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今川義元感状いまがわよしもとかんじょう

今川義元感状1

永禄元年四月廿六日 足立右馬助あて今川義元感状

今川義元感状2
分類
市指定(第208号)
指定年月日
平成20年11月3日
種別
古文書
所有者
個人
時代
室町時代
年代
永禄元年(1558)4月26日
形状
軸装
本紙部分
 縦 16.5cm 横 39.6cm

 この史料によって1555年(弘治元)から顕在化した反今川方の動向がわかる。史料は1558年(永禄元)4月26日に今川義元から足立右馬助へあてて発給された戦闘における功績や忠節を賞した感状といわれる文書である。文面によると、足立右馬助の弟甚尉が寺部攻めにおいて鉄炮で討ち死にしたが、鑓で比類無き活躍をし、敵(反今川方)を敗北させた忠節を賞賛している。また甚尉は辰年(1556年、弘治2)の上野城が味方になった時や勝正(兄右馬助カ)と同じく岡崎より上野へ退いた時も、粉骨して上野城の赦免の調整をしたことなどの忠節をも感悦している、と書かれている。足立右馬助は、上野の土豪であったと見られ、文面から上野城主であった酒井忠尚に属していたと考えられる。
 この史料によって新たな事実がわかる。この寺部攻めは、家康の初陣の場といわれている寺部城合戦のことであり、これが永禄元年4月に行われ、この史料が発給された26日以前の24、25日あたりに今川方の勝利として落着していること。そして上野城は一度今川に背き、織田方となったが、弘治2年段階で今川方に属していたこと、その後も何らかの事件があって上野城に退いたこともあったこと。さらに「岡崎并上野人数」とあり、岡崎衆とは別編成で上野衆という単位(軍団)があったことなどである。
 上野城の動向は、安城を中心とした市域の動向とは不可分の関係にある。1549年(天文18)以降、今川は織田から安城城を奪い当地域を勢力下におさめた。しかし弘治初年に幡豆郡の吉良氏から賀茂郡の鈴木氏に至る反今川方の岡崎包囲網ができたことにより、安城城は、織田信長が野寺原まで出陣したことなど、今川方の最前線として織田方の脅威にさらされていた。1556年(弘治2)の上野城酒井忠尚の今川方復帰以降、安城城・上野城は矢作川東岸の要の城であり、その後の今川方優勢の足がかりをつくったのである。