気持ちを抱かせてくれました。喧嘩したり、泣いたり、いろんなことがあったけど、やっぱりあなたと出会えてよかったと、そしてここまで頑張って生きてきてよかったと、何度も何度も自分に確認しては頷いています。
 わたしはあなたに「待っていて」とは言えません。これからの一年間に、あなたにどんな出会いがあるかも分からないし、わたしにどんな出会いがあるかも分からないのですから。そして、わたしたちがどんな思いを経験していくのかも、やっぱりそのときにならなければ分からないのですから。

 健。あなたの夢は何ですか?そういえば尋ねたことがありませんでしたね。
 わたしは、いつか通訳を本業とできるように、これから一年、頑張ってみます。寂しい夜を経験するでしょうが、寂しくなったらその気持ちをしっかりと抱えてみます。嬉しいことがあったら、その喜びをしっかりと感じてみます。わたしがこどもの頃にやり残したことを、これからのわたしの人生の中で、ゆっくりとやり直していきます。

 ・・・時間が来ました。そろそろ発ちます。

 いつかまた運に恵まれたら・・・あなたと再会したいです。

 身体に気を付けて。遠くから、あなたの未来が素晴らしいものであるようにと、祈っています。

 ありがとう。

菜穂』

原稿用紙

It's my...

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