江戸時代の有名な俳人といえば、真っ先に松尾芭蕉が思い浮かびます。
現在俳句として親しまれているものは、芭蕉の時代は俳諧と呼ばれていました。
芭蕉は独自の「蕉風俳諧」を打ち立てたことでも有名で、諸国を旅しながら紀行文のように
俳諧をしたためたのです。『おくのほそ道』『野ざらし紀行』など、紀行俳諧作品として現在でも
よく知られています。質素で孤高な雰囲気を持つ芭蕉ですが、彼には多くの弟子がいました。

芭蕉には弟子が多く、「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」と呼ばれる人々がいました。
これは弟子の中でも特に秀でた10人を指したものです。ただしこの10人には諸説あるため、
場合によっては人物が入れ替わることがあります。
どの説にも入るのが、宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草の4人とされています。
 
「蕉門十哲」呼ばれる弟子以外にも、違う考えを持つ弟子も歓迎していました。
松尾芭蕉自身の考えを押し付けることはせず、弟子たちの思うままに俳句を作らせています。

松尾芭蕉は「松の事は松に習へ竹の事は竹に習へ」という言葉を残しています。
これは「自分を捨てて、自分が表現したいものと同じになれ」ということです。
この言葉の意味は「物事の本質を見よ」ということで、松尾芭蕉が弟子たちに
自分の考えを押し付けなかったのは、自分だけの観点で見ることで、
表現の幅が狭まってしまうことを心配したのではないかと言われています。

芭蕉のこうした弟子の育て方は、「自分だけの観点で物事を見ていては、本質を見失う」
ということを教えてくれます。
自分の考えが正しいと思い込んでしまうと、それしか見えなくなってしまいます。
そうした「思い込み」があると、それが正解だと思い込み、別にある本当の正解に辿りつけません。
自分の考えを相手に押し付けるのではなく、相手を受け入れ、色々な考え方があるということを
大切にしていけば、本当に大切なものが何なのかが見えてくることもあるでしょう。
 
 蕉門十哲
 
宝井其角(たからい きかく) 蕉門一の高弟。『枯尾花』などの句集があります。
服部嵐雪(はっとり らんせつ) 古参の高弟で、其角と双璧をなす存在です。
森川許六(もりかわ きょりく) 画の名人でもあり、芭蕉に画を教えたとされます。
向井去来(むかい きょらい) 芭蕉に抜擢され『猿蓑』の編者となった人物です。
各務支考(かがみ しこう) 美濃派の始祖で、全国に蕉風を広めました。
内藤丈草(ないとう じょうそう) 『丈草発句集』などの著書があります。
杉山杉風(すぎやま さんぷう) 蕉門の代表的人物で、経済的に芭蕉を支援しました。
立花北枝(たちばな ほくし) 『おくのほそ道』道中で芭蕉と出会い入門しました。
志太野坡(しだ やば) 『炭俵』撰者の一人。芭蕉の遺書の代筆もしています。
越智越人(おち えつじん) 尾張蕉門の門人で『更科紀行』の旅に同行しました。
 
杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人の4人に代わり、以下の俳人の説もあります。
 
河合曾良(かわい そら)  『おくのほそ道』に同行しました。
広瀬惟然(ひろせ いねん) 美濃蕉門の門人で編著に『藤の実』があります。
服部土芳(はっとり とほう) 伊賀蕉門の中心的人物です。
天野桃隣(あまの とうりん) 芭蕉の縁者で甥といわれている人物です。
芭蕉記念館の企画展ポスターより
 芭蕉の流れを組む蕉門派
 
芭蕉には蕉門十哲の他にも全国に門人がいました。
近江・伊賀・尾張・加賀などでは門人たちが活躍し、特に芭蕉が旧里と呼んで親しんだ
近江は「近江蕉門」を輩出しています。近江蕉門は別名・湖南蕉門ともいい、
武士や僧侶、商人、医師、農民に至るまで幅広い人が集まっていたといいます。
「三十六俳仙」と呼ばれる弟子の中でも、近江の門人は12人と群を抜いており、
芭蕉自身も「行く春を 近江の人と 惜しみける」という句を詠んでいるほどです。
芭蕉が初めて近江膳所を訪れたのは『おくのほそ道』の翌年でしたが、
晩年には頻繁に訪問しています。思い入れの深い近江で優秀な門人たちを
輩出したことは、芭蕉にとっても喜ばしいことだったでしょう。
 
 芭蕉の弟子・河合 曾良
 
河合曾良は信濃国の下桑原村(長野県諏訪市)で生まれました。幼名は与左衛門でしたが、
6歳で両親が亡くなり、母の兄のもとで養われ、その後母方の親戚の養子となったため名を
岩波庄右衛門正字(いわなみしょうえもんまさたか)にあらためます。
しかし、12歳の時にはこの養父母も亡くなってしまい、伊勢国の住職である深泉良成に
引き取られました。相次ぐ父母や養父母の死に向き合い、つらい幼少期を過ごしたようです。


その後、長島藩主・松平康尚に仕え河合惣五郎を名乗るようになると、官職引退後は江戸で
神道や和歌を学び、松尾芭蕉の門にも入りました。曾良というのは俳人としての彼の名です。
こうして元禄2年(1689)には『おくのほそ道』の旅に随伴し、その名を歴史に残しました。

曾良の著書には『曾良旅日記』があります。これは元禄2年(1689)から元禄4年(1691)の
日記を中心とした覚え書きで、『おくのほそ道』のような情緒的な表現は見当たらず、
地名・区間・距離などが正確に書きとめられていたようです。
この曾良の書いた『曾良旅日記』は、この旅のガイドブックとしてたいへん貴重な文献でした。
『奥の細道』は、芭蕉が江戸に戻ってから、旅の記録を紀行文という形に創り上げた【作品】です。
ですから、『奥の細道』には旅の日程や行った場所を前後させたりする 【創作】が見らます。
その作品を旅が終わってから仕上げるために、芭蕉は曾良にも旅日記を書いてもらっていました。
曾良のの書いた旅日記は、たいへん役に立ったということです。

 『奥の細道』が完成するまでに、曾良は、大変貢献していたのです。
こういう有能な補佐役がいたというのが、芭蕉の人徳がなすものと思われます。

『おくのほそ道』本文の虚構や、稀少ともいえる発句の初案、また推敲(すいこう)の
過程などは、随伴した曾良だからこそわかる貴重なものといえるでしょう。
これらは、芭蕉がどのような意図や意識を持って、
『おくのほそ道』を制作していたのかを考察する上で必要不可欠な資料となりました。


昭和18年(1943)に山本安三郎が出版したことによってその全貌が明らかとなり、
それ以降『おくのほそ道』研究に貢献することとなりました。
 
外部サイトで『 曾良「奥の細道随行日記」』というページがあります。
作者の方が、とても詳しく調査されていて、素晴らしいサイトです。興味のある方は⇩へどうぞ!
曾良旅日記 (yamanashi-ken.ac.jp)
 
 弟子に愛されていた芭蕉
 
蕉門十哲をはじめとし、全国に多くの弟子がいた松尾芭蕉。
彼が死没した元禄7年(1694)10月12日の葬式には、300人もの門人が集まったといいます。
この数字を見るだけでも芭蕉がどれほど慕われていたかが分かります。
それだけ多くの弟子に慕われた芭蕉が『おくのほそ道』に同行させた河合曾良は、
きっと特にお気に入りのお弟子さんだったのでしょう。
彼の忌日は生前の号から「桃青忌」とも呼ばれ、現在も多くの方がその死を偲んでいます。
 
 旅に病んで・・・ta
 
松尾芭蕉は、1694年10月に、旅先の大坂で病に倒れ亡くなります。
その年の5月、芭蕉が伊賀上野へ帰郷するとき、曾良が箱根まで同行して見送りました。
それが、師弟の最期の別れです。

芭蕉は、帰郷した後、再び旅に出て大坂で病に倒れたのです。
 
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
 
これが、芭蕉の生前最後の俳句です。彼はこの句の前書きに「病中吟」と記しました。
突然、病に倒れたけれど、彼の旅への思い、俳諧への思いは、いまだとどまることなく、
駆け回っていたのです。まだまだ創りたいという、意欲が感じられる一句です。