ある整形外科医の災害医療雑感

佐藤公治さとうこうじ 2005年1月


【日赤に勤めて】
 私は1999年4月に名古屋第二赤十字病院整形外科に赴任して6年となる。日赤は、医療事業や献血事業の他、救援救護やボランティア活動が大事な事業の一つであることを就職してから知った。日赤に勤めてしばらくしたとき石川副院長より救護の研修に誘われた。日赤愛知県支部訓練だった。その後さらに「もっとおもしろいのがあるよ」とBTC(国際医療救援用の研修会)参加を勧められた。この研修会は富士山の麓で一週間合宿、英語一色、そしてジュネーブ本部からの講師に点数を付けられ異文化体験もする精神的に過酷な研修会であった。その後すっかり赤十字に洗脳されてしまった。ボランティア精神に目覚めた。いままで学生時代に献血の経験はあるものの、恥ずかしい話だがボランティア活動は考えたことがなかった。
【脊髄髄内腫瘍でトラブル】
 私は脊椎脊髄外科を専門としている。脊椎脊髄の手術は自分の神経をすり減らす。現代は治って当然と、患者様の手術への期待は大きい。しかし医療には限界がある。大学時代に治療した脊髄髄内腫瘍の患者様の件で「カルテ差し押さえ」の連絡を受けた。誠心誠意行っているつもりでも訴えられることがある。そんな大変な仕事をしなくても、自分でできる医療を待っている人がどこかにいるのではないかと考えた一瞬だった。
【インドへ行かないか?】
 2001年1月インド西部で地震が起こった。しばらくして栗山院長(当時)から「インドに行かないか?」と誘われた。チャレンジ精神旺盛の私は飛びついた。外来や手術等の予定を変更した。はじめて国際医療救援に参加した。ちょっと緊張しながらの出発だった。現地はとにかく暑かった。地震後1ヶ月が過ぎていたので、意気込んで行ったが大手術は無かった。テントで合宿、シャワーは浴びられた。食事はカレーとナンがメイン。下痢で要員6人に一人は倒れた。自分はアウトドアが好きでどこでも寝られるので、生活は苦しくなかった。むしろ日本にいれば朝早くから深夜で働きストレスの多い生活、それとは違った太陽を中心に規則正しい毎日だった。帰国すると当院に国際医療救援部が発足し初代部長を命ぜられた。その後、さらに研修を受け、ジフバブエのHIV/AIDS対応の視察に行ったり、本社での会議に多く出席した。
【国際医療救援】
 現在、国際医療救援における日赤の体制は、全国日赤92病院に4つの拠点病院を設置している。国際的な災害や紛争地域での救援活動に、まずこの拠点病院から派遣される。災害時には48時間以内に、災害医療用の器材Emergency Response Unit(成田とオスロに配備)を輸送し、11人の要員を送る。医師3名、看護師5名、主事3名のチーム。限られたメンバーである。チームワークが必要だ。「私は医者だから」とは言っておられない。なんでもするスタンス。一つの班が、寝起き苦楽を1ヶ月共にする。
 当院には国際医療救援部があり、研修を受けた何人か(医療職だけでなく事務、技術職も)が登録されており、2001年インド西部地震、2002年アフガニスタン紛争、2003年イラン南東部地震、2004年スマトラ沖地震津波などに何人かの要員を派遣している。
【国内救護】
 国内では、災害が起こるとその地域の日赤支部が中心となり全国から要員が集まる。班長(医師)、師長、看護師2、主事2の6名が一個班で救急車に乗って出動する。24時間勤務なので3日間で交代。当院には9個班がスタンバイしている。
 平成16年 10月23日新潟中越地震発生。直ちに日赤本社からdERU(緊急医療救援ユニット)出動。25日当院から救護班出動決定、班長に選ばれた。小千谷市役所インターネット再開、26日電気復旧、一時防災無線も不良。28日朝四時、日赤救護車で出発、48時間の医療救護の任務。昼前、現地小千谷対策本部に到着した。現地は被災後5日目でまだ混乱していたが、波打ったり陥没した道もとりあえず復旧しつつあり、救援物資は続々届いていた。3日目には電気の復旧はしてきたとのこと。水道はまだだった。体育館に救護所を設置し診療した。余震も多く、なかなか心落ち着かない。70人近く診てきた。phase1となり疾患的には内科的と思って行ったが、日に日に寒くなり感冒、二次災害の外傷、頻回の余震によるストレス、また車中泊の人が多くエコノミー症候群や膝痛腰痛など整形外科医も役立った。気温4度の冷え込みでガラスの割れた吹きっさらしの体育館はとても寒かった。地域性か我慢強い方が多かった。心のケアーはじめいくつかの新しい活動をしてきた。
【日頃の訓練】
 これらの活動はとっさにはできない。また限られた時間と空間で行うためには日頃から訓練が必要だ。日赤では多くの訓練や研修会を行っている。洋上訓練、異文化コミュニケーション、リスクマネージメント、マスコミの対応など多岐に渡っている。臨床経験5年を条件としている。もちろん国際の場合は英語。
【災害医療と整形外科救急】
 日赤に来るまで救急は勉強したが、災害医療は考えたこともなかった。救急も医師になって数年を暮らした半田病院、刈谷総合病院での経験が主だった。災害医療は救急の延長かと思っていたが、大きく違った。救急と災害医療の違いは、限られた資材と人員である。
 災害医療はフェーズにより対応が異なる。当初の混乱期は、外傷が多い。1週間すると、落ち着いてきて内科疾患が多くなる。整形外科医は、とくに最初のフェーズで有用だ。基本的には限られた資材の中で行うため、通常の診療までの充実した治療ができない。これらをトリアージ(選別)する事が重要だ。
【総合外科医】
 今、災害医療ができる医師が求められている。総合内科が叫ばれて久しい。災害医療では専門性より総合的な知識が必要。限られた資材や薬剤や手技で多くの患者を診るgeneral surgeonが必要。救急外来とは違う。しかしいい加減でよいわけではない。被災地の医療レベルにあった治療が必要である。また処置の概念が変化している。たとえばイソジン消毒より洗浄とmoist healing care。また国際赤十字では戦傷外科の研修がある。
 此に向く医師は、切断や外傷学の他、開腹し腸の処置ができ、帝王切開ができる必要がある。まさに外傷を扱う整形外科医は適格である。特に脊椎外科医は、開胸、後腹膜アプローチができるから。
【雑感】
 僕は国内救護国際救援活動は嫌いじゃない。シャワーに二日三日は入れなくても気にならない。何でも食べられる。どこでも寝られる。趣味の無線と外洋ヨット。いろいろな知識が役立つ。趣味と実益を兼ねて、アウトドアライフ、生に合っている。
 災害医療は医学の基本か、自分でできることは限られている。十分な医療ができない無念さにかられることもある。
 このような活動は後方支援も重要だ。行く人も大変だが残された方も大変である。派遣が急に決まる。私が派遣されている間、当院の整形安藤智洋先生はじめ多くのスタッフが留守を守ってくれている。感謝したい。一人でできることではない。
 日常診療と二足の草鞋。この記事を書いている間に、スマトラ沖地震津波の第二班の要請が来た。外傷や切断が多いという。整形外科医の出動か。
 包帯を送るのではなく、包帯を巻きに行こう。Thunderbirds are go !

(本文一部は愛整会誌に載りました)

【参考ホームページ】
日本赤十字社 http://www.jrc.or.jp/
名古屋第二赤十字病院 http://www.nagoya2.jrc.or.jp/