愛知県碧南市 三河線が大きく弧を描くよ 「玉津浦・棚尾・三河旭」の3駅

2004年3月31日 三河線・碧南~吉良吉田間、最後の日

玉津浦・棚尾・三河旭

廃線決定の原因はこの3つの駅か? どの駅も乗降客で賑わう歴史あり

玉津浦駅に停車する吉良吉田行きLEカー

<名鉄営業路線内において常にワースト上位に登場する玉津浦駅。大正時代より開けた「玉津浦海水浴場」の存在により、多くの賑わいを見せた歴史あり。晩年は「くるくるバス」にも負けてしまう程の閑散とした駅となった。老夫婦の言葉が胸を痛める> 碧南駅を出発して最初に到着する駅が「玉津浦駅」である。 名鉄営業路線内の駅において、常に年間の乗降客数、ワースト上位に登場する駅として鉄道愛好家の間で知られている。 だが、そんな玉津浦駅でも賑わった時代がある。駅から南西の方角に「玉津浦海水浴場」があった時代だ。 昭和24年(1949)発行の「碧南市勢要覧」には、昭和23年(1948)度の記録として「乗車9万112人・降車8万3千146人」とある。 そして現代の平成15年(2003)度には、年間「2万4千人」という利用数。同じ年度の碧南市内循環バス「くるくるバス」、16万5千604人の利用者数に遠く及ばないという数字だ。 廃線も押し迫った3月のある日、私は玉津浦駅のプラットホームである会話を耳にした。 「おお、面影ある。覚えとるかね、ここから海行ったこと」と懐かしそうに佇む老夫婦。 二人の思い出の場所が消えていくとは、どんな心境だろう…。廃線決定要因の1つともいえる玉津浦駅だが、どんな駅にも大切な思い出はある。

閑散とした夜の棚尾駅構内

<かつては毘沙門さんの縁日に訪れる人、芸者さんの遊びを楽しみに降り立つ人で棚尾駅は混雑した。今の閑散としたホームから想像出来ない賑わいがあった。朽ちかけた「三河七福神・志貴毘沙門天王」の案内板が淋しい> 三角屋根の工場脇にある「棚尾駅」。今となっては利用する人も少なく、駅前には淋しげに「三河七福神・志貴毘沙門天王」の案内板が立つ。 毎月3日には、「毘沙門さんの縁日」が妙福寺で行われ、賑わいを見せている。だが、この棚尾駅から出向く人は少ない。 まだ交通機関を鉄道に頼っていた時代、縁日の3日になると、どっと人が押し寄せ、棚尾駅から妙福寺まで参拝者で溢れていたという。 あまり知られていないが、棚尾は芸者さんたちが艶やかに歩く花柳街で、また「三栄座」という劇場があり、一大歓楽街として賑わっていた。 棚尾駅から源氏橋へ向かう道沿いには、当時の名残である玉突き場跡や料理座敷であった建物を見てとれる。 棚尾駅が無人となったのは、昭和41年(1966)。貨物の取扱は、前年の昭和40年(1965)に廃止された。

ヘボト自画像ヘボトの「追憶の三河線3月31日」

旭橋鉄橋を渡るLEカー

「三河旭駅 そして弧を描く謎」

昭和23年(1948)に碧南市が誕生する。それ以前、矢作川右岸沿いに「旭村」という村があった。 その旭村の駅として置かれたのが「三河旭駅」である。プラットホーム西には貨物専用のホーム跡が残る。 往時、この駅からコンロ・火鉢などの土器がたくさん出荷された。さて、碧南駅を出発したLEカーが大きく弧を描いて走行していることに皆さんは気付いただろうか? 地図を見てもらえれば分かるが、玉津浦・棚尾・三河旭とかなり大回りしていることが確認出来ると思う。 三河鉄道が計画した当初、「新川町駅から中川鉄橋に直接行くルートを作り、その線上に1つの駅をつくるのみ」だったという。 つまり、碧南駅は現在の位置とせず、玉津浦・棚尾・三河旭の3駅も計画になかった。 では何故、駅は出来たか? 大浜町、棚尾町、旭村のそれぞれが盛んに誘致合戦を繰り広げたからである。 互いに譲らず、困惑した三河鉄道が3町村の主張を全て認めた結果、あの大きく回り込み、弧を描く姿となってしまった。

< text • photo by heboto >


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