第6回】・第2日・平成14年7月5日(金)】曇り時々晴れのツユ空模様 (参考地図・ 第27図・第28図・第29図) スタ−ト・6時45分・須原町・民宿・すはら・ 民宿すはらの出発は、沢釣の神奈川の人が一番早く、越百山登山の人が一番早いはずが、予約したタクシ−がこずぼやいていた。我々は6時45分スタ−トした。 |
![]() 橋場部落辺りから見える中央西線と国道19号に架 かる伊奈川大橋・赤いトラス橋 |
宿を出て600m橋場部落で、中央西線の踏切を渡り線路沿いに西へ歩く。 右手の線路越しに国道19号が見え、伊奈川に架かる赤いトラスの橋(伊奈川大橋)を懐かしく見る。 赤い橋は、国道19号のBPとして建設されたもの。 部落の中ほどを、道標に従い左折すると、まもなく岩出観音堂がある。 「岩出観音堂」・大桑村橋場 崖上に懸崖造り観音堂で、今のお堂は文化11年(1813)の建築で、この旧橋の辺りが木曽街道六十九次の栄泉画で有名である。木曽街道六十九次版画の栄泉画 ”伊奈川橋遠景”に描かれているお堂は、馬産地木曽三代馬頭観音として地元の人たちの崇敬を受けている。 |
岩出観音堂は、京都の清水寺に似た懸崖造りで、江戸中期のもので、堂内には山村家の絵師 ”池井祐川” の絵馬が奉納されている。 とくに ”木曽式材木運搬法” や ”刈手(干草刈り)” の情景を描いたものは、当時の庶民生活を伺う上で重要なものである。 なお、橋場部落は、旧伊奈川橋の橋番をするために置かれたのが始まりといわれる。 部落を過ぎた辺りで旧伊奈川橋を渡り、長野部落の右手小高い丘(兼平山)を巻いて天長院に出る。 また、少し先には、茶屋本陣跡があったといわれるが、今はそれらしきものは見当たらない。 「地久山・天長院 (臨済宗妙心寺派)」 大桑村長野 兼平山の南麓。文禄2年(1593)の創建。今の建築は江戸後期という。 ここで有名なのは、入口の石段脇に並ぶ石仏の一体で、子育て地蔵と呼ぶもの。子供を抱き、十字になっているのでマリア地蔵ともいわれる。 |
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![]() 岩出観音堂・懸崖造りの本堂が見える |
![]() 岩出観音堂・江戸時代の絵師池井祐川の絵馬がある |
![]() 天長院・本 堂・ |
![]() 天長院・子供を抱き、マリア地蔵と呼ぶ |
![]() 天長院・入口の石段脇に並ぶ羅漢石像 |
![]() 天長院・説明板 |
天長院を出て、兼平山(H=654)の南麓を西へ歩く。やがて弓矢部落に入り、左に大桑村役場を、右にJR大桑駅を見てJR中央西線踏切を渡ると国道19号と合流する。 ここから約2kmの国道歩きとなり、最近出来た”大桑道の駅”に着く。時間が早いのか売店はまだ準備中である。これでは早朝国道を通る利用者には役に立たないと思う。 この辺りは、左手は山でその裾野が国道に迫っている。右手は中央西線、その北側を木曽川が東西に流れ下っている。 振田部落を越して暫く歩くと、国道分岐してすぐ中央西線の踏み切りで、ここを越した辺りにワラビの遅そ咲きがあり思わぬ収穫であった。 二度目の踏み切りを越し坂を登ると左手に高札場跡があり、今は標識のみだが、横に南無法蓮華経と書かれた碑が立っている。 台石はイボ石と呼ばれ、この石に触るとイボが治るといわれる。 この辺りが、40野尻宿入口である。 40「野尻宿」 大桑村野尻 古書には、「野尻の駅の本陣森庄左兵衛門が家にとまる ここも板ばめにして壁なし されど十月九日牧野備前守泊といへる札あるをみれば 去年京より執政にめさせられし時 一夜やどしまゐらせ所なり げに旅にしあれば かかるいぶせき所にもやどらせ給ふものかな よもすがら雨ふる音 谷川の流とひびきをあらしへり いづれの時にか西の窓のともしかかげて 巴山夜雨の時をかたるべきともいはまし」 と旅のわびしさを述懐している。 なお谷川の流れとは、木曽川のこと。 また別の古書には、「木曽大河−三留野の東よりここを過ぎて上松にいたる 水流奔騰の如し 大雨の時 水漲りて畏るべし」としている。 野尻宿の家並みは、比較的新しい町並みだが、寛政3年(1791)、文政7年(1824)、明治27年と火災が続き、特に明治の大火で宿の大半を焼失した。 昔は、木曽十一宿の内、野尻宿は下四宿の最初の宿である。下四宿とは、野尻・三留野・妻籠・馬籠をいう。 野尻宿は、旅篭茶屋など30余軒をもつ繁栄した宿である。 高札場跡から少々歩くと、右手に脇本陣跡があり、その先左手に本陣跡があるが、今は建物も新しく。その先の家が野尻氏宅、その向かいが木戸氏宅・昔の旅篭三文字屋である。 この辺りで野尻宿は終わりで、”はずれ”という屋号の吉村氏宅がある。 「脇本陣跡」・ 今は木戸氏宅で、明治の火災後再建された。問屋・庄屋を兼ねた名家。大名の宿札や、多くの宿場関係の文書を保存しているそうである。 「本陣跡」・今は代も変わり家も新築されている。 「野尻氏宅」・木曽左京太夫家方の三子といわれる。木曽の県令も勤めた。 「木戸氏宅」・旅篭屋・三文字屋の子孫の家。 ここで残念なのは写真で宿の名家が判別できないことである。 |
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![]() 野尻宿・始まり付近にある・高札場跡の説明板 |
![]() 野尻宿・古い家並み |
![]() 野尻宿・古い家並み この先 ”七曲がり” の街道 |
![]() 野尻宿・西外れの古い家並み |
![]() 野尻宿・西外れの”はずれ”の屋号の家 |
![]() 野尻宿・説明板 |
下在郷部落は、右手に国道19号、左に中央西線に挟まれた狭い部落で、ここには新町屋と呼ばれる古い家があるはずだが、見当たらなかった。家の中には阿弥陀如来が祀られているという。 この先100m右手に一里塚跡があるが、これも草むらに隠れているのか見当たらない。 やがて中山道は国道19号と合流するが、国道トンネルを避けるため右手の狭い道に入る。 国道と木曽川に挟まれた道で、ここでもワラビの収穫があった。 野尻ダムを過ぎると道幅もやや広くなり一旦国道に出る。この辺りが町村境・南木曽町に入る。 なお、昔の中山道は、先の須原宿・岩出観音堂から伊奈川に沿い奥へ歩き、大桑村田光・大平・増沢を越し南木曽町宇礼・与川・読書を通り現中山道と合流するル−トがある。(参考地図 を参照) このル−トは昭和61年11月付国土地理院の地形図にも中山道と明記されている。 41「三留宿」・南木曽町三留野 古書に「見戸野の駅舎わびしき所なり」と書いている。今も国道から見るとひっそりとした町並みである。 それでも各戸とも旧屋号を掲げて、宿駅の面影を残しているが、町並みは面影を残すものは殆どない。 この宿は、明治14年の大火で殆ど全焼し、現在の建物はそれ以後のものである。 宿の中ほど左手に、脇本陣跡・宮川家があり、その先右手に元本陣跡があり、その先に卯建のある旧家がある。 その先、宿の町並みを外れた東側に妙覚寺がある。今回は寄らずに通過したが、境内の円空仏は有名だそうで寄らなかったのが残念であった。 三留野宿は、等覚寺を過ぎた辺りで終わる。 |
![]() 三留野宿・脇本陣跡 今は宮川家住宅 |
「脇本陣跡・宮川家住宅」・ 三留野宿の脇本陣は、代々宮川家が勤めたそうで、宮川家はまた三留野村の庄屋を勤め、この周辺が江戸時代の三留野宿の中心であった。 今は普通の民家である。表札は宮川を掲げている。 「本陣跡」・ 今は、二階建ての長野法務局読書出張所の建物になり、入口に明治天皇行在所記念碑が立っている。 庭に、枝垂れ桜の老木が昔を物語っている。 「妙覚寺」・曹洞宗 ここで有名なのは、境内の円空仏11体がある。天神仏・弁財天と十五童子中の8体・韋駄天仏の11体。 |
やがてJR南木曽駅東口に出る。 この辺りは、昭和40年の集中豪雨で、建設中の国道が各所で寸断され、また中山道筋の民家も相当な被害を受けた。災害復旧に日夜勤めたことを思い出す。 ここで失敗を犯した。三留野駅前に出て昼食をと思い右折して跨線橋を渡り、駅前に出たが中山道は跨線橋を渡らず直進する。お蔭で昼食は出来たが、駅舎から裏の中山道へ出ることが出来ない。 駅舎の裏は崖でもちろん改札口もない。やむなくタクシ-で駅の裏手まで行く。間違えなくても昼食にはありつけなかった筈である。一概に失敗でもない。 三留野駅裏から南の辺りの和合部落に園原先生の石碑がある。その少し南には、遠山家跡がある。 少し南へ歩くと神戸部落で、数軒の農家らしき建物がる。この部落には、昔、立場跡があったというが今は何も見当たらない。 これから先には、 木曽義仲、巴御前所縁のふりそで松と義仲カブトのかぶと観音堂がある。 「園原先生碣の石碑」・南木曽町三留野和合 三留野駅裏東にある。古書に 「”園原先生の碑”−神戸のひがしにあり 天明三年(1783)これを建てる 碑銘近きとしのものなれは ここに略す」とある。 この略した碑文とは、尾張藩の儒者松平秀雲の「翁の性は園原, 諱(いみな)は旧富、桂翁と号す。 吉蘇御殿の天王の祠官なり・・・」桂翁は木曽古道記・御坂越記・木曽名物記などを著わし、安永5年(1776)に没したが、ここは旧屋敷跡である。 この辺りは和合部落で、古書に「名産和合酒−むかし木曽の谷中に酒なし 和合の里人初めて酒を造る 渓水酒味軽淡 愛すべし」と説明している通り、酒は名物であった。しかし今はこの集落では醸造していない。 |
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![]() 南木曽町三留野和合集落にある 「園原先生碣の石碑」 |
![]() 「園原先生碣の石碑」 |
![]() 「園原先生碑」・説明板 |
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和合部落を過ぎ、神戸部落に入る辺りの石垣の上に、この辺り有数の酒造家で庄屋を勤めた遠山家屋敷跡がある。 今は当時の庭木であった枝垂れ桜の大木が残っている。 この部落には、数軒の農家があり、古書に「合戸村という立場あり 人家わずかにニ 三戸なり 名物まんぢう あんもち と書つけたる札あり 試にあんもちを味ひみるに 味ひ都下にはずる事なし 東海道にもかかる餅はまれなるべしと思はる」と激賞している。 いまは立場の位置も明白でなく、名物まんじゅう店も全く見当たらない。農家ばかりである。 ここから先には、木曽義仲、巴御前所縁の ”ふりそで松・義仲カブト” のかぶと観音堂がある。 義仲旗揚げの際の伝説が伝えられている。 渡島部落に入り、妻籠宿手前の石畳道を登ると、上久保の一里塚跡があり、続いてくぼはら茶屋跡がある。少し先と思われるが、良寛歌碑がある。 「上久保の一里塚跡」・ 慶長9年(1604)から、一里ごとに築造されたもので、基準は五間四方、高さ一丈(3m)で、塚上には榎を主に松などが植えられた。 南木曽町には、十二兼・金知屋・上久保・下り谷の四ヶ所にあったが、現在原型をとどめているのは、ここだけである。 江戸から七十八里目である。 「くぼはら茶屋跡」・ 今は民宿を経営しているというが、見た限りではそれとも見えない。昔ながらの古い家である。 「木曽路にて・良寛歌碑」・ ”この暮れの もの悲しきわかくさの 妻の呼びたてて 小牡鹿鳴くも” この歌は、てまり上人といわれた良寛が木曽路を通った折、詠まれた二首のうちの一首で、その時期は次の三つの場合何れかといわれる。 1 師が国仙和尚と善光寺方面を巡錫した時で、元明4年(1784)、27歳ごろのこと。 2 備中玉島にある円通寺での修行を終えて越後に帰るときで、寛政7年(1795)38歳のごろ。 3 飛騨高山の大隆寺の僧、宗龍禅寺を参訪した時で、20歳後半のころか。 渡島部落のはずれの、二差路分岐に出るが、道脇に案内板が立っている。左・飯田方面 直進・妻籠宿 右・妻籠城址の方向を示しているが、妻籠城方向の道は不明。 この案内板の近くの、右手丘上に妻籠城址があるが、今回、案内板の城址を見逃し、丘の麓の説明板のみ見るだけとなる。 この先が、妻籠宿の入口である。 「妻籠城址址」・ ニ差路分岐付近の右手の山が妻籠城址で、いつ誰が築いたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。 妻籠城は、天正12年(1584)の小牧、長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝が籠もって、徳川家康配下の菅沼・保科らの軍勢を退けている。 また慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのときも、軍勢が入ってここを固めたが、元和2年(1616)には廃城となっいる。 妻籠城は典型的な山城で、空堀、帯田輪、さらには南木曽岳にのびる”妻の神土塁”という土塁も備えており、規模の大きな備えであったことが知られる。 主郭へは徒歩で、北は木曽川と遠く駒ケ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる。 |
![]() 渡島部落・”くぼはら茶屋跡”と思われる 民宿を経営しているという |
![]() 妻籠宿への石畳道かなりの急勾配 |
![]() 渡島部落・”上久保の一里塚跡・規模からかなり原型 をとどめている |
![]() 渡島部落・一里塚前にてしばしの休憩 |
![]() 良寛歌碑と思われる |
![]() 妻籠宿手前の二差路分岐・左 飯田方面 中 妻籠宿 右 妻籠城址(見えない)・示す案内板が道脇に立つ |
![]() 妻籠宿・入口付近の昔風の家 |
42「妻籠宿」・南木曽町吾妻妻籠 古書に「妻籠の駅は馬籠とともにひんびたり 駅舎のかんばんに膳めし うり銭 などかけり 又名物和合もろ白 とかけり」 木曽十一宿の内、下四宿三番目の宿である。街道の町並みもすべて復元され、電柱なども地中化され昔の面影を取り戻している。 宿に入ったところが下町、このあと中町、上町と続くが、今でも卯建のある民家も見られ、妻の壁を切り妻の屋根より高くし、二階に袖壁をつけて防火壁としている。 妻籠宿も最近観光地として、観光客も多くなり島崎藤村所縁の街道も俗化されてきたという声も聞こえる。 |
宿の東入口には、昔、口留番所跡があったが今は、標識と説明板が立つのみ。口留番所跡の少し先右手には高札場跡があり、ここは今も復元されている。 「口留番所跡」・ 江戸時代初期に、この辺りにあって、中山道を行く人を監視していた。 従来、この番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かったが、最近発見された、「正保3年(1646)と推定される資料−”妻子(籠)御関所”には、17世紀中頃まではと記されていることから、少なくとも17世紀中頃までは妻籠に口留番所があったことが確認された。 なお妻籠には、下り谷その後一石栃に、木材の搬出を取り締まることを目的とした、白木改番所が、近世を通じて設置されていた。 「高札場跡」・ 古書に「宿高札場壱ヶ所−宿東入口建有之」とあり、「高弐間五寸 長弐間 横五尺五寸」と記されている。今も古式どおりに高札を復元しており、すぐ左手に水車小屋とともに、いかにもひなびた宿の姿を再現している。 高札場跡を過ぎると、妻籠宿も核心部に入る。まるで映画の野外セットを思わせるような江戸時代そっくりに復元された町並みが続く。そば屋が多いようで、他に土産物店などが多くある。 右手に、明治天皇御小休所の碑があり、その下町の終わり辺り右手が(重文)奥谷脇本陣跡の林家で屋号を奥谷といい、今は南木曽町博物館になっている。 その先左手、中町に本陣跡がある、今は木曽町博物館で、元妻籠営林署である。 やがて、下る石畳道と舗装された新道に分かれる。石畳道は枡形で、脇の石垣は城壁であったといわれる。 枡形の終わる辺り左手に入る道は光徳寺に続く、 ここまでの、脇本陣跡・本陣跡・光徳寺は、すべて島崎藤村 ”夜明け前”に登場する。 「(重文)奥谷脇本陣跡・現南木曽町博物館」 元妻籠営林署 林家で問屋・庄屋を勤めた、屋号を奥谷といった。林家は天正12年(1584)、木曽氏の家臣で妻籠城で戦った。その後子孫が土着したといわれる。 この林家は”夜明け前”では、馬籠宿年寄役・扇谷得右衛門の名で、本陣庄屋・島崎寿平次の良き相棒としてしばしば登場する。 また、島崎藤村の詩 「初恋」のモデルという ”おゆふさま”が、馬籠の大黒屋から嫁いで来た家でもあり、壮大な城郭風3階建ての現在の建物は明治10年に改築されたもの。妻籠城の障子などを使用しているという。 「妻籠宿本陣跡・現南木曽町博物館」 ”夜明け前”では、馬籠本陣青山半蔵の従兄に当たる青山寿平次は、ここの島崎重佶をモデルにしたもの。 重佶の妹 ”ぬい”は馬籠の半蔵(島崎正樹・藤村の父)に嫁入り、藤村兄弟(一女四男)の母となった。 また、青山寿平次には子供に恵まれず、半蔵のニ男を養子に迎えている。 上段の間に使われていた五七の桐紋のある襖が、以前は光徳寺に保存されていたが、今はここが博物館なので元に戻ったことになる。 妻籠宿は馬籠宿と同様、明治維新前後の宿内の国有林野の緩和等種々の難問を抱え、活動したさまが”夜明け前”に克明に描かれている。 「光徳寺」・ 天正11年(1583)、下伊那郡川路村開善寺の性天和尚の開基。勅使門・本堂・庫裏があり、本堂は、享保10年(1725)の建立。 本堂の”光徳寺”の扁額は山岡鉄舟の筆、庫裏に吊るしてある駕籠は、その底に車の輪がついている変わったもの。 石垣際の枝垂れ桜は、樹齢500年という巨木。 |
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![]() 妻籠宿・復元された古い家並み |
![]() 妻籠宿・復元された古い家並み |
![]() 妻籠宿・本陣跡 今は南木曽町博物館 |
![]() 妻籠宿・(重文)脇本陣跡 奥谷歴史資料館 |
枡形とは、江戸時代整備された一種の城塞の役割りももたされ整備された。宿場の入口には必ず枡形が設けられた。 街道を二度直角に曲げ、外敵の侵入を防ぐようにしたものである。 妻籠宿の枡形は上部斜面を掘り割られているが、よく当時の姿を伝えている。 光徳寺を出て、中山道の街道に戻り、枡形右手の上丁子屋は元旅篭屋だが今は土産物屋。少し先の松代屋は軒下に御嶽講の暖簾が並ぶ。隣の下嵯峨屋は典型的な庶民住宅で町の文化財になっている。 少し戻り、光徳寺入口付近には地蔵堂がある。ここの地蔵は汗かき地蔵と呼ばれている。 石段を上がった右手は生駒屋で、180年ほど前の建物といわれる。その先左手が上嵯峨屋で、宝暦年間の建物といわれ、元は旅篭屋であった。 出梁造りの家並みを抜けると、国道256号と合流する。左 清内路峠を越して飯田市に出る。飯田に勤務していた頃は、まだ未整備であった。当時を思うと今は256号も大分整備されてきたようである。 中山道は、国道を350mほど飯田方面に歩き、右手の蘭川(あららぎ)を渡り大妻籠部落に入る。 ここにも卯建のある、古い旅篭屋風の宿が三、四軒あり、今日の宿はその内の一軒かと思ったが、さにあらず更に500mぐらい先を右折し、坂を上がったところにある。 |
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![]() 妻籠宿・枡形近くの”わちのや”屋号を掲げた家屋 |
![]() 妻籠宿・”枡形”・説明板 |
![]() 妻籠宿・復元された街道筋の家並み |
![]() 妻籠宿・昔は旅篭屋と思われる松代屋、今は旅館か |
![]() 妻籠宿・昔は旅篭屋と思われる、生駒屋 今は旅館 180前の建物という 妻籠宿・石段を上がった右手が生駒屋旅館 → |
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16時10分、今日の宿に着く。 L=22.7 km 47,600歩 (泊)「民宿・かめやま」 |