常滑の登窯は江戸時代、天保5年(1834)に鯉江方寿の父、方救が真焼け物を効率よく生産する為に導入したのが始まりといわれています。
 江戸期の主流であった鉄砲窯(大窯)では、真焼け物を効率よく生産することが難しいため登窯の導入は画期的な出来事でした。
 この陶栄窯は明治20年に建築願いが愛知県知事に出されており、その頃に築かれた窯であることがわかりました。当初の窯は、薪や松葉で窯を焚いていましたが、明治30年代の後半になると第一室目の焼成に石炭が使われるようになり、折衷式と呼ばれる登窯が常滑では一般的になってきました。
 陶栄窯も、その頃に折衷式登窯になったと推定されます。従って現在残っている窯は、明治末期の姿をとどめていることになります。
 約20度の傾斜地に八つの焼成室を連ねた陶栄窯は、全長22M、最大幅9.6M、最大天井高3.1Mと大型の登窯の部類に属しますが明治末期の常滑では、このような 登窯が60基ほどもあったと記録されています。
 その後、常滑では石炭窯が一般的となり登窯の数は急速に減り現在ではこの陶栄窯が残るだけとなりました。そして、この窯も昭和49年1月の窯出しを最後に操業を停止し昭和57年に重要有形民俗文化財として指定され保存されることになりました。
案内板より  



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