4 謎:全体主義はどこへ行くのか? すべての量子力学の解釈はある性質を持つ。 それは、この理論の明確な非古典的性質である。 そのお話の修正は、うまいことそれを古典的に聞こえるようにはできるだろう。 しかし、何かパラドックスがあるのではないかという雰囲気は取りのぞけない。 様相解釈のコペンハーゲン型においては、その世界描像を非古典的にしている 三つの性質がある。 ひとつはすでにのべた。 オブザーバブルがはきっりしない値を持つ可能性がある。 すなわち、背反律の誤りである。 他の奇妙な可能性は、測定が為されていないときに起こっていることについてことである。 それは次の節で議論しましょう。 ここで議論することは、量子力学状態の全体主義を オブザーバブルとその値に拡張するやり方である。 同じ全体主義がすでに3章で議論され、古典確率において見いだされている。 我々の解釈の利点のひとつは、わたしがオブザーバブルの同一性と呼んだ原理である。 それは次のことをいっている。 もしオブザーバブルが同じエルミート演算子によって表現されているなら、 それらは全く同一のオブザーバブルである。 このことは、モデルの可能な状況をみることによって示される。 値の状態はヒルベルト空間中のベクトルで示され、 そのベクトルが固有状態のひとつである場合にのみオブザーバブルは値を持つから、 オブザーバブルに対してそれ以上のことは何も存在しない。 単一の系を含んでいる状況のモデルを見るとすると、 次のようにこの原理を言い換えることができる。 1.オブザーバブルの同一性(第2弾): オブザーバブルAとBに対する測定結果の確率が、 AとB両方に関係する系のすべての動的状態に対して同一なら、 A=Bである。 物理系を参照することは次のように置き換えられる。 オブザーバブルは与えられた系に関係しているかどうかは、 その(動的)状態空間にのみ依存する。 そうすると、それの代わりに、我々はそれをさすことができるであろう。 次に明らかにする推論に対して注意深く行きたい。 今、全体主義に対する考察に目を向けて、 複合系に対し言明1が何を含意するかを問う必要がある。 状態Wにある系X+Yの要素Xに割り当てられている還元された状態#Wは、 次の式を通した定義によって決定されている。 #Wは、Xに関するすべてのオブザーバブルAに対し Tr(A#W)=Tr((A*I)W)であるような状態である。 HXとHYは、各々XとYに関するヒルベルト空間である。 そうするとHX*HYはX+Yにかんするヒルベルト空間である。 「すべてのAに対して」という量化は、 HX上のすべてのエルミート演算子に対するものである。 そして、IはHYの恒等演算子である。 どのようにして原理1がAとA*Iにどのように適応されるか? 我々は二つのオブザーバブルを本質的には同一であると考えたくおもう。 なぜなら、それは、それ自体によるモデルXの振る舞いに対するものか、 大きな系の一部としてのものかの選択であると感じるからだ。 しかし1はAとA*Iには適応されない。 なぜなら、それらは同一の系に関するものではないからだ。 たしかに、ボルン確率においてそれらの間の密接な関係がある。 系Xに対する測定と、系X+Yに対する測定という各々の条件付きで、 AとA*Iに対する測定結果の確率は同一である。 しかしそれは原理1で議論されたような、同一の等価な関係ではない。 このことの重要性は、より一般的な次の問いの文脈であらわれる。 XとYに関係するAとBに対するjoint確率はA*Bに対しての確率に どのように関係づけられるのか? 記すべき第一のことは、一般には次の結果の間には一対一対応は存在しない。 (A*B)(|a>*|b>)=ab(|a>*|b>) なぜなら、abは一般には対<a,b>の一対一対応を示してはいないからだ。 別々に取られる測定結果の予測も関係づけられていない。 状態Σcab|a>*|b>にあるX+Yの二つの要素に対するAとB測定に対する、 結果a'とb'の確率は、A*Bの測定の結果a'b'の確率が なんであるかを教えはしない。 <a',b'>←→a'b'の対応が一意ではなかったとしてもである。 係数cabにおける相互参照は相関を決定する。 その相関は、二つの端点の確率から離れては読まれることはない。 様相解釈の詳細とは別に、 我々は次の区別をぼやけさせないように注意しなければならない。 A、BのようなオブザーバブルとA*B、 A*I、I*Bのようなオブザーバブルとの間の 区別である。 状態の全体主義が値の全体主義として再び現れるのを見るために、 次の質問を考察しよう。 2.次の文で定義できるオブザーバブルA&Bが存在するか? Aが値akを持ち、Bが値bmを持つ時に限り、A&Bは値akmを持つ。 ここで、少なくとも、km→akmは一意の対応でなければならない。 AとBが別々の系XとYに関係し、A*BがX+Yに関係する時、 実証する実例が出てくる。 我々は次のことを持つ。 3.A*Bの測定で結果がEの中に入る確率は、 AとBのjoint測定に対しakmがEの中に入るような 結果akとbkの確率に等しい。 1〜3をまとめると、次のように結論づけなければならない。 A&Bのようなオブザーバブルが存在するなら、 A&B=A*Bである。 この事は、その様なオブザーバブルが存在しないことを示している。 なぜなら、X+Yが創刊している純粋状態φ=Σci|ai>*|bi>にある事例でも、 AとBがともにはっきりとした値を持つことが十分に可能であるからだ。 しかし、X+Yは純粋な動的状態にあるから、その値の状態は同一である。 それゆえ、いくつかのci2が0と1の間にあるなら、 A*Bははっきりとした値を持たない。 問い2は次のように答えなければならない。 一般にはNo! A*Iが値akを持ちI*Bが値bmを持つ時に限りA*Bは値akmを持つ という原理に対する同様の障害はもちろんない。 なぜなら私たちの例では、その三つのどれもが、 はっきりとした値を持たないからだ。 これは論理的なことであるが、おそらく読者は驚くであろう。 どのようにして、AとA*Iがその様な違った値を持つのか? しかし、奇妙な実験結果を想像しなさいといってるのではない。 このなぞから出て、本当の経験的問いに移った時、それは消えるだろう。 これを見るために、次のようにしよう。 AとA*Iが同時にXとX+Y各々に対して測定されるとしよう。 この事は(X+Y+Z+W+V+.....)の様な大きな系の一部であるということを、 含意している。 ZはXに対してAを測定し、WはX+Yに対してA*Iを測定し、 Y自身もXに対してAを測定するということが考えられるだろう。 問題は次のようなものだ。 測定の結果が一致するか? その確率を得るために次のことを仮定しなければならない。 その様な一致が存在するかどうかを見るために、 (X+Y+Z+W)の状態に対して、 Vによる更なる測定が為されなければならない。 わたしの主張は次のようなものだ。 この最後の測定は確率1で結果yesを持つということを理論が予測する。 議論を単純にするために、次のように仮定しよう。 Xは次のような状態にある粒子であるとし、 x=(1/√2)(|+>A+|−>A) Yは基底状態yと値を示すオブザーバブルBをもつAの測定器具である。 |+>A*y → |+>A*|+>B |−>A*y → |−>A*|−>B Zは基底状態zと値を指すオブザーバブルCを持つ測定器具である。 Cの固有値はレジスターが一致しているなら1で一致していないなら0である。 |i>A*|j>B*z → |i>A*|j>B*|δij>C もちろんすべての場合において展開は線形である。 起こっていることを見てみよう。 x*y*z→(1/√2)[|+>A*|+>B+|−>A*|−>B]*z      =(1/√2)[|+>A*|+>B*z+|−>A*|−>B*z]      →(1/√2)[|+>A*|+>B*|1>C+|−>A*|−>B*|1>C]      =(1/√2)[|+>A*|+>B+|−>A*|−>B]*|1>C 言い換えると、答えはイエスで確率1で一致している。 AとA*Iに我々のモデルで違った値を取ることを許す奇妙な全体主義は、 測定の文脈の外側でのみ姿を現す。 言い換えると、姿を現すことの確率は0である。 このことが、実際の場面で、AとA*Iの間の違いを無視できる理由である。 5 謎:規則性の背後にカオスはあるか? 量子力学は、測定が為されたという条件の下での、測定結果の確率に対する 確率のみを与える。 これはあまりにも貧しい。 それは、哲学者にとっても、経験主義やさらには実証主義者にしか見えない。 しかし、それは疑わしい。 少なくとも、我々の今の解釈では、 プロセスが、意識を持った観察者を参照しないある物理的条件を満足するなら、 それは、測定である。 参照するものは巨視的である必要すらない。 しかし、まだ問いが残る。: 測定が為されない時、何が起こりうるか。 我々の解釈に基づく答えは次のようなものだ。 何でも可能である。 もちろん、「何でも」というのは、論理的に考えられるもの すべてということを意味しない。: 上に書き記したコペンハーゲン原理に従うと、 いかなる値付与命題も、それらがともに確実になる (ボルン確率が1であるという意味で) 事ができない限り、ともに真ではありえない。 この事は現実に起こることの非常に弱い制限である。 測定結果が現れる確率が0であることも、まだ、現実に起こることを認めている。 これは、確率0が厳密に不可能であるということを意味しないからであり、また、 ある環境下でボルン確率1を持つことが、 あなたが考えうる系やプロセスで現実化されるすべての環境下で ボルン確率を持つことを必要としない。 特定の事理において、系が持ちうるすべての動的状態においては 見出される必要としない相関を、その動的状態がもちうるであろうからだ。 この事を、古典的統計論で起こるであろうことと、 注意深く比較すべきであると考える。 それが与える確率は、測定という条件付きである。 そして、それは人間中心的に解釈されない一方で、 それはまだ限定されている。 さらに、現実の値のフィードバック無しに、 確率は、量子力学的動的状態に埋め込まれて、展開していく。 確率を展開する古典的な例がある。 わたしがくり化しサイコロを振る。 サイコロははじめ公平だけど、その後あるやり方で偏ってくる。 p[n,i]を、n回目にiの面が出る確率とする。 各iに対し、p[1,i]=1/6とする。 p[(n+1),i]=ip[n,i]/T(n) ここでT(n)は必要とされる規格化の項。 今我々はこの世界の二つの記述を持つ。 その1:その確率分布の決定主義的な展開。 その2:トスの結果の現実の系列。 論理的にいうと、後者は1と6の間の整数で構成されるどんな系列でもよい。 しかし、可能な結果の系列のこのクラスは、帰納化された確率測度を持つ。 大雑把に言えば、大きい数字の面が連続的により出やすくなる。 しかしながらその「機構」は 先ほどの記述の「その1」、すなわち確率の時間発展の中にのみある。 量子力学の複合系の波動関数の時間発展を勉強すると、 系の一部分に対する、他の部分によるあるオブザーバブルの測定として あるエピソードが扱われる。 そこでは、ボルンの規則が、事象に対する確率を与える。 系の全体の履歴は二つの部分からなる。 (a)前に述べた、時間発展している量子力学的状態 (b)現実の結果の事象の系列 論理的に言えば後者は、問題となっているオブザーバブルの 測定される可能な値のいかなる系列でもよいだろう。 しかし、もちろんそれらの系列に対して、帰納された確率測度を持つ。 わたしの古典的例において、次のことを明らかに含意している。 確率の展開は現実の値とは独立である。 もし、続けて同じ値が出るように作られたサイコロ (舟注:前に出た値がもう一度出てくることが起き易いようなサイコロ。 1が出たらその次の回も1、2が出たらその次の回は2、.......。) だったなら、どうなるだろうか? そうすると、確率の展開と結果の系列は相互依存する。 類推的に、量子力学において測定とみなされているプロセスが確率を変える。 と考えるべきではないか? たとえば、もし、わたしが測定器で、あらかじめ、 赤い光を見たらピアノ演奏者を拳銃で撃つと決めていたとすると、 どうなるだろうか? そうすると、現実の値の現れが、次に何が起こるかという確率に 影響しているのではないか? ここに誤りが存在する。その相互作用は、 孤立系全体の一部である測定される系からはなれて、 測定される系を測定される系自身で考えるなら、 その相互作用は測定される系に影響を与える。 しかし、もし、全体系の状態の完全な展開を持っているなら、 測定として内部のエピソードを記述することは、 何も加えはしない。それは単なる分類である。 たとえば、フォンノイマンの即時測定の要求を考察すると、 次のようになる。 同じオブザーバブルの二回の測定の即時繰り返しとみなされる エピソードを持つ系の完全な展開と、 二つの結果が一致するかどうかを確かめる測定についてはどうであるか? その結果に対する確率的予測は何であるか? 答えを得るために、それが起こっている系全体の波動関数をみてみよう。 ボルンの規則は次の推論を許す。 我々は確率的な確実さ(確率1)を持って、二つの値が一致することを予測する。 ここで、我々の直感は我々の演繹に対して宣戦布告している。 彼らは主張するだろう。 「三番目の測定結果の確率が、実行されたならいくらになるかを知りたいのではない。 我々は、単純にはじめの二つの測定がなされた時、 その二つの確率が一致するかどうかを知りたいのだ」 この問いはある前提を持つ。: いわば、もし、量子力学が完璧であり正確であるなら、 量子力学は我々にその様な情報を与えるべきだ。 言い換えると、理論は測定の確率以上のものを与えるべきだと仮定されている。 この仮定は、物理学から出てくるものではなく、 何処か他のところからやってくるものだ。 それ自身の独立した正当化を持つなら、 それは、解釈に対する適切な基準として課されるだろう。 しかし、そうではない。 この直感との戦争は、非常に深いところにあり、 観察者として含まれる我々自身を含む思考実験ほど明確なところには現れない。 この領域においては、かなり鋭い思索者でさえ、哲学的明快さを置き去りにし、 原始的な心身二元主義や、素朴な物質主義に後退してしまう。 その世界の仮定された記述全体において、また、その歴史全体において、 我々の行為や観察は、他のプロセスと同じように現れなければならない。 普遍的お話をもつということはじめの仮定は、次のことを含意している。 自由な行為や、意識を持つ観察者としてデザインされたそれらのものは、 他に仮定された記述によって既に完全に含まれているあるエピソードの 分類でしかない。 その時もしわたしが次のことを仮定したとする。 私自身がプロセスの外にあって、系の状態を直接報告できるとしよう。 それはさも私が目的論の望遠鏡を持っているかのように。 そうすると、わたしは普遍的お話の中に含まれない何かが存在していると 仮定していることになる。 しかし、はじめの仮定によって、それはすべてを含んでいる。 この結果はつじつまが合わない。 down-to-earth 問題がここにある。 もし測定結果の確率が展開している状態によっておかれるが、 結果は展開に対しフィードバックの入力を与えないなら、 我々はカオスの存在を期待すべきではないのか? 次のような日常生活の測定結果を想像しなさい。 窓の外を見て、二台の車が衝突してるのを見た。 つぎに、二人のドライバーがお互いに身振り手振りを使って何かしている。 野次馬が集まる。パトカーが来て、事故現場でとまる。 もし、各々の時点で可能な事象の確率がその時の状態全体で与えられるなら、 非常にしばしば、結びつきのない系列を見ることを期待するべきではないか? たとえば、交差点の真ん中で車が一台斜めに停まる。パトカーが来る。 群衆が集まる。他の車がスピードを上げてきて、はじめの車にぶつかる。 その外にも奇妙な系列は想像できる。 シュレディンガーの猫においても、わたしが上で与えた説明は、 デバイスのトリッガーを引くことと箱を空けることの間で、 ある時は死んでいてある時は生きている猫と、論理的に比較できる。 繰り返し測定についての、 はじめのポイントのより複雑なバージョンがここにある。 ここでは、我々は時間を超えた相関を持つ。 我々は同時相関についての同じような質問をするだろう。 アスペの実験では、そのフィルターの方向が平行である時に 光子が通過する確率は50%だ。 なぜ、観察される相関が存在するのか? 答えはどちらの問いに対しても同じだ。 その系の全体の状態を仮定すると、相関していない結果の対の確率は、 0か無視できる程度のものである。 証明と描写 様相解釈と、バレンティーのアンサンブル解釈と、 エヴェレットの多世界解釈との間には重要な違いがある。 最後のものは次のように言っている。可能な測定結果はすべて実在だ。 その時点で、世界は、可能な測定結果と結びついた多くの実在世界に 枝分かれする。 結果として、非決定主義は見かけ上の問題でしかない。 実在は、その選択肢を選ぶのではなく、それらすべてを含んでいるのである。 起こったことについての我々の記憶や見解を、 選択肢の枝の一つに属しているとして、分類することを要請している。 第一の違いは哲学的なものでしかない。 様相解釈は、選択肢の結果のうち一つだけが実在である。といっている。 しかし、加えて、選択肢である可能な系の履歴は、別々に同定される。 様相解釈において、系が全体として孤立していて、純粋状態から始めるなら、 状態は純粋のままで、系全体に関するオブザーバブルの値はその状態で 完全に決定されている。 そのレベルでは非決定主義は存在しない。 しかし、各々の部分系もまた、状態を持つ。 (それは密度マトリクスの還元によって見出される) そこで、非決定主義を見る。 なぜなら、各々の系に関するオブザーバブルの値が、 その混合状態の要素の一つに対応するからだ。 このやり方で、様相解釈は混合状態の無知解釈に似ている。 明らかに全体状態の全体主義は、現実に起こることに対する ラジカルな全体主義を導入する。 全体系に対して実際に真であることは、いかなる面でも、 部分系に対して真であることに関して付随してはいない。 多世界解釈において、世界の枝分かれは、重ねあわせとして書かれる 全体系の要素と結びついている。 この事は非常に奇妙な性質を導入する。 なぜなら、重ねあわせ−混合状態ではなく−は、 可能世界のモデルにおいて我々が見る選択肢の結合ではない。 エヴェレットが導入した相対的状態の考え方は、解釈にある奇妙な非対称を導入する。 アンサンブル解釈は、物理学者からは共感を持って見られてきた。 それは、フォンノイマンの解釈とは大きく違う。 とくに、バレンティンによって展開され擁護されたものはそうである。 この解釈に従うと、量子力学はいかなる個別の系も特徴づけはしない。 そうではなくて、同じように準備された系の集団やアンサンブルの統計的性質を 特徴づけるものである。 この種の解釈にも沢山の型がある。 バレンティンの動機は、明らかにフォンノイマンの解釈に対する不満、 特に射影公準に対する不満から出てきている。 様相解釈は状態を個々の系に帰属させる。 しかし、それにもかかわらず形式的には、一種のアンサンブル解釈である。 すくなくとも、このことは、様相に対する標準的な意味論ではそうである。 この事例において、そのアンサンブルは物理的に似た系の集合ではなく、 仮定された系が通るであろう道筋の集合である。 各々の要素は別々に形作られた同じ系である。 すなわち、オブザーバブルに対しての違った値によって特徴づけられるが、 同じ動的状態を持っている。 なぜなら、動的状態は、その系が通るであろうすべての違った道筋に 共通なものを特徴づけていが、どれが現実かを指し示しはしないからだ。 しかし、アンサンブル解釈は、いつでも、集合に関する統計的命題に対して 試みられている。 この章で扱った様相解釈において、アンサンブルが属している 測定相互作用の終りでのアンサンブルの統計的分布とだけしか、 動的状態は結びついていない。そして、他の条件ではそうならないだろう。 様相解釈とアンサンブル解釈の直感的同意点は、 混合状態Wの場合によく見られる。 この様相解釈に基づくと、状態Wにある系が通るであろう道筋の集合は、 次の選択肢の集合全体で表現される。 {<動的状態W,値の状態y>:yはWのイメージ空間中にある} これは、他の解釈におけるアンサンブルに対応する。