死闘!鍵屋の辻




寛永7年(1630年)7月21日。岡山城下。岡山藩小姓役の河合又五郎(19歳)は、
藩主・池田忠雄の寵
童で、同じく小姓の渡辺源太夫(17歳)へ恋慕し関係を迫るが、拒絶された為、逆上し、源太夫を殺害。
凶行の後、又五郎は事の重大さに気がつき、血刀をひっさげたまま我が家へと逃げ戻った。

又五郎の父・
半左衛門は息子を庇い、
近所に住む山野辺義忠を通して、江戸の旗本直参・安藤治右衛門正珍へ庇護を依頼。

あろう事か、江戸へと逃がしてしまう。


源太夫殺害の知らせを受けた藩主池田忠雄は、烈火のごとく激怒し、「草の根を分けても又五郎を捜し出せ」と厳命。

家老・荒尾志摩と近習頭・加藤主膳が、河合又五郎宅へ駆けつけると、既に又五郎は脱藩。江戸へ逐電した後で、
父親の河合半左衛門は、知らぬで通すだけであった。

半左衛門は捕らえられ、身柄は家中の菅権之助宅へと預けられた。



藩主池田忠雄は、
江戸における相談役の、幕府直参旗本・阿部四郎五郎と、久世三四郎の両名に、又五郎の身柄引
き渡しを依頼。

しかし安藤次右衛門は、
過去に親戚である高崎藩安藤家が、池田家から受けた恥辱の仕返しの意味もあって
近藤登之助貞用や兼松又四郎、加賀爪甲斐守直澄らの旗本仲間と結集してこれを拒否し、河合又五郎を庇護

更には播州佐用の地にて、
河合半左衛門と又五郎
の父子を交換すると池田家を謀り、旗本領の安全地帯に、
父子の身柄を確保してしまった。


騙された岡山藩側は、やむなく幕府に直訴。
訴えかけられた幕府も中へ入って双方をなだめる
解決策を示すのだが、どちらも引き下がらず、段々と強硬になるだけである。
家同士の遺恨に加えて、大名対旗本の確執も手伝い、やがて阿部や久世も敵側に回り、話が複雑となった。

それでも幕命により、
旗本たちから
河合半左衛門は取り上げられ、備中松山藩に預けられる事となった。

このようにして事件発生より二年が過ぎた寛永9年(1632年)、池田忠雄が疱瘡のため、31歳で急死。
忠雄は臨終を前にして重臣を集め、

「我が家士・河合又五郎が事により上裁を請う事、歳を経て裁断無し。
構えて我が死後にも此の事を幾度も訴えて、我が所存を遂しめよ。

旗本の面々と確執を結び、不覚の名を穢し今に落ち着き、相い極はまず死せん事こそ口惜しけれ、
依て、残す一言あり。
我れ果てても仏事追善の営み無用たるべし。
川合又五郎が首を手向けよ。左なきに於いては、冥途黄泉の下に於ても鬱憤止む事無し」


と遺命。


この機会に幕府は、喧嘩両成敗として事件の終結を狙う。

藩主忠雄が急死のあと、
家督を継いだ子の光仲は三歳であったので、備前国・岡山31万5千石から、
因幡国・鳥取32万5千石と国替え。

安藤治衛門、
安部四郎五郎、久世三四郎の3名に、百日間の寛永寺入りを申し付け、河合又五郎を江戸追放に処した。

更に河合半左衛門は、幕命によって備中松山藩より徳島藩へ引き渡される途中にて、殺害。


これで事件は一応の決着をするかと思われた。




しかし、渡辺源太夫の兄・渡辺数馬は、
兄が弟の仇を討つことは認められない事であったが、前藩主の遺命、及び藩全体の意を汲んで、
上意討ちとして仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれ、鳥取への国替えには従わず、仇討ちのために脱藩。


年が明けて寛永10年早々、剣術が未熟であることを自覚する数馬は
大和郡山藩で剣術指南をしている、姉婿で義兄にあたる荒木又右衛門を訪ね
、助太刀を依頼。


荒木又右衛門はそれに応え、二百五十石を投げ打って郡山藩を退身。


数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、
寛永11年(1634年)11月、
河合又五郎が、奈良にある伯父の河合甚左衛門邸へ潜伏していることを、とうとう突き止める。

当時の南都奉行は中坊飛騨守秀政という旗本で、又五郎側に有利であろうから
直ぐには切り込まずに、様子を見張る事にする。
やがて又五郎側も危険を感じ、再び江戸へ潜伏しようと奈良から江戸へ向けて出立。それが11月5日である。

又五郎一行には、河合甚左衛門と、又五郎の妹婿で、槍の名人・桜井半兵衛が護衛に付いていた。

河合甚左衛門は、
荒木と同じく、郡山藩剣術指南役。

桜井半兵衛も、
大垣藩にて「霞の半兵衛」と呼ばれる程の槍の名手。



又五郎等一行は行列を整え、奈良般若寺口から北へ進み、木津川から瓶原を経て、笠置街道を東に進む。

又五郎が伊賀路を通って江戸へ向かうことを知り、数馬と又右衛門等四人は支度を整え、一行のあとをつける事にした
襲撃するには、隠れているのに都合がよく、敵の逃げ道の無い、そして味方にとっては足がかりの良い場所を選ばなくてはならぬ。

長田川の橋を渡った先、伊賀上野城下に入る手前の三ツ辻、通称鍵屋の辻は突当りが石垣となっており、
右角の茶店が万屋。右へ曲れば塔世坂で、城下へ入る。
左角の茶店を鍵屋。左へ曲がれば北上して城の裏手へ出る事が出来る。


伊賀上野の地は、荒木又右衛門の出身地である荒木村も近く、よく知った場所でもある。また、数馬の親類もいる。



途中で先回りし、鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。


※当時は正面の道は無く、T字になっていた。


又五郎の一行を待ち伏せる為、
渡辺数馬と荒木又右衛門は万屋へと入り、岩本孫右衛門と河合武右衛門は鍵屋へ入った。


旧暦でいう11月の早朝の寒いなか、やがて長田川の橋に現れた又五郎一行の先頭は、
又五郎の妹聟で、大阪の町人虎屋九左衛門が馬に乗って前駆をつとめる。

それに続いて、馬上に桜井半兵衛。
槍持ちの三助、半弓を勘七、市蔵と、3人の小者を従え、小姓・湊江清左衛門を傍に歩かせ、

続いて、馬に乗って河合又五郎。喜蔵という小者に槍を持たせて従え、

川合甚左衛門も馬上にあり、小者を2人従え、これで合計11名。


やがて河合甚左衛門が、万屋の角を曲がろうとしたとき、
荒木又右衛門万屋から飛び出し、あっという間に、待ち伏せに気付かないままの甚左衛門の右脚を斬り落としてしまった。
不意打ちに対抗することも出来ず、川合甚左衛門はそのまま馬から落ちる。
落ちたところをそのまま眼にも留らぬ早業で、刀を抜くひまも与えず、
切り込んで、一瞬のうちに甚左衛門を切り殺してしまった。

小者2人が驚いて腰を抜かしているうちに、荒木又右衛門は、既に角を曲がった桜井半兵衛を追いかけて走った。

荒木又右衛門が万屋を飛び出したのを合図に、
渡辺数馬も、岩本孫右衛門と河合武右衛門も、それぞれに敵へ向かって飛びかかっていった。


「みぎいせみち ひだりならみち」文政13年(1830年)と刻まれている。
材木が置いてある場所に鍵屋という茶店があった。


甚左衛門の絶命の声を聞き、河合又五郎も馬から下りて、万屋から追い縋った渡辺数馬と対峙。


騒ぎの始まりに気がつき、桜井半兵衛が振り返って後方を確認したとき、
鍵屋から飛び出した河合武右衛門が、半兵衛へ斬りかかろうとしていた。
それを除けて馬から下り、自慢の槍を受け取ろうとするが、
河合武右衛門と同時に飛び出した岩本孫右衛門が、槍持ちの三助に斬かかり、桜井半兵衛へ槍を渡らぬように引き離す。

小姓の湊江清左衛門が加勢し、やがて河合武右衛門は桜井半兵衛に刀で斬られてしまう。
しかしその間に、岩本孫右衛門は槍持ちの三助に重症を負わせ、槍を取り上げることに成功。

そこへ荒木又右衛門が追いついた。

川合甚左衛門の返り血を浴び、鬼のような形相で走ってくる荒木又右衛門を恐れ、小者たちが一歩引いたときには、
既に桜井半兵衛と荒木又右衛門は斬り合っていた。

又右衛門の登場で逃げ腰になった
湊江清左衛門へ一太刀浴びせ、勘蔵に怪我を負わせて、やがて河合武右衛門は絶命。
虎屋九左衛門などは既に逃げ去っていた。


槍さえ手にしていれば、運命は変っていたかもしれないが、岩本孫右衛門と河合武右衛門の決死の働きによって、槍を封印され、
幾たびもの斬り合いの末、
あえなくも桜井半兵衛は荒木又右衛門斬られて重症を負った。


小者たちは岩本孫右衛門が追い払い、又右衛門は数馬の前へとかけつけた。


渡辺数馬は、河合又五郎の左腕を斬り落したところであった。
しかし、どちらももう、これ以上動けなくなり、やみくもに刀を振りまわし、息を荒げているだけであった。

数馬の腕を取って、加勢する形で又右衛門がとどめを刺し、数馬に首を落とさせる。

町奉行が駈け付け、又右衛門が事情を話す。
又右衛門たちは数馬の親戚・彦坂加兵衛の家へと移動し
、負傷者の手当をする。
それぞれが役人警護の下に、引き取られるところに引き取られ、上役の指図を待つ事となる。

伝記によれば、「辰の刻より三刻が間」というから、朝の九時から午後の三時まで斬り合っていた事になるが、
6時間も掛かったというのは誤りで、荒木又右衛門が甚左衛門を斬ったのに、ものの数分とかかっていない、
それからすぐ桜井半兵衛に斬りかかって倒したのだから、長く見積もっても1時間弱の事である。
大勢の野次馬や伊賀上野藩からの役人の出張等、現場は混乱したであろうし、
数馬は十三ヵ所、又五郎は五ヵ所の手傷(左手首の切断含)を受け、如何に悪戦苦闘したかを物語っているが、
2人の死闘にそこまで時間は掛からなかったであろう。
甚左衛門が斬られてから、又五郎を斬って仇討ちを遂げ、役人の出張、負傷者の手当、関係者が役所へ連行される迄の、
その後の処理までを含めて、掛かった時間がおよそ6時間、と見るのが正しいと思う。


万屋の跡地に、「数馬茶屋」と名を改めて茶店が再興され、現在でも茶や菓子、食事を供している。


事件より3日後くらいまでの間に、重症であった桜井半兵衛と三助が死亡。
それによって、
渡辺数馬側の死者は、
又衛門の弟子・河合武右衛門1名。重傷者渡辺数馬、岩本孫右衛門。(荒木又衛門はごく軽傷)

又五郎側の死者は、
河合又五郎、河合甚左衛門、桜井半兵衛、及びその槍持ちの三助で、合計4名。重症が湊江清左衛門、軽傷は半弓持ちの勘蔵



川合又五郎の墓は上野の寺町万福寺にある。



数馬茶屋では、荒木又衛門が仇討ちの朝、茶屋の主人に蕎麦と目刺の鰯を注文しましたが、緊張している渡辺数馬に
「今日の首尾を祈って、傍(そば)でゆわす(又衛門の出身地伊賀の方言で成就する)は目出度いことだ」
と語り、今でも数馬茶屋の定食「祝膳」には、蕎麦と鰯が付いている。


河合又五郎の切り取られた首を洗った池と伝えられている。




世間の注目を浴びるなか、渡辺数馬と荒木又右衛門、並びに岩本孫右衛門は、津藩の藤堂家に4年間も預けられた。
池田忠雄の遺児・光仲を藩主とする鳥取藩は、渡辺数馬と荒木又右衛門等のもらい受けを要求。
これに対し、
又右衛門が仕官していた大和郡山藩も、又右衛門の帰参を願い出て対立。
最終的に、寛永15年(1638年)8月、3人は鳥取藩へ引き取られるが、

鳥取へ到着の17日後、鳥取藩は荒木又右衛門の急死を公表。41歳。
あまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。

渡辺数馬も、
それから4年後の寛永19年(1642)12月2日に、鳥取にて
5歳の若さで亡くなっている。
岩本孫右衛門は71歳まで長命であった。


世間がこの仇討ちに注目したのは、数少ない仇討ちの成功例としての他に、大名対旗本の代理戦争という意味も有ったが、
当時御留流といわれ、他流との試合を禁じていた剣術・柳生心陰流に対する興味もあった。
荒木又衛門は柳生心陰流の使い手で、後年36人斬り等、鍵屋の辻での死闘は誇張されていく。




やがて忠臣蔵と並び、三大仇討ちのひとつとして祭り上げられていく事となる。


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