愛知県碧南市 徳川家康の大高城兵糧入れ 翌年参拝した「八幡社」を訪ねて

旅する大浜街道

第29回 大高のまちを行く

徳川家康も参拝した「八幡社」 旧家残る大高にも開発の波は押し寄せ

町屋川八幡社前の旧家

<『大学堂薬局』前で南からきた常滑街道と合流する大浜街道。古い街並みを残す通りを行けば、白木眩しい社「町屋川八幡社」に出会う。大高城主「花井備中守」が勧請し、2つの社を設ける。庶民の詣る社として歴史を歩み、往昔、街道を往来した御先祖様達もきっと詣ったことだろう> 『大学堂薬局』前で南西からやって来る「常滑街道」と合流した大浜街道。 常滑街道は別名「半田街道」とも呼び、知多の主要道として東海道「鳴海宿」への接続を目的としている。 街道を北へと進めば、通り沿いに趣ある旧家の姿。向かいには平成14年(2002)に新築された社殿が眩しい「八幡社」。 治承4年(1180)、源頼朝が相模国の小林郷丸山に鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請し、後に大高城主であった「花井備中守」が、城内と現在の八幡社ある地の2つに分けて遷した由緒を持つ。 ゆえに大高城跡にある八幡社を「城山八幡社」、街道沿いにある八幡社は「町屋川八幡社」と呼んでいる。 永禄3年(1560)に大高城兵糧入れを成功させた松平元康(のちの徳川家康)も、翌年の永禄4年(1561)に、この八幡社に参拝している。 昔、武士階級は城山の八幡社、庶民はこの町屋川八幡社を詣でたと明確な区別があったという話もある。 街道の往来が賑やかだった時代、旅の無事を願い町屋川八幡社を訪れた御先祖様たちの姿を想像する。

四輪車不可の貼り紙

<「最近、高層マンションが建っちゃって…」と悲しそうな顔をするお婆さん。古い家並みが存在し、また頑なに守ろうとする大高の人たち。話せば伝わってくる「大高」を思う郷土愛、自分たちの街を誇りに思う気持ち> 細い路地が未だ多く残り、現代の車社会を考えれば不便な地域と言える大高の旧市街。 しかしそれは、歩く人・乳母車を押す人・自転車の人など、スローに行き来する人々にとっては、実に心地良い条件である。 低い軒先、格子窓、鎧のような板壁、薄暗い屋敷…現代のユニット的な住宅・道路環境の方がずっと快適なのに、何故に大高の人達は昔からの景観を守るのか。 行く先々で聞いた。「そりゃ、大高だから。どこにもない私らのまちだから」と話す人。 誇らしげに語る人々の顔に”都会になる必要など無い、大高らしさがあればいい”という信念を見た気がした。

ヘボト自画像ヘボトの”ここもぜひ見ておきましょう”コーナー

街道沿いの古い屋敷 「大高観光案内」 大高には戦国時代の史蹟が数多くあり、散策に十分楽しめる街です。 徳川家康が兵糧入れをしたという大高城からは、街を一望、当時の空堀も今に残っています。 大高城麓にある「海岸寺」山門の眼光鋭い仁王さんは、一見の価値ある素晴らしいものです。 鬱蒼とした森に参道を進んでいけば別天地、立派な本堂・庫裏・庭園に驚く「春江院」が現れてきます。 戦国時代に兵火で焼かれた「長寿寺」には、荒廃した寺を建て直すために住職に化けた狐の伝説があります。 急な坂道を登り辿り着く織田方の鷲津砦・丸根砦では、凄惨な戦いが繰り広げられました。

次回予告です、お楽しみに!

新幹線高架近くの秋葉神社

第30回 「ぜんのわ・前之輪」

大浜街道は大高北小学校東の二股に行き着く。辻にあるのは懐かしい風情を魅せる煙草屋。資料として確認した昭和4年(1929)製の地図では、右が大浜街道となっている。 しかし、私は左へ行くことにする。その根拠は江戸時代の絵地図である。絵地図によれば、道は大高から「前之輪」の集落へと続いていた。 前之輪へ行く途中、新幹線高架下に「秋葉神社」の簡素な社を発見。確か、大高の入り口でも同様に「山神社」があったことを思い出す。 新幹線を巡る2つの社…何か歴史ミステリーを想像させる存在だが先を急ぐ。 さて次の「前之輪」は、どんな風景をみせてくれるだろうか。 ■ 第30回 「ぜんのわ・前之輪」 へ

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