洋画家福山すすむからのメッセージ

斎藤 卓志 
はじめに

 福山すすむは、形象派を立ち上げた絵かきとして知られている。生まれは大正4年、新潟県の五泉市。亡くなったのは昭和62年5月14日、愛知県の安城市である。安城市には昭和21年に台湾からの引揚者として来ている。なぜ安城なのかということで言えば、安城が日本の真ん中だったからとまことしやかに言われているが、実は母方の縁者を頼って来たというところが本当らしい。そして形象派を創立したのが昭和27年、その翌年の5月には岐阜市公会堂を会場に第1回形象派展を開いている。 
 生涯を絵とともに生きた福山だったが、残された絵はそれほどあるわけではない。むしろ画家としては少ないといった方がいい。形象派は没後も引き継がれ50年を越えた。はじめに断っておくが絵画にうとい私がなぜ福山すすむをとりあげるのか、いぶかしく思われる方もおられるだろう。それは、福山は絵かきであったが、絵をどう描くかということをとことん考えた男であったことによる。絵の教育に及ぼす有効性を知っていただけでなく、教育の中でそれを実践した。絵かき半分、教育者半分、二つの顔を持つ男であった。福山のまわりに集まった者たちも、絵からというより、福山からほとばしる情熱に惹かれたからと言っては言葉が過ぎるだろうか。いい意味でカリスマ性を持っていたと言うことができる。そして絵も描くが、それをどう描けばいいのかを思いのレベルなどではなく、具体的に言えるだけの、文章を使って表現できるだけの力量を持ち合わせていたということができる。その福山が好んで使った言葉が〈真向勝負〉と〈いまだぞう〉であったという。
 絵はキャンバスに向かえば描けるというものではない。描くものが見えてこなければ描けない。ではどうしたら見えてくるのか、絵をおいて他の何もない福山が生涯を賭けて考えてきたのがその一点であった。そこには当然のことながら絵かきや教育者である前に人間の探究があった。言葉を変えれば、自分がどう生きるかという哲学があったことになる。福山はその創作活動の中で多くのことを語っている。本にもなっている。その実践がこの安城で行われた。こころの中に火を灯された者は多かったはずだが、それを身内の胸の内だけにとどめておいてはもったいない。その言葉の一端をたどることで、安城に住んだ洋画家であり哲学者でもある福山から学ぶものもまた少なくないと思う。これが福山をとりあげる動機である。

 T

 福山をとりまくエピソードはそれこそ無尽蔵なのかもしれない。それほど多くの人の記憶にとどめられている。本人が意識するか否かにかかわらず、福山のからだから自然に流れ出たものも多かっただろうが、行動に移すこと、あるいは相手に行動させること、とくに身体的な行動をとらせることに一つの信念を持っていたであろうことは間違いない。頭で考えるだけでなく、知識によるだけでなく、動いてみると見えてくるもの、それを実践の中でつかみとらせたかったに違いない。そこでやらせることは、実にたあいのない子どもじみたことであったとしても、行動してみる前と後とでは、あきらかに別な実感を持つ。何かをつかんでいる。身体をゆらし、心を解きほぐす、そこに新しい可能性をみていたのが福山であったと私は思う。だが、それはパフォーマンスにとどまらず、パフォーマンスの向こうに画家としてのフォルム(姿勢)があった。それらを基礎として自分の考えをすすめることで見いだしたものが福山にはあった。
 次の言葉は、画家福山ならではのものだということができる。
 〈写実的なモノを描くとき、こころの中に抽象的なモノがなくてはならない。抽象的なモノを描くとき、こころの中に具体的なモノがなくてはならない。〉
 次の言葉も、福山の希求したというより、自らを、そして周囲を鼓舞した呪文の言葉であったのかもしれない。
 〈いつかは、実る。いつかは、落ちる。あるのは、ただいつかだけ〉
 ここでいういつかは、何時であるのだが、この場合ただ果てしのない夢の中のいつかや、遠いところにあるいつかなどでは断じてない。自分の手の中に感覚として降りて来ているいつかである。それは確かに手の中にあるのだが、まだ形にはなっていない、信じて待つ、待てば現れるところのいつかなのではあるまいか。
 福山は美術教室を開いていた。教室は土日だけ。土曜の午後は小学生と中学生、日曜は朝9時から高校生、大学生、大人を教えた。机やイスがあったわけではなく畳の上で描かせた。その教え方もユニークで、みんなまとめてというわけでなく、一人ひとりの絵を直していく中で、何を描くのかをつかまえさせるものだった。 描いているうしろに福山が立って見る、見て指導する。福山が描くと同じ線が生き生きとしてくる。それは直すというよりも見せるだけ。「やってみるから見ていなさい」という言い方であった。見せて、消して、筆を戻す。木村正代はあるとき背中をポーンとたたかれてこう言われている。「もっと前へ出ろ」。そして「みんなそれぞれいいとこがあるんだから」と。
 子どもを一人の人間として扱い、とにかくほめ上手、やらせ上手であった。
 井上四雄は美大受験の実技に役立つだろうと高校生のときに教室に入ったのだが、受験のための指導は一切なかった。だが、やめなかった。やめることなど考えられなかった。そこには井上がかつて見たことのない世界がひろがっていた。福山は人間としてどうあるべきかをポツリポツリとしゃべったという。
 指導を受けさせるというよりも行動を起こさせると言った方がいい。ピアノの話がある。断っておくが、ピアノが弾けるから弾かせるというのではない。「ピアノを弾いてみろ」と言われる。弾けないのだから言われた方は混乱する。弾けといわれてどうこたえるか、それも福山と二人きりのときではない、大勢の前で言われるのだ。言われて棒立ちになっているのでは、場も時もこわすことになる。
 答えは、ドレミでも弾いて「終わります」、と言った方がほめられた。なぜならそれはその場と時を大事にして行動に移した結果であり、一つのハードルを乗りこえたのだから。しかし福山はそれだけでは認めなかった。弾き方も見ていた。弾けばいいというものではない、本気で弾いているかどうかが一番の問題だった。下手でもその人が出ていればいいと。とにかく真正面からぶつからせる。本当のところをやらせた。
 ある年のクリスマス、おしるこパーティーをやるからと人を集めた。その余興にしるこの鍋の向こうに飛び込むというのがあった。鍋をまたぐのではなく、飛び越えてゆくのだ。福山が「今から飛び込むぞ」といって真っ先に飛び越んでいった。思いきり飛び込まないとどうなるかは想像がつくというものだろう。
 しばられていては付いていけない。突然何が出てくるかわからない。それをやってみることで、知らなかった何かが身体の中に飛び込み、精神が自由の醍醐味を会得する。自由な発想・とらわれない発想、それが福山が身につけさせようとしたものであったし、教えることの基礎においたものであった。常識は大切だが、常識止まりに終わらず常識をやぶることで初めて見えなかったものが見えてくる。福山はそれを確信していた。

 U

 昭和58年4月に出された「わかいめだより」の「早教育ではない」と題した一文に、教育に対する福山の考え方がはっきりと出ている。その一部を抜き出してみる。 〈よその子におくれないように早くから、いろんなことを教えこんでおく必要がある。まさかそんな考えが親の方にあって、この教室にいれた人はない、と信じます〉
 「わかいめだより」の発行からすれば、だよりははじめて教室に集まった親への、あるいは教室に入れた親へのあいさつにあたるものとみていい。そのはじめにこう切り出しているのだ。字数にして1000字、原稿用紙で2枚半、この1枚のたよりで、教室で何を教えるのか、どんな理念に基づくのか、そのすべてを型通りでない文章で言い尽くしている。もう少し先をみてみよう。 〈幼児を早くから競争の渦に巻き込むのは罪悪である。そう言っても現状はゆるさないと決めている親が多いのです。大部分がそうです。いや、そうです〉
 ここには親の無理解が子どもにたいへんな負担をしいていることへの憤りがある。自分の頭で考えない親への怒りがある。そして、こうした親を馬鹿だといい、バカ親だとまでいう。その一方でバカ親はだめだが、親バカはいいと、子を信じている親には寛容さをみせる。
 そして教室で2、3才を教える金曜コースを早教育ではない、自立のめざめだと主張して切り込む。 〈これは(自立のめざめ)こどもたちの一生を支える力になる。どうやれば、自立心がめばえ、それが育っていくか。そのために私どもはプログラムに全力をあげてかかります。むずかしいのです。何かを教えこむなら苦労はない。そんなことはしません。〉 そのあとを次のように結んでいる。
〈がっかりなさらないで下さい。〉と。
 まるで挑戦状をたたきつけたような、だよりになっている。義務や、体裁で書いていない。こびてもいない。本当の自分を知ってもらいたいために満身の力で書いている。書きながら考えている。たよりの最後には三人の名前がならんでいる。それがまた福山らしい。
  福山すすむ・親担当
  角谷かおる・10半担当
  木村まさよ・9半担当
 これだけで福山のねらいがわかる。


 福山は絵を描いただけではない。
 「とんじゃくない」は、なんということもない、どうということもないとでも解釈したらいいだろうか、福山の作詩作曲を集めた『音あつめ』に収録されている。どこかのびやかで自由な福山の気分をあらわしているのでここに掲げておきたい。そんなこたトンジャクないが曲の結びにおかれている。
  晴れても 降っても そんなこた トンジャクナイ
  白かろ 黒かろ そんなこた トンジャクナイ
  早かろ 遅かろ そんなこた トンジャクナイ


 『凡くら教育』が福山の主著である。
 昭和33年、43歳でこれを書いている。
 自分の手がある形を描いてみると、その形によって自分の心を発見するので、実は心は形の上にあると見るのが本当である。
 心によって形を描くのではない。形の方がさきで、それが心を露出するのである。……まずまず引ける線からはじめる。そこでこの線が、心をおぼろげにしめしはじめる。それからそれへと形が先行しては次第に心が露出してくるのである。
 ここでは、線を描くという一つの行動が、次の線を呼び起こしてゆくという創作の原点にあるものを語っている。心の中で意図がかたまりになったときに、線が引けるわけではないと言っている。線だけではない。言葉をあやつる文章にしてもそうだと言いたい。言葉ひとつに喚起されて書いてゆくようなところがある。というより書かされることがある。そこのところへの期待がキャンバスに向かわせるのだ。結末がわかっているなら創立の喜びはないだろう。福山がここでいう〈おぼろげにしめしはじめる〉は絵かきの一番の核心を言っているように読める。
 子どもに学ばせようとしただけでなく、自分も積極的に行動に出ている。NHKの「私の秘密」に出演した。昭和35年、福山すすむ45歳のときのことである。もちろん画家としてなら「私の秘密」に出る資格などない。NHKスタジオでの写真が福山の家に残っている。そのときのことは同じ「わかいめだより」昭和61年4月号にある。昭和35年の週刊女性8月号と婦人倶楽部の9月号に掲載された記事を紹介した号だ。タイトルは、「45歳で入った幼稚園」。ハゲ頭の絵かきが上級の黄組に入園し、子どもたちの仲間になる様子を書いている。園児の福山すすむが子どもから学んだことを一つだけみてみよう。
 夏。子どもたちは「暑いだろう」と植木に水をやる。それを見て、根から水分を吸収することを知ってから植物にそのような愛情を見いだすことを忘れていた自分に気づくのだ。
 植木に水をやるという外から見れば何の変哲もない行動をどう自分が感じたか。ひと色の受け取り方しかできない自分に気づいている。おそらく気づかされるたびに感動を覚えただろうし、園児から学ぶことが多いことを知っていたからこそ45歳になって入園したのだろう。見学に行ったのでも、観察や、のぞいてみたのでもない。それはわずかの時間、受けねらいで身をおいたわけでないことからもわかる。黄組に入った福山は、翌年の3月に卒園した。
 人間は大人になると頭で処理をしようとする。頭ではわかったつもりになるが、本当にわかろうとするならその中に入ってみなければならない。見ることでも学ぶことはできそうだが、そこに身を置くことに勝る方法はない。やってみさえすればすべてがわかる。絵の世界に模範解答はない。そんなものではない。新しいものはやらされる精神からは生まれず、トンネルを自分で掘ったその先に見えてくる。そこに自分を賭けなければならない。それは独創であり、独学の精神につながる。そうでなければ描けないものが絵なのだろうと思う。いやいや描いたとしたらその気分がキャンバスを埋め尽くすだろう。自分が楽しんで描く、そのことが人間にとっていかに大切なことか。福山はそれを身につけさせることこそが教育だとわかっていたのだ。偽物をよせつけず本物にこだわったのは、それが真剣に描かれたものであったからだと思う。その人の絵が通用するのはそうした描く人の精神の裏打ちがあって描かれるからである。他のだれにほめてもらうというよりも先ず自分の納得が得られるかどうか、完成度のものさしは内に向けられたはずだ。だからこそ夜中に描いていた絵が朝になって見るとまったく違っていたなどということもおこり得る。そうして絵描きとしてキャンバスと自分と格闘した精神の依りしろのような絵だからこそ、福山は描いた作品を売ることも、またゆずることもできなかったのかもしれない。
 晩年に近いときに読売新聞文化部が編集した『私のすすめる進学進路』(学陽書房、昭和57年)に書いている。題名は「適性のみがき上げが重要」、副題として−美術志望者へ−とある。原稿用紙20枚ほど、17人が原稿を寄せている。本明寛、尾形憲、俵萌子、佐藤忠男など、どの筆者も一家言の持ち主ばかり、それもみな子どもの側に立って書いている。そこに福山すすむがいる。
 項目だけを掲げておくと、初志をとおす・天分・素質・学歴ではない・適性、となっている。これだけでも福山の書こうとしたことがわかる。初志をとおすのはじめにこう言っている。
 〈はじめに、ことわっておかなければならないのは、わたし自身は美術の学校を出ていないということである。師範学校を出ただけである。進路や進学に関係あることといえば、その頃文部省検定といって、西洋画の国家試験があった。それを半ば独学で合格できたという経験があるにすぎない。〉  適性のところではこう言っている。
 〈適性があるとかないとかは簡単には片づけられないもの。少しばかりかじってみて、すぐにわかるというものなら、適性などそんなに大事なものではあるまい。……適性をたよりにしているのでなく、適性をつくりあげ、みがきあげようとする。これがものになるかならないかの分かれ目だと思う。〉結び  結びの部分では次のように言い切っている。これが福山を支えてきた背骨であり原動力とでも言ったらいいだろうか。逆にいえば、福山の一生はこのことを実践した一生であったのだと思う。実践の中からつかみ取った言葉だ。短いが後に続く者たちにどれほどのはげみになる言葉であることか。

 適性や素質よりも大切なものがある。自分を立てるという願望や努力(自立心)を棚上げしてはならない。芸術家は個性が尊ばれるが、個性は顔が違うとおり、人間みな違ったものをもっている。しかし個性を発揮できることは容易ではない。大成した画家たちは、初めから自分の個性に従っていない。先人の画風に傾倒したり、巨匠の影響を受けたりしながら、徐々に個性発揮に及んでいる。その大変な辛抱と努力をさせるのは、自立心である。人からさせられるのではなく、自分が自分をそうさせるのだからこれは強い。
 ちょっとした才能などには、おぼれることなくひたむきに自分を立てる努力が適性を磨くことになる。
 それが美術志望者の第一条件であろう。

 ことさら美術志望者の、などと福山らしからぬ物言いのようだが、腹の中では、こうでなくてはと言っている。とにかく自分自身を信頼している。人間を信頼している。一人ひとりがすばらしい才能を持っていることを確信している。その芽をのばしてやりたいと本気になって考えたのが福山すすむであった。

 『見るデッサン』の中には空間意識について書いた部分がある。その内容は、絵を描く者に役立つだけでなく、絵描きの範囲を超えて、本当にものを見ようとする者への、見方の提示になっている。つまりそれほどの普遍性のあるものになっている。少し長いかもしれないが引いておきたい。これは福山すすむ56歳の到達点である。

 デッサンの初歩の段階で、誰しもが、おちいるのは対象にとらわれ、細部にこだわることである。対象を再現することではない、としりつつも、それに似せようとして、いつのまにかとらわれてしまう。そのうちに、まがりなりにもそこそこの細部を描き終えると、すでにやることがなくなって、不本意ながらも、出来てしまう。
 消すことも、惜しまれる。さりとて、先へも進めずといった、早出来の壁にぶつかってしまうものである。
 要するに、これまでに、述べてきたような大事なものが、見えないからである。どうでもよい、余計なものだけは見えて肝心なものが見えないのは、悲しいことであるが、このいたしかたもない状態を、切り抜けるには、並々の苦労では果たせない。
 その人の見えるところまでしか、表し得ないのがデッサンの正体で、描けるということは、見得られたことの証明で ある。
 それだから。先ず、よく見るために描きこころみるという態度でなくては、見えることの進歩はない。その、こころみたものを、もう一度、見直して見るという操作によって、見ることの進歩が得られる。

 からだから絞り出したような言葉である。その人の見えるところまでしか、と言っている。まだ奧があるぞと教えている。自分が掴んだそのままを、もらさず、出し惜しみせずに出している。人が人を磨くということはこういうことだろうと、うらやましく思える。が、それはまた、とりつくろって生きている者への、注意していけよという、いさめのようにも読める。お前は本当を、生きているかと。

 むすび

 形象派の絵は自分には理解できないものとしてあった。何を描いているだろうという気持ちは、わかりたいというよりも、勝手に描いていろに近い、縁なき世界、そう思っていた。
 だが、それがいつからか変わっていった。それは福山の文章にふれたときかもしれない。
 福山の文章にはそこらへんにない高い山の魅力があった。足元にもおよばない存在としてあった。精神をゆりうごかすのみならず、高みにそびえ立つものとしてあった。形象をわかろうとするとしないとに関わらず、絵がものをいってくる。一点一点の絵を描いている福山の精神が絵から立ち上がっている。  福山の主導した会派を形象派と呼ぶが、一門一派という矮小化されたものでは捉えることのできないものがある。形象といういささか理解しづらいものの本質は、われわれがものをみて感じるそれが、何によるものかを的を射た言葉で教えてくれている。形象作用といわれてもすぐにはわからないが、生命活動としての充実感を、形態の上に実現する作用、形態の客体的な把握を主体的なものに変容する作用と言ってもらうと少しはわかる気がする。
 描こうとする形象物が内にもっている気を、描く者がキャッチして絵に表現したもの。それが形象ということになる。対象物の中にある生き物と、描く側の生命力とが感応するそれを見るかたちにして第三者に届ける。おれはこう見たが、と差し出すもの。
 それを受け止め得るかどうかの一切は、見る側(第三者)にゆだねられている。委ねられているなどと言うと他人事かと誤解されそうだが、みな等しく持っている感性がそれを受け止める。ただ、感性の発動には一つだけ条件がある。見てみたいという主体的な意識である。それさえあれば見えてくる。それを描いた絵かきの精神と向き合うことができる。
 福山すすむ『造形形態学』(学陽書房、平成元年)は、福山没後に弟子によって編集された著作であるが、福山の考えたことがあますところなくもられている。作品にもふれることのできるような編集がとられ、絵の世界にある者と否とにかかわりなく、ものを見ようとする者が避けて通ることのできない未踏の世界がかかれている。
 福山が残してくれた財産を絵の世界にとどめておくのはもったいなさすぎるように私は思う。安城に洋画家であり文筆家であり、教育者であった福山すすむがいた。あの洋画家中川一政にも吾して負けない人間がいたことを、この土地の誇りにしたい。泉下で福山が笑っている。
 ほめるな けなすな そんなこたトンジャクナイ、と。


参考文献
 福山すすむ『凡くら教育』、黎明書房 1958年
 福山すすむ「形象派の新天地」、形象派会報第10号、 形象派美術協会 1961年
 安城文化協会編「座談会"安城文化を語る"」『安城文化/文協20年のあゆみ』、安城文化協会 1966年
 福山すすむ「油絵の本道を考える」『芳蘭美術展図録』 1977年
 福山すすむ『韮簪(にらかんざし)』、学陽書房 1982年
 福山すすむ「教えない教育」、わかいめだより、139号 1983年
 福山すすむ「早教育ではない」、わかいめだより、142号 1983年
 福山すすむ「「第一義の人」への道を歩もう」『形象』bQ00、岡本脩 1984年
 福山すすむ『造形形態学』、学陽書房 1989年
 美術教室わかいめ会編『福山すすむ』(作品常設室開設記念)、美術教室わかいめ会 1992年
 木村正代・角谷薫編『音あつめ−福山すすむ作詩作曲集』、名古屋・三河形象派 1993年
 木村正代・角谷薫編『「形象」福山すすむ作品集』、形象派美術協会 1999年
 形象派本部事務局編『形象−形象派50周年記念』、形象派美術協会 2002年
 中川一政『腹の虫』、日本経済新聞社 1975年
 中川一政『つりおとした魚の寸法』、講談社 1985年
 中川一政『画にもかけない』、講談社 1992年
(『安城歴史研究』 第28号 2003年3月31日発行 安城市教育委員会編より転載)

プロフィール

斎藤卓志 1948年愛知県安城市生まれ、中京大学法学部卒業。学生時代から民俗調査に従う。
著書「稲作灌漑の伝承」(堺屋図書)、「刺青」(岩田書院)。共著「職人ひとつばなし」
共同執筆「大治町民俗誌」「西春町史民俗編」「安城市堀内町の民俗」「安城 食の風景」「多度町史民俗編」「安城市史民俗編」。その他論文多数。
日本民俗学会員・日本民具学会評議員・愛知県史民俗部会特別調査委員
愛知県安城市大東町22−39
<CENTER> <BR> <TABLE BORDER = 10> <TR><TD><TABLE BORDER = 3><TR><TD> <A HREF = "../keisyohome.htm"> メニューに戻る</A> </TD></TABLE></TD> </TABLE> </CENTER>