白瀬中尉のその後


南極探検隊長として知られた白瀬矗(のぶ)中尉が、終戦翌年の秋、愛知県豊田市神明町2丁目にて亡くなられた事はあまり知られていない。
亡くなられたときに住んでいた家屋の跡地に、昭和54年3月15日、豊田市によって石碑が建てられている。


石碑の右側には、
「白瀬中尉、本名矗(のぶ)、日本人として最初の南極探検を企て南緯80度5分の地に至り大和雪原と命名する 
 昭和21年9月4日86才でこの地に没する 第一次南極地域観測隊長永田武書」 とある。


白瀬中尉が豊田市(当時は西加茂郡挙母町)に移り住んだのは、死去のわずか3週間前であったが、
昭和21年8月、京都から孫の河口潮を頼って、妻(当時75歳)と娘、娘の長女との4人で移り住んだのである。
白瀬中尉の娘の名前を武子(当時50歳)と言い、その息子が河口潮で、戦後、満州から引き上げてトヨタ自動車に就職していた。
河口潮の妻の実家が、この石碑の場所から東へすぐの場所に有り、河口潮はそこに同居していた。
この石碑の有る場所には鮮魚仕出屋を営んでいた鈴木明治という人がいて、その二階を白瀬中尉たち四人は間借りしていた。
石碑の隣りには昔、白瀬中尉たちも通ったであろう鶴の湯という銭湯があったが、ごく最近になって取り壊され、今はホテルの駐車場となっている。



白瀬中尉の死因は、栄養失調から来た腸閉塞症。
総額5千円の貯金は、戦後の貯金封鎖によって、3割の手数料が取られるので現金として引き出せなかったというのも有るが、
軍人への恩給停止により月額56円の収入が途絶え、先々の収入のあてが無い状態であった。

残されたやす(白瀬中尉妻)は白瀬中尉の遺骨と共に、武子と孫娘・喜子との3人で、
昭和22年の末に幡豆郡吉良町(当時は横須賀村)の西林寺へ転居。ここを永住の地と決めて本籍を移す。
武子は横須賀中学校の家庭科と保険の講師として通勤した。


西林寺は、伝教大師の創建と伝え、往古は医王山瑠璃光院と称する天台寺院であった。
度々火災に会い、須美村、瀬戸村椿屋敷、そして現在地と転々とした。その間浄土宗に転宗し、名も西林寺と改めた。
室の城主吉良家々老・富永家累世の香華所で、往時は殿堂も完備していた。境内に白瀬南極探検隊長の墓が有る。
また門前の椎の老樹は樹齢700年と推定され、町の天然記念物に指定されている。


昭和26年4月18日、白瀬中尉妻・やすは、この地にて死去。
武子は、両親の遺骨を西林寺裏山の墓地へ仮埋葬し、昭和27年、娘の喜子を連れて、東京へ転居。

昭和32年3月、白瀬中尉の甥にあたる秋田県金浦町(現在のにかほ市)の浄蓮寺住職・白瀬知燈がこの墓を訪れ、
中尉夫妻の分骨を申し出た事で吉良町内でその存在が知られるようになり、分骨によって新たに金浦町の浄蓮寺内にも墓地が作られた。



昭和33年10月4日、西林寺の白瀬中尉墓は吉良町史跡保存会によって整備され、
墓石の表には「南極探検隊長 大和雪原開拓者之墓」と記され、
裏面には、
「南極院釈矗往 俗名白瀬矗 昭和二十一年九月四日於挙母市逝去  釈尼妙安 俗名やす 昭和二十六年四月十八日於当地逝去」
と記されている。


現在、白瀬中尉の墓の周りは整備されて、南極の地図を掘った石版が墓の前に据えられ、
ペンギンの銅像と墓の由来記などもあり、
平成21年9月6日には、海上自衛隊からの貸与で南極観測船「しらせ」(初代)のスクリュー4枚羽根のうち1枚が展示されている。


『南極観測船「しらせ」スクリュー』
「しらせ」は、「宗谷」・「ふじ(名古屋港に係留中)」についで建造された南極観測船で、横須賀を母港とする海上自衛隊の艦船であった。
名称は白瀬矗南極探検隊長に由来するが、公式には艦名を地名から採用する原則に従い、「白瀬氷河」に因むとされる。
平成20年に退役し、後継船の名称も公募により「しらせ」と命名された。

「しらせ」初代
全長134メートル 全幅24メートル 排水量11600トン 進水1981年12月11日 就役1982年11月12日 退役2008年7月30日
乗員自衛隊員170人+観測隊員60人
展示スクリュー 4枚羽根のうち1枚 重量約3.7トン 高さ2メートル 幅1.7メートル 材質 鉄・チタンの合金
                                                                           『吉良町教育委員会』



白瀬矗略歴
文久元年(1861年)6月13日秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市)浄蓮寺の住職・白瀬知道の長男として生まれる。
明治12年(1879年)、軍人を目指し日比谷の陸軍教導団騎兵科に入校。
明治20年(1887年)仙台市内の海産問屋の娘、やすと結婚。
明治26年(1893年)に予備役となり、郡司成忠大尉率いる千島探検隊に加わる。

日露戦争では遼東半島に派遣され、明治39年1月に中尉に叙されて凱旋。

明治42年(1909年)、アメリカの探検家ピアリーが北極点に到達。
次に誰が南極点に到達するのかが国際的な話題となっていた。

明治43年(1910年)探検の費用補助を帝国議会に建議。
衆議院は満場一致で可決したが、桂内閣は探検が失敗したときの責任を恐れ、補助金の支出を拒否。
渡航費用は、国民の義捐金を募る事となった。
7月5日、大隈重信を会長として、南極探検後援会が組織された。
元漁船で、千島遠征に使用された積載量204トンの木造帆船・「第二報国丸」を2万円で買い取り、
中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施し、東郷平八郎によって「開南丸」と命名された。
11月28日、開南丸は隊員27名を乗せて東京・芝浦埠頭を出港。5万人が見送った。

明治44年(1911年)2月8日、ニュージーランドのウェリントン港に入港。2月11日に南極に向け同港を出港したが、
氷に阻まれ危険が増した為引き返し、5月1日にオーストラリアのシドニーに入港。
11月19日、再び南極を目指し出港。

明治45年(1912年)1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名。
上陸してみたが、危険で探検に不向きな地であった為、ロス棚氷(白瀬海岸)・クジラ湾に移動し、再び上陸。
隊を二手に別け、
第1班の突進隊は、白瀬中尉自らが隊長となって西経145度附近を踏査し、
第2班の沿岸隊は、気象潮流の関係を観測することとなった。
更に第1班は、可能な限り南極地に進むこととなった。

1月20日に極地に向け出発。
探検隊の前進は困難を極め、28日に帰路の食料を考え、極点到達を断念、
南緯80度5分、西経165度37分の地点に日章旗を掲げ、ここを「大和雪原(やまとせつげん)」と命名し、隊員一同「万歳」を唱和。
同地には「南極探検同情者芳名簿」を銅箱に入れて埋めた。このとき白瀬中尉51歳。


6月中には隊員全員芝浦に帰港。
帰国後、白瀬は隊員の給料や渡航費用を支払う為、数万円の借金を背負う事になる。
家財一切を売却し、日本から外地まで講演して回り、20年をかけて渡航の借金の弁済に努めた。



昭和32年(1957年)1月29日、オングル島に昭和基地が建設された。
この日が「南極の日」になっている。



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