思へば 此世は常の住処にあらず  草葉に置く白露 水に宿る月より猶あやし  

金谷に花を詠じ 栄花は先立て 無常の風に誘はるる  南楼の月をもてあそぶ輩も 月に先立つて 有為の雲に隠れり

人間五十年 化天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり  一度生を受け 滅せぬもののあるべきか



安土の城跡を訪ねる



天正4年(1576年)1月中旬、織田信長は天下布武の本拠地として、近江国の安土山に築城を命じた。
安土山は岐阜と京都の中間に位置し、中部・北陸・畿内各地へ移動の利便性を考えての選地であった。
築城総奉行は、佐和山城主・丹羽長秀。
築城工事を急がせた信長は、わずか1ヶ月後の2月23日、岐阜城から安土山の仮御殿へ居を移し、ここで自ら普請の指揮をとり始める。



家臣たちは安土山内に屋敷地を与えられ、諸工事の監督をするとともに、各自が邸を造営する事となり。
城下大手門から本丸黒金門までへ続く大手道の両側に、
羽柴秀吉邸や前田利家邸などが建造され、安土山周囲とその上部を囲い込むようにして、多くの屋敷群が形成されていった。
城の普請は、石垣と天主の建造を第一として進められ、天正7年に天主が完成し、信長は5月11日に天主へと移り住んだ。
全体の完成までに更に2年掛かり、
天正9年(1581年)9月、信長は工事関係者に褒美の品を下賜している。



実際に行ってみると、石段をかなり登っていかねばならず、水の便の悪い場所で、井戸なども無く、篭城には向かぬ場所である。
実際の戦闘を考えて作られたというよりも、信長の威勢を諸国に示すために作られた、言わば「飾りの城」である。
守るには難しい城である。



黒金門内には、信長の住む天主と渡殿で接続して、天子の行幸を迎える為に、内裏清涼殿を模した本丸御殿(南殿)があり、
本丸御殿の対屋として、三の丸に江雲寺御殿があった。

二の丸御殿は、信長が天主と行き来して使用していた御殿であったと思われ、実質的な本丸としての用途に充てられていた。

更には総見院という禅宗寺院も安土城内に有った。



天主の外観は5重7階で、青や赤、白と各階の色が異なり、最上階は金箔が貼られ、軒に風鐸が吊るされていた。
窓は黒漆で塗られ、屋根は釉薬で焼かれた瓦で葺かれ、
瓦頭や鬼瓦等、金箔の貼られたものであった。


この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術で造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に描かれた金、そのほか色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。
外部では、これら七つの層ごとに種々の色分けがなされている。
あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。
他のは赤く、あるいは青く、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で覆われている。
それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付けがある。
屋根には気品のある技巧をこらした形をした、雄大な怪人面が置かれている。
このようにそれら全体が、堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。
これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。
すべて木材で出来てはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。

                                                       『日本史Historia de Japam』 ルイス・フロイス


しかしこの壮麗な城も、完成からたった9ヶ月後、火に包まれる事となる。



天正10年(1582年)
6月2日  本能寺の変起こる。織田信長死去。
6月3日  信長の妻妾子女等が安土城より出て、日野城(蒲生賢秀城主)へ避難。
6月5日  明智光秀が安土城へ入る。
6月8日  明智光秀は坂本城へ戻り、留守居役として娘婿の明智秀満が安土城に残る
6月9日  明智光秀、京都に移動。 織田信雄、伊勢より進軍し、土山(滋賀県甲賀市)まで到着。
6月13日 山崎の合戦で、明智光秀は羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、敗走
6月14日 明智秀満、全軍を率いて安土城より出て、坂本城へ移動

       安土城炎上 安土城天主より出火、本丸御殿、二の丸御殿類焼(黒金門より内廓)。 他の部分は焼失せず。

(現在では、明智秀満の退去と、織田信雄入城までの間、無人となった城内への、土民による略奪の放火説が有力視されている)


6月15日 安土城に、織田信雄が入る。
それ以後、
二の丸御殿跡地に秀吉が、信長の一周忌の後に廟を建造し、
信長の嫡孫・三法師(織田秀信)が安土城仮御殿へ入り、天正12年に坂本城へ転居するまで、織田家の城として残った。

天正13年(1585年)
羽柴秀次によって、城内に残る建物・石垣・城下町に到るまですべて、八幡山城へと移築され、安土城はついに廃城となる。



本能寺の変を経てなお3年、安土城は残ったのである。

天主址の石垣から北方を望むと、
昭和期の干拓によって、琵琶湖は遠くなってしまっているが、それでも琵琶湖を越えて遠くの山々まで見渡す事が出来、
今の世でも、気宇壮大な織田信長の息吹きを感じ取る事が出来るのではないだろうか。



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