映像記録されるオペラ

オペラの舞台そのまま(ないしそれに近い状態)を収めたものと、ロケを行うなどして映画風にオペラを収録したものとに分けられます。所有DVD/LDリストを見直してみると、

舞台を収録したもの:

ドン・ジョヴァンニ
コジ・ファン・トゥッテ(グラインドボーン)
コジ・ファン・トゥッテ(チューリヒ)
魔笛
アルジェのイタリア女
チェネレントラ
ノルマ
ユグノー教徒
ファウストの劫罰
イル・トロヴァトゥーレ
ニュルンベルクのマイスタージンガー
こうもり
カルメン
ニーベルンゲンの指輪
パルシファル
ペレアスとメリザンド
薔薇の騎士
利口な女狐の物語
トゥーランドット
死者の家から

 

映画風に作られたもの

フィガロの結婚
セヴィリアの理髪師
リゴレット
トスカ
サロメ

圧倒的に舞台の収録が多くなっています。ただでさえ金の掛かるオペラをさらに映画風に撮り直すよりは、舞台をそのまま写して済むものなら・・、という簡単な話だとは思いますが、私が映画風をちょっと避けているというのもあります。虚構の夢の中にオペラの魅力があると思うからです。

オペラと比較すべきものは歌舞伎をおいて他に無いでしょう。南條年章著「これで、オペラがなお、おもしろい」(発行:フリ−スペース 発売:星雲社)でも、洋の東西を代表する総合芸術である歌舞伎とオペラはいずれも17世紀に入る頃成立している、と紹介されています。総合芸術とは何かと聞かれても困るのですが、この2つは「型」で表現する芸術である点で共通しています。

歌舞伎での「見得」は現実のものではありません。気が狂っていてもなかなかあんな格好をする人は居ません。でも「見得」は歌舞伎の舞台という特殊な環境の中で、「見得」でしか伝えられないものを伝えるために「切られる」のです。どんな歌舞伎でも、ロケを使っての映画風収録というのを想像できますか?。勧進帳を現実の安宅関でロケをするならば、NHKの大河ドラマ風に現代日本語でやるしかないと思うのです。

オペラでは「何故か」みんな歌っています。それだけでも「見得」の上を行って精神病院ものです。これが芸術になるには、歌うのが当たり前の「舞台」という特殊な背景を必要とすると思うのです。

舞台を離れたオペラがどうなるか。序曲の後に合唱から入るというオペラの典型的様式が、よく考えてみると特におかしいのです。物語が始まったばかりで、見物人は何の予備知識も無いはずなのに、なぜ多数の人々が(歌うことをさておくとしても)全く同じことを声を揃えてしゃべっているのか。「リゴレット」の冒頭の風景はマントバ公爵の豪華絢爛たる宮殿に着飾った多数の客、当然そこでは雑多な喧騒が起こってしかるべき、と視覚から感じるのに、その客達が突然声を揃えてしゃべりだすのです。オペラ「リゴレット」の映画仕立ては、その筋書きをそのまま映画にしようとするなら絶対やるはずのない珍演出になってしまうのです。

同じことでも、舞台でなされた場合には、「これはこういうものなのだ」という諦めがつくのです。「トロヴァトーレ」も「リゴレット」と近い時期と様式の作品で、勿論合唱から入りますが、舞台というのはそういうものだ、と納得して見ることができるので、さほど違和感を感じません。

加えて、セクハラ発言まがいになりますが、歌手の容姿というのも大問題。「リゴレット」にジルダ役で出てくるグロベローヴァはちょっと勘弁して欲しいのです。同じ樽体を披露するにしても舞台上でのドンナ・アンナ役(ドン・ジョヴァンニ)なら見るに耐えます。・・・とはいいながら、同じLDでもツェルリーナを見ている方が目に楽しいのは否定できません。「トスカ」でタイトルロールを歌ったカバイヴァンスカ位に美しければ、映画仕立てでも容姿の不満は出ませんが。

と、くどくどと舞台という特殊空間の効用を述べてから、改めて「フィガロの結婚」を振り返ると、劇として卓越していることに驚かされます。序曲に続く二重唱から極めて自然に物語に入っていけます。なぜか登場人物が軒並み歌を歌っている、という根源的な不思議に目をつぶることができれば、映画仕立てに耐えることが出来ます。「カルメン」は次の機会に取り上げましょう。

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