後南朝の史跡を訪ねる




嘉吉3年 (1443)9月23日、南朝復興を唱える日野有光らの勢力が、
後村上天皇の皇玄孫で、相国寺塔中・常徳院にあった通蔵主と、その弟で萬寿寺(相国寺と同じく京都五山)にあった金蔵主を擁立し、
後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入。
『禁闕の変』が起こる。

後花園天皇は女官に紛れて脱出し、暗殺は未遂に終ったが、
三種の神器のうち、神剣と神璽は、典侍が奉持して逃げるところを後南朝方が奪取。
剣璽を奪取の上で後南朝方は、禁裏の各所に放火、それから比叡山に逃れた。
比叡山で旗揚げすれば、後醍醐天皇の前例のように僧兵が味方すると踏んだのだが、山門衆徒らは、すぐに幕府に通報。

      24日・朝敵追討の綸旨が後花園天皇より出される。

      25日・比叡山僧兵が後南朝方を攻め、後南朝方は敗北。日野有光、金蔵主(萬寿寺宮)は討死。通蔵主は生捕。

      26日・日野有光の子、資親が逮捕。

      28日・日野資親ほか50名余が六条河原で斬首。清水寺に遺棄されていた草薙神剣が僧によって発見され、禁中へと届けられる。

      通蔵主は流罪となりるが、移送途中に摂津国太田で斬首。

      聖承王の子で、勧修寺門跡であった教尊は、嘉吉3年10月2日、禁闕の変との関係を疑われ、捕らえられ流罪。

事変そのものはすぐに鎮圧されたが、この「禁闕の変」の裏にあったのは、
南北朝合一に際しての条件となっていた、南北両皇統の迭立が反故にされたことに対する、南朝勢力側の怒りであった。


神剣は禁中へと戻ったが、三種の神器のひとつ『神璽:八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』は、後南朝方に持ち去られ、
14年間、行方知れずとなってしまった。

八尺瓊勾玉が再び世に現れるのは、『長禄の変』によってである。

嘉吉の乱(1441年)により取り潰された守護大名・赤松家の遺臣たちは、お家再興を図る為、
吉野よりも更に更に、奥深い山奥にある後南朝の、北山宮と呼ばれる皇族の元に神璽が奉安されているという情報を得、
大和の豪族・小川弘光とともに、
北朝方や将軍家が血まなこになって探していた神璽を、後南朝方から奪回することを計画。

長禄元年(1457年)初頭、北山宮に対し、
旧赤松家々臣の石見太郎、丹生屋帯刀、上月満吉らが、仕官したいとの申し出をしたが、
しかしこれは石見太郎らの策略であって、彼らは、一年近く後南朝方に仕えつつも、油断をうかがい、
12月2日、雪の夜、
吉野の奥で、北山と川上に本拠を置いていた後南朝の御所を同時に襲撃。これが長禄の変である。




北山宮は、後村上天皇の皇末孫とされているが、父親には色々な説があって、出自のはっきりしない皇族である。
弟宮があって、それぞれ一の宮、二の宮とも呼ばれたが、構えていた御所の場所から、北山宮、河野宮と呼ばれたり、
また、北山宮尊秀王としたり、弟宮を河野宮忠義王としたり、
北山宮を自天王と称したりもしている。

後南朝の主として、一の宮は北山郷(奈良県北山村)に、
二の宮は河野谷村(奈良県川上村神之谷)にそれぞれ御所を構えていた。

一の宮の御所跡とされるのが、南帝山瀧川寺である。


北山には、丹生屋兄弟が討ち入り、宿直の井口三郎左衛門尉を斬り殺し、北山宮の首を取り、神璽を奪い、

川上には、間島彦太郎他合わせて 8人が討ち入り、河野宮の首を取る。
(河野宮は、その場は死地を脱したものの、南帝王の森(川上陵墓参考地)にて最期を遂げたという説も)

彼らは、2人の宮の御首と神璽を奉じて逃走したが、折から降る雪の中、伯母谷にて退路を断たれ、
更に、橘将監を始めとする後南朝を支持する吉野の郷土たちが、赤松党を迎撃、
塩谷村の弓の名手・大西助五郎が、赤松党の頭であった中村貞友を射殺し、
丹生屋兄弟、中村弾正忠、中村太郎四郎等も討殺され、井口太郎左衛門によって神璽も取り返されてしまった。

(戦闘のなか、雪に埋められて隠された宮たちの御頭から血が染み出し、これによって御頭は発見されて後南朝方へ戻る)


北山宮の墓は宮内庁によって管理され、瀧川寺の後山にある。御墓の石垣や石段は、明治36年に宮内省(当時)の工事によるものである。
宮内省告示第1号 『恒生皇子外二王子御墓左ノ通御治定アラセラレル』という表記の官報を以って、明治45年1月29日御治定となった。



瀧川寺は、前方に流れの速い川があり、後方は険峻な山が聳えている、天然の要害の地である。
2人の王子が、大普賢岳から伯母ヶ峰までの大山脈を挟んで、北山村と川上村に分かれて住んでいたのも、
それぞれが南北の方向へ睨みを効かし、
北山村は、国道169号線から見ると、熊野方面から北上する敵を迎える砦だったであろうし、
川上村は、吉野山を越えて南下してくる敵を迎える砦だったのだろう。どちらも山を背にする事で、高い位置から敵に攻撃出来る利点がある。
北山村も川上村も、どちらも平坦な土地の少ない、川と山だけが有るような場所だ。



その後、神璽は北山宮の生母が保管していたが、翌年の長禄2年(1458年)3月末、小川弘光がその屋敷を襲い、神璽を強奪。
幕府は小川と交渉し、その年のうちに神璽は京都へと還御。この功により、赤松家は幕府に再興を許される事となった。

このようにして、後醍醐天皇より始まった南朝の末裔たちの血筋は絶え、応仁の乱以降、歴史から姿を消したのであった。



北山村の瀧川寺に比べて、河野宮御墓のある金剛寺は、かなり分かり難い場所に有る。
もう、どう見ても林道にしか見えないような道を、しかも急斜面の道をぐんぐん上がっていって、小学校の脇を通り、
民家も無い、本当に林道のような道を更に進み、軽自動車でもUターン出来ないだろうなぁと不安になってくる心を押さえつけ、
二股になった道を右側を選択し、更にまた二股になった場所で、やっと「金剛寺」という朽ちかけたような看板を見つけ、
どんつきに公民館の有る、人家のまったくない場所まで行き着いた先に、目当ての場所はあった。まさに、隠れ寺だ。
朝拝殿とか寺務所に前を通り、石段を登っていくと、「後南帝菩提所・金剛寺」の本堂。ちょっと1人ではあまり訪れたくない、誰もいないのが怖い。



土足厳禁という事で、靴を脱いで本堂へ上がり、先ずは参拝。夏らしく、蝉がなく声だけしか聞こえない。蚊はすぐに寄ってきた。虫除けは必要。
下のほうに見るにが朝拝殿。緑が濃い。



本堂の南側の、蔵の形をしたコンクリート建築が御朝拝式の舞台となる宝物殿。鉄の扉には菊花の紋章が穿たれている。
中には、一宮(自天王)の遺品である甲冑が納められていて、
御朝拝式は、毎年2月5日に、後南朝の家臣の末裔である「筋目衆」たちによって行われる。






河野宮の墓域内に、宝篋印塔が2基あるが、
地元の伝承のよると、ここは一の宮の墓所で、一の宮の首を赤松一党から取戻した後、二の宮と共に金剛寺に葬ったとしており、
二の宮の墓所とする宮内庁の指定と食い違っている。

元々、北山村での伝承と、川上村での伝承が、食い違っていたのではないだろうか。
川上陵墓参考地(吉野郡川上村字高原)にも、二の宮の墓との伝承があって、ややこしい。



真実を知るのは墓の主たちのみ。550年余の歳月を経て、後南朝の悲運の兄弟皇子は、奥吉野の山々に抱かれて今も静かに眠る。


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