ネタコラム


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“HとEROでは只のスケベだが・・・” “第六世代は幻視羊の夢を見るか?”
“哀恥窮薄 開催迫る!” “いつも心にワクチンを”
“オエビ二次遷移観察日誌” “遡行不良の響きあり”
“『ウサギと亀』にみる帝王学” “ユパ「また一つ、マツが死んだ・・・」”
“トリニティ・バランス” “歯牙ない錬金術師”
“助長と冗長と” “第○代目 源氏物語”

“HとEROでは只のスケベだが・・・” 05.1/5 メニューへ
 先日、自転車がパンクしたので自転車屋さんに修理に持っていった。
そこで私は異様な光景を目撃したのである!・・・なんと展示してある自転車にペダルがないのだ!
ふむぅ、こいつはわけありだ。一体何の理由で・・・。
そうか!ペダルがなければ、もし乗り逃げされてもまともに漕ぐ事ができない。
つまり防犯用にペダルを外しているに違いない!
 そういえば最近中古ゲーム屋に行ってもケースのみの展示で、 購入時にはじめてそのケース内にゲーム本体を入れるシステムが多い。
これも万引き時の被害を少なくするための方法だろう。・・・多分。
 要するに重要なパーツを別に分けて隠しておくことで、上っ面だけでは機能しないようにしておくわけだ。

 このパターン、どこかで聞いたことがあるなと思ったら、それは昔のSF映画やドラマに多く見られたものではないか。
概ねこんなパターンが挙げられる。
『マッドな博士の開発した、人間をジェノサイドする兵器を奪った悪の組織がそれ単体では用をなさないことを知る。
何とその兵器には機動コアが必要であった。しかもその機動コアは博士の亡くなった娘に似せて作られたアンドロイド! しかも博士に欠片も似てない美少女だったのだ!(お約束w)』みたいなぁ〜感じ。
そう考えると、昔から脈々と受け継がれる防衛手段の一つなわけですな、このペダルなし自転車も。
 修理が終わったので店長さんにその件を聞いてみた。
私「あの・・・この自転車にペダルが付いていないのは、やはり防犯的な意味からでしょうか?」
店長「え?いえ、横に並べた時に並べやすい様にと、あと自転車同士で傷が付かないようにですよ」

・・・考えすぎだったらしい。

“第六世代は幻視羊の夢を見るか?” 05.1/22 ネタ一覧へ
基本的にこのネタコラムは日常生活に端を発するネタが多い。
それはその形態でないと「ネタコラム」でなく、 私の脳内のみで生成された「デンパコラム」になってしまうためである。
・・・というわけで
「孫の一人はね、居間にある木の根っこの置物をじっと眺めていたりしてね。 その時々で色々なものに見えてるらしいのだけど。」という年配の女性のお孫さん談話で口火を切ることにする。

 さて、皆さんにも先のお孫さんのようなある物がふとした拍子に別のものに見えてくるという経験はないだろうか?
「タンスの木目や壁紙のしみが人の顔に見える」という怪談じみたものや 「空に浮かぶ雲が鯨やお菓子に見える」といったメルヘンちっくなものもこのカテゴリーに属するといえる。
 これはあなたが幻視技能を所持しているからである。
ちなみに幻視技能は1〜3までのレベルがあり、 レベルが上がるにつれて先の現象が起こる確率が上がる。
またみえる映像もレベルが上がるに従い、具体的なものに変化していく。
(・・・一応まともな解説もしておくと先の現象は「錯視」である。
代表的なものではルビンのつぼ等で説明できるもので、 形や長さなどが実際とは異なって見えたり、見えないものが見えたりすることである。
その原因は脳がこれまでの経験・知識等により画像を補完していることにより起こる。
『そんなことはない!見えているものはそこに存在しているものだけだ』と思うかもしれない。
こんな話を知っているだろうか?あなたが普段見ている風景に欠けた部分はないことと思う。
だが人の目は視神経が集中している部分に盲点があり、実はその部分の画像データは取得できていないのである。 その盲点の部分は脳が周囲の風景から作成した擬似データで補っているのである。 それこそが普段見ている画像が脳により補完されていることの一つの証拠である。)

≪警告≫:これより先は高濃度デンパ充満により情報の一部がシャットアウトされました。
     『』内の文章はダイジェストで表示されています。


ちなみに私は幻視技能3を所持している。
そしてその能力(ちから)で、かつて刻を見たことがあるのだ。

『早春、草木も眠る丑三つ時に三人の若者が言葉を介さずに認識を共有した。
そして共に見た、ヘボいミニスカギャル絵の中に“刻”を。
“刻”はミニスカと両足の狭間にその白い姿を現したのだ!
それは気まぐれな神が見せた春の夜の夢だったのかも・・・しれません』


 あれ?脳沌先生が勝手に文章を校正してしまったみたいだ。
一応、脳沌先生が働かないレベルの会話を挙げると
「あんなヘボい絵でニュータイプに覚醒するとは納得いかないです」
「いや、ヘボい絵だったからこそ脳内補正がかかって“刻”が見えたのかもしれない」
ということである。よく分からなくても気にしてはいけない。全て脳沌先生がいけないのだ。
 まぁ、端的に解説するならば私の幻視は
「本来描いていないもの、描いてあってはいけないものが脳内補正によって見えてしまう」というものである。
 最近の例を挙げると、ある方の年賀イラストのひよこ饅頭が女の子の髪留めの玉と混ざって犬っぽいマスコットに見えて可愛さに悶えたり、 自分で描いたこの絵→に白いフリル付きの“刻”が見えたりした。
実際はスカートの裾で隠すつもりで何も描いていないわけだが。
・・・なんか読んでる人の引いてる様が目に浮かぶようですが、これも幻視でしょうかね?
 ん?ここで何故か質問が。
『今、天井から血塗れの女性がぶら下がっていて、口の端に冷たい笑みを浮かべながらこちらを見ているのですが、 私は幻視レベルいくつなのでしょうか?』
ふむ、それは幻視ではなくて霊視ですね。
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ギニャー!! (((;ガクガクブルブル)))

“哀恥窮薄 開催迫る!” 05.2/15 ネタ一覧へ
 先日、某仮面ライダーの一、二話を見ていたら、鬱蒼とした屋久島の原生林が舞台であった。
屋久島・・・世界遺産として保護された原生林、齢四千年という中華の歴史とタメをはれる縄文杉がそびえ立つ森。
この屋久島の自然は、人の手が入らずかつ自然の大変動が発生しない限り現在の形態のまま悠久の時を刻みつづける。 何故そういえるのか?それは森林が陽樹と陰樹という異なる性質を持つ樹木により形成されるためである。
・・・え〜と、一応ネタコラムですからね、コレ。
いきなり引かないで下さいよ?
(閑話休題)
 簡単に説明すると、陽樹とは光要求量が大きいものの土地が痩せていても成長できる樹(クヌギ、コナラ、アカマツ等)、 陰樹とは光要求量が小さい代わりに土地が肥えている方が成長しやすい樹(スギ、ブナ、シイ等)といえる。
要するに葉からの栄養を重視するのが陽樹、根からの栄養を重視するのが陰樹という感じ。
 この陽樹、陰樹がどのように森林を形成するかを簡単に説明してみようと思う。
荒地などが森林に遷移する場合、先駆植物(パイオニア)によりそれなりに土壌が形成された後、まず陽樹が森林を形成する。 これは光要求量の大きい陽樹にとって光を遮るものがない有利な条件が整っているためである。
次第に土壌は陽樹の落葉により肥沃化し始めるが、 陽樹の林床においては高木の葉により光が遮られ、陽樹の幼木が成長に必要な光を得ることができない。
例えるならシゲオに光を遮られてカズシゲが育たなかったという感じである・・・もし育っていても大成したか保証はないが。
その林床においては光要求量の小さい陰樹が、陽樹により肥沃化した土壌を糧に段々幅を占めるようになる。
やがて陽樹の高木が老朽化する頃には、森林の高木層を形成するのは陰樹のみになる。 そしてその林床で成長するのもまた陰樹であり、陰樹の世代交代の繰り返しにより形成される森林が出来上がるのだ。
朝娘というかハ○プロやジャ○ーズ系が出演する番組みたいなものである。メンバーの入れ替わりのみで根本的には一緒なところが。
 これを極相林(クライマックス)といい、大きな変動がない限りはこの状態が維持され続ける。
先の屋久島のスギ原生林はこのようにして永い年月をかけて形成されたものである。

 余談ではあるが、あなたの身近にある雑木林は薪炭林として人々が利用してきたものの成れの果てである。 この薪炭林を構成するコナラ、クヌギ、アカマツは陽樹であり、下草の刈り入れや落ち葉の堆肥利用による土壌の富栄養化防止、 薪炭利用のための伐採、そして萌芽更新(萌え絵を更新することではない!ネタにできそうだがしない!断じて!) を行って維持してきたものである。それを怠れば、やがて陰樹に取って代わられ、カブト虫、マツタケが取れないという被害が多発するのである! ・・・いや、本当はもっと目に見えない部分で色々と問題があるのだが、まぁいいや。 ともかく近年、環境保護を合言葉に木の伐採そのものが『悪』であるかのように扱われてきたが、実際そんな十把一絡げに出来る問題ではないことだけ知っておいていただきたい。 そもそも保護と保全という言葉の違いすら、認識されていない気がするのだが・・・。この辺は機会があればネタにしようかと思う。

 実はこの陰樹、陽樹という発想、あらゆるネタ、特に人間関係に応用が利くのでどのネタと混ぜようか悩むのだが、 今回は「寄らば大樹の陰」という言葉の検証に用いたいと思う。

「寄らば大樹の陰」・・・「長いものには巻かれろ」とほぼ同じ意味である。
要するに大きなものの傍にいる方が何かと有利だということであるが、本当にそうなのだろうか?
先に説明したように大樹の陰には大樹の落とした葉により肥沃化した土壌がある。 だが、その代わり林床に差し込む光が少ない。この状態で成長できるのは陰樹である。 やがては陰樹の森林が形成されるわけなので、確かに陰樹にとっては「寄らば大樹の陰」は有利だといえるのかもしれない。
 だが、落とし穴があるのだ。
大樹は上空に大きく幹・枝・葉を伸ばしているため、森林に差し込む光を独占できる。
だが、その代わり他の樹木よりも台風や雷による倒木のリスクも増すのである。
 そこでもし大樹がそれらのリスクに耐え切れず倒れたとする。
すると林冠ギャップが発生する・・・まぁ、天井に穴が開いたといえばイメージしやすいかもしれない。
その穴から差し込む強い光により、今まで陰樹により成長を妨げられていた陽樹が急激に成長をはじめ、 再びその穴部分において陽樹の森林を形成し始める。
こうなると陰樹にとっては自分たちの時代が来るのが遅れてしまう。つまり陰樹は大樹が倒れた時には弱いのである。

 さてこの話、何の暗喩なのか分からないかもしれない。だが、具体的に描写することはできないのだ。
なぜならそれはアナタが現在所属している組織、取り組んでいる分野によって変化するからである。
 ただ、人も陽樹、陰樹タイプに分類することが可能なのではないか? そして自分や相手がどちらかのタイプであるかを把握していれば、人間関係を形成する際により円滑に行えるかもしれない。
 さて、アナタは陽樹、陰樹どっちでしょうかね?

“いつも心にワクチンを” 05.3/17 ネタ一覧へ
「人の心にも免疫機構がある。それは信じていいことなんだ」
と故・梶井基次郎風にはじめてみましたネタコラム。
だが、元ネタと比べて全然インパクトがないのは何故だろうか?
それは『男(女)に免疫がある(ない)』という言葉が存在することから、 普段何気なく認識されている事実だからであろうか。 ともかく今回はこの人の心の免疫についてのネタで攻めてみよう。
ちなみに今回は用語を結構ググってみた。理屈は知っていても用語までは知って(覚えて)ないので。

 さて、そもそも免疫機構とは何であろうか?
簡単にいえば、体内に侵入してきた異物に対する生体防御機構のことである。
この異物を抗原、それのみに反応するように産生された物質を抗体という。
本当は様々なリンパ球の活動により行われるものであるが、 今回は外部から受ける刺激を抗原、それに対する防御物質を抗体、それを産生するための記憶を免疫記憶というレベルに限定したい。させて下さい。
 先に述べたようにこれと同種のことが心の中でも行われている。
例えば、初めてホラー映画を見た際、怖くて夜トイレに起きることさえはばかれるほどのショックを受けた人でも、 その後同種のホラー映画を見た際に初期程の衝撃を受けないということがある。
これは最初の衝撃の際、以降その衝撃から精神を防御するために心の中でその恐怖に対する抗体が産生されているためである。
だが、この際に産生された抗体は同種のホラー映画には効果があるものの別種のホラー映画に適用されるとは限らない。 (「13日○金曜日」等のスプラッタホラーを見た後に「リ○グ」等のサイコホラーを見た時など)
この点も生体における抗体と同様であるといえる。
 また免疫反応には蜂の毒液等に対するアナフィラキシーというものがあるが、 一度受けた衝撃を再度受けた際に防御機構が過剰反応するという点からトラウマ(心理的外傷)と同様のものであるといえる。
例えるならば、ジョーが、力石の死の要因となったテンプル(こめかみ)への一撃の影響で以降、 相手の顔面を殴ると力石の死を想起させ、心がその痛みに耐え切れず嘔吐してしまうというエピソードがそれであろうか。
これは後に心の強敵(とも)カーロス・リベラと出会うことで克服するのだが ・・・って分かる人いるのかなぁとか思ったり思わなかったり。
 ここまでは前フリである。

 さて、病気の予防・治療にはこの免疫機構を利用した医療技術がある。
ひとつは、予防したい病気の原因であるウィルス・細菌などを弱毒・無毒化させたものを体内に投与することで それに対する抗体・免疫記憶を作らせるワクチン(能動免疫)。
もうひとつは、人間以外の哺乳類が産生した抗体を含む血液または血清を、 人間に投与することで原因であるウィルス・細菌などを無力化させる免疫血清(受動免疫)である。

 実際ワクチンには、生ワクチン(弱毒化したウィルス・細菌を接種するもの)と不活化ワクチン(殺菌した細菌等を接種するもの)があるが、 後者の特徴が血清と混交されるとまずいため、以後のワクチンという記述は生ワクチンを示すものとする。

 ワクチンと血清の違いは、前者を能動免疫、後者を受動免疫と分類されることからある程度推測がつくことと思う。
前者は投与した生体自身に抗体を産生させるため、抗体を産生するまで時間(一週間以上)がかかる上に 免疫不全の場合にはその病気が発症する可能性があるものの、一度産生されればその免疫記憶は長年持続される。
後者は直接抗体を投与するため即時効果が発揮されるものの、効果時間は短く、 また再度の投与は免疫血清自体が異物と判断され効果が発揮されないどころか命の危険すらある。
 これは優劣の問題ではなく、使い分けの問題である。
長期的な予防にはワクチン、現在の病状の改善、または発症確率の高い病気に対する一時的な予防の場合は免疫血清という風に。
例えば破傷風の様に、いつ発症するか予想のつかないものであれば、 幼少期にワクチンを投与することでその後発症する確率を激減させることができる。
またアマゾンなどに短期間滞在する場合は、その土地特有の細菌等の免疫血清を直前に投与しておけば その滞在期間中に発症する確率を激減させることができる。

 さて心に免疫機構があるのならば、心にもワクチン、免疫血清が存在するはずである・・・多分。
では、それはどんなものであろうか?一つ例え話を挙げよう。
 ある高校に入る予定の学生がいたとする。彼はその高校に不安と期待が入り混じった感情を持っていた。
この場合、彼が入学時に感じるであろう不安を前もって軽減するにはどうすればよいだろうか?
それには体験入学によって直接その高校がどのようなものであるか触りだけでも知っておく方法と その高校に通う、または通っていた人に高校生活の体験談を聞くという方法がある。
 まず体験入学についてである。
その際に彼が得た体験は、多分その高校に入るまでは効果がない上にかえって不安が増大する可能性があるものの、 自ら感じ取ったものであるため入学以降にもその体験を活かすことができる。
 また体験談についてである。
これは実際にその高校に通っている(いた)人の話であるため、入学以後起こるであろう出来事を前もって追体験できる。 そして高校に対する不安がいくらか軽減された(つもりの)心境になれるであろう。 が、結局は他人が感じたものであるため、入学以降その体験談が役に立つとは限らない。 それは同じ出来事が起こるとは限らず、また例え同じ出来事でも、それに対する判断基準が自分に移るためである。

 要するにこれまでの話は、以下のようにまとめられる。
○自分自身が行った予行訓練:効果を得るのに時間がかかり自信をなくす可能性もあるが、持続時間が長い
○他人が得た経験の追体験:即時効果のものが多いが、持続時間が短い。また拒絶反応の可能性も。

 これが心にとってのワクチンと免疫血清である・・・と解説するのは野暮な気もするが念のため。

 今回、この話で何が言いたかったか。それは読んだ人の判断に任せたい雰囲気が漂う今日この頃。
が、基本的に人が身につけたコツというものはその人が産生した免疫血清でしかないことを知っておいた上で、 自らにワクチンを投与していければいいなとおもいますた。
どんとはれ。

“オエビ二次遷移観察日誌” 05.3/31 ネタ一覧へ
「オエビ、森林。形態は異なれど、その営みに何ら変わるところはない」
♪チャ〜ララ〜ラ〜ンララ〜(銀英伝第二部風)

 以前の陽樹・陰樹の話の際、少し触れた森林の遷移。
その遷移の種類は大きく二つに分類される。
一つは火山噴火などで生じた新しい裸地から始まる一次遷移。
そして、人の手による伐採や山火事などの跡地から始まる二次遷移である。
一次と二次の違いは、土壌そのものとそこに存在する埋土種子や再生可能な茎・根の有無である。
ただ話が面倒なので一次遷移の場合の土壌形成の過程は端折ることとする。

 一次遷移の場合、溶岩などによりそれまでの植生がリセットされているため、 初期植生は周囲植生からの飛来種子(風散布、鳥散布など)によるものになる。
一般的に形成される植生は、周囲植生からある程度の推測がつくといえる。
しかし陸続きでない環境、例えば火山新島などにおいては、周囲から種子が散布される可能性が低いのは想像に難くない。 だが、それは逆に予想もしない種子が水(海水)散布により流れ着く可能性もあるといえる。
その結果、ガラパゴス諸島のような独自の生態系を形成することもあるだろう。
 人為的に外部から種子・苗を持ち込むことも可能だが、遺伝子汚染の発生や環境への適応問題などを考慮しなくてはならない。
・・・というかその時点で自然遷移ではない気もするが。
移入種による在来種の駆逐は、沖縄諸島におけるハブ用にと持ち込まれたマングースによるヤンバルクイナ捕食などの事例からも忌むべきことであろう。

 二次遷移の場合、表面的には植生がリセットされていても、 その土壌中には根・茎が存在し、環境条件が整えば再び萌芽、発根することができるため 植生の形成速度は一次遷移とは比べ物にならない。
また植生破壊以前に産み落とされた種子が光環境の改善等により新たに発芽する可能性もある。
 ここで遷移初期の森林(未満)の動態について説明してみよう。
陽樹・陰樹の際に先駆(パイオニア)植物の話をしたが、その中にヌルデという樹種がある。
山林の沿道でよく見かける一見ウルシに似た、複葉の中脈に翼があるのが特徴の樹種である。
 このヌルデの種子は種皮が硬く、森の中では発芽できない。
そのかわり土中において数十年間休眠状態でも発芽能力を有している。
これは陽樹であるヌルデは森の中では光条件の折り合いがつかず枯れてしまうため、あえて森の中で発芽しないようにしているのである。
だが、強光下や山火事などにより50℃以上の温度にさらされるとその休眠状態が解除され、発芽をはじめる。
これにより二次遷移直後に他に先駆け、植生環境を占有できるのである。
そして中高木層の発達に伴い、再び種子という形態で休眠状態に入る。
 まぁ、「俺の屍を越えていけ!」という感じだろうか?

 そして、どちらの遷移においても最終的には陽樹・陰樹の際のような森林形成の道を歩むこととなる。

 ネタふりの様に、この森林遷移とオエビの住人動態には共通項を見出すことができる。
説明するのも野暮かもしれないが、オエビにおける一次遷移とは、新たにオエビを設置した時の、 二次遷移とは一度何らかの事情で荒廃したオエビを活性化しようとした時の住人動態に投影される。
まぁ、早い話が『潜在植生があるオエビは幸せである。外部から人が来なけりゃ活性化もしようがないのだから』ということだ。
・・・というか私はヌルデなのか?ということだが。

“遡行不良の響きあり” 05.5/3 ネタ一覧へ
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
これは鴨長明『方丈記』の一説であり、私が旧本国で任期終了時の編集後記に引用したものでもある。
 組織というものは外面的には変化なく運営されていても、その構成員は時が経つにつれ常に入れ替わっている。 その入れ替わりの時期を迎えた達成感と時のうつろいに対する少しの寂しさを前述の言葉に込めたのである。 自分は流れに浮かぶうたかたの一つであったのだと・・・。そして、その流れは永遠不変のものであると・・・。
 まさかその数年後、あんなことになるなんてあの時は想像もしてなかったんだ・・・。 と毎度のように思わせぶりな導入であるが、今回のネタは“哀恥窮薄 開催迫る!”で触れた「保護と保全の違い」である。

 この「保護」と「保全」、その違いを認識している人はどの位いるのだろうか?
えっ?「それってザクグフ位の違い?」ですと? いやいやザクボルジャーノン位の違いデスヨ?
いま、その証拠をお見せしよう!!
 グーの用語辞典で引くと、「保護」=「危険・破壊・困難などが及ばないように、かばい守ること」
「保全」=「安全を保つこと」と出てくる。
うむ!実にわかりやすい解説であ・・・って違いがわからねぇーっ!!

 例えば刑事モノでよく見かける「人質の保護を優先する!」というフレーズ。
先の定義を当てはめると「人質に危険・破壊・困難などが及ばないように、かばい守ることを優先する!」となる。
これが「人質の保全を優先する!」だとしても「人質の安全を保つことを優先する!」となり、大差のない言い回しになってしまう。
 これでは留学生の方々に『ニホンゴ同ジ意味デモ、違ウ言イ方多クテ難シイネ』 と言われてしまうのも無理ないことだといえる。

 だがこの「保護」と「保全」、前に「森林」とつけると両者のもつニュアンスは激しく変化する。
それはまさにオヤジのメカ(テム=レイ回路)を装着したガソダムのように・・・ってアムロに投げ捨てられていたが。
まぁ、いい加減ネタはこの位にして真面目に解説してイキタイデス。
簡単にいえば、
「森林保護」とは、対象である森林及び生態系維持のために人の手が入らないようにすること、
「森林保全」とは、人の手によって利用しながら森林としての機能を持続させていくこと、である。

前者は原生林(白神山地や屋久島)、後者は二次林(スギ&ヒノキ人工林や里山)への対応の際に用いられている。 前者については説明の必要はないと思うが、後者については少し説明が必要かもしれない。
 “哀恥窮薄 開催迫る!”の時に説明したが、陽樹林は放置しておくといずれ陰樹林へと遷移していく。
陰樹林は森林生態系の多様性が低下し、人の利用に堪えなくなってしまうため、薪炭利用などによる適度な間伐を行い、陽樹林を維持する必要があるのだ。
 多分「自然保護!」としゃちほこばっている人は「木を伐るなんてとんでもない!」と思うかもしれない。
だが、考えてみて欲しい。たとえ薪炭利用のために伐採しても、その分が萌芽更新や実生更新によって補われれば、見かけ上変化はない。 それどころか林冠ギャップの発生により林床は多様な植生に覆われ、森林生態系にとっても人にとっても有意義なものとなる。 そして、萌芽が成長した頃、再び薪炭として利用・・・いってみればスパンの長い自転車操業(いい意味での)みたいなものである。
あ、ちなみにスギ&ヒノキ人工林は伐期を設定して、区画ごとに一斉に伐採→植林という持続的経営が行われている・・・はず。 (外国産木材による国産材の値崩れによって伐期が延長されており、予定通り行われていないと思う。)

 要するに森林保全とは「森林が全うであることを保つ」、つまり同じように見える木でも以前と同じ木であるとは限らない ・・・いわば「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」であるのだ。

 人が利用しているもの、場の維持に必要な概念は「保護」「保全」どちらであるか、考えてみると面白いかもしれない。
「人は流れに逆らい、そして力尽きて流される」(声:銀河万丈)

“『ウサギと亀』にみる帝王学” 05.6/8 ネタ一覧へ
先日、市の体育館で筋トレをしていたら、
高校生(野球部?)らしき子の着ているシャツに書いてある文言に目が留まった。
「努力は素質を上回り、気力は実力を超える」
・・・一字一句間違いないとは言えないが大体こんな文言であった。
 私はこういう概念そのものは嫌いではないが、見かける度に頭をよぎることがある・・・。
それは
「なるほど確かに一理ある。
だが素質あるものが努力をし、実力あるモノの気力が充実していたら・・・どうするのだ?」

(声:ロイエンタール時の若本規夫)ということなのだ。
 つまり先の文言が効果を発揮するのは、自分が努力している間に他の人が努力していない状況においてのみではないだろうか? そしてそれは現実的にはあまり起こり得ない状況であり、最初から奇跡を信じるようではお話にならないと誰かが言っていた(主に銀英伝で)。
 さて勘のいい人であれば、私が何について話そうとしているか分かるかもしれない。
そう「ウサギと亀」の寓話についてである。まぁ、説明は不要と思われるが、一応。
『ウサギと亀が競争した。元々出来レース感バリバリなためウサギと亀の差は歴然たるものがあった。
そして楽勝ムードが漂う第三コーナー。ウサギはふとした気の迷いから転寝をしてしまった。
その隙にガメラばりにブーストオンする亀!亀速い!亀速い!ぶっちぎりのゴォールゥッ!!
飛び交うハズレ馬券、そこは阿鼻叫喚の地獄と化したのであった。
だが、その勝利の代償に亀の一万年もつという命はひっそりとその終わりを告げようとしていた・・・。』
(注:勿論こんな話ではないが、「ウサギが寝ている隙に亀が追い抜いて勝った」という点だけは概ね同じ)

 この「ウサギと亀」、時折「力が劣る者でも努力し続ければ、自分より力が上の者にも勝つことが出来る」という解釈がなされる。 「わては今はどん尻の亀かもしれん。だがこの先をみてんしゃい!いつか追いついてみせるとね!!」 というどちらにお住まいか不明な方の決意表明などでも引用されることがあったりなかったり。
だが、本来は「能力があるものでも力を過信して油断をすると弱者に負ける。 だから能力のあるモノは自らの力に驕ることのないように」という「強者」への戒めなのである。
「え?そんなバカな」と思うかもしれない。だが、冷静にこの話を見てほしい。
ウサギにとって、寝過ごした以外に敗因があったであろうか?
 否である!
ウサギが多少休もうが、チンタラ走ろうが亀に負ける要素は見当たらない。
逆にいえば亀にとって、ウサギが寝過ごすという奇跡が起きなければ勝機がないレースだったのだ。
そして、その奇跡が起きたとしても『不眠不休で歩き続ける・・・いわば血を吐きながら続ける悲しいマラソン』 フラグを満たしていなければ勝利条件が発生しない・・・そんなレアイベントだったのである。
 また一般的に警句というものは「起こり得るものにいかに対処するか」に重点が置かれている。 なぜなら起り得ないことに期待する話など警句足りえないからだ。
そんな視点で寓話を書いてよければ、「アリとキリギリス」などは、 こつこつ溜めた食料が腐って餓死するアリと、曲が大物プロデューサーの目に留まり泡銭を稼ぐキリギリスという話になってしまうだろう。
 故に「ウサギと亀」は奇跡で勝利した亀でなく、自らの失敗で必然の勝利を失ったウサギ側の視点から書かれたものであるのだ。
つまりこの「ウサギと亀」、人の上に立つものの心構えについて書かれた云わば「帝王学」なのである。 「能力のある我々がその力を磨くことを惜しまなければ、愚民共に負ける要素など一片たりとてない!」という。
 その「強者の理論」である「ウサギと亀」がどうして「弱者救済の理論」として教育的に扱われているのか?

 それは勝機がないにもかかわらず休まずバカ正直に歩き続けた亀と、
過労がある種の美徳であった日本人特有の勤勉さがシンクロしたために
引き起こされた勘違いだったのかも・・・しれません。

“ユパ「また一つ、マツが死んだ・・・」” 05.7/17 ネタ一覧へ
「私は時々思うのだ・・・。彼らはどこからやって来るのか。そしてどこへ行くのか、と」
 さて、夏の本番も近づき、山々も深緑に彩られるようになってきたことと思う。
だが、その深緑で統一されたキャンバスに、その調和を乱す茶色の部分を目撃したことはないだろうか? それは松が仁王立ちしたまま枯死する、俗にいう「松枯れ現象」の発生を示している。

 この松枯れ現象、本当に枯死させている要因ははっきりとわかってはいない。
だが、そのきっかけ自体は解明されているといってよい。 それは「マツノザイセンチュウ」が樹脂道を食害することにより通水機能等が阻害され、抵抗力が低下してしまうことである。 そして、それによりウィルスや細菌、カビなどに感染→枯死していると考えられている。
 ・・・わかりにくい?
では、人間に例えてみよう。
風邪のウィルスなどは周囲に定量的に存在しているが体内に入ってきても基本的に発病することはない。 それは免疫機構が機能しているためである。 だが、睡眠、栄養不足などでその免疫が低下している時であれば、 どんなに丈夫な人でも風邪にかかる。
 つまり「マツノザイセンチュウ」はマツにおける免疫低下を引き起こすきっかけなのである。 しかも人間でいうなれば血液のガンといわれる白血病レベルの。

さて、このマツノザイセンチュウは自分が生存するマツを枯らせるだけ枯らした後、どうするのであろうか?
 彼らにとってマツは食料調達&子孫繁栄の場・・・いわば彼らはお菓子の家に住んでいるようなものなので、 彼らの繁栄に伴い場は衰退していく。彼らが繁栄しつづけるには新しい元気なマツに移住する必要があるのだ。 だが彼らには大空を飛ぶ翼もない以上、増えた子孫共々枯れたマツの中で死滅していくのを待つしかない。 この理屈でいけば、一本のマツが枯れたらそれ以上被害は広がらないはずなのだ。
 だが、現実に松枯れは広がっている。まさに「彼らはどこからやって来て、そしてどこへ行くのか」である。 そのカラクリにはある昆虫が絡んでいる。それは「マツノマダラカミキリ」である。
このカミキリ、基本的にマツの若い枝を好んで後食する。それは枯れたマツよりも栄養的にも硬度的にも有利だからであろう。 だが、ここに相反する要素が存在する。 カミキリの幼虫はマツの内部組織をエサとし、ミミズのように食べ進むことで移動している。 そのため若い元気なマツの中では樹脂(ヤニ)のせいで自由に動きがとれず内部を食べ進むことができない。 すなわち成虫の食料調達の場である若いマツでは幼虫は成長できないのだ。 ではカミキリが幼虫の食料調達&成長の場を得るには、どうすればいいのか?
元気なマツを枯れさせればよいのである。
わぁ、冴えてる〜!

・・・ってどうやって?

そこで参上いたしますは、先のザイセンチュウくん。
 彼らは、枯死したマツで成長し若いマツに今羽ばたかんとするカミキリ(成虫)の気門の中に入り、 カミキリが後食した若い枝からマツ内部に侵入、自分達の食料調達&子孫繁栄の場とした後、最終的に枯死させてしまう。 そして、枯死したマツはカミキリの子孫の成長の場になるのだ。これはある意味で「相利共生」といってよいだろう。
要するに移動手段のないマツノザイセンチュウと子孫の住処が必要なマツノマダラカミキリのコンビプレーによって、 「松枯れ」は拡大の一途を辿っているのである。

 この松枯れを防ぐ根源的な手段が二つある。
・カミキリに若い枝を後食させないこと:忌避剤の散布などが主な方法
・枯死したマツの焼却処分:カミキリ&ザイセンチュウの住処をなくすため
である。

 だが、抜本的な解決になっていないのが現状であろう。そして、またマツは枯れていくのである。
「彼らはどこからやって来るのか。そしてどこへ行くのか、そして何がしたいのか、と」

“トリニティ・バランス” 05.8/27 ネタ一覧へ
「この世のモノの多くは三点によってバランスを保っている。
それは鉄塔等のトラス構造に見られるように数学的建築学的にも知られているだけでなく、 世界中の古代王国に三種の神器的な政治権力の象徴が多く見られることからも社会的にも大きな意味を持つことであるのは自明の理である。
 そして、人の心の動きもその三点バランスにより支配されているとしたら・・・」


 高校野球において最近発覚した二校の不祥事。
共に強豪校であり、甲子園優勝経験もあることから世間を騒がすには十分な話題であった。
だが、それへの世間の風当たりに何かしらの差異を感じるのは私だけであろうか?
かつて世論を二分したゴッドジラへの五打席連続敬遠策や今回金銭で物事を解決させようとした高校に対しては「ああ、やっぱりね」とかつての悪い評価を引っ張り出して判断され、 また57年ぶりに夏連覇を達成した高校に対しては「まさかそんなことを」「何か考えがあってのことでは?」と今回の不祥事そのものを疑問視する声があるような。
 もっとも世論調査をしているわけではないので推測の域から五千歩程遠ざかっているのは確かであるが、このような同様な事例に対する評価の差異が多々見られることはご存知ではないだろうか?
分かりやすい例えを用いてみよう。・・・「なら最初からそちらを使え」?ごもっともである。
 アイドルが不倫などのスキャンダルを起こしたとする。
そのアイドルのファンは「彼女がそんなことをするはずがない!」とスキャンダルの当事者が彼女ではないと思い込むか、 「今まで僕らに見せていた笑顔は嘘だったのか!」とアイドルへの愛を憎悪へと変換するか、「不倫は文化さ」と某誰かさんみたいに悟る(というか言い訳だが)するなどして少しでもショックを軽減させる心の動きを示す・・・ことが多いといいなぁ。 また常日頃、そのアイドルのぶりっ子ぶりが気に食わなかった人は「けっ、やっぱり猫かぶりチャンかよぉ〜!」と彼女への嫌悪感を新たにするだろう。
だが、そんな人の中にもし「不倫してこそアイドル」というかなーり世間から離れた価値感を持つ方がいた場合どうするか。 「あんな娘に不倫できる甲斐性があるとは思えない!」と当事者が彼女ではないと思い込むか、「へぇ、可愛い振りしてアノ娘、割とやるもんだね」と彼女への評価が上向きになるという心の動きを示してもらわないとこの後の話が続けられない。

 まだ分かりにくい人は「気に食わない先生が気の利いたことをした時」「普段優しい人が急に怒った時」等の日常レベルでの出来事の際における自分の心の動きを思い出して欲しい。

・・・はい、回想やめっ!
どうであろうか?やはり先の例のような心の動きがあったのではないかと思う。思いたい。思わせて。
この心の動きこそ、人の心のアンバランス状態解消のために発動する防御機構の一種なのである。 そして、それは最初に述べたように三点バランスで支配されている。
 その三点とは「主体である認知者(A)」「他者(B)」「対象(C)」である。
そして三点バランスとは、AがBに対して持つ関係、AがCに対して持つ関係、Aによって認知されたBとCの関係におけるバランスのことを指す。 これは感情的なものについては好き(+)嫌い(−)、そうでないものについては類似、所有、因果関係などが成立してれば+として扱い、 その三つの符号の積が+であればAにとってバランスが取れている状態であるのだ。
 逆に積が−の場合はバランスが取れていないため、いずれかの関係を変えてバランス状態に持っていこうとする心の動きが発生する。
これは先のアイドルの例においてファンをA、アイドルをB、不倫をCと変換すれば説明がつくと思うので割愛。

 人の心はかようにしてバランスをとっている。
そしてそのバランスの内、AとBの関係がもっとも変動確率が低く、逆に変動する時にはダイナミックである。
これは経験則から理解できるのではなかろうか?一応、形だけでも説明すると、 好意的に思っている相手への評価は、その人が多少自分の気に入らないことをしてもなかなか落ちない。 それは「アノ人のことだ。何か考えがあるに違いない」と行為そのものを大目に見る心理的作用が働くからである。
逆に嫌悪している相手への評価というものはその人が善悪問わず何をしても・・・いや何もしなくても下がっていく一方である。 それは例えその相手が世間的に褒められることをしても「ご機嫌とりじゃないのか?」「本当は別の誰かなんじゃないのか?」と行為そのものすら評価を下げる材料に用いられ、 何もしない場合でも「ダンマリかよ?」と無所為の姿勢が嫌悪されるためである。
 しかし、これらは自分の許容限界を越えた行為だった場合、堰を切ったかのように評価が逆転するのもまた事実である。
よく普段真面目な人が失敗をすると、普段不真面目な人以上に叱られるというのはその一つの証左である。 理不尽ではあるが、この話でその理不尽さも少しは説明がつくとは思う。

 だが、いずれにせよ人同士の円滑な関係を築くためには、AとBの関係をいかに+にするかに尽きるといっても過言ではない。
逆に−の場合、じたばたせずに時が解決するのも待つのも一つの手であるといえる。
もしあなたの心がアンバランスになりかけたら、この三つの関係を思い出し、 どの関係を変動させるのが自分にとっても相手にとっても有意義であるかを考えてみると、 少しは世の中が円滑に回るとイイデスネ。

“歯牙ない錬金術師” 05.10/8 ネタ一覧へ
「人は何かの代償なしに何かを得ることができない。
これが錬金術における等価交換の原則だ。」


これは某錬金術アニメの冒頭から引用した言葉であるが、アルといえば「嘘だといってよ、バーニィ!!」 が浮かぶ私にはあまり思い入れがないので以下略。
 ともかくこの『等価交換の原則』は色々と議論の対象になりやすい。
例えば冒頭のアルの場合にも、バーニィという代償を払ってまで彼が得たものは少年時代の苦い思い出でしかないわけで、 とても等価交換に則っているとは思えない。
小説版ならバーニィ存命なのでもしかしたら等価交換なのかもしれないけれど・・・ とガンダマーじゃない人を置き去りにするのも何なので路線修正。
 両手をパンと合わせたら何かが錬成されたり、落ちこぼれのアカデミー生徒が賢者の石を錬成したりするような 錬金術が現実に存在しない以上、その原則も適応されていないと考える人もいるかもしれない。
だが、現実の社会生活は錬金術によってこそ営まれているのだ。 つまり「労働の対価を金に錬成する」という錬金術によって。
であれば、この錬金術にも『等価交換の原則』が適用されるはずである。 すなわち労働と等価値の給金が貰えるはずなのだ・・・だが現実にそんな人はどれだけいるのだろうか? 大半は労働に見合わない給金に不平不満をいいつつ〜というのがほとんどだと思う。
 だが、人の心は不思議なものである。
そのアンバランスさに補正をかける機能が搭載されているのだ。

 こんな実験がある。
ある単純な仕事(文字の書き取りとか)をある報酬でやってもらい、その仕事に対する感想を聞くというものである。
知能犯が赤毛の店長に高報酬の書き取り作業をさせている隙に店の地下から銀行へのトンネルを掘っていたりとかそういうお話ではないが、 普通に考えると報酬が多い方が仕事も楽しく感じると思われるかもしれない。
 だが、実際は報酬が少ない人の方が報酬が多い人よりその仕事を楽しく感じたという結果が出るのだ。
それは報酬が高い場合は「高い報酬のためにしかたなくやっている」と仕事そのものに楽しさを見出さなくても作業ができるが、 報酬が少ない場合、労働に見合う対価を得られないことによる不満から 心の均衡が保つために仕事自体に楽しさを見出すよう心の補正機能が働くためである。
つまりこの『等価交換の原則』は金という物理的対価で補いきれない部分を心理的対価で代替しているのである。

 労働して対価を稼いだことのない年齢層にはこの例では分かりにくいかもしれない。
そこで逆の例・・・こちらが払った代償の大小による感じ方の違いでも説明してみよう。
一杯千円以上のラーメンがあったとする。それが一杯400円のラーメンと同じ味だったとしても 人は千円払った方を美味しく感じることが多い。
それは千円払った以上は400円よりは美味しいはず!と思いたい心理的な補正の結果である。
旅先で食べる料理の美味しさの数割はこの効果もあるのではないかと推測される。
 だからこそ420円のコーラが120円のコ○コーラであることをモロに客に見せたという事実から 心の平穏を保つために我々は爆笑するしかなかったわけだが。
詳しくは以下のショートストーリーを参照。

  SS(偽)「その時、確かに時が止まった・・・」
  彼はコーラを注文した。
そして、店員が運んできたものは確かにコーラに間違いはなかった。
ただ・・・

そこは繁華街にあるレストラン。
盆休みの土曜夜ということもあり、店内は雑多ながら活気に溢れた雰囲気を全力で醸し出していた。
その雰囲気の渦中にいた我々もその例外でなく、たわいのない談笑に夢中であった。
 彼の注文した「コーラ」が到着するまでは・・・。

「こちらコーラになります」
そう伝える店員が差し出したものは、氷のみが乱雑に挿入されたコップのみ。

 ―一瞬の間。

直後店員の手によりテーブルという舞台にコーラがその姿を顕した。
・・・正確に表現するならばコ○コーラの缶が。
それは自動販売機の中からこんにちは赤ちゃん!という風情で舞台上で観客の視線を一身に受けていた。
 我々の間に流れる時が・・・確かに止まった。
一般的に持ち込みが禁止されているレストラン。
その中で市販のコ○コーラの缶とコップがテーブル上でワルツを踊る様は滑稽に映った。
いや、我々も大人である。
これがレストランの舞台裏で日常茶飯事に上演されているバーレスク(茶番劇)であることは誰もが知っている。
だが・・・我々とて夢を見たい。
誰も420円のコーラが120円の缶コーラであることを目の当たりにしたいとは思わないのだ。
だが、目の前で展開される光景はその儚い願いを無に帰した。
あまりにも残酷な仕打ちに我々は・・・その様を写真にとって笑い話にしましたとさ。
めでたくなし、めでたくなし。


 この出来事から300円分の心理的対価を得るまで、私はこれを語り継いでいこうと思う。
・・・って私が300円分払ったわけではないが;

“助長と冗長と” 05.11/13 ネタ一覧へ
『インターネットが少年犯罪を助長している』

何かネット絡みの少年事件が発生するたびに、有識者が用いる常套句となっているこの言葉。
ネットと少年犯罪・・・その因果関係についてどうこういうつもりはない。
なぜなら、そう信じたい人に何を言ったところで無駄だからである。
だが有識者がこの「助長」をどちらの意味で用いているのかについては興味がある。
 「どちらの意味とは?」と思うかもしれない。
「長くすることを助ける」、文字からはそう連想できるし、実際に現在用いるのはこちらの意味であろう(これをAとする)。 つまり「インターネットが少年犯罪を増加させる要因となっている」とそう彼らは主張したいのである。
だがこの「助長」、本来の故事においては現在とはまったく逆の意味なのだ。
 適当に解説すると、
昔々、ある男が作物を早く大きくするためにと、手で上にひっぱって伸びるのを手助けしようとした。
その結果、作物は引き抜かれて枯れてしまったとさ、めでたしめでたし


・・・ってめでたくねぇ〜!!
要するに対象にプラスに働くと思って行った事がかえってマイナスの結果に結びつく、という意味だったのである(これをBとする)。
 つまりBの意味で冒頭の文を解釈すると
「少年犯罪を増加させる要因であるインターネットがかえって少年犯罪を減少させている」という意味に・・・なるわけはない。 それでは主張そのものが反転してしまうので、ロジック修正の必要があるだろう。
 ここで反転するのは・・・有識者にとってのインターネットと少年犯罪の相関関係である!
・Aの意味の場合、有識者にとってのインターネットと少年犯罪の関係はプラス、 つまり「インターネットが少年犯罪を増加させる要因である」というスタンスに立脚していることがわかる。
というかそんなことはわざわざ解釈するまでもなく、日常的に耳目に入る偏狭的な見方であろう。
・Bの意味の場合、有識者にとってのインターネットと少年犯罪の関係はマイナス、 つまり「本来少年犯罪を減少させるはずのインターネットがかえって少年犯罪を増加させている」というスタンスになるのである!
このスタンスだと普段インターネットを悪し様に言う有識者も実は心の中ではインターネットを良く思っていることになる。 そう、彼らは今風(少し風化気味だが)にいうならば「ツンデレ」的姿勢で批判していたのだヨ!!
ん?「んなわきゃ〜ない!」ですと!?
だが、彼らは有識者。彼らの「助長」は故事成語由来のBの意味で用いられているに相違ない!!

・・・以上、(長ぇ)前置きデシタ。

 このようにA、B、二つの意味を持つ「助長」。
流石に今「作物を伸ばすために作物自体を引っ張る」などという発想をする人はいないので、 Bの意味が風化するのも無理からぬことかもしれない。
だが、実際は現在でも同様のことが起っているのだ。
それは植物の「植え替え」時においてである。
 「植え替え」とは植物の生育状態にあわせ、その生長を助けるために行う移植作業のことである。
だが、狭い鉢から大きな鉢、または花壇に植え替えることは植物にとってプラスになるはずというスタンスに立脚したこの行為が、 タイミング・環境によっては逆にその植物の衰弱もしくは枯死につながることも少なくはないのである。
何故そうなるのか?それは植物の状態を見極めず、十把一絡げに扱う姿勢に問題がある。
これから土壌の栄養を吸収しようと根を張り出したところを強引に引き抜かれてしまえば、 その根を生やすために費やされたエネルギーは無駄に消費されてしまい衰弱、枯死につながるのは想像に難くない。
また植え替えられた土壌が根を張るには硬すぎたり、水分が多すぎても植物によっては害になりうるのである。
 このように現在でもBの意味の「助長」を用いるべき状況があるのに・・・ 私たちはその意味を思い出すことのできない性を持たされているのだろうか?
 それは多分この場合において「植え替え」方法の問題点よりも「植物自体の生命力・適応力の問題」に帰結したいからであろう。
だが、植物とて枯れたくて枯れるわけではあるまい。
彼らにサボテン君のように足があればそのまま枯死するのを待つより、 鉢植えから抜け出して枯死するまでの間に自分の根が張れる場所を求めるのではないだろうか?
・・・何か「トリフィドの日」っていう歩く食人植物が出てくる古い映画を思い出した。
ポスターがエ○ちっくなデザインでね。美女がトリフィドの触手に絡めとられていたりいなかったり。
・・・で何の話だったっけ?
そうだ!「助長」の反対に雑草を除草剤で枯らそうと思ったら突然変異が発生して、 かえって繁茂したという故事成語はないのだろうか?
さしずめ「助除」・・・「オラオラオラオラオラ!!」
 こんなオチではベタコラム化を助長しかねないな(Aの意味の方)

“第○代目 源氏物語” 05.12/29 ネタ一覧へ
『最初に:今回はビギナーモードとして伏線表示システムがONになっております。』

 聖地にて冬の祭典(行った事ない)が開催される年の瀬、 ふとラジオである文学作品の名を聞いた瞬間、私はあるデンパを受信した。それは
『日本最初の女性向け同人誌は源氏物語である!』
という日本文学会に大上段からケンカをかますようなものである。
・・・とはいえど、今は同人誌と商業誌の境界があいまいになりつつある時代。
このように提唱した人は多くいるのではないかと愚考する、したい、させて。
『源氏物語』が同人誌か商業誌かという点はこの場合問題ではないが、 紫式部が印税で生活しておらず、趣味爆発で書いていれば同人誌ということでお願いしたい。それよりも着目すべきは「女性向け」同人誌であると言う点である。
今回はこの「女性向け」から『源氏物語』を考察してみんと欲す

 『源氏物語』・・・簡単にいえば美形のマザコン青年が行く先々で様々なタイプの女性と ラブッたりラブられたりと概ねラブッたりする話である。
あと、幼女拾って自分好みの女性にプリンセスメーカーして収穫を目論むという 育成調教ゲームの先達みたいなことをされてる光源氏が主人公のお話だ。
・・・とこう書いてみると察しのよい人ならばある事に気付いたかもしれないが、 ここは先の論を進めるために一時的に見なかった事にしておいてもらいたい(伏線1)。

 この『源氏物語』が女性向けである理由は 女性にとって理想的な男性像(・・・かどうかは諸説あるかもしれないが)として描かれた光源氏と 様々な女性達との愛の模様にあると思われる。
当時の女性達が、主人公である光源氏ではなく登場する様々な女性の誰か(伏線2)に感情移入し、 「こんな男性に愛されたい、こんな男性と身も心もとろけるような恋愛がしてみたい」と 心躍らされたのは無理からぬことかもしれない。
何故ならば・・・(伏線3)。
 ともかくこの源氏物語が「女性向け」であることは、少女漫画の題材に用いられたり、 芝居等で光源氏を男役の女性が演じることが多いことからも定説と言ってもよいのではないかと思う。

 ここでふと思う。
この『源氏物語』が「女性向け」であるならば、 その鏡映しの作品がすなわち「男性向け」であるのだろうか、と。
つまり男性にとっての理想的な女性像である娘(伏線4)が様々な男性とラブッたり、ラブられたりする話が、である。

・・・はっきりいってしまおう。
否!であると。
そう、これはどう見ても世間でいうところの『ネオロマンス』です。本当にありがとうございました。

『ネオロマンス』、ゲームなら「アンジェ○ーク」や「遥か○る時空の○で」。漫画なら「ふしぎ○戯」系とでもいえばよいだろうか? 主人公の少女が美形の男性達にちやほやされたりツンデレされたりしながらある目的を達しようとする話である。 乱暴にいえば主人公が女で美形の男性のハーレム状態なら『ネオロマンス』と定義してもよいかもしれない。
 このゲームをプレイする人がそう周りにいたわけでもないし、アンケートをとったわけでもないが、 概ねプレイヤーは主人公の少女に感情移入し、「こんな美形のにーちゃん達に構われたいにゃー」と心躍らせていると思われる。
つまり早い話、この『ネオロマンス』は「女性向け」なのである。

さて困った。
『源氏物語』が「女性向け」同人誌という発想から進めたこの論が、 設定的に鏡写しであるはずの『ネオロマンス』までも「女性向け」という形で帰結しようとは。
これは一体、どういうことか?本当は『ネオロマンス』が「男性向け」なのであろうか?
 そうではない。乱暴にいえば『源氏物語』が「女性向け」であるという発想が間違っているのである。
「ヲイヲイ、そりゃないぜ?」と思うかもしれない。
だが、先に簡単に説明した『源氏物語』の概要を見てもらいたい。(参:伏線1)
この文面から“女性にとっての理想的な男性像”を引くと概ねこんな感じになる。
「青年が行く先々で様々なタイプの女性とラブッたりラブられたりと概ねラブッたり、 幼女拾って自分好みの女性にプリンセスメーカーして収穫を目論むという育成調教ゲームのようなことをする話」
実はこの概要から読み取れる設定、今ではギャルゲーやエ○ゲー、つまり「男性向け」のものであることに気付かれるだろうか?

 そう、平安時代に書かれた「女性向け」である『源氏物語』の設定が現代においては「男性向け」に変容しているのである!

 この変容が何故起ったのか?それは平安時代と現代の恋愛観、女性の立場の変化に起因していると思われる。
平安時代の女性の恋愛は基本的に屋敷に篭り、男性が通いに来るのを持つ、いわゆる「受身」であった。
つまり当時の女性はどんなに魅力的な男性がいても自分から積極的にアピールすることを禁忌とされていたのである。(参:伏線3) 自らが動けない以上、魅力的な男性が向こうから来てくれるのを待つしかない。でもそれはまさに“夢”でしかなかったのだろう。 そんな当時の女性達の夢を投影したのが『源氏物語』での光源氏(理想的な男性像)と女性達との恋愛だったのではないだろうか?
 この場合ポイントとなるのは登場する女性達が複数タイプ、 つまりそのうちの誰かに自らを投影できる可能性がある最小公倍数的存在として構成されていることである(参:伏線2)。
 だが現代のギャルゲーにおいてこの方式は“攻略対象”としての女キャラにおいて採用されている。
「12人妹がいれば、どれかはアナタの妄想にマッチした妹がいるはず」みたいな。
つまり『源氏物語』内の女性達は、現代のギャルゲー的解釈では光源氏の攻略対象でしかなかったわけだ。
このあたりからも当時の女性の恋愛観が受身であったことが見てとれる。

 対して『ネオロマンス』はウーマンリブが叫ばれて久しい昨今のオープンな恋愛観の反映ともいえる。
つまり女性は平安時代と異なり、自らの足と意志で積極的に魅力的な男性を選ぶことができるというように。
また恋に恋しているだけでなく、何かしらの目的(アンジェなら星の繁栄とか)を成し遂げるあたりも 女性の社会進出志向を反映しているといえるかもしれない。仕事も恋も両立みたいな。
 そのためか『ネオロマンス』の主人公である少女はプレイヤーである女性にとって感情移入しやすいように 最大公約数的な、しいていえば特徴のない(けど可愛らしい)女の子として描かれる事が多い。
だが、この最大公約数的存在の少女が男性側から見た場合、理想的な、悪く言えば都合のいい女の子に映るのも面白いところであろうか(参:伏線4)。 それ故に物語中で美形のにーちゃん達がちやほやするのだろうし。

 『源氏物語』は平安時代の女性にとっての理想的な恋愛を描いた物語であり、 また現代においても「女性向け」恋愛物語の代名詞的な存在である。
にもかかわらず、その『源氏物語』の設定が現代において「男性向け」に用いられているのは整合性がとれない。
 だが、こう考える事ができるのではないか?
『源氏物語』とはその時代の女性にとっての理想的な恋愛が投影された物語の総称なのだ、と。
戦後初期ならば『君の名は』が『源氏物語』であったし、平成初期ならば『東京ラブストーリー』がそうであったのかもしれない。 『源氏物語』はその時代に応じてその形を変えるものなのだ。
そう考えると『ネオロマンス』は現代の『源氏物語』の一つであると言っても過言ではないのかもしれない。

 ちなみに「男性向け」についても考察しないと論としては全く意味を為さないし、同じく「女性向け」である BLについても触れないといけないのも分かるのだが、 『源氏物語』考察からは離れすぎるのと脳沌先生によってシャットアウトされたので以下略。

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