愛知県碧南市 大浜街道を巡る旅は遂に結末 東海道「鳴海宿」へと到着する

旅する大浜街道

第33回 旧東海道に到着

東海道40番目の宿場町「鳴海宿」に 「本町」・「作町」の交差点へ向かう

鳴海宿「本町」交差点

<遂に来た! 東海道40番目の宿場町「鳴海宿」。本来の大浜街道との接続となる「本町」交差点に立つ。感慨深い私を余所に今も昔も賑やかな場所。「御先祖様の見た風景」を私は見たといえるのか? 自らに問う旅の目的。出会った人々のおかげで私は今、鳴海宿にいる> 扇川に架かる「浅間橋」を渡りきる頃には見えてくる「本町」交差点。 大浜の湊橋より出発した旅も終わりを迎える。東海道四十番目の宿場町として栄えた「鳴海宿」は、私を単なる旅人として雑踏の中に紛れさせていく。 旅籠が68軒あったという鳴海宿である。各地よりやって来た旅人で町は賑わいを見せただろう。 旧東海道にある「本町」交差点脇で立ち尽くす私。往来に忙しいクルマや人の流れは、誰も互いに無関心を装う。この風情が宿場町として息づいてきた証である。 大浜街道を巡る旅のテーマであった「御先祖様の見た風景」を、私は見ることが出来ただろうか。 答えは”イエス”でもあり、”ノー”とも…。鳴海宿に辿り着くまで苦労もあったが、それ以上に人々の温かさに助けられた。 資料の中だけでは、知り得ない体験が出来た。これはとても素晴らしいことであると感謝する。

鳴海宿「作町」交差点

<大正11年(1922)から大浜街道の発着点となる旧東海道「作町」交差点へ。付近の商店街外灯には「?なぜ大浜街道なのか」の文字が。時代と共に風化する大浜街道。だけど私には遙か先の「大浜」が見えている> 「本町」交差点から旧東海道を西へ行く。大正11年(1922)より大浜街道との接続となった「作町」交差点に向かうために。 さすが旧東海道、通り沿いの店は古い趣を残している。狭い道と分かっているのに、なぜか車の往来多く気をつかう。 行き交う人の中に帽子を被り、背中にリュックを背負う人達を時折見かける。彼らは旧東海道を踏破する現代の旅人達。 人気のある旧東海道ならではの光景である。商店が続く辺りに入ると、外灯の柱にあるステッカーが目に留まった。 「ここは東海道 鳴海宿」と題し、「作町交差点南へ下る『大浜街道』 ?なぜ大浜街道なのか」といった文章が続く。 これも時代の流れだろう。「作町」交差点から南を向けば、扇川に架かる「鳴海橋」。遙か先には大浜がある。 先人達の築いた「大浜街道」、今の私にはハッキリとその道筋が見えている。

ヘボト自画像ヘボトの”ここもぜひ見ておきましょう”コーナー

青面金剛明王と書かれた幟 「庚申山・圓道寺」 旧東海道の「本町」交差点から北へ坂を上った左手に「圓道寺」というお寺があります。 打ち放しのコンクリート壁に「青面金剛明王」と書かれた幟が何本も並んで、山門には猿を模した赤い造作物がぶら下がっています。 圓道寺は曹洞宗の寺院で、天正年間(1572~1592)に「仁甫良義(にんぽりょうぎ)」和尚によって創建され、初めは「猿堂寺」と称していました。 その後、「地蔵堂」・「庚申堂」と変わり、昭和17年(1942)に現在の「庚申山・圓道寺」となりました。 御本尊が「青面金剛明王」とのことから、「庚申信仰」と縁深く、本堂の屋根には「見ざる・言わざる・聞かざる」という三猿の彫刻が見られます。

次回予告です、お楽しみに!

自動車・オートバイ禁止の標識

第34回 「自転車で鳴海まで」

昔の旅人は一日に40キロぐらいを平気で歩いたという。この距離は碧南市から名古屋市栄周辺までの道程に相当する。 御先祖様たちが大浜街道を歩いた時代、今よりずっと道路事情が悪いことにかかわらずである。 どっぷりと不摂生な生活を送り、健康のためにスポーツジムに通う私達現代人の生活を御先祖様達が見たら、さぞ滑稽にうつるだろう。 脚力においては到底、御先祖さま達に敵わない。だが、我々現代人には文明の利器がある。自転車で大浜街道を往復してみた。 ■ 第34回 「自転車で鳴海まで」 へ

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