9    量子力学の様相解釈 1様相解釈 フォンノイマンの解釈は 値のオブザーバブルへの付与をどのように読むかを私たちに教えてくれる。 :それらは状態の分類である。 ちょうどわれわれの時代以前の近代科学において為されていたように。: 1・Bの測定が結果bを確実に持つ時のみ、オブザーバブルBは値bを持つ。 これは、古典的で、正しいように見える。 しかしこの事自体は疑わしく思える。 なぜなら、古典的な世界描像において、測定することは単に見ることだからだ。 系を攪拌することなく、測定者がそこに組み込まれていないがごとくにである。 そして、次のことも仮定している。 あらゆる時点でのいかなるオブザーバブルに対しても、 正しい測定によって見られる事が確実な一意の値が存在する。 これはすべてよさそうであるが、測定が不確実な結果を持つ状態を許すと、 この描像において何が起こるか? フォンノイマンはラジカル答えを与えた。: Bの測定の結果が不確かな結果を持つなら、Bはいかなる値を持たない。 その答えを維持することは可能である。 しかし、言明1の一見したところ持っている古典的見かけは疑わしくなってくる。 それは少しも古典的ではない。 なぜなら、確実性のある特殊な場合を除いて、 測定されないオブザーバブルは値を持たないといっているからである。 そうすると1の古典的な見かけはそれを受け入れる理由として 引き合いにだすべきではない。 ちょっと立ち戻ってみて、パート1で展開した大きな展望における 状態とオブザーバブルを見てみよう。 状態という語は古典力学などでなじみのある語である。 古典力学のバックグラウンドを元にして、 次のことを知っているなら状態が与えられるとされている。 (a)全てのオブザーバブルの値 そして、状態を知ったなら、 次のことについて知っているべきことを全て知っている。 (b)系をそのままにしたときと系が相互作用したときにどのように展開するか。 ここで、もちろん相互作用には測定も含まれる。 オブザーバブルが単に値を持つものと仮定し、 その時間発展がそれらの時間が何であるかということによって 完全に決定されていると仮定するなら、 (a)と(b)を分ける必要はない。 しかし時代は変わった。 我々は注意深く、そして、状態のふたつの概念、 上記の役割の各々を区別しなければならない。 値の状態:どのオブザーバブルが値を持つかということと、      それらが何であるかということを述べることによって      完全に特定される 動的状態:孤立しているときの系の発展の仕方と      相互作用しているときの系の発展の仕方を述べることによって      完全に特定される 測定は相互作用である。 そうすると、測定結果の確率の予測は動的状態の役割である。 動的状態の役割は大事なものである。 このことと同じ概念的区別を表す他のやり方は、 2種類の命題を区別することである。 値付与命題 :<m,E>は次のことをいっている。        オブザーバブルmはEの中に現実に値を持つ。 状態付与命題:[m,E]は次のことをいっている。        状態は、mの測定をしたなら、        Eの中に値を持たなければならないようなものである。 それらの表記の間の関係は次のようなものである。 値の状態は値付与を真にするようなものであり、 動的状態は状態付与命題の真理値を決定するものである。 (一般に、[m,E]の形をしていない他の状態付与命題も存在するだろう。 動的状態は他の種類の情報も運ぶだろう。 証明と描写における混合状態の議論を見よ。) フォンノイマンの解釈の規則を拒否することは、 値付与と状態付与の命題を等価としてしてみることを 拒否することである。 前の章で見た非常に密接な論理的構造のために、 このことを一度否定すると、 全てのことが違って見えるだろう。 細かく検討する準備として、 測定−特にフォンノイマンの測定−について 我々が、今。述べることができるであろうことについて 大雑把に直観的に見てみよう。 次のようにしましょう。 系Xに関係しているオブザーバブルAの測定の結果がbであるとすることは、 値を読むオブザーバブルが値bをもつとすることである。 しかしXがAの固有状態にあるとは推論しない。 だから、複合系X+Yの純粋状態Σci|ai>*|bi>は、 対応する混合状態と同一ではないし、そうなることもない。 しかしながら、系がいかなる状態にあるかということの 問題にかんするものとして、測定結果を考える。 このことは次のことを示唆する。 [m,E]は<m,E>を含意している。 すなわち、状態がmがEの中に値を持たなければならない様なものなら、 mは現実にEの中に値を持つ。 より一般的に、オブザーバブルがいかなる値を持つかについての情報から、 統計的な適合を求めることによって、状態を逆推することができる。 そのような推論は、統計的なので、たくさんの回数の実験を要求する。 このやり方で次のように結論づけることが可能である。 あるソースや準備の手続きが、状態Wにある系を生み出す。 アンサンブルにある系に状態Wを付与することは可能である。 しかし、一つの系がこの状態にあるということを決定することは不可能である。 最後に、[m,E]が真でないとしても、 すなわち、状態が、mがEの中に値を持たなければならないようなもの ではないとしても、 mがEの中に現実に値を持つことはまだ可能である。 これは、可能から現実への真なる遷移である。 8章の2節を見ると次のようなことが書いてあります。 このことは、量子力学的な測定を非決定主義その1を持つものとして 考えることを許す。(非決定的出力): IN,W → W',OUT この図式において、INとOUTはオブザーバブルの はじめと終わりの値(値の状態)で、WとW'は動的状態である。 WからW'への展開は、シュレディンガー方程式に従って、 非因果的なジャンプや収縮はなく、決定主義的である。 しかし、W'は、可能でもっともらしいOUTの性質を教えるだけであって、 それを完全には決定しない。 この描像において、INはいかなる予測上の役割も演じない。 オブザーバブルの初期値の性質は、せいぜい、 初期状態が何であるかということの、兆候や手がかりでしかないだろう。 予期や未来の性質は、それがいくらか決定されうる様な部分的範囲で、 全体系の動的状態Wだけで決定される。 現象の非決定主義を認めるために、 値の状態が、動的状態によっておかれた範囲内で、 予測し得ないように変化することが許されなければならない。 そうすると、オブザーバブルの現実の値の経験的意義はないか? それらは、関係している動的状態の記述に加えられたとしても、 予測力を強めることはない。 ある意味において、それらは経験的に余分である。 しかし、それらを取ることによって、 それらは動的状態の兆候であるから、予測上の価値を持つ。 証明と描写 オブザーバブルと状態についてもう少し考えてみましょう。 そして、フォンノイマンの推論の規則を受け入れるための 付加的な理由が存在するかどうかみてみましょう。 状態は常に統計演算子で表現される。(射影演算子に限ったとしてもである) そしてそれはエルミート演算子である。 しかし、エルミート演算子はオブザーバブルを表現することを意味する。 次のようにはならないのか? ある状態の中にあるということは、あるオブザーバブルが値を持つということと 同じこと、もしくは強い意味で等価であるということ。 たとえば、純粋状態xの中にあるということは、 たんに、オブザーバブルIxが値1をもつということと同じなのではないか? しかし、この事は解釈の規則を再び仮定している。 状態xにあるということは、固有値1に対応した、オブザーバブルIxの 固有状態にあるということである。 ボルンによると、そのことは、 Ixの測定が確実に結果1を持つような事を含意している。 しかし、ここでの問題は、逆の含意が成立するかどうかである。 実際に、混合状態に対して、この状態とオブザーバブルの対応を書き出したいなら、 もっと注意深くしなければならない。 状態Wにあるということは、オブザーバブルWが値1を持つことと同じではない。 次の状態を考えよう。 W1=1/2Ix+1/2Iy W2=1/4Ix+3/4Iy ここで、x⊥y それらの状態において確実に値1を持つyes/noオブザーバブルは同一である。 いわば、射影演算子I[x,y]で表現されるものである。 しかし二つの混合状態は同一ではない。 そうすると、オブザーバブルと状態の間の対応は次のことだけだ。 ある状態において、われわれが すべてのオブザーバブルの期待値を与えた場合のみ、 その状態が一意に特定できる。 期待値、すなわち、すべての測定結果の確率である。 純粋状態に対してのみそのことは確実さをspelling outをreduceする。 この点は、フォンノイマンによってはじめられた量子力学のアプローチに 限ってみてきた。 そのアプローチは基本研究において価値のあるものだった。 そして、これもまた哲学者ではない人によって外挿されたものだ。 上で記されていることのために、その様な外挿には注意が必要である。 フォンノイマンとBirkhoffのこれについての初期の文献で、 命題は射影演算子、もしくは等価な部分空間とみなされている。 これを読み取るやり方は、実際にはフォンノイマンの解釈の規則を経由している。 だから、命題[M,E]は部分空間S=[{x:あるk∈Eに対しMx=kx}]で 表現されていて、 MはEの中に値を持つと読まれる。 その命題は1をSに割り当てる状態によって満足される。 すなわち、Tr(WIs)=1のような状態である。 そうすると、実際に次のように言うことができる。 MはEの中に値を持つ時のみ、命題[M,E]を満足する。 (フォンノイマンの解釈の規則を受け入れたのだったら、 命題のその読み方は適している) これらは非常につじつまが合っている。 しかし、別々の混合状態の上の例W1、W2は、この意味で、 全く同じ命題を満たす。 だから、その様に考えられた命題の族は 別々の混合状態を区別するのに十分ではない。 状態とオブザーバブルの密接な関係を見てきた。 しかし、フォンノイマンのGordian knotの切断を 押し付けるほど密接ではない。 実際に、その様なやり方に反対する理由を見てきた。 状態はオブザーバブルを用いて同定されうるが、 それらとは同一ではありえない。 2様相的な説明を展開すると 量子力学の認識論において主な困難のひとつは、 事象を記述するためのその見掛け上の不適切さにある。 分散のない状態を許さない系が存在するという事実は、 ある事象に関する必要不可欠で減らすことのできない確率言明が存在する。 そのような事象はyes-no実験に関する測定がそうでしょう。......... そうすると、そのような現象の個々のあらわれは、理論の範囲の外側である。; 我々の状態の記述において、そのような事象の確立だけが、説明されうる。 (Jauch) Jauchが様相解釈を支持しているとは思わない。 しかし、上の文章は様相的な選択肢を示しているように思える。 この文章は次のことをのべている。 量子力学の範囲の中にある状態は、 量子力学の範囲外である事象の現実のあらわれに関する確率だけを与える。 しかし、事象に確率が割り当てられるなら、それらは確かに記述されているから、 それらは完全な理論の範囲外であるというわけではない。; しかし、少なくとも、事象は、それらに確率を割り当てる状態とは同じものではない。 言い換えると、状態は、起こりうることと起こらないことと、 それがどのように起こるかということの限界を定める。 すなわち、起こることの可能性や不可能性や確率を定める。 しかし、何が現実に起こるかは言わない。 可能から現実の遷移は、状態の遷移ではない。 しかし、状態によって記述される遷移である。 我々は、量子力学において状態がどのように記述され表現されるかを知っている。 事象についてはどうだろうか? それらは次の形の言明によって表現される。 1.系Xに関するオブザーバブルBは実際に値bをもつ。 そして、ボルンの解釈の規則は、 適切な測定の終りで現実に起こるこの事象の確率を教えてくれる。 このことは1のような言明が、 次のような形のいかなる言明とも等しくはありえないことを要求している。 2.その系が、.......の型の状態にある。 それは次のような形ももつ。 2(a)系が状態Wにある。 2(b)系が部分空間Sのなかのある純粋状態にある。 2(c)系がx1......xnのある混合状態にある。 2(d)系がTr(WIs)=1のようなある状態Wにある。 なぜなら、2(a)−2(d)の各々はせいぜい、 言明1が真である確率を与えるだけであるからである。 しかし、値付与1と状態付与2の間にはある論理的結びつきもなくてはならない。 それはなんだろうか? 次のことを思い出しましょう。 値を示すオブザーバブルBをもつ器具Yによる 系Xに対するオブザーバブルAのフォンノイマン測定の終りで、 次のような還元された状態と全体の状態の記述をもつ。 (a)系Xは状態WX=Σci2I|a(i)>にある。 (b)系Yは状態WY=Σci2I|b(i)>にある。 (c)系X+Yは状態φt=Σci|ai>*|bi>にある。 いまボルンの規則は、フォンノイマンの規則に対する様相的選択肢を仮定すると、 次のことを導く。 (d)あるインデックスkに対して、値を示すオブザーバブルBが値bkをもつ。; そして、このインデックスkがインデックスiである確率はci2である。 (d)がAの測定の終りでの状態とBに値を付与する言明のつながりしか 確立していないことは明らかである。 明らかに次の疑問が生じる。 状態とオブザーバブルの値をより一般的に結びつける より大きな原理の単なる帰結ではないのか? 我々が直面している問題は次のようなものだ。 一般にどの値付与言明が真であるか? この問いに対する答えは非常に保守的なものであったり、リベラルなものであったりする。 どちらの立場でものちに謎を生む。 コペンハーゲン解釈 −実際には特定の解釈ではなく、 コペンハーゲン学派の人々によって表現された関連した立場の集まりをさす。− は、これに関して非常に保守的な立場を取った。 オブザーバブルの状態が、我々に、それらが値を持つということを 無理強いしないかぎり、それらが値を持つということすら、 コペンハーゲン主義の科学者は疑う、もしくは、否定しているように見える。 それに従い、いかに示す注意深い答えを、コペンハーゲン型の様相解釈と呼ぼう。 わたしはこの型を支持する。 この解釈は次のようなことをのべている。 系Xが時間tで動的状態Wをもつなら、真である状態付与命題[M,E]は Tr(WIME)=1であるようなものである。 値付与については、それらは動的状態から推論できないが、次の三つのやり方で限定されている。 (T)もし[M,E]が真なら、値付与<M,E>も真である。: オブザーバブルMはEの中に値を持つ。 (U)すべての真なる値付与命題はともに確率1をもつ。 (V)真なる値付与命題の集合は性質(U)に関して最大である。 次のような言い方をしましょう。 もしTr(WIME)=1なら、Wが[M,E]を真にする。 そうすると(U)と(V)は次のことをのべている。 真なる値付与命題の集合を同定するための‘記録装置’をすでに我々は持っている。 この集合をSと呼ぼう。 そうすると、(U)によると、次のような動的状態W’が存在しなければならない。 W’が[M,E]を真にする場合のみ、<M,E>がSの中にある。 (V)を加えると、次のことがわかる。 W’は純粋状態であり、 W’が[M,E]を真にする場合にのみ限り、<M,E>がSの中にあり、 W’は一意である。 最後に(T)から、 W’はWに対して相対的に可能である。 その動的状態W’は、真なる値付与を正しく同定する‘記録装置’である。 それゆえ、それを値の状態を表現するのに使うことができる。 そのことは値の状態が動的状態であることを意味しない。 単に、各々が同じ種類の数学的表現を認めているのにすぎない。 この純粋状態を、tで真であるような(as true t)Xの値の状態と呼ぼう。 しかし、このことはXが動的状態W’を持つということは含意しない。 決してそんなことは含意していない。 それは、はじめにいったように、動的状態Wをもつ。 このことを単一の公準にまとめることができる。 それは、量子力学によって支配される物理的状況に対するモデルの族を記述している。 (e)系Xが時間tで状態Wにあるとすると、 Xに関するすべてのオブザーバブルMに対し: (e1)状態付与[M,E]は、Wがそれを真にする場合に限り真である。 (e2)Wに対して相対的に可能な純粋状態xが存在し、 xが[M,E]を真にする場合に限り、値付与<M,E>は真である。 この公準から推論される第一の帰結は、(T)−(V)が成立することだ。 第二の帰結はオブザーバブルの同定に関することである。 「エルミート演算子Mはオブザーバブルmを表現している」という言い回しは、 ふたつの別々のオブザーバブルがひとつの演算子で表現される可能性を許している。 そうなるなら、上記の原理(e)は、与えられた演算子Mによって表現される すべてのオブザーバブルに対して適応するものとして読まれなければならない。 しかし、そのように読むと、次のことを含意する。 ふたつのオブザーバブルがひとつの演算子で表現されているなら、 それらの測定結果の確率が常に同一なだけではなく、その値も同一である。 これは、(e2)の中にある、「場合に限り」のせいである。 それゆえ、それらのオブザーバブルの間には少しも違いがない。; それらは同一である。 いいかえると、この解釈のなかに暗示的に次の原理がある。 オブザーバブルの同一性: もしオブザーバブルmとm’が同じエルミート演算子で表現されているなら、 m=m’である。 このことは6章のはじめにでてきた問題に答えている。 それは、隠れた変数は存在しないという証明において重要な役割をはたす原理である。 そのポイントは10章でさらに議論しよう。 それはもちろんトートロジーではない。; それは、解釈に対する経験主義特有の制限としてみなされるだろう。 それには、オブザーバブルとそれを表現する演算死にたいし同じ名前が 使えるという利点がある。 第三に、ある意味において、それは混合状態の無知解釈が正しいかのようなものである と指摘できる。 なぜなら、もし、系Xが混合状態Wにあるなら、 Xに関するオブザーバブルの現実の値が、 それがWのイメージ空間のなかの純粋状態にあるなら、それが持ったであろう値である。 しかし、どの純粋状態にあるかを我々は知らない。 Xが混合状態Wにあるとだけ言うなら、 それらの純粋状態はすべて我々にとって可能性でしかない。 7章から、無知解釈が多くの理由で維持できないことを知っている。 しかし、おそらくこのことは、我々の直観的アピールを説明するのに役立つ。 なぜなら、オブザーバブルの値に対しそれが含意することのあるものは正しいからだ。 第四の帰結は、古典原理の否定である。 それは、各々のオブザーバブルは常にその可能な値のひとつを持つというものである。 我々ははっきりとしていない値を付与することができる。 オブザーバブルMに、固有値1と0だけを持つオブザーバブルIMEに対応している。 いま、我々は次の方程式を持つ。 Tr(WIME)=1の場合に限りPMW(E)=1 それゆえ状態付与命題に関する次の結論をえる。 [M,E]=[IME,1] ここで、集合の括弧を落として[....,{...}]を省略した。 コペンハーゲン型様相解釈は、(e2)の付加、もしくは(T)−(V)により、 次のことを帰結する。 同様に、<M,E>=<IME,1> このことは、次のことも意味している。 <M,E>は、値付与<M,r>:r∈Eの古典的選言ではない。 実際には次のように記される。: もし、ボレル集合E0⊆Eの場合に限り<IME,1>が真なら、 E0は、<M,E0>が真であるような最小のボレル集合である。 そして、我々は、Mははっきりしない値E0を持つといわなければならない。 もしMとM’が、共通の固有ベクトルを持たない非可換なオブザーバブルなら、 そして<M’,s>が真なら、 いかなる値rに対しても<M,r>は真ではない。 しかし、<M,R>はそれでもなお真である。 なぜなら、それは<IR,1>が真であることを意味しているからである。 これはトートロジーである。(Rは実数すべての集合) それゆえ我々は次のものが、値付与命題に対して区別できる。 排中律の原理(<M,R>はすべてのオブザーバブルに対して真である)と、 背反の原理(<M,E>が真か、<M,R−E>が真かどちらかである) そして、前者は正しく後者はまちがっている。 より古典的にみえる反コペンハーゲン型は、(e2)を次の主張と置き換える。 各々のMにたいし、<M,r>が真であるようなある値rが存在する。 それは論理的には維持できるが、奇妙な性質を持つ。 コペンハーゲン型の思考の道筋をたどったあとには、 その性質は値のギャップ以上に奇妙に思える。 ここでは反コペンハーゲン型のいかなる性質も議論はしない。