愛知県碧南市 「三河鉄道」時代から78年の歴史 三河線「碧南~吉良吉田」

2004年3月31日 三河線・碧南~吉良吉田間、最後の日

78年の歴史

「三河鉄道」時代から78年の歴史 平成16(2004)年3月31日に廃線となる

中畑鉄橋にてカメラを構える鉄道愛好家

<大正15年9月1日に大浜港~神谷間が開通。さらに昭和3年8月25日に神谷~三河吉田が開通し、三河線「碧南~吉良吉田」は完成する。昭和40年代を境に乗降客は減少し、平成2年7月1日にLEカーを導入。平成16年3月31日をもって「78年の歴史」に幕を閉じる> 三河線・碧南~吉良吉田間の歴史は大正末期に始まる。現在では、名古屋鉄道が営業する三河線だが、元は「三河鉄道」が敷設した路線であった。 大正3年(1914)2月5日に刈谷新~大浜港、9.0マイルが開通する。さらに営業路線を拡大すべく、大浜町から蒲郡までの鉄道敷設申請した。目的は東海道線の蒲郡駅と接続するためである。大正9年(1920)12月2日に認可され、大正14年(1925)2月17日に蒲郡線起工式が大浜尋常高等学校にて行われた。 大正15年(1926)9月1日に大浜港~神谷間の8.5マイルが開通する。昭和3年(1928)8月25日には、神谷~三河吉田間が開通し、今日知られる三河線の姿となった。 昭和40年代以降、自動車の普及を原因に利用客が減少しはじめる。 平成2年(1990)7月1日にワンマン運行出来る「LEカー」を導入。しかしそれでも赤字は解消せず、名鉄は平成12年(2000)に三河線・碧南~吉良吉田間を廃止することを表明。 西尾市などの地元自治体が赤字補填をし、路線の存続に努めてきたが、平成16年(2004)3月31日に78年続いた歴史の幕を閉じることとなる。

乗降口に押し寄せる人々

<碧南~吉良吉田区間廃止1年前より、沿線に鉄道愛好家の姿が現れる。それでもなお、静かでのどかな雰囲気があった。廃止直前の3月の休日には満員電車の賑わいを見せる。碧南駅は通勤混雑以上の人でホームにはたくさんの人> 三河線・碧南~吉良吉田間の廃止期日が決定しても、人々の反応は「ふ~ん」で流されてきた。 碧南市は自動車産業の恩恵を受け、また自動車の便利さを甘受してきた。ゆえに自動車がなくては生活もままならない。 多くの人々は電車がなくなろうとも、さっして影響を受けるわけではない。困るのは、お年寄りや学生、そして「鉄道愛好家」である。 廃止を迎える1年程前から、LEカーの窓越しに、”巨大な白レンズ”を構える人々の姿が現れ始めた。 鉄道をこよなく愛する”マニア”さんたちであり、私の「心の友」でもある。 カメラを構える彼らの前を、トコトコと越えていくLEカー…実にのどかな時間が流れていた。この微笑ましい光景が一変したのが、廃線の期日まで1ヶ月を切った3月初旬。 のどかな時間は打ち破られ、我先にベストショットをおさめるべく、殺伐とした雰囲気。 休日ともなれば、碧南駅のホームは押せや、押せやの大混雑。 思い出として記憶に留めておいて欲しいと、孫を連れたおじいちゃん、おばあちゃんがやって来る。 ここぞとばかりに鉄道会社もグッズを並べ、市場の賑わい。 この賑わいの後に本当の別れがやってくると思うと、切なくなる。

ヘボト自画像ヘボトの「追憶の三河線3月31日」

吉良吉田行き最終LEカー

「3月30日午後10時21分見送る」

年も変わり、毎週末には通い続けた3ヶ月。いよいよ明日に迫るという30日の午後10時15分、私は玉津浦駅にいた。 吉良吉田行きの最終を見送るために一人で。人家もまばらな玉津浦駅である。普段は淋しげに思えるこの場所も、今夜はなんだか心地良い。 碧南駅を午後10時20分に出たLEカーが、ゴトゴトと音を響かせ、こちらへとやって来る。 眩しく見える車内には乗客が一人。玉津浦駅のホームには誰も降りず。ディーゼル独特の音をたて、LEカーは闇夜となったニンジン畑の中へ消えていく。 過ぎ去っていく余韻を楽しむ私。「鉄道愛好家=ロマンティスト」と唱える人がいる。聞けば、どこか別の場所で、この最終LEカーを見送った人は他にもいたようだ。 明日という日のために、みんな毎日を頑張ってきた。互い顔をを知らずとも心はひとつ。明日はきっと良い日になりそうだ。

< text • photo by heboto >


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