百聞は一見にしかず、JOHN RENBOURNと出会って判ったこと。
この写真は1978年5月、軽井沢でのもの。左でMARTIN/0−18を弾いているのが僕で、向かいでGUILDを持っているのがJOHNである。これは彼の“My Dere Boy”と言う曲を教えてもらっていることろ。中央で立って見ているメガネの人は中川イサトさんである。
ここへ来たのは、イサトさんから電話で「軽井沢でジョンレンボーンとステファングロスマンと会うけど、一緒にいかへんか?」との誘いがあったからだ。大阪から行くイサトさんと、名古屋から行く僕は、今となってはどこで落ち合ったかも忘れてしまった。東京からは中川五郎さんと田中汪臣さんが合流した。
この催しがいったい何のために、どういった状況で実現したのか、ただイサトさんに誘われるままに参加した僕は、あまりはっきりした経緯を知らない。当時の僕は、ただJOHNの弾くギターに興味を持っているだけで、「直に教えてもらえる。」という言葉だけが頭の中をグルグル回転しているまま、現地に着いた。とにかく、軽井沢に別荘を持つ裕福な日本人が彼ら二人を日本に呼び寄せたわけだ。(この催しの後、二人は日本国内数箇所でコンサートを行なっている。)この時二人は“ JOHN RENBOURN & STEFAN GROSSMAN”というアルバムを出した矢先のことだった。この催しというのは、事前に希望者が応募して、限定20名ほどが一般参加できた(だったと思う)、一泊二日のGUITAR WORKSHOPだった。軽井沢に着いた当日は、参加者(応募で参加したアマチュア日本人約20名)全員が、二人の前でギターを1曲ずつ弾いて、腕の程を披露しておき、あくる日、JOHNとSTEFANのどちらを希望するかで、2組に分かれて当人たちから直接指導を受けるのだ。みんなの演奏は、観客席にいる外人2名もさることながら、中川イサトさんの前でギターを弾くことに緊張していたようだった。
今でこそフィンガースタイルのギターを弾くアマチュアは大勢いるし、CDを出す日本人も少なからず出てきたが、当時、国内のプロはイサトさん一人で、あとは大阪周辺に住むイサト教室の生徒くらいしか、ギターインストを弾く連中は居なかったと思っていた。もし、それ以外にギターインストを弾く人がいたら、その人は10人中9.9人は“ANGIE”を弾いていた(笑) ところが、ここに集まった日本人アマチュアは、みんなイサトさんに教えてもらったわけでもないのに、めいめいが自分でコピーしたJOHNやSTEFANの曲を、人前で披露したわけである。今のようにビデオや楽譜集があふれている時代ではないだけに、それなりに、みんなたいしたものである。おそらく全国的に当時のギターインストファンのつわものたちが集まっていたのであろう。・・・そういえば、この催しの10年くらい後に「この中にいた人がアメリカでCDを発売して活動してる」と、確かイサトさんが言っていた。
参加者の演奏が終わったら、お待ちかね、JOHN、STEFAN & イサト ミニLIVEが始まった。最初はイサトさん、その後彼ら二人が弾いて、最後は2〜3曲ほど3人のセッションがあった。それまでレコードでしか知らなかった海外のフィンガープレーヤーが、目の前でイサトさんと一緒にプレーをしている・・・。「頑張れ日本代表!」という気分で、イサトさんの演奏を見守った。いまでも鮮明に覚えているが、イサトさんはその時、“きつねの嫁入り”という曲を弾いた。ほかにも数曲弾いたのだが、それらは何を弾いたか覚えていない。ただ、きつねの嫁入りの最初の部分のフレーズを聞くたびにJOHNが何とも言えぬ表情で目を閉じるのである・・・。それが強く印象に残っている。 その日の夜、イサトさんゴローさんと田中汪臣さん、そして僕は、主催者とJOHN、STEFANと一緒に食事に出かけた。田中汪臣さんというのは、古くからのフィンガースタイルのギターファンの方なら、今でもお持ちかもしれないが、ミュージックセールスという、当時日本では非常に希少な楽譜(例えば、“コンテムポラリ−・ラグタイムギター”、“クラレンス・ホワイトのギター”、“ハワイアン・スラック・キイ・ギター”など)を出版していた会社の代表編集人である。この日、田中さんはSTEFANと、ある楽譜集の出版のことで打合せを兼ねて同席していたわけだ。しかし、その席上STEFANと田中さんは大声を張りあげての口論となった。何でも、TAB譜の表示方法で、6本の線上に数字を載せるか、7本の線間に数字を入れるかで、STEFANが激怒したらしい・・・。ともあれ、僕はJOHNのプレイにしか興味は無かった。
その夜の別れ際、JOHNに「明日は“MY DERE BOY”を教えて欲しい」と頼んだのだが、当人は「その曲はもう忘れた・・・。できるだけ思い出しておくよ」と言っていた。これはその翌日の指導風景である。当時イサトさんと競ってコピーしてみたのだが、お互い本人のプレーを見ていないので確信が持てない。しかも、この曲は相当難しい曲で、実際、自分でプレーしながら、「本当に当人はこんなポジションで弾いているのだろうか?、もっと、簡単な弾き方があるのではないだろうか?」と、自分のコピーを半信半疑で弾いていた時である。後ろではイサトさんも興味深深に見守っている。結果は、「結構自分たちの耳はたいしたものであった・・・。」という自信を深めた反面、「こんな難しいままのポジションで、やっぱりテクニックで弾きこなすのか・・・。」と、うんざりさせられた気分を覚えている。面白かったのは、この曲のエンディングで2本の弦をチョーキングして終わる部分の弾き方だが、イサトさんと僕はそれぞれ違った弦で、違ったポジションで、しかも、両手を使って同一方向(6弦方向)にチョーキングしていたのだが、当人は片手で、2本の弦を上下に広げて(1弦側と6弦側)チョーキングしていた・・・。百聞は一見にしかずである。
最後にもうひとつ、当人に逢ったおかげで知った事実がある。この頃、僕はJOHNの曲では“SIR JOHN ALOT OF MERRIE ENGLANDES−MUSIK THYNGE AND YE GRENE KNYGHTE”(邦題:鐵面の騎士)というアルバムに入っているものが好きで、“MY DERE BOY”もその中の1曲だった。このアルバム中の弦がバチバチいうJOHNのド迫力な演奏が好きだったのだ。ところがこれは、レコーディング上でのセッティングによる結果の音であって、当人の生の演奏はいたって静かで、弦を撫でる程度のフワフワとした弾き方だった事に、ショックを受けたことを記憶している。彼のギターは弦高が低く、そのおかげで、ビレ易く、バチバチという音が出やすいセッティングになっていたのだ。そうとも知らず、当時の僕は生の状態であのレコードの迫力あるサウンドを再現しようと、弦を力一杯バチバチ弾きまくっていた・・・。情報不足は、膨大なる無駄を招くという教訓である。
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