8  標準的解釈に対する批評 1解釈とはなにか? 量子力学の解釈の問題は、いまでも議論されている哲学的問題である。 この問題に対するスタンス: アインシュタインの実在主義、ボーアやハイゼンベルグ型のコペンハーゲン解釈 波動関数の非因果的収縮のフォンノイマンの公準、状態のアンサンブル解釈 これらの見方は、特定の厳密に展開された解釈を構成してはいない。 それらの答えを理解するために、我々はまず問題を理解しなければならない。 まず、次のことを尋ねなければならない。理論の解釈とはなにか? その問いの前に、順序として次のことを尋ねなければならない。理論とはなにか? 1章で後者の問いに対するいくつかの答えを見てきた。 意味論的見解に従うと、理論を与えることはモデルのファミリーを与えることだ。 このファミリーは、違った言語の違った言明で、 さまざまなやり方で記述されるでしょう。 そして、いかなる言語による定式化も特権的身分をもたない。 とくに、重要性は公理化にあるのではない。 理論は、いかなるトリビアルではない意味でも、公理化すらできない。 理論が実在にたいしてもつであろう二つの重要な関係がある。 ひとつは真理:モデルのうちのひとつが厳密な実在のコピーである。 モデルの各々の部分がなにかリアルなものを表現している。 そして、それらのリアルなものがモデルが表現しているやり方で関係づけられている。 もうひとつは経験的適切さ:モデルのうち少なくともひとつが、 すべての観察できる現象が正しくそれにおいて表現されているようなものである。 このふたつは理論に対する別々の重要な理論に対する同意の形である。 一つ目はそれが真であるという信念である。 もうひとつのは、単なる、それが経験的に適切であるという信念である。 理想的には、信念は理解を前提とする。 このことは、理論はある面においてのみ真であるという信念であっても真である。 だから、わたしたちは解釈の問題へと進む。 いかなる条件の下でこの理論は真であるのか? それは、世界がどのようになっていると述べているのか? このふたつの問題は同じものである。 それらの答えることが難しい理由は、わたしの見解では、 科学の議論はそれほど徹底して経験的適切の問題にのみ注目しているからだ。 結果として、理論についての科学的議論を読む哲学者は、基本的なレベルでさえ、 同意しようとしないし、実証主義の科学者を非難しがちで、よく誤ってしまう。 解釈の問題は、実際、科学の議論のほとんど全てのものをこえたものになっている。 現象についての理論は全体としての世界がどうなっているかをそれが述べているものの 一部をのぞいたものとして理解されるから、 その問題もまた科学者によって口を開けられる。 そのような問に対しいかなる答えを与えることができるか? そのような問に答えようと試みたとしよう: 量子力学によれば世界はどのようになっているのか? 問は、理論の内容を尋ねているが、 答えはある完全性を得ようと努力し、ほとんど必然的に外挿される。 そうすると、ほとんど必然的に、わたしの答えは理論の解釈である。 さまざまにわたしの答えを分類するでしょう。 量子力学のある側面をついてそれを非難するでしょう。 さらに悪いことに わたしの解釈に基づく量子力学が、理論の予測に加えて違った形の予測をするということを示して、それを非難するでしょう。 明らかに、解釈する試みは隠れた変数を導入する試みに似ている。 ちがいは、隠れた変数は標準的な量子力学と違った予測をするものを喜んで受け入れる。 この場合、量子力学の解釈を述べることはできないが、代わりとなる理論をもつ。 その理論は、うまくいったなら、 (a)今まで見いだされた結果について、実験誤差の範囲内で量子力学と一致し (b)新しい実験に関する量子力学の予測とは違った真なる予測を与える。 これは、経験上の成功に関することであるから、 科学者たちを興奮させるような唯一の種類の隠れた変数理論であろう。 他方、隠れた変数的な解釈は、量子力学それ自体とまったく同じ予測を生み出すもの。 この場合、主張される利点は次のようなものだ。 導入された隠れた変数は経験的に余分であるが、 世界がどのように量子力学が記述するようになっているかを示す。 逆説的に言えば、適切な解釈というのは経験的に余分な隠れた変数をもつHV解釈である。 これは次のことを意味する。 論理的原理として、理論の適切な解釈がひとつ以上存在できるとしよう。 そうして、同時に、解釈は理論をこえている。; 理論+解釈は理論それ自身よりも論理的に強い。( ) 解釈は元々の理論には見いだせない要素を導入する。 隠れた変数は何を意味するのか? 経験的に余分であることは、いかなる新しいまた今までと違った予測がでてこない ということを確かめるのを要求する。 そうでないなら、わたしたちは解釈ではなく別の理論をもつことになる。 2・非決定主義の二つの形 確率の計算のボルンの規則のなかにある、量子力学の状態のボルンの解釈は それ自体、理論の一部としてみなさなければならないということが完全に受け入れられるようになった。 当時、たとえば、状態を確率波とはちがった実在の媒介の波として考えるシュレディンガーの試みとは対局にあった。() しかし、後の解釈の問題は、どのように、その解釈が ボルンの解釈を超えているかということについてのものになった。 ボルンの規則が何を言っているのかを理解しようとすればすぐに、 その問題はあらわれる。 ボルン:yes-noオブザーバブルPが値1を生み出す確率は、状態がWなら、     Tr(WP)に等しい。 この言明はわたしたちに ある状態においてある測定プロセスを行なったという条件での、 事象のあらわれる確率を与える。 状態Wの付与が我々の無知の反映であったとしても、まず第一に 量子力学の非決定主義はこの確率が0でも1でもないという事実にある。 しかし、この事象とはなにか? 測定過程の間、わたしたちは、初めの状況が終わりの状況に変わるのを見る。 初めの状況は二つの部分に分けることができる。 関心のある系が状態Wにある。環境はある特徴をもつ。INと呼ばれる。 終わりの状況において、系の状態はW'に展開する。 環境は新しい特徴をもつ。OUTとよぶ。 そうすると我々は遷移をもつ。: IN,W → W',OUT この遷移は二つのやり方で非決定主義だろう。 我々はOUTに対する確率をもっていることを思い出そう。ほかの、実際には起こらなかった可能な遷移を描くこともできる。 IN,W → W'',OUT' そしてこれも確率をもつ。 非決定主義その1(非決定的出力): 初めの状況(IN,W)を仮定すると、終状態W'は完全に決定されている(W'=W'')。 そして、我々に与えられる確率は、系が状態W'にあるとしたときの、 特徴OUTの確率である。 非決定主義その2(非決定的状態遷移): 終状態を仮定すると、結果の特徴は完全に決定される。 (もしOUT≠OUT'ならW'≠W'') そして、我々に与えられる確率は、初めの状況が特徴INをもつときの、 状態WからW'への遷移の確率である。 三番目の立場も可能である。終状態と出力の特徴がお互いより独立で、 いくつかの確率が含まれる。 ボルンはわたしたちにただひとつの確率を与えた。 そうすると、わたしたちの立場を初めの2つに限定しなければならないように見える。 それらのどちらが正しく量子力学を表しているのであろうか? これは解釈の問題である。そして、たくさんの違った答えが与えられた。 ある人は非常にはっきりと「その1」を主張し、 ほかの人は「その2」を主張した。 後者はフォンノイマンの非因果的状態遷移(射影公準)を含む。 波束の収縮というのは普通このことをさす。それは、可能性から現実性へと起こった全ての遷移を指して、大雑把に使われていたとしてもである。 収縮のない解釈は「その1」を取る。 3測定では何が起こっているのか?フォンノイマンの回答 量子力学の解釈は測定の議論からはじめなければならない。理由は二つある。: 全ての経験理論のように、測定結果として報告された現象に関して説明可能となっている。 しかし、量子力学は、最も基本的な理論であるということも意図しているので、 測定の相互作用として考えられるプロセスもカバーしている。 そうすると、我々は、ほかの問題のなかで、深刻な整合性の問題に直面する。 第一の基本的な解釈の原理(ボルンの規則)は測定を用いて述べられている。 そして、測定は理論の応用領域にあるプロセスのひとつである。 それゆえ、不整合や循環論法の脅威は現実のものである。 測定の量子力学的理論の大半は、数学的な基礎に属している。 前の章で、フォンノイマンの解釈が注目している、フォンノイマンの測定の理論の特徴を端的に結論付けた。 系Xが純粋状態W=Ixにあるとしよう。ここでxは適切なヒルベルト空間Hxに属する 単位ベクトルとする。 次に、環境として、純粋基底状態Iyにある測定器具Yをとる。 初めの状況にあるX+Yは純粋テンソル積状態Ix*yにあるとする。 いまINは、X+Yは純粋状態x*yにある孤立系であるということにより、特定できる。 あるオブザーバブルが測定される。それをAとしましょう。 Hxの中の基底|ai>を固有ベクトルとしてもつとしよう。 値を読むオブザーバブルがある。それをBとしましょう。 Hyの中の基底|bi>を固有ベクトルとしてもつとしよう。 ある時間感覚でのこの孤立系の展開である測定プロセスは、次の性質をもつ。 (S1) U(|ai>*y)=|ai>*|bi> それゆえ、x=Σci|ai>なら、 (S2) U(x*y)=Σci|ai>*|bi> いま、もしINが、はじめに孤立複合系X+Yが状態φ=x*yにあると記述される性質なら、 OUTは、同様に、終りにX+Yは状態φt=Σci|ai>*|bi>にあると記述される。 密度マトリクスのリダクションによって、このことは次のことを含意している。 (a)XはWx=Σci2I|ai>にある。 (b)YはWy=Σci2I|bi>にある。 しかし、(a)(b)両者共でも、 次の完全な主張に含まれる情報を含んではいないということも含意している。 (c)X+Yは終状態φt=Σci|ai>*|bi>にある。 我々は次のことも強調しなければならない。 そのプロセスがたまたま(S2)の形を取っただけなら、 そのプロセスはAの測定ではないということを加えるまで、測定の記述は完全ではない。 実際の条件は次のようなものだ。 このプロセスを支配するハミルトニアンは、 対象のいかなる初期状態xをもつ基底状態yに対しこの形を保障しているものである。 この強い意味でわたしたちの記述を読むことによってのみ、 測定されるオブザーバブルAは一意に同一視できる。 それまでは、純粋に量子力学的記述である。 しかし、このこととボルンの規則をどのように結びつければいいのだろうか? 測定の現実の結果が、その測定の終りで起こることの記述に含まれている場合のみ、 あるつながりが存在するだろう。 次の形のある真なる主張が(も?)存在するということができなければならない。 (d)値を読むオブザーバブルBは値bkをもつ。 そうすると、このことは(a)−(c)と整合してなければならない。 どのように(d)は解釈されるべきか? フォンノイマンはこの問題を非常に明確に述べ、 それに答えるとき、次のことを合理的に考えた。 理論を展開する人が暗黙のうちに考えていることを定式化する。 実際に、たとえば、有名なEPRの論文を見たなら、 フォンノイマンが実用主義的なものとして取ったやり方で書いている作者を見付ける。 そして、EPRに答える大半の人もそれに添っている。 オブザーバブルが値を持つということをどのように解釈するかという問題に対する 次のような答えを定式化した。 (e)フォンノイマンの解釈の規則 系YがオブザーバブルBに対応する固有状態にある場合に限ってのみ、 系Yに関するオブザーバブルBが値bをもつ。 これは次のことを意味する。 Yは、Tr(WIBb)=1のような状態Wにある。 それまで、我々がこのことに課す唯一の解釈はボルンのものだった。 そのような状態において、Bが値bをもつ測定の確率は1である。 それらの条件の下でBが値bをもつということを矛盾なく加えることができるのだろうか? 可能な反対のひとつは 状態は、確率関数の集まり、すなわち、一種の測定結果の確率の数学的結論である。 もし、そのように述べるなら、無限後退に陥る。 「Bが値bをもつ」と「Bの測定が値bを生み出す確率は1である」を どのようにして等しくできるのか? 測定が値bを生み出すという主張 (それは、測定器のオブザーバブルCがcをもつという言明にに等しい)は、 他の測定が確率1で結果cをもつであろうということを意味するようになる。 現実≠可能なら、実際に起こることについての言明の意味することと もしそうだったら起こるであろうことについての言明の意味することを いつでも等しくできるわけではない。 しかし、はじめから、わたしたちは、 状態が単に条件確率の対応する集まりを決定するものであり、 それとは同一ではないということを許すやり方で、 状態を述べようとしている。 例として、 FBIや移民局のファイルを想像しましょう。 全ての人はある重要な統計によって表現されている。 しかし、もちろん個人をそれらの重要な統計を通じて同定することができても、 それと同一ではない。 フォンノイマンの解釈の規則は、たとえ論理的に我々に課せられていないにせよ、 整合的な付加である。 しかし、我々は第二の問題を持つ。 (a)−(c)によって記述される測定プロセスにおいて、係数ckが0と1ではない 重ねあわせをもったとする。 そうすると、もし、測定の終りで、測定器Yが還元状態WYで完全に記述されるなら、 あらゆるインデックスiに対しTr(WYIB|b(i)>)≠1であるから、 フォンノイマンの解釈の規則はBはいかなる値ももたないということを主張する ということに気がつく。 このことは、我々が解釈しようとしているまさにその主張である(d)と矛盾する。 それゆえフォンノイマンは次のことを加えた。 Yが状態WYにあるという主張は、せいぜい不完全なものでしかない。 実際、彼は次のように主張した。 (f)測定の終りで、Xが状態|ak>にあり、Yが|bk>状態にあるような あるインデックスkが存在する。 混合状態のある解釈において、(a)(b)とこのことは整合的である。 それは無知解釈である。 その解釈は多くの場合正しいように見える。 しかし、純粋状態にある複合系から、リダクションによって、 混合状態に到達するとき問題がある。 だから、実際の問題は次のようなものだ。 (f)は(c)−X+Yにφtを付与すること−と整合しているか? フォンノイマンはその二つは整合的ではないとみなした。 それゆえ彼は有名な射影公準を付加した。 (g)(S2)によって記述される測定プロセスの終りで、さらなる遷移 状態φtからある状態|ak>*|bk>への非因果的な遷移が存在する。 (h)φtから|ak>*|bk>への遷移は確率ck2をもつ。 すなわち初期状態xに対しAの測定結果akのボルンの確率 すなわちφtの対応する固有空間上への射影の長さの二乗。 非因果的遷移は、通常、波束の収縮といわれる。 この用語はシュレディンガーの波動力学フォーマリズムからでてきた。 フォンノイマンは整合性の問題に限定して、この遷移がどのように起こるかを 問わなかった。 彼の解釈を指示するために二つの議論が加えられた。 ひとつは射影公準はいかなる新しい経験的予測を生み出さないという趣旨のもの。 もうひとつは、即時繰り返し測定の現象が、射影公準を要請しているという結論に対するもの。 それら二つの議論の間にはある緊張が存在する。 もし、その現象が射影公準を要請するなら、 それなしでの経験的予測に関しての不適切さが存在しなければならない。 それゆえ、どちらかの議論がうまくいったなら 他方の議論は失敗しなければならないように見える。 彼の公準のフォンノイマンの擁護を見る前に、 彼が、非決定主義のその2を示しているとして量子力学を解釈している ということを見てみましょう。 フォンノイマンの解釈の規則と呼んだ原理(e)は次のことを主張している。 状態がなんであるかということが、オブザーバブルに対する値の全ての付与の真理値を 完全に決定する。 それに従うと、ボルンの規則においてあらわれる非決定主義は、 非決定的な状態遷移のなかになければならない。 一度(e)が与えられたなら、非因果的な遷移を仮定しなければならない。 この節で、測定についての問いの答えの概要をひとつだけ描いた。 フォンノイマンの解釈の規則がボルンのそれを議論するところである(e)から その選択肢がはじまることは明らかである。 ここで、フォンノイマンと同意するなら、次の論点は射影公準のあとにくる。 つまり、我々が一度(e)に同意したなら、次のことを示そうとすることだけができる。 非因果的遷移−シュレディンガー方程式で記述される外側にあるからそういわれる− がある理解できるやり方ででてくる。 そして、不整合も、新しい誤った経験的予測も導かない。 それゆえ、わたしは、まず、射影公準のフォンノイマンの擁護をみてみて、そのご、 他の擁護を見ていこう。 それは、特殊なマクロオブザーバブルという考え方や、マクロとミクロの区分などに うったえている。 次の章で、フォンノイマンの解釈に対する選択肢を提出しよう。 4フォンノイマンの第一の擁護:測定の整合性 フォンノイマンは彼の測定の解釈に対し2つの擁護をした。 それの間の問題は、ひとつが射影公準を経験的に空虚にする一方で、もうひとつは それに経験的重要性を与えることだ。 フォンノイマン自信のこの考えの曖昧さが、波束の収縮の その後につづく多くの議論を悩ませている。 孤立している複合系X+Yが、いま、観察者Zによって見られているとしよう。 明らかにこのことは孤立系をこわす。 たとえば、Zが箱を空け、器具Yの針が指し示す目盛りを見る。 このことも測定である。 フォンノイマンが印したように、二つのやり方で、状況をさかのぼって分析できる。 (X+Y)をZと相互作用することによって行なわれる測定の対象として みなすことができる。 Zの針は、値zkを指し示す。 この値は、あるインデックスkに対するX+Yの オブザーバブルA*Bの値(ak;bk)に相関している。 それとは別に、(Y+Z)を、Xを測定の対象とした測定器とみなすことができる。 もしCがZの値を読むオブザーバブルなら、 B*Cは(Y+Z)の値を読むオブザーバブルである。 しかしながら、k番目の結果の確率は、どちらの場合でも、ck2である。 これが、フォンノイマンの整合性の議論の本質だ。 ここで世界が別れても、我々は本質的に同じ予測を持つ。 その議論はGroenewoldによって、次のように明確化された。 オブザーバブルについて述べているにもかかわらず、主観的要素が導入される必要はない。 次のような系Xを考える。 系Xは時間taで状態xにある。時間間隔(ta,t)で器具M1=Yによる測定に (上での図式的議論のような)支配されていて、その後、 時間間隔(t,tb)の間、Xに関する器具M2によるオブザーバブルCの他の測定に 支配されている。 そのとき、我々は2番目の測定の結果の確率を二つのやり方で計算する。 (T)tで非因果的遷移が起きないとして、 M2による測定は状態WxにあるXに対して行なわれる。 (U)tで、射影公準にしたがった、確率ckでの純粋状態|ak>へのXの遷移が起こるとして、 M2による測定は、結果としてなった状態にあるXに対してなされる。 再び、どちらの場合も2番目の測定の結果の確率は同一であることが容易く分かる。 なぜなら、Wx=Σci2I|a(i)>だからだ。 さらに進んで、状況を記述する3番目の方法を導入することができる。 (V)tで状態ΦtにあるX*M1に関するオブザーバブルC*IをM2が測定するとする。 そして、再び、2番目の測定結果に関して同じ確率に到達しなければならない。 それは、定義によって、Wxが、オブザーバブルCに対する確率が 状態ΦtのC*Iの確率と同じである状態にあるからだ だから観察する環境と観察される系との境界線をどこに引くかに関係なく、 系Xに関するオブザーバブルの測定に関して、我々は完全な予測の整合性を持つ。 しかし、Margenauが明らかに指摘したように、 この整合性の証明は、経験的に余分な証明である。 仮定(T)(U)に関する測定結果の予測が同一であるから、 記述されている二つの状況は、系Xに対して為される測定だけでは、区別することはできない。 それゆえ、彼は次のように結論付けた。 射影公準の否定は、量子力学から、予測する力をまったく奪わない。 下に示すように、この結論は限定されなければならない。 それを我々が認めたなら、反論は次のようなものになるだろう。 奪われるものは予測ではなく説明や解釈だ。 測定がある結果をもつということがいかなることを意味するのか? 上で議論したように、射影公準は解釈の要請に対してのフォンノイマンの答えによって、 実用的に我々に課されているものだ。 だから、綿密な調査をフォンノイマンの解釈の規則に向けなければならない。 Margenauはこのことをみて、次のように明確に述べた。 射影公準を一度拒否すると、新しい問題に直面する。 測定で何が起こっているのか? 射影公準の付加が、ボルンの規則をこえた新しい予測をするかどうかの問題についての 最後のことば。 David Albertが強調したように、 非因果的遷移が起こるか起こらないかに依存して、予測が違っている オブザーバブルが存在する。 φtから|ak>*|bk>へと遷移するなら、部分空間[φt]への射影によって表現される 測定は、遷移の後にではなくその前に、値1を確実に生みだす。 たとえ、我々が遷移がいつ起こったかを正確に知らなくても、 我々は、多くの測定を実行することができる。 その測定の結果は、この予測を指示したり確証しなかったりする。 そのことはこの文脈では重要である。 8節で次のことを見る。 射影公準の話をもっともよく洗練したものは、全てのハミルトニアンが オブザーバブルを表現してるわけではないということを含んでいる。 アルバートの主張(この種の解釈におけるテスト可能な予測が存在しなければならない) はそれにもかかわらず成立する。 この否定があまりにも明らかすぎてテスト可能ではないからだ。