福山すすむの言葉

自らが 自らを信ずる為に 自らがある ラムネの空瓶をただ見て描くのと ラムネを飲んだ味覚を、空瓶の形の上に工夫して見るのとでは、 感性のはたらきが違ってこなければならない。 人それぞれの試みがなされて、 それを見れば形はそれぞれの人の代弁をしているのに気づく。 そういうそれぞれの形は、それぞれの人の形象であろう。 それは幼稚だとか、円熟しているとかを問われるであろうが、 それはどうでもよいことで、 自分が産みだしたことについての満足かどうかの方が問題である。 「描く」とは一種の狩猟である 目的物を追う それ自体によろこびを 感じないなら 一匹の獲物の発見にも 楽しみを味わうことは出来ない。 たとえ発見がなくとも、そのことが 無益だと考える理由を見出さないのは、 自分自身の考えを働かせ、 自分の視力を対象に働かせて、 真理への接近をこころみた 一すじの道が刻まれたことを 認めるから Imaginationは一つの画面の感性への追求ではない。 次から次へと展開し、発展させ、開発させるものが、それである。 何と表現したかよりも、いかように遊び、いかように思(想)い、 いかように作ることを、視覚的に示している過程、それが芸術の姿なのである。 空漠 空間思考は、物の限界で止まりがちである。 物のない空間が空想的なものであるように、 物の延長やひろがりも又、思考の対象である。 真のリアリティ追求は、 自分の中にあるということに気づくことです。 向こうにRealityがあると信じて追求するならば、 それは自殺行弟である。 どうしたらよいかは、描くために考えるのではなく、 どうしたらよいかを知りたいが為に描くことである。 人間は概して、余計なことを一生懸命覚えているものだ。 覚えることに努力するより、 倉分なことを忘れる努力をするのもいいではないか。 忘れると同時に何かが頭に入るという考え方も出来る。 さいた竹で半円を描きつつ垣根を作ろうという時、 竹は、必ず半円以上に曲げてみるものである。 はね返ってもどったところが、 丁度半円を描くようになるということである。 もし、半円のところでとどめたら、手を離せば元にもどってしまう。 人も同じ、 やり過ぎる位にやっておかねばならない。 自分の枠を広げるために。 自由とは、そういうことである。 物をつかもうと思ったら、 まず握りしめているその手を解くことである。 自分の内なるものがあばかれ 飛び出していくのを恐れてはならず、 まず自分をさらけ出すことである。 何とか絵に仕上げようなどは、 芸術ではなく、 物にいかに対決するかである。 モデルへの恐怖心、 偉大さに対する自己の無力、 自己の内なるさまざまなコンプレックスが、 対決への原動力となる。 秘境は私たちを想外に誘う。 しかし、 日頃の中にも秘境はある。 見慣れた玉ネギの中に秘境を見い出すのが芸術家である。 定まったコースを定まったような足取りで行く。 それが歩くことだと考えこんでしまっている。 「われわれが今、を(瞬間の法定)そういう安全で 普通な行動が正しいとか当然であるとか という玉條を信じこませられていること。」 おかしいと思い、考えてみる。寸秒ですら 大切なものとしなければ、 人生は通勤者の如く タイクツだろう。 (形象福山すすむ作品集より)
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