藤江の渡し 
 衣浦大橋や、衣浦海底トンネルができる迄は、衣ヶ浦を渡って、
西三河と知多尾張を行き来するのに、渡し船が使われていました。
渡し船は地域の人たちの交通のあしとして、なくてはならないものでした。

 高浜には、田戸の渡し、森前の渡し、藤江の渡しと、
三つの渡し場ありましたが、そのひとつの“藤江の渡し”のおはなしをします。
 
 藤江の渡しは、江戸時代から始まったといわれています。
武豊線が開通した明治十九年以降は、東京や京都に行くのにも、藤江の渡しを利用し、緒川の駅から武豊線を経由して、東海道線に乗ったといいます。

 渡し船は三十人ほどの人が乗れる大きさの船ですが、乗客が四、五人も
集まれば、船はすぐでました。船頭さんは、交代で、夜明けから日の入り迄、
渡し守ををしていました。

 春になると、尾張や三河のあちら、こちらのお寺のお彼岸会や、
花まつりにお参りする人たちでにぎわいました。
また、小学校の遠足にも渡し船は利用されました。

 知多四国めぐりのお遍路さんが、白い着物にすげ笠、ズタ袋をさげ、
わらじばきで、よく渡っていった、なんとも、のどかな春の渡し場でした。

 夏には、三河は明治用水のおかげで、夏野菜がたくさんとれたので、
尾張から八百屋さんが、リヤカーや大八車で、吉浜の青果市場に仕入れにきました。
 そのころ知多郡は、まだ愛知用水がなかったので、夏野菜が、ほとんど
穫れなかったのでした。

 八百屋さんが、大八車に、西瓜や茄子、トマト、きゅうり、南瓜などを、
いっぱい積んでくると、遊んでいた子どもたちが、一斉にとんできて、
  子どもー壱「おじさん、手伝うよ」
  子どもー弐「おれも、手伝うよ」
  子どもー参「みんな一列になって、手渡しだぞ」
  おじさん 「おとすなよ~」 と、たのしいことでした。

 おじさんは、荷積みの作業が、終わると、子どもたちに、お駄賃をくれました。

 大正・昭和のはじめころの船賃は、大人が二銭、子どもが一銭、
それに自転車が二銭、少し大きな大八車やリヤカーは五銭でした。
風の強い日には、二人の船頭さんが、二丁櫓でこぐので、船賃も二倍になりました。
 そのころ、アンパンが二銭でした。今は百円位、吉浜から高浜港までの
電車賃が、五銭だったのですが、今は百九十円です。(参考:令和元年頃)


 秋になると、秋まつりで人々が、よく船で、行き来をしました。おまつりは、
それは、それは、楽しいものでした。大人たちは、たくさんのご馳走をつくり、
お客さんのおいでを待ち、子どもたちは、きれいな着物をきせてもらって、
お友だちと、誘い合わせて、氏神様にでかけたものでした。

 参道には、金魚すくい、綿菓子、お面や、たい焼き
ヨーヨー屋さんが並び、とても賑やかでした。

 神社では、神様に奉納される「かけ馬」行事や、「射放弓」が行われます。
射放弓は、日の出と、日の入りの方向に、白羽の矢を放つ神事です。
ともに伝統芸能ですが、「射放弓」は、昭和五十年、
第一号の高浜市「市指定無形文化財」となりました。

 こうして、さまざまの人びとの足となって活躍していた渡船の船頭さん、
船にのり遅れた人が、岸から「お~~い」と呼べば、引き返して
船に乗せてくれた、人情ぶかい人たちでした。

 冬になると
  おばあさん「メグナえびぃ~~~」
  おばあさん「メグナえびぃ~~~」とおばあさんが乳母車で行商にきました。
  お母さん 「メグナえび、くださぁい~~~」

 ※「メグナえび,」とは、大きさ一センチから二センチぐらいの小さな
   エビの仲間です。そのころ、衣浦湾では、イワシやボラもよくとれ
   ました。イワシの大群がおしよせて、海が黒くなったこともありました。

ももの節句の近づくころは、
 おばさん「おひなさん、いらんかえぇ~~~」
 おばさん「おひなさん、いらんかえぇ~~~」
と、土びなを尾張から、
おばさんたちが、売りにくるのでした。
子どもたちはわれ先にと、人形を見にいったのです。
 子どもー壱「あ!可愛い」
 子どもー弐「ねえ、可愛い、おひなさま買って」
 子どもー参「私も買って~」
 おばさん 「どれがいいかえ」

 尾張から三河へ、三河から尾張へとたくさんの婚礼もありまりた。
花嫁さんの美しい子こと、仲人さんや、親せきの人たちが、
舟をいくつもつらねて、この海を渡ったのです。
あたらしい生活のスタートをきった、大切な思い出の渡し場だったのです。

 尾張・知多方面は、昔から、桟屋さん(?)が多くて、三河地方の娘さんが、
小学校を卒業すると、桟屋さんで、働くために、この渡船に乗ったものです。

 昭和三十一年、衣浦大橋開通と同時に、この渡船もなくなりました。
いま、渡し場あとに佇むとき、のどかだったあのころの海や
渡船のことを思いだします。

    さざなみの 沖に白帆の二つ三つ
         衣が浦(ころもがうら)の秋の夕ぐれ

 年を多く重ねられた人々の胸には、しっかりと、
「藤江の渡し」のあったころの思い出は残っています。

                                おしまい

 
  おまんと

愛知県尾張地方や西三河地方(現在の高浜市、刈谷市、安城市、碧南市、知立市)の丘陵部や平野部で広く行われてきた祭りの一つに「馬の頭=塔(うまのとう)」があります。これは雨乞いや豊作を祈願して、神の依り代(よりしろ)となる御幣(神祭用具の一つで、紙または布を切り、細長い木に挟んで垂らしたもの)を背に乗せ、飾り馬具(鈴をつけた鞍「鈴鞍(れいくら)」や花などで飾り付けた馬具)をつけた馬を社寺に奉納するという「飾り馬献納」と、馬場で馬を走らせる「走り馬」の2つの行事による祭礼で、その表記は「ウマノトウ」「オマントウ」「オマント」「献馬」「飾馬」「花馬」と土地によって様々です。

名古屋の熱田神宮では、5月5日に行われる祭礼で、神事に奉仕する者は「頭人」、馬に関わる者は「馬頭人(ばとうにん)」と呼ばれていました。この馬頭人こそが馬の頭の由来になったとも言われ、熱田神宮の馬の頭では、飾り馬を奉納する「本馬(ほんうま)」と、派手な出で立ちの人々が剣祓(けんばらい/剣先の形をしたお札)をつけた裸馬につながれた綱をもって共に走る「俄馬(にわかうま)」が行われていました。特に後者は「熱田の走り馬」として知られ、これが派生し、知多湾岸の各地で独自の発展を遂げたのが「おまんと」だと考えられています。

  射放弓
 お弓奉納の儀として約350年もの歴史を誇る
お祭りで、1659年に神明社が現在の地に
遷宮されたとき始まった神事です。
 斉戒沐浴をし、裃に大小の刀を差した武者姿の
若者が、厳しい作法にのっとり、東西へ白羽の矢を
放ちます。放たれた矢は、魔除けの効果が
あるとして、見学者が争うように拾い、
破魔矢として家に飾る風習があります。
 万治2年吉見喜左衛門尉源経孝という人物が
射放弓のお墨付きを下したことから始まりました。
村の安泰と災厄除去を願って放つのですが、
矢を放つまでに約1時間にもわたる長く厳しい
作法は、昨年のお弓奉納者から今年のお弓奉納者へ
と受け継がれ、300年の伝統を今も守っています。
9月初めから日曜日を除く毎日、午後8時~10時まで夜遅くまで修練に励み、多くの観客に
見守られながら毎年天高く矢が放たれます。

昭和50年12月に高浜市無形文化財に認定されました。
 

祭礼の日の早朝から夕方までに4回、日の出と日の入りの方向に白羽の矢を射放つ