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哲学的健康法

哲学的健康法 philosophical maintenance of health
         加 藤 政 弘  
「魂はある。」これが自著『人は老いて死に、肉体は滅びても、魂は存在するのか?』の表題となっている問いに対して、渡辺昇一が八十有余年の体験から出した結論です。「哲学的健康法」は、この結論を1998年に提案されたWHO憲章の「新しい健康の定義」を検討することを通して、再確認するものです。
T「健康の定義」をめぐって
以下の英文がWHO憲章の「健康の定義」です。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
(日本WHO協会訳)
「健康とは、病気でないとか、弱っていないとかいうことではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。」
(筆者の直訳)
「健康とは、単に病気や病弱でないだけではなく、肉体的健康、精神的健康、そして社会的健康が完備した状態です。」
このWHO憲章の健康の定義に対して、1998年に提案された新しい健康の定義が以下のものです。(下線部が改定部分)
Health is a dynamic state of complete physical, mental , spiritual and social well-being and not merely the absence of disease and or infirmity.
(筆者の試訳)
「健康とは、単に病気や病弱でないというだけではなく、肉体的健康、精神的健康、霊的健康、そして社会的健康が完備した目的意識的状態です。」
この提案は、WHO憲章理事会で総会提案とすることが賛成22反対0棄権8で採択されましたが、その後のWHO総会では、現行の健康定義は適切に機能しており審議の緊急性が低いなどの理由で、そのままになっているとのことです。ともあれspiritualityやdynamicをどう解釈すべきかを考えてみることは、私たちが「健康とは何か」を考えるヒントのひとつになります。まず「肉体的健康」「精神的健康」「霊的健康」「社会的健康」のそれぞれについての具体的な内容を近代西洋医学に代わる代替医療の第一人者ディーパック・チョプラへのインタビューで見てみます。
Question1
真の健康とは、どのような状態で、なぜす
べてがうまく行くのですか?
A真の健康とは、肉体が喜びに満ちてエネル
    ギーに溢れ、精神が安らかで、生き生きして、魂が存在の光を経験している状態です。また環境面でも健康で、良い状態にあることを意味しています。環境とは地球、空気,水であり、ある意味で環境もまた私たちの身体であり、環境を大切にしないと、結局、自分の身体を汚染することになります。真の健康とは、究極的にホリスティック(全体的)でなくてはなりません。何故なら私たち自身もホリスティックな存在だからです。
Question2
まるで教科書どおりに生きていても病気になる人がいるのはなぜですか。
A病気をもたらす要因は実に多様で、食事や
ヨガ、エクササイズは重要ですが、それだけでなく睡眠や感情面の健康、良好な人間関係、社会的な健康、コミュニティーの健康、キャリア面の健康、健康な経済状態などのすべてが関連し合って複雑です。
他のあらゆる分野は幸せでも、経済的なストレスがあって病気の要因になっているかもしれません。要因を一つに絞れないのです。肉体の状況には、あらゆることが関連しているのを理解しなければなりません。
インタビューから読み取れる「肉体的健康」とは、肉体が喜びに満ちてエネルギーに溢れている状態ですが、肉体的健康を維持するには睡眠や食事やヨガ、エクササイズだけでなく、地球、空気,水などの環境も大切な要素になっています。「精神的健康」とは、精神が安らかで、生き生きしている状態ですが、感情面の健康、良好な人間関係が精神的健康の大切な要素になっています。「霊的健康」とは、魂が存在の光を経験している状態です。「社会的健康」とは、社会や家族の健康、コミュニティーの健康、キャリア面の健康、経済的健康などを言います。新しいWHO憲章の健康の定義と「真の健康とは、究極的にホリスティック(全体的)でなくてはなりません。」というチョプラの主張はぴったり一致しています。
1998年のWHO執行理事会では、霊的健康は人間の尊厳の確保や生活の質を高めるために不可欠なものであるという意見が出されています。そこで魂が存在の光を経験している状態とはどのようなものかを、最初に制度面から、次に肉体の死後の魂の存在証明の実験面から考察してみます。考察に先立って「魂」とは何かをまず確認しておきます。
U魂とは何か
 ここで魂とは何かを確認しておきます。辞書によると「魂」とは肉体に宿ってその生命と精神活動を支配し、肉体が滅んでもなお存続すると考えられるものです。また「精神」とは思考や感情の働きをつかさどる心です。人間の肉体から魂が離れ自由に活動することを幽体離脱(アウト・オブ・ボディ)といいますが、アルフレッド・R・ウォーレス(1874)は魂の辞書的な定義に「幽体離脱」の可能性を追加しています。彼によると、魂とは全ての意識的存在の核心部で、普通、肉体と一体不離の関係にあるが幽体離脱の可能性を持っており、肉体に動物的な生命と知的活動を賦与している存在です。
魂の可能的属性である幽体離脱について説明しておきます。幽体離脱ができる人の中には、肉体機能の束縛を超越して霊的機能を働かせることができる人、さらに肉体から一時的に抜け出ることのできる人、それも部分的に遊離するというだけでなく完全に抜け出て、遠距離まで出かけてまた帰ってくるという芸当までできる人がいると言われています。
1977年のヴァージニア大学のジョーン・ハーマー博士のヴァージニア州シャーロットビルの住民と学生への調査や1996年のイギリスのサウザンプトン大学で実施された115名の学生へのアンケート調査さらに翌年のオックスフォード大学の超心理学に関心のある学生380名へのアンケート調査によると、調査対象者の5人に1人は幽体離脱を経験しています。『幽体離脱の旅』の著者ロバート・モンローはいつでも好きなときに幽体離脱ができる人々の中の一人ですが、幽体離脱能力のある人の養成に挑戦してある程度の成功を収めたと言われています。
 魂の語源的説明も忘れずに見てみましょう。『聖書』の創世記は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。こうして人は生きる者となった。」と述べています。聖書の創世記では魂は「命の息」と表現されています。渡辺昇一は魂の英語の語源的説明をこう述べています。英語では魂をスピリット(spirit)と言い、ラテン語のスピルトゥスが語源で「微風、呼吸、生命、魂、精神」を意味しています。そして、さらに遡ると「息を吐いたり呼吸すること」でした。西欧人は息を吐くときの音を「スパスパ」と聞き做してきました。ギリシャ語で魂は「プシュケー」ですが、「呼吸する、吹く」という意味が語源です。プシュケーという言葉は、プーッと息を吹く時の音から来たのは容易に分かります。
V霊的健康を維持するための制度について
霊的健康を維持するための制度について述べます。欧米社会においては、魂の健全性を維持増進するスピリチュアルケアの制度として、ほとんどの病院内に礼拝堂があり、チャプレンのような病院所属のスピリチュアルケア専門職用の宿泊所があります。因みにチャプレンとは、教会以外の団体や施設に奉仕するキリスト教の聖職者のことです。また欧米の医療施設には臨床パストラル(霊的指導)部があり、イギリスやアメリカではパストラルケア部、ドイツの国公立や私立医療施設では、魂の配慮部と呼ばれています。さらにアメリカの医療制度においては、スピリチュアルケアを提供できることが病院の認可を受けるための条件になっています。日本では2004年に愛知県でスピリチュアルケア研究会が立ち上がり、2007年には関西を拠点として、日本スピリチュアルケア学界が設立されています。
W「奇蹟」の概念の検討
制度面の次に肉体の死後の魂の存在証明の実験面から考察してみます。考察に先立って「奇跡」とは何かをまず確認しておきます。「奇蹟」の概念の検討は、肉体の死後の魂の存在の信憑性に大きな影響力を持っています。アルフレッド・R・ウォーレス(1823−1913)はD・ヒューム(1711〜1776)の以下の二つの奇跡の定義は、不適切または不完全であると言っています。第一の定義:奇跡とは自然法則への違反である。第二の定義:奇跡とは神の特殊な意志、または目に見えぬ因子の介入による自然法則の侵犯である。この奇跡の定義に対するウォーレスの反論はこうです。第一の定義によると、人間がこれまで知り得た法則を超越した未知の自然法則は存在し得ないことになってしまいます。第二の定義は「目に見えぬ因子」を「目に見えぬ知的因子」にしないと、ガルバーニの電気や普通の電気の作用までも、自然界の秩序の一部を構成することが確認されるまでは、この定義にかなっていた、つまり奇跡だったことになります。近代の哲学は、「自然現象や自然法則に関しては、人間は先験的知識は何一つ持ち合わせていない」という点で一致しています。
アインシュタインもウォーレスと同じ意味のことを、「わたしたちはいつか、今より少しはものごとを知っているようになるかもしれない。しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。」と言っています。
X肉体の死後の魂の存在証明実験について
自然に対する人間の先見的知識の限界と自然の真の本質のあり方を念頭において、肉体の死後の魂の存在証明となる実験について考察を進めます。
「実験例1」魂の重さを量かる実験
1901年にアメリカのマクドゥーガル医師が行った実験は、魂の重さを量る科学的実験のひとつです。論文発表は1907です。医師はもし魂が存在するなら、空間を占める物質的な存在で、他のあらゆる存在物が持つ重さというものを魂も持たなくてはならないと確信していました。『魂の重さの量り方』の著者レン・フィシャーは、アメリカのマクドゥーガル医師の方法を真に科学的と評しています。それは医師が実験結果から得た「魂に重さがある」という解釈の間違いの可能性を前提に、さらに自ら実験を繰り返したからというのがその理由です。
6人の患者のうち測定が成功したのは、4人の患者のケースで、残りの2人は実験的に失敗したケースです。失敗したケースは、実験に反対する人々の妨害にあったケースと患者を秤の上に設けた簡易ベッドに移して、秤を調節中に患者が死亡してしまったケースです。大人の健康体は一時間当たり約30から40グラムの体重の減少があります。「呼吸」や「発汗」で身体から水分を失うためです。ABCD4人の患者の死後の体重減少の合計値は、以下の結果でした。数字の後の括弧内のaは、「死後数秒で検出された限りでの体重減少値」です。また括弧内のa+bは「死後数秒で検出された体重減少値+その後約18分間で追加的に検出された体重減少値」です。
A「21.3グラム」(a)  
B「45.8グラム」(a+b)
C「42.5グラム」(a+b)
D「10.6グラム」(a) 
「考察」この実験に対してなされた批判で、検討に値するものは以下の批判です。実験では、患者を密閉された容器に入れていないので、人が死んで体温が下がると秤の周りに空気対流が生じて、それで体重が見かけ上減少したというものです。これに対して空気対流の影響が秤に作用すれば、見かけ上の体重は減少するのではなく増加しなくてはならないというのが流体力学の結論です。アメリカのマクドゥーガル医師の実験結果は既に百年以上経った今日も他の科学者による確認実験を待っています。人の生から死への体重遷移を計測する実験は、魂の死後の存否を確認するだけでなく、物理学の根本法則のひとつであるエネルギー保存則(エネルギー恒存の原理)の妥当性を再確認することにもつながっています。エネルギー保存則とは「外部からの影響を受けない物理系(孤立系)においては、その内部でどのような物理的あるいは化学的変化が起こっても、全体としてのエネルギーは不変である」という法則です。
以下の「実験例2」と「実験例3」はいずれも、『心霊と進化と』(アルフレッド・R・ウォーレス 1874)から採取した実験記録です。
「実験例2」物理的心霊現象
英国の数学者で「モーガンの法則」で知られるデ・モーガン(1806〜1871)は、心霊的著作『物質から霊へ』(1863)を出版し、その著作の序文で以下のように述べています。「自分の目や耳で確かめたことや(本文で)紹介されている事象の中の幾つか、その他もろもろの事実から私は、立証し得るかぎりの立派な証拠を手にしていると信じる。私はいやしくも合理的思考を備えた人間ならばペテンだの偶然の一致だの誤りだのの説ではとうてい説明にならない、いわゆる霊的現象を、不信のないほど決定的にこの目で見この耳で聞いたことを確信している。」(中略)「私はさきにその妄想に駆られた霊媒たちこそ正道を歩んでいると述べた。彼らには未開の原野に今こそ自由に通れるようになった道を最初に切り開いた勇壮なる時代の気概と手段とが備わっている。その気概とは何か。それは、下らぬことに首を突っ込んだことを知られるのを恐れるあまり今では全く顧みられずにいる包括的検討の精神である。」「私がこの目で見た最も目覚しいテーブル現象は、私の家と同じく海岸に面した友人の家で起きた。友人の家族は六人で、それにもう一人、今ではそこの娘さんと結婚している男性が加わり、それに私が家族の一人を伴って出席した。金銭で雇われた人は一人もいない。その中の男性の一人に心霊現象はもとより心霊一般に懐疑を表明している者がいて、その人だけ中央のテーブルから二、三フィート離れたソファに腰かけ、残りの者は全員テーブルのまわりに着席した。しばらくするとテーブルが傾いてラップによる通信で全員が起立して手をつなぐようにと言ってきた。テーブルにはだれも手を触れていない。言われるままに起立した状態で十五分ほどが過ぎた。みんな何が起きるのだろう、だまされているのではなかろうかと、あれこれ思いを巡らしていた。やがてこのうちの一人二人がもう腰を下ろそうかと言い始めたときである。八人から九人が座れるその古いテーブルがまったくひとりでに動きだした。われわれも相変わらずまわりに立って手をつなぎ合ったまま、そのテーブルのあとについて動いた。テーブルは例の一人だけソファに腰かけていた男性の方へ向けて移動し、やがてその男性を文字どおりソファの奥へ押しつけ、男性もついに“やめてくれ。もういい、わかった!”と悲鳴を上げたことだった。」
「考察」物体を動かす目に見えない既知の力のひとつに磁力があります。磁力は人間が想像しうる限りの外的影響力なしに、引力の法則や慣性の法則も無視して金属を持ち上げたり動かしたりできます。古いテーブルがまったくひとりでに動きだしたのは、自然界に存在する無限のエネルギーのうちでも、わたしたちには感知できない未知のエネルギーが原因と考えられます。ラップによる通信で全員が起立して手をつなぐようにと言ってきたこととテーブルは一人だけソファに腰かけていた男性の方へ向けて移動し、やがてその男性を文字どおりソファの奥へ押しつけたことから判断すると、未知のエネルギーを操り、言葉を理解することができる能力と好悪の感情を持っている知的存在がこの心霊現象の主体であると考えざるを得ません。
「実験例3」他界した妻の霊魂が現れた実験
 「一つだけ例を挙げれば、(同じような決定的な例は数多くあるが)リバモアLivermore氏は五年にわたって何百回もの実験を重ね、その間、他界した奥さんの紛れもない完璧な生前の姿を目に見、手で触れ、その動作が出す音まで耳にした。その霊姿は物を動かし、カードにメッセージを書き、それが今まで残っている。同じ霊姿を、同席した二人の友人も目撃し手を触れて確認している。完全に閉め切った氏の自宅の一室で行い、他には霊媒である少女一人しかいなかった。」
「考察」五年にわたる何百回もの実験が、肉体は滅びても魂はあるという真理の発見を可能にしていたと考えられます。実験の量が少ない者は、だまされ、根気よく続けた者は虚偽や妄想のからくりに気づきます。こうした多くの実験の中の一つで、リバモアは、他界した奥さんの紛れもない完璧な生前の姿を目に見、手で触れ、その動作が出す音まで耳にし、しかもカードにメッセージを書くのも見ていますから、このことから死後の魂は単に存在しているだけでなく、生前の個性を留めて存在していることが判明します。
Y「霊的健康」の基礎である「神」の存在証明について
 もうひとつの「霊的健康」の基礎は、「神」の存在証明です。自然の秩序から神の存在を推測する自然神学的証明(目的論的証明)だけで、たいていの人は神の存在を確信することができるのではないでしょうか。ただし神という呼び名の変わりに「何か偉大なもの(サムシング・グレート)」等等と言う人もいます。
「例1」わたしたちの知性を使って、次のような機械を作ってみてください。梅の実ほどの大きさで、地面に転がして放っておけば何十年後かには二十メートルほどの木に育ち、その後何百年もの間毎年、何百個ものくるみの実を生産するような機械です。わたしたちはそんな機械を造ることができますか?次にくるみの木を見たときには、くるみを大木にまで育てた素晴らしい自然の力についてしばし考えてみてください。人間の助けをひとつも借りず、ただ太陽の光と水だけを使って、来る日も来る日も、時間をかけてあの雄大な樹形と乳白色の樹皮と繊毛を持ったやや厚手の柔らかい葉を作り上げた力。これを「自然の奇蹟」と呼ぶ人もいるでしょう。自然の力が人間の発明したテクノロジーよりもずっと優れているから、奇蹟などと呼ぶのです。4月の下旬、深い緑色の水をたたえた川端で、どのくるみの木も、忘れずに一斉に赤い雌花とぶどうの房のような黄緑色の垂れ下がった雄花をつけています。
「例2」ヒトのゲノムの重さは1グラムの二千億分の1、その幅1ミリメートルの五十万分の1です。この極小のゲノムに32億もの情報が書き込まれており、そのゲノムは人体には約60兆存在しています。遺伝子を研究していて生命科学の先端に立った科学者ほど生命のあまりに精妙な設計に、崇高な気持ちになり、人智を超える何か偉大なものの存在を感じないではいられないと告白する人が出てきています。
「例3」20世紀最大の科学者と言われるアインシュタインとって、「神」の存在証明は、世界が合理的、あるいは少なくとも理解可能であることでだけで充分でした。「私は神がどういう原理に基づいてこの世界を創造したのか知りたい。その他は小さいことだ。」という言葉を彼は残しています。
稲刈りが終わった泥だらけの田んぼには、鷺の足跡がくっきりと残っています。鷺が眼前に見えなくとも田んぼにいたことは確実です。使途パウロは「神の永遠の力と神性は被造物に表れており、これを通して神を知ることができる」(ローマ人への手紙1章20節)と言っています。
Z新しい健康の定義づけの言葉「目的意識的(dynamic)」について
 さてここでもう一度WHOで1998年に提案された新しい健康の定義に戻ってみます。
Health is a dynamic state of complete physical, mental , spiritual and social well-being and not merely the absence of disease and or infirmity.
(筆者の試訳)
「健康とは、単に病気や病弱でないというだけではなく、肉体的健康、精神的健康、霊的健康、そして社会的健康が完備した目的意識的状態です。」
 この定義を見ると、健康とは誰の目的意識的状態かは自明なので明示されていませんが、それは健康の主体である「わたしたち人間の」目的意識的状態に他なりません。言外の意味を考慮した筆者の最終的な試訳は以下のようになります。
「健康とは、単に病気や病弱でないというだけではなく、肉体的健康、精神的健康、霊的健康、そして社会的健康が完備したわたしたち人間の目的意識的状態です。」
 わたしたち人間が真の健康を維持するには、どうしたらいいのか?それには「人間とはどういう存在なのか」を問い、どうしてdynamicという言葉を「目的意識的」と訳すのかその理由を説明していきたいと思います。
[誕生と死によって区切られている人間の一生はいったい何のためにあるのか
 コーランにも人間は無目的に造られたのではなく、アッラーに仕えるためにあるとされています。教授と学生の対話形式で論を進めます。
学生:人間理解でわたしたちが、すぐに思い浮かべるのは「人間の人間たるゆえんは、霊魂である」という命題と「人間は理性的動物である」という命題です。このふたつの人間理解はどのようにして折り合いがつくのでしょうか。この折り合いをつけることがわたしにとっての人間理解になります。
教授:アリストテレスによれば、霊魂とは可能態において生命を有する自然物体を現実化する形相です。従ってすべての生命体はその形相である霊魂とその質料である物体との合成実体です。霊魂が栄養原理であれば植物生命体が、霊魂が感覚原理であれば動物生命体が、霊魂が知的原理であれば人間生命体になります。形相と質料からなる複合体の場合、形相だけがその存在の原因です。
学生:それなら「人間の人間たるゆえんは、霊魂である」という命題は、人間の存在の原因から見た人間理解ということができます。では人間の定義「人間は理性的動物である」という命題は、どんな観点から見た人間理解ですか。
教授:人間の魂は、動物と違って知性認識の働きを持っています。人間においては知性と理性は魂という同一の能力の異なった働きです。辞書によると、知性とは感覚によって得られた物事を認識・判断し、思考によって新しい認識を生み出す精神の働きです。理性とは、概念的思考の働きであり、実践的には本能や感情に支配されず、思慮的に行動する精神の働きです。
学生:理性が魂の働きなら、「人間は理性的動物である」という命題は、「人間は霊的動物である」という命題の中の魂の働きを思考に限定すれば得られます。動物の魂は感覚的魂ですから人間の定義の種差を「理性的」とせざるを得ません。「人間の人間たるゆえんは、霊魂である」という命題と「人間は理性的動物である」という命題は、人間の存在の原因から見た命題と人間の定義から見た命題の違いです。人間の個性と人格についての質問に移りますが、リバモアの他界した妻の霊魂が現れた実験からすると人間の個性と人格は肉体ではなく、魂に帰属することになりますか。
教授:『日本霊異記』の説話にも記されているように、死後肉体から抜け出した魂は、生前と変わることのない意識と記憶を保持しています。肉体に宿って何十年かの地上生活を送り幾多の経験を積んだ魂は、死によって肉体を離れても依然として地上時代の性癖、趣味、感情、愛等々をもっているとウォーレスも言っています。
さてここでもう一度WHOで1998年に提案された新しい健康の定義に戻ってみます。わたしたちの健康が静的に固定した状態ではないことを示す言葉dynamicは、「健康と疾病は別個のものではなく連続したものである」という意味づけから、字句を付加することが提案されたのだと言われています。この提案の真意を考えて見る段階にきています。
学生:わたしの親しんでいる『暮らしの中のことわざ事典』に「よい中(うち)から養生」「用心は前にあり」ということわざがあります。真の健康を現世で獲得することこそが最も大切であり、それは死後の生を充実させる手段ではなく、あえて目的と手段という言葉を用いるならば、それは最大の目的そのものだとわたしは思います。
教授:素晴らしい!それこそが真に顕幽両界にまたがる健康観というものです。では現世において「健康と疾病は別個のものではなく連続したものである」という意味をどのように考えたらよいのでしょうか。
学生:心身が同じことを繰り返すことが原因で、その結果がその人の生まれつきの性質のようになることを「習い性となる」と言います。心身によい習慣をつければ、それが健康の原因になり、悪い習慣をつければ、疾病の原因になります。健康と疾病という別個の相反する二つの現実態があるのではなく、それら二つの状態は人において一つの可能態として繋がっていて、その人の心がけひとつで、どちらかの現実態になるという意味だと思います。ただし心がけが不十分で習いが中途半端な性となれば、それに応じて、半健康状態が結果し、健康と疾病が連続した状態が現出することが考えられます。最後になりますが、死後の魂の健康については、どのように考えればよいのでしょうか。
教授:死後の新たな生活も地上生活の延長です。個性は少しも変化しません。急に精神的な性格や道徳性が変わるわけではありません。ただ肉体的健康と社会的健康に配慮する必要はなくなります。霊界通信によると、死後にはありとあらゆる身体の障害はすべて消滅しすべての人が完全な健康体になっています。精神的健康と霊的健康への配慮は残りますが、鈍重な肉体から開放された霊的機能を駆使しての新生活は必然的にスケールの大きなものになります。ただスペンサーの名言「人間は自分の行為が招来する当然の結果を体験させられるのが最良の教育である」ということは、来世でも変わらない真理です。
学生:ありがとうございました。わたしたち人間が真の健康を維持するには、どうしたらいいのか?それには「人間とはどういう存在なのか」を問い、どうしてdynamicという言葉を「目的意識的」と訳すのかその理由を理解しました。



主要な参考文献
渡辺昇一『人は老いて死に、肉体は滅びても、魂は存在するか?』海竜社 2012年
アルフレッド・R・ウォーレス『心霊と進化と』潮文社 近藤千雄訳 昭和60年
平川陽一『臨死世界の不思議な話』竹書房 1996年
コナン・ドイル『コナン・ドイルの心霊学』コナン・ドイル 近藤千雄訳 1992年
『聖書』和文/新共同訳 英文/ Today’s English Version 日本聖書協会 1999年
『暮らしの中のことわざ事典』第2版 折井英治編 集英社 昭和51年
以下はインターネットによる参考文献
『魂の重さの量り方』(レン・フィッシシャー著 林一訳
『スピリチュアルケア』フリー百科事典 ウィキペディア
『アリストテレスにおける〈種的形相〉と
〈魂としての形相〉』岩村岳彦