ヤナーチェクのオペラ:

作曲家ヤナーチェクについて

主たる種本は、マッケラス指揮「利口な女狐の物語」(デッカ)のCD解説です。この国内盤も見かけなくなって久しいです(が、輸入盤なら見かけます)。

 Leos Janacek
  (本当は、s, c の上に小さい v みたいな記号、
    a の上にアクセントみたいのな記号が付く)

1854年モラヴィアに生まれ、1928年モラヴィアで死んだ、チェコの大作曲家。誤解されがちですが、モラヴィアはチェコの東半分であり、スロヴァキアには属しません。ボヘミア+モラヴィア=チェコ、で大体いいようです?

モラヴィアの中心都市ブルノはドイツ人の建設した町で、チェコ人であるヤナーチェクはスラブ民族意識を強く持っていたようです。ロシア語を自由に操れたというのがチェコ人にとってどれほどのことなのか見当つきませんが、少なくとも チェコ語はアルファベット圏内であり、ロシア文字ではないのですから、かなり努力してのことなのでしょう。ただこのロシアへの傾倒はロシア音楽には向かわず、ロシア自然主義文学に向かったようです。材料を直接ロシア文学に求めた作品以外の作品からも、他の誰にも似ていない、自然主義の響きがします。

#自然主義の響きとは? ヤナーチェクの響きのことかな?
#シェーンベルク=表現主義、も似たような言い方でしょうし
#気にしない気にしない・・・

幼少時代は特に神童というわけではなかったようです。1876年から仮教員、1880年から正規教員として音楽等を教えていたのだから、モーツァルトやシューベルトのような金銭的苦労は無かったようで、もっぱら指導者兼演奏家(合唱指揮等)として音楽と関わっていました。

このヤナーチェクの飛躍のきっかけは、民謡の収集に燃える民族学者バルトシュとの出会いで、耳で聞いて直接採譜という恐ろしい方法で1888年から始めて、1901年には2057曲を集大成したというあたりから、常人ではないところが明らかになってきます。民謡の採譜では手回し録音機を持ち歩いたバルトークが有名ですが、ヤナーチェクこそ元祖を名乗れるわけです。

この姿勢と努力が作曲家としての個性を成長させて、その最初の成果が「イエヌーファ」だ、ということになっています。既に50才近いのですから筋金入りの「大器晩成」型です。

主要ピアノ作品はイエヌーファと同時期ないしその少し後に固まっていますが、既に高度に完成されていると思います。ただし、ものすごく弾きにくい。プロでも大抵弾きにくさを隠し切れない演奏になってしまいます。「草陰の小径にて」(第1集10曲+5曲)、ピアノソナタ「1905年10月1日」 、「霧の中で」、が主要作品、CDではルディが結局一番いいのかなぁ?

「イエヌーファ」完成まもなく娘オルガが病気で早世し、その悲しい想いが「草陰の小径にて」にも反映されていますが、これで子無しになったヤナーチェクはよき夫であることもやめ始めたようです。大分後のことになりますが、1917年から38才年下の人妻と老いらくのプラトニックラブに陥ったのですが、これが創作意欲に火をつけ、「イエヌーファ」とピアノ曲以外の有名作品は全てこれより後、1928年の死までの間に集中することになりました。ただ、ピアノ曲の水準の高さを見るにつけ、この老いらくの恋は、既に円熟していた作曲家に、創作の動機づけを与えた、と見るべきなのでしょう。

1928年、その恋人一家を亭主息子ごと招待し、その時にその恋人の息子が一時的に迷子になったのを必死に探したのが原因で風邪をこじらせ肺炎になり死に至ったのですが、

享年74才、チェコ国内では押しも押されぬ大作曲家、国際的に見ても、知る人ぞ知る状態にまでなっていたのですから、作曲家という範疇内では幸せな一生を過ごした方といえるでしょう。

管弦楽曲「シンフォニエッタ」「タラス・ブーリバ」、宗教曲「グラゴルミサ」、弦楽四重奏曲「クロイツェルソナタ」 「内緒の手紙」、といったところが有名どころなのでしょうが、

もしあなたがオペラどころかヤナーチェクを全然聞いたこと無いなら、迷わず弦楽四重奏曲2曲をお勧めします。私は普段はスメタナ四重奏団の4回目の録音で聞いていますが、これらの曲のとんでもなく出来の悪いCDなぞ無さそうな気がするので、手近なところで2曲共入ったのを探してください。まず間違いなく老いらくの恋について詳しい解説が入っていると思うので、ここでは省きます。

「シンフォニエッタ」も悪い曲ではないけれど、ヤナーチェクの精髄というわけにはいかないでしょう。「グラゴルミサ」は本格派だと思います。いい演奏いい録音のが容易に入手できる状態になっていれば、2枚目にはむしろピアノ作品集を勧めたいところなのですが。。。

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