犬山名産・忍冬酒を飲む



愛知県犬山市内にある、慶長2年(1598年)創業の老舗・和泉屋小島醸造に、忍冬酒を買いに行ってきました。
保命酒
や、養命酒と同じように薬用酒(リキュール)で、滋養に良さそうです。スイカズラ(忍冬)のエキスが含まれています。
小島醸造は、犬山城下町としてのメインストリート・本町通り(今も木造町屋造の建物が多い)よりも1本東側の通り、
練屋町通りにあって、国の文化財建造物として登録されています。



紀伊忍冬酒」や、「遠州忍冬酒」など、諸国でも生産されていたのですが、現代まで中断せずに続いているのは、この一軒だけとなりました。
添付された「しおり」を読むと、オンザロックのようにして冷やして飲むと良いようです。
味はと言うと、薬草酒というか、何とも形容し難い味ですが、甘味は有るけれど、そんなに甘過ぎるというようでもないです。
むしろ、漢方臭くなくて、飲み易いと思います。アルコール度数は24度。ちびりちびりと飲んでいきましょう。
徳川家康も好んだとか、将軍家にも献上されたとか、逸話が面白いです。



忍冬(スイカズラ)の漢方薬としての効用

和泉屋小島醸造


さて、練屋町通りや本町通りをブラブラしてから、国宝犬山城の隣にある有楽苑へと行ってみましょう。
入場料に追加してお茶券も買えば、正伝院書院の縁側でお抹茶も頂けますよ。移動移動。



附『如庵』

犬山城の隣り、名鉄犬山ホテルの敷地内に、有楽苑という庭園が設けられ、そこに如庵は移築されている。
現存する茶室のなかで、
京都府大山崎町の妙喜庵(臨済宗東福寺派)内にある「待庵」と、京都市北区の龍光院(臨済宗大徳寺派塔頭)内の「密庵」。
そして如庵、この3席が国宝に指定され、国宝茶席三名席と呼ばれている。



如庵は、織田信長の実弟・織田有楽斎(織田長益)によって、正伝院(京都市建仁寺内塔頭)内に、書院等と共に、建造された茶室で、
明治41(1908年)年、東京麻布今井町の三井本邸に売却・移築され、更に昭和13年(1938年)神奈川県大磯の三井家別邸「城山荘」に移築。
文化財保護法によって、昭和26年には国宝に指定され、
昭和47年(1972年)名古屋鉄道の所有するところとなり、名鉄傘下のホテルの有る現在地に移築。


織田有楽斎(1547〜1621)は、通称を源五郎、名を長益といい、尾張の戦国大名・織田信秀の第11子である。
本能寺の変(天正10年・1582年)で信長が殺害された後は、
甥である織田信雄へ出仕し、
小牧・長久手の戦いでは、織田信雄・徳川家康と対立する豊臣秀吉との講和折衝役を務める。
天正18年(1590年)の信雄改易後は、豊臣秀吉の配下に下り、御伽衆となった。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、参戦。
戦後、徳川家康より大和国内で3万2千石の禄を与えられたが、淀殿の叔父である立場から、豊臣秀頼の補佐役として大阪城に勤め、
大阪冬の陣ののち、夏の陣を前にして元和元年(1615年)京都に隠棲。
翌々年、当時荒廃していた建仁寺の塔頭・正伝院を再興して、自身の隠棲所と定めた。
元和7年(1621年)12月13日、正伝院内で死去。75歳。建仁寺山内に墓が有る。


如庵の外観は、
正面は南向き、一見すると入母屋造にみえるが、切妻造の前面に庇を付けおろし、左側は本屋根を葺きおろして片入母屋風である。
正面左端の土間庇に向けて(西向きに)にじり口が設けられており、正面からは見えない。
正面から見える貴人口の奥は、板敷きを添えた廊下(小室)で、ここに置刀掛けをすえたり、供待ち(相伴席)として使われたらしい。
西面の袖壁には円形の下地窓があけられており、土間庇に開放感をあたえている


『如庵』 慶長七巳亥、大悔筆


内部は二畳半台目の向切りで、
躙り口より入って、左側奥に四尺の台目床で黒塗りの床框。ナグリの床柱。その右手やや奥に、茶道口と給仕口を兼ねる勝手口。
この勝手口より給仕の動線に沿って、斜行する壁を作り、足元には三角形の木製の板「鱗板(うろこいた)」を敷くことによって、
茶道口から客室に進む亭主の動きを円滑にしている。
勝手口から入ったところの台目畳が亭主座。横に道庫。亭主座の風炉先に中柱を立て、板壁で仕切る。
篠竹を打ち詰め、光量を抑制する「有楽窓」。
腰張には古暦が貼られて、侘びた景色をつくりだしている。これによって、別名を「暦張りの席」とも言われている。
前庇下の室内は勾配そのままに化粧軒裏の掛け込み天井。中央に穿たれた突き上げ窓から、光が差し込むようになっている。
勝手の間は三畳、炉と水屋を備え、無双窓。

二畳の小間と違ってゆとりがあり、かつ緊張感を失わない室内空間に仕上がっている。



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