祇園祭

 かつて三河三都と呼ばれた西尾伊文神社の祇園祭が持つ歴史は長く、記録を紐解けば天正19年(1591年)に御神輿が創られてより数えても414年、その以前より神馬の背に御幣を指し女装した神職の先導で町中を神幸していたことを考えれば500年以上の歴史を持つといえます。
 正徳年中(1711〜16年)には天王町獅子舞や肴町大名行列もはじまり、近世の形とほぼ同じ形式で斎行されていたようです。


1.祇園祭の由来

 祇園祭の祗園とは、平家物語の冒頭にも見える祇園精舎からきています。その祇園精舎とは、インドのある長者が釈迦の修行の為に自らの所有していた林を提供し開放した場所の名前であり、京都の八坂神社や周辺が祗園と称されるのは、藤原基経が私邸を寄進して建立された事を故事に例えての事という謂れが残っています。

 この祇園精舎の守り神が牛頭天王であり、長く続いた神仏習合の時代には日本の神様素盞嗚尊(当社御祭神)と牛頭天王は同じ神様であるとされてきました。この事から、素盞嗚尊をお祀りした神社は、全国で天王社(祇園社)と呼ばれ、その神社の例祭(その神社で一番中心となるお祭り)を『祇園祭』や『お天王さん』と称するようになりました。特に『祗園祭』は全国でも珍しく、西尾の町が長い歴史を持つ古都であるからこそ伊文神社の例祭は『西尾の祗園さん』と呼ばれるのでありましょう。

 尚、伊文神社も神仏分離以前は伊文山天王宮と呼ばれ、その名残は今も天王町などの町名に残っています。


2.祇園祭の意味

 備後風土記に、武塔神(素盞嗚尊)が一夜の宿を借りたお礼に蘇民将来に茅の輪を授けたというお話しがあります。この地に疫病が猛威を振るったとき、茅の輪を授けられた蘇民将来の一族だけは無事に生き残った事から、スサノオノミコトは疫病除けの神様として祀られて参りました。
 また、祗園精舎の守り神とされた牛頭天王の住んでいた牛頭山には『せんだん』と呼ばれる熱病に効く野草が生えていた事から、牛頭天王は疫病の神様として知られていました。

 この様な神話が結びついて、素盞嗚尊は疫病除けの神様としてお祀りされて来たといわれています。そして祗園祭、お天王さんといわれる素盞嗚尊のお祭は夏の最中、疫病や厄災を祓うお祭として全国で奉斎されて参りました。
 西尾の祇園祭においても、伊文神社の大神(素盞嗚尊)をお祀りした御神輿が町中を廻り、罪穢れを祓い疫病除けを祈願し信仰されて参りました。


3.伊文神社祇園祭の変遷

 往古は女装し牛に跨った神職が御幣を立てた神馬を先導し、その後を子供たちがサンヤレサンヤレと囃したて町中を廻っていたようです。それが町の規模が大きくなるに従って形式も整い、天正19年(1591年)には御神輿が作られ、時の城主田中吉政公より米・銭の奉納が始まり、以降歴代城主の崇敬も篤く町中をあげた盛大なお祭となっていきました。各町は御神輿の出御に合わせ、様々な催しで祭りを盛り上げました。特に正徳年中より始まった天王町の獅子舞、肴町の大名行列は現在も行なわれ400年以上の歴史を誇っています。

 江戸後期の天保時代の記録をみると、祭は6月14日(新暦以前、祭祀は6月15日、16日と定められていた)の夕暮れより各町がぼんぼりを立て始め、15日御神輿出御に際して、各町の催物はまず伊文神社に奉納があり、続いて鉄砲・弓・槍などの前行により御神輿が出御してからはこれの後に随行し、城内の御劔八幡宮に到って再び神前に奉納し、御神輿お旅所に著いたのち三度奉納行事を行い、その後町中を練歩きました。御神輿は御旅所に著いた後、神楽の奉納を受け、各地から訪れた参拝者は夜通し続いたという記録が残っています。
 各町の催物は朝まで続き、祭りを盛り立てていました。明けて16日、城主名代の参拝をうけた後、御神輿は各町を渡御します。この日は各町の催物が御神輿に先行して各町を練歩き、神社に到って還御の際には神前に最後の奉納をしてお祭の幕を閉じたとあります。御神輿に随行する行列や奉納の順番は、天王町・肴町を1番2番とし後は籤引きをして決めていました。

 この様な形態は、正徳の頃より大正12年ごろまで続けられていましたが、時流に従い催物は神前と御旅所での奉納のみは順番として、街中の練歩きは各町の自由に任せられました。


4.伊文神社祇園祭の現在

 形態は変われど、現在も連綿と伊文神社の例祭は斎行されております。当初は明治の新暦導入以降も新暦の6月15日に執り行われていましたが、ちょうどこの頃が梅雨の時期に当たるため、旧暦の6月15日を新暦の7月15日ごろと考え、新たに7月の15日を例祭日と定め、以後現在に至ります。神幸祭(神輿渡御)は道路交通法などの法律の問題で単独での斎行が困難となり、西尾祭りに合わせて7月の第3週の土曜日日曜日(平成17年まで)に斎行されています。