7 二つの猫のパラドックスとマクロ世界 超選択則が文献にあらわれてから、それらが洗練された整合的な 射影公準の再定式化をすることが見いだされた。 その新しい展開は次節で取り上げる。 ここでは、ミクロ世界とマクロ世界の本質的区別を導入しようとする動機づけを 議論することによって基礎をおきましょう。 この事に関して、はじめに定式化されたような量子力学は普遍的には適応できない という信念が存在する。 二つのやり方でこの事が述べられる。 (a)重ねあわせの原理は普遍的な正当性をもたない。 (b)超選択則を認めることによって、量子力学を改良しなければならない。 まず、マクロ世界の純粋に区別できる特徴を考察しましょう。 シュレディンガーは、EPRのパラドックスやその外の議論の考察で、 明らかに射影公準に依存した不気味な結論を指摘した。 それらは、量子力学が我々の住む世界の我々の直観的描像を 危機にさらしているように見えることに関するものである。 そういった理由で、彼の考察は、物理的非因果的変化ではなく、 測定の巨視的な性質と結び付けられるものとして、収縮や射影を 説明しようとする試みに対するよい序である。 まず、彼の有名な猫のパラドックスを与えて、 そのご、大人の猫が子猫の体を受け取るというこの問題の変種を考えましょう。 シュレディンガーは箱のなかの猫を想像した。 その箱の中には測定の相互作用とちょっと似た相互作用がある。 金属の箱のなかに猫を入れる。 その中に一緒に、次のような身の毛もよだつ新開発の機械を入れる。 ガイガー管のなかにほんの少しの量の放射性物質がある。 その量は、一時間のうちに原子のうちのひとつは崩壊するか、 ひとつも崩壊しないかどうかというぐらい少ない。 もし崩壊したなら、ガイガー管が反応して、青酸の入っている箱を壊す ハンマーを動かす。 この全体系を一時間放置すると、次のようにいうことができるだろう。 原子が崩壊してないんだったら猫は生きているだろう。 はじめの崩壊が猫を毒で殺す。全体系のΨ波動関数は 猫が死んでいるという部分と生きているという部分を等しく含んでいることによって、 この事を表現するだろう。 それらの自体の典型的性質は、次のようなものである。 indeterminacyは原子レベルから直接的な観察で決定できる大雑把な巨視レベルへと移る。 この事は、実在の描像としてそれほど素朴に、このぼんやりしたモデルを 我々に受け入れさせない。 それ自体によっては、それは全く明らかでないということはないし、全く矛盾もない。 ぼんやりとした焦点のあっていない写真と雲の写真との間には違いがある。 猫は二つの状態をもつ。ひとつは生きている|b1>、もうひとつは死んでいる|b2>。 この表現は表面的だがまちがってはいない。 それと結びついている系も二つの状態をもつ。 粒子はあるフィルターを通り抜けづに、検出器|a1>に吸収されるか、 別のフィルターを通り抜けずに別の検出器|a2>に吸収される。 系は状態|a1>*|b1>から始まって、孤立している。 状態の発展は次のように記述される。 U(|a1>*|b1>)=1/・2(|a1>*|b1>)+1/・2(|a2>*|b2>) そうすると終状態(Ψと呼ぶ)は、完全に相関した状態として記述されうる。 この終状態は、猫の条件を記述するオブザーバブルI*Bの固有状態ではない。 フォンノイマンの解釈により、次のようにいえるだろう。 もし系全体の状態がΨなら、その猫は (I*B)Ψ=b1Ψの場合にのみ、生きている。 (I*B)Ψ=b2Ψの場合にのみ、死んでいる。 しかし、終わりの状態Ψで、 それらのうちどちらも事実ではないことをすでに知っている。 今、箱を開く。見ることは測定である。 我々が見るのは、生きている猫か死んでいる猫のどちらかだ。 この例はかき乱されている。 なぜなら、それが猫にいたるとき、 我々が箱を空けたときに見るものは、すでにそこにあったとたしかに感じるからだ。 そうでないなら、我々が見たであろうほかのものが、そこにあった。 次のようなことが想像もつかないということはない。 箱を空けるまで、猫は生きていて、箱を空けたまさにその時、猫は死んだ。 しかし、猫が死んでいるというのが真ではないし、生きているというのも真ではない と考えることは、無理ではないにせよ、我々にはおかしいく苛立つものと感じる。 明らかに、この問題をより一般的にすることができる。 もし量子力学が無批判に適応されるなら、 巨視的対象が持ちうるいかなる状態の重ねあわせも許さなければならない。 この事から何が理解できるのだろうか? もし理論が制限なくマクロレベルに適応されたなら、マクロレベルの推論が可能に見える例を 次の猫のパラドックスの変種が示している。 それを、悪性でない猫のパラドックス。 Aを猫に関係するオブザーバブルとしましょう。 その固有値anはn才の体を持つという性質に対応している。 対応する固有状態|an>、|am>は直交している。 1才の子猫のからだと12才の大人の猫の体を同時には持つような猫は存在しない。 しかし、次のような奇妙な状態に関心がある。 x=1/・2|a1>+1/・2|a12> オブザーバブルIxの測定を考える。 フォンノイマンにそって、 これは、初期状態をx自体に射影するかxに直交する状態に射影する。 第一の測定器のあとにフィルターをおく。 そのフィルターは状態xを通すけれどもxに直交する状態は通さない。 そのあとに、Aの測定器をおく。 後者の結果は、フォンノイマンにしたがって、状態xを|a1>か|a12>に射影する。 この話のなかの射影にはすべて(舟注:各段階で)確率1/2が割り当てられている。 そうするとここで起こることは次のことだ。 そのプロセスが状態|a12>に入ってるなら、 猫がフィルターによって死ぬ確率は1/2で、 それが入っていた同じ状態であらわれる確率は1/4で、 子猫の体であらわれる確率は1/4である。 もし若返りの可能性に十分な値を置くなら、 その実験のより進んだヴァージョンにおいて、 それは、十分年を取った合理的な動物を出すことを選ぶだろう。 ここで課された仮定は、より有名な猫のパラドックスにおけるものと同じである。 それらは次のことだ。 この複合系の全体の孤立を確実にできる。 すなわち、ミクロ状態と同様にマクロ状態に対しても、 すべての重ねあわせが許されるということだ。 等しく明らかではないにせよ、ほかの含まれている仮定は次のものである。 それらの重ねあわせを区別するエルミート演算子は、オブザーバブルを表現する。 要するに、仮定されていることは、基本的な量子力学の限定のない応用可能性である。 このことすべては、我々自身の親しみある世界に応用するとき、 量子力学は巨視と微視のレベルで別々に応用するかどうかを疑わなければならないほど 奇妙に聞こえる。 このことを任意には主張できない。 まず第一に、その二つの間の境界線はあいまいである。 猫は巨視的で、ここの電子はそうではない。 しかし、区別する線はどこであろうか? 境界線は、一見したところ、人間の観察可能性をもちいて引かれる。 しかし、人間は物理学において特権的身分を持たない。 多くの素粒子を含んでいる巨視的対象は、物理的複雑さのより高いレベルにあるだろう。 値が人間の観察できるレベルで区別できるようなオブザーバブルは、 すべてのオブザーバブルで成立するわけではない制限を受ける。 それはそのやり方をすべきではないが、その世界はそのやり方ができるであろう。 この一連の考え方で示唆された測定問題のある解に目を向けましょう。 8巨視的性質と超選択則 測定のフォンノイマンの説明は、実際に次のように主張することによって、 改良され擁護された。 見掛け上の非因果的な遷移は、量子力学の範囲の外のことではなく、 巨視系の正しい取り扱いに対する自然な帰結として出てこなければならない。 一連の思考は、超選択則に訴えることを通じて、 もっともエレガントでうまくいく形になった。 実際に、この形において、射影公準は擁護できるようになるだけでなく、 ある意味では、欠くことができなくなる。 しかしながら、そこにはいくつかの憶測が含まれるように見える。 その憶測は現在さらなる実証を持たないし、その含意は完全には明らかではない。 この思考にそって測定を理解しようとする試みは、大雑把に次のような形の結論になる。 1.Yが巨視的対象−実際の測定器具のような−なら、  終状態φ=Σci|ai>*|bi>は混合状態Σci2I|a(i)>*|b(i)>と  経験的に区別できない。 Furryはおそらくいちばんはじめにこの可能性に言及した。 彼が次のように指摘したのは全く正しい。 もし、すべてのエルミート演算子がオブザーバブルを表現してるなら、 それらの二つの状態は異なった測定結果の予測を導く。 しかし、この「もし」は否定できる。 Danieri等は、次のような義論をした。 量子熱力学の発展は、近似として大きな系にたいして、結論1を指示する。 そのようなアプローチはBubによって、徹底的に批評された。 彼は次のことを明らかにした。 近似についての結果が、問題を生み出す概念上の区別を取りのぞくことはできない。 そのような場合において、a miss is as good as a mileである。 二つの状態は無限に、多くの自由度を持つ場合、文字通り厳密に区別できなくなる というのがHeppの証明である。 しかし、この証明はこの反対に対する有効なカウンターにはならなかった。 なぜなら、その場合は、大きいけれど有限の系の近似にすぎないからだ。 ベルトラメッティとカッシーニによって与えられた他のものを見てみよう。 それは、超選択則に訴えるものだ。 実際に、結論1はそのような規則を示している形を取っている。 なぜなら超選択演算子の概念は、次のようなやり方のことだからだ。 数学的フォーマリズムが何を許しているとしても、 ある状態を実際には重ねあわせることができないと述べている、 量子力学のなかで見いだされたやり方である。 それは、以下のことを主張するのに十分である。 これは、厳密に、猫の生き死にについての区別できる巨視的性質であり、 測定器具の針の状態についてのものでもある。 Bを器具Yに対する値を読むオブザーバブルとする。 それは、固有空間B0,B1,......と、固有ベクトル|b0>,|b1>,.....をもつ。 器具の基底状態として|b0>をとる。 今、超選択則を仮定する。 それは、それらの固有空間はコヘレントな部分空間であると帰結する。 言い換えるなら、Bは超選択演算子である。 器具が測定されるべき系と結びついているとき、 このことが複合系X+Yに対し次のことを意味している。 I*Bは、テンソル積空間HX*HYの超選択演算子である。 いかなる他の超選択則も効力を持たないとする。 そうすると隣り合っている部分空間は、初期状態x*|b0>をふくむHX*B0と HX*B1、HX*B2.......である。 もし、x=Σci|ai>なら、終状態は、どのコヘレントな部分空間にも入らない Σci|ai>*|bi>になる。 しかし、超選択則の義論で知っているように、それは、ある状態、 厳密にΣci2I|a(i)>*|b(i)>と同じ状態を表現している。 だから、我々は結論1を演繹する。 過去に多くの著者たちを悩ませてきたその結論の論理的性質は、 ある意味で、非難の余地はない。 しかし、この義論の基礎となっている超選択則のについての推論は検討すべきであろう。 それらは三つの問題を持つ。 第一のものはベルトラメティとカッシーニによって、 第二のものはR.I.G.Hughesによって、 第三のものはLeggettによって提出された。 この三つの問題はすべて、Bubの最近の回答のなかに述べられている。 しかしここでわたしは、第四の問題を提出しよう。 おそらく、これはこれらのなかで一番基本的な問題である。 第一の問題は次のようなものである。 この仮定された超選択則を説明するものはなんだろうか? それは、測定機器の巨視的性質に従っていると推測される。 もしそのような推測が際限なく許されるなら、 量子的予測を反証するということは決して起きないだろう。 たとえば、アスペの実験においてベル不等式が破られなかったとしても、 超選択則をもちいて、量子力学的記述を救えただろう。 超選択則をつかった推論は、整合性を取り戻すためのあまりにも安易で普遍的な道具である。 それがもっともらしかったとしても、その推測は特定の実証を必要とする。 ベルトラメッティとカッシーニは次のように問うた。 結びついている部分系のメカニズムは、 少なくとも非常にたくさんの部分系の極限として 複合系の超選択則の出現を引き起こすか否か。...... もちろん、純粋な量子的振る舞いをする部分系の複合の結果として、 超選択則の現れを予測する理論を持つべきである。 量子力学の古典的極限の深い理解の可能性を手にすることができるだろう。 この引用されている部分で、次のことが示されている。 複雑さから出てくる超選択則のあらわれの予測は、 たくさんあるということによるいかなる単純な外挿も含んではいない。 なぜなら、巨視的物体や物質はたいてい古典的系としてふるまう。 しかし、注目すべき例外も存在する。 「液体ヘリウムは巨視的であるが量子的振る舞いを示す」 この説明で満たされるべきギャップは、それゆえ、決してトリビアルなものではない。 第二の問題はより深刻である。 超選択則のはじめの議論において、我々は次のことを示した。 ハミルトニアンHがオブザーバブルなら− 実用的な量子力学のオブザーバブルとしてそれを考えるなら− コヘレントな部分空間の外での展開は、 シュレディンガー方程式によって記述される形のいかなるプロセスによっても、 不可能である。 その場合、HX*B0にある基底状態から器具の針の状態へのいかなる展開も存在しない。 それゆえ、測定問題のこの取り扱いは次のことを仮定しなければならない。 Hはオブザーバブルを表現していない。 このことが含意していること、もしくは、 量子力学の巨視系に対する応用可能性に関するその帰結は、明らかではない。 たとえ、ハミルトニアンが、オブザーバブルを表現できなくても問題のない条件が 存在するとしても、測定はそれらのうちのひとつではない。 第三のものは経験的事実に関するものだ。 フォンノイマンの第一の擁護と結びついていて、 射影公準は新しい経験的事実を加えるかどうかという問題に直面する。 その公準は確率計算のボルンの規則と理論を足したものから出てくるものを越えている。 より洗練された測定の理論を我々が持っているとしよう。 それは、フォンノイマンの解釈の規則から始まっているが、 超選択則から射影公準を導出しない。 このヴァージョンで、新しい経験的予測は存在するか? 超選択則は一般に経験的内容を加えるから、 こたえがyesであることを期待すべきであろう。 次のことは疑いない。 超選択則を持つモデルにおいて、一部の純粋状態が排除されているから、 ほとんどの想像可能な現象を埋め込むことはできない。 思い出せるように、 コヘレントな部分空間中にないベクトルは、純粋状態ではなく混合状態を表現する。 いわば、射影演算子ではない統計演算子で表現されるのと同じ状態である。 この結果として出てくる確率推論の不在は、確かに、測定結果の予測とは食い違う。 この場合、超選択則は完全には特定されていない。 しかし、それについて多くのことを知る。 それは、巨視的オブザーバブルの固有空間をコヘレントな部分空間のなかにおく。 測定の一般的説明として成功するために、 各々の巨視的オブザーバブルにたいして起こらなければならない。 そのオブザーバブルは測定の値を示すオブザーバブルとして機能する。 結局、マクロオブザーバブルのクラスは完全には特定されない。 しかし、我々はそれについて多くのことを知る。 それらのオブザーバブルの値は、人間によって観察できる対象における違いに対応している。 そのオブザーバブルは、マクロオブザーバブルの中になければならない。 数年前、アンソニーレゲットは次のような主張をテストするように作られた実験を提案した。 巨視的オブザーバブルの固有空間は、実際に、超選択則により、このやり方で分割される。 レゲットは経験的問題を次のように定式化した。 実際に、次のような巨視的系を準備することは可能であるか? それが、ひとつかそれ以上の数の、巨視的に区別される状態に入っていることができ、 そして、次の選択を我々に課している。 それが二つの状態のうちのどちらに入っているかを測定するか、それとも、 二つの可能性の間の干渉を観察するかである。 さらに、第二の場合において、 ひとつの区別できる状態にそれは入っていなかったであろうことを 証明できるであろうか? レゲットは、ボーアが第一の問いに否定的な答えを持っているだろうことを観察した。 しかし彼は、ジョセフソン効果の予測や、その効果についての進歩的な実験によって、 状況が劇的に変わったことを加えた。 第二の問題についてはベル不等式の証明から受け入れられる証明によって、 yesと答えた。 概念的に、ここでは確かに我々は可能性の領域の範囲内に住んでいる。 シュレディンガーは、たった一個の光子の放射が戦艦を沈めてしまうことに注目した。 光電素子における一個の光子の吸収をミサイルのスイッチを入れるのに十分なだけ 増幅することは十分に可能である。 そうすると、二つの系(ミクロとマクロ)の状態をつよく相関させることが可能なら、 あるマクロ状態(純粋なミクロ状態と相関している)を 実際に混合状態にかえる超選択則が存在しないかぎり、 巨視的レベルでの確率の干渉を検出すべきだ。 そうでないなら、巨視的レベルでの確立の干渉を検出するというアイディアには、 何ら概念的な不都合はない。; それは、まさに、ベル不等式のメッセージである。 関連している実験は進歩している。 議論に参加しているほとんどすべての人は次のように主張するだろう。 確率の干渉は検出されるでしょうと。 もしそうなら、 そして全てのマクロオブザーバブルに対しその結果が生み出されるなら、 射影公準の存在は誤った経験的予測を含意するでしょう。 たとえ予測が一致したとしても、レゲットから次のことを我々は学ぶ。 この測定の理論は、 基本的な量子力学とボルンの規則を足したものを解釈するだけではなく、 経験的内容を加える。 我々が望んでいるものは解釈である。 それは、そのような実験の結果と関係なく、解釈された理論が成立することを許す。 もし、そのような確率の干渉が検出されないなら、 マクロな状態が、超選択則によって分けられるであろうことを 確立したということができる。 このことは実験をもちいて理論を書くような種類の発見である。 科学におけるこの種類の多くの普通の進歩を我々は望む。 解釈される理論は実験を追い越すべきではない。 そして、反対の実験結果を適応させることができないようにそれ自身をデザインする。 このことは射影公準の根本における告発である。 この三つの問題は全て、ジェフリーバブによって提出された ここにある解の新しいバージョンで答えられている。 バブは無限の自由度を持つ量子力学的系として巨視的な系をモデル化することを提案した。 このことは単に可算次元のヒルベルト空間を用いることを意味しているのではない。 いかなる場合でも、埋め込みによって、 有限次元の中でモデル化されたいかなるものも、無限次元空間の中でモデル化できる。 ということを我々はすでに知っている。 No、バブはここでは無限次元ヒルベルト空間のdierct sumについて話している。 その各々の空間は系に関係するオブザーバブルの代数の別々の還元できない表記を与える。 しかし、系のマクロな状態をモデル化し、超選択則によって分割すると、 それらの空間の各々は、コヘレントな部分空間としてみなすこともできる。 バブが議論した単純な物理的モデルは、 無限にスピン1/2の系を1次元に並べたものである。 シュレディンガーの猫、もしくは象ですら、1025よりも少ない数の粒子からなる。 バブによって議論された例はasymptoticな理想化である。 このことは解として受け入れられるか? バブは次のことを示した。 超選択即はここで自然に現れる。 ハミルトニアンはオブザーバブルを表現しないが、展開はまだユニタリーである。 そのようなasymptoticな理想化は古典物理において非常に親しまれて用いられる。 レゲットに対して、次のことを彼は加えた。 彼は無限次元を持つ巨視系を排除しなかった。 このことは全て正しい。そして、ここで提案された理想化に口答えすべきではない。 その理想化は、以下の場合にのみ、集団的な振る舞いにおいて現れるものとして 巨視的なオブザーバブルをみなしている。 (where idealization.......into fiction. p270) 経験主義的観点はそのような反論を行なうのに適した基礎ではない。 しかし、この節で出てきた全ての種類のアプローチにたいする より基本的な疑いをわたしは持っている。 この種の解とここで述べられている重大な問題との間の非対称を見いだしたからだ。 それをバブの言い方より上手には述べられないだろう。 ポイントは次のことだ。 ボルンの規則における確率を理解するために、 理論的スキームの中にどこかで決定を持たなければならない。 我々がほしいものは、 確率と確定した可能性にたいして生み出されるカウントとの間の関係である。 測定の結果は確定する。 しかし、もっとも基本的な物理理論は、単に測定についてだけのものではない。 それは、物理系の振る舞いについてのものである。 確かに、文字通り理解されるなら、量子力学は、 電離層のなかのミクロなプロセスも予測できなければならない。のではないか? その唯一の予測は、ボルン確率を通した、測定結果についてのものだけである。 そうすると、断固として、量子力学の解釈が、特殊な巨視的レベルだけでの 測定相互作用にとどまるなら、 電離層のミクロプロセスで起こってることのいかなる予測も量子力学はしない と言わざろう得ないのではないか? 指摘すべき点は次のことだ。 我々に実際に関係ある予期の全ては、巨視系に関するものだ。 次のことは全く別のことである。 人間中心主義的にみて重要なレベルでのそれらの現象とだけ 確率を結びつけるものとして理論を解釈すること。 この引用した一節は、量子力学の測定に注目する全ての義論の背後にある 中心的な基本問題を示している。 確定した事象に理論の重要なコヘレントな確率を付与することを示すこと。 証明と描写 いくつかの歴史的要点を少し眺めたのち、 レゲットによって提出された実験を記述しましょう。 測定問題の超選択即を用いた解として、ベルトラメッティとカッシーニによるものと、 Kay-Kong Wanによるものが、独立に、1980年頃に展開された。 巨視的状態の重ねあわせが存在しないという示唆は、 いつごろからか、さまざまな形で文献に現れるようになった。 6章の8節で、ワンの超選択則をもつ量子系の記述を述べた。 これに対し彼は時間発展はユニタリーであるということを加えた。 ワンは、彼の解の中で、はっきりと、ハミルトニアンはオブザーバブルではないと議論した。 彼は平行している例を他にもおいた。 一般相対論のディラックのハミルトニアン定式化、 量子電磁気学のGupta-Bleurerの定式化。 しかし、測定相互作用に関して、このことについて、 我々がどの程度楽天的でいられるかは明らかではない。 ジョセフソン効果は巨視的変数の時間発展が微視的エネルギーによって 室温での原子の熱エネルギーのオーダーで、コントロールされるひとつの例である。 レゲットが注目したジョセフソン素子はRF SQUIDなリングである。 これはひとつのジョセフソン接合によって阻害されるバルクな超伝導リングである。 巨視的力学変数は、リング中の全電流である。 そのリングは、二つの縮重した状態を利用できる。一方は時計まわりの電流に対応し、 もう一方は反時計まわりの電流に対応する。 電流の大きさは数マイクロアンペアのオーダーである。 このことを巨視的であるとみなそう。 電流は、量子力学の出現以前に、古典的実験の文脈において、研究されている。 もし、ある時点で、電流の流れている方向を検出する実験をしたなら、 二つの結果のうちひとつがえられる。 時計まわり(+1)か、反時計まわり(−1)。 問題は次のようなものだ。 別々の時間tとt'で測定をして+1が二回見いだされる確率はいくらか? 関係するオブザーバブルをP(t)としよう。 普通に理想化すると計算された期待値は (1)<P(t)P(t')>=cos[Δ(t'−t)]である。 ここで、Δは系の固有共鳴周波数である。 全体系を超選択則に支配されない量子力学の系とみなすなら、これが期待値である。 式はP(t)とP(t')の間の相関を示す。 すなわち、t'−tが1/2周期分なら、 P(t)に対し値が+1という条件付きで、P(t')の期待値は、確実に−1である。 しかしながら中間の時点で(1/4の周期分のところで)状態が ±1固有状態の混合状態にあると仮定すると、我々は違った予測をえる。 それらの詳細を続けるよりも、 ベルの議論から受け入れられる一般的証明を見るほうが、有益である。 ベルの不等式で述べられるひとつの形は次のようなものだ。 (2)<P(1)P(2)>+<P(2)P(3)>+<P(3)P(4)>             −<P(1)P(4)>≦2 しかし、もし、隣り合っている時間の差を(π/4)Δとすると、 t=4とt=1の間隔が(3π/4)Δとなるので、 (3) <P(1)P(2)>+<P(2)P(3)>+<P(3)P(4)>−<P(1)P(4)>      =3cos(π/4)−cos(3π/4)      =3(1/・2)−(−1/・2)=4/・2=2/・2>2 それゆえ(2)すなわちベル不等式が破れる。