【第8回】・日帰り・平成14年(2002)10月21日(月)】 晴れたり曇り 
                                   (参考地図・第30図第31図


自宅・名古屋駅  →   JR恵那駅  スタ−ト・JR恵那駅・9時20分
          (中央本線)   着9:10

前回に続き恵那駅前を恵那銀座交差点にて右折する。この右折した道が中山道で、恵那銀座の繁華街通りを歩くと、恵那名物の栗羊羹・からすみなど菓子店が多くある。

繁華街を過ぎる頃、目に付いたのが古い家並みの家である。

「中野村庄屋・本酒屋」 (恵那市栄町)

屋号は本酒屋といい、文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁し中山道を通って、江戸へ下ることになった。
その準備に中山道の各宿場はおおわらはであった。当時、大湫宿の助郷村であった野井村が、和宮が通行するということで、岩村藩代官より強制的に賄役につかわされた。
このことを不満に感じた野井村の百姓代能崎新三郎は、和宮の通行が終わった後、中野村庄屋に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけた。
これは後に事件になったが、代官による強制的な賄役の負担が野井村の今後の慣例となる事を恐れた野井村は、岩村藩を相手に裁判に訴えた、。
最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され野井村、野井村に金二十五両が下附された。

この先、繁華街の外れに永田川に架かる中野橋があるが、手前角に観音堂が立っている。
中山道は中野部落に入り、三叉路交差点を西へ、新田を越すと西行硯水公園がある。

「西行硯水公園」 (恵那市中野新田)
公園内には、西行硯池・東屋休息所がある。
”西行硯池”・
文治2年(1186)、西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出た。鎌倉の頼朝に会い、平泉で一年滞在した後、木曽路を経てこの地を訪れ、三年間暮らしたといわれている。歌人である西行は多くの歌を詠み、こんこんと湧き出る泉を汲んで、墨をすったと伝えている。
 ”道の辺に 清水ながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ” 西行
 ”陽炎や ここにも ふじ見の 節の跡 渓花坊

    渓花坊(本巣郡)の句は、天保14年(1843)馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立の句会に来訪したたときに、
    ここで詠み、地元の弟子に与えたものである。
    なお、藤村の”夜明け前”では、天保14年、伏見屋金兵衛が亡父の供養に芭蕉句碑を建立を思いつき、
    馬籠新茶屋本陣青山吉左衛門はじめ大勢が集まり建立したと記されている。

公園より200m、中山道は分岐して右手の山道に入り、JR中央西線・中央自動車道高架橋を越す。いよいよ中山道らしいきつい山道に入る。
ここから恵那市・瑞浪市にかけての中山道は、古い跡こそ見られないが、石畳道などは当時のまま保存されている。
なお、分岐手に、「西行塚西三丁」の道標が立っている。

中央西線を潜るとすぐ左手の山道に入る、ここからが登り坂で”西行坂”と呼んでいる。

 恵那銀座通りの西はずれ・旧中野村庄屋 本酒屋


  恵那市の町外れ・永田川に架かる中野橋
            手前角に観音堂がある 

 恵那市中野新田・”西行硯水公園”

   ”西行硯水公園” 内・西行硯池

 ”西行硯水公園” 内・庭園 東屋休憩所もある

 中山道分岐点・正面中央西線・右手より中央自動車道
 越す急な山道に入る 分岐脇に「西行塚西三丁」の道標が立つ
 JRを越すと上り坂で、”西行坂”という

西行坂付近からは石畳道で、この道を登ると、大木の右上の間に西行の墓がある。
この辺りは、中央西線・新槙ヶ根トンネルの真上である。

「西行の墓」・塚には五輪塔が立っている。平安末期の歌人西行(法名・円位 俗名を佐藤義清(1118‐90)を偲んで
         整備された。ここには西行が葬られたという西行塚・五輪塔・西行の歌碑・芭蕉句碑が並んでいる。

定説では、諸国を行脚した西行は、晩年になって河内国(大阪府)弘川寺に身を寄せ、文治6年(1196)2月16日に亡くなったといわれている。
しかし全国には種々な形で西行の伝説が残されており、その終焉の地にしても十を下らない数の場所が知られている。
この恵那市に於いても古くから西行の伝説は幾つか知られている。その伝説の一つによれば、諸国業脚の途中、この地に立ち寄り、竹林庵を結び三年暮らしたという。
そこで自分で死期を悟り、村人に遺骸を中野坂に埋葬するよう頼んだ。建久9年(1198)2月14日に亡くなり、遺言通りに中野坂の傍らに埋葬し、五輪塔を建てたという。中野坂をを西行の死後、西行坂という。後になって数々の歌を詠んだ。新古今和歌集に94首が入る随一の歌人であった。

西行の塚は、山上の大木の陰に墓と伝える五輪塔がある。高さ1.6m 室町期のもので、墓ではなく供養塔だろうといわれている。近くに芭蕉句碑・西行歌碑がある。
  ○ 芭蕉句碑・”西行の わらじもかかれ 松の露”
  ○ 西行句碑 ”待たれつる 人相の鐘音すなり あすもやあらば聞かむとすらむ”

ここから300m西へ西行坂の山道を下り、再び登りきると槙ヶ根一里塚跡がある。ここの一里塚は両側にある。

「槙ヶ根一里塚跡(北塚)」・
一里塚は戦国時代の末(16世紀後半)には、山陽道の備中の河内から北九州肥前名護屋の間に築かれていたといわれているが、
一般には、慶長9年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要な街道に設けさせ、制度化させたものをいう。
しかし、天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという。

県内の中山道は32ヶ所あったが、現在、残存しているのは、当市内の槙ヶ根・紅坂のほかに、瑞浪市内の瑞浪権現山一里塚を合わせて7ヶ所にすぎない。
ここの槙ヶ根一里塚は、北塚が高さ3.5m 巾9.9m、南塚は高さ3.9m、 巾10.1mある。しかし塚はあるが、今は雑木が生えている。

ここからはやや緩い”七本松坂”を下る、七本松は見当たらない。やがて舗装道路と合流する。
この右側が槙ヶ根立場跡があり、昔の木曽と伊勢路の追分で道標が立っている。

「槙ヶ根立場跡」・
江戸末期頃、ここには槙屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋9戸があった。
店先には、わらじを掛け餅を並べ、多くの人が一休みした所。これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度が変わり、脇道が出来、特に明治35年大井駅が開設され、やがて中央線が開通して中山道を利用する人が少なくなった。

今では、跡地には茶屋跡地や古井戸・墓地などを残すのみである。
この立場跡を古書では 「人家あり 巻かね村といふ 追分の立場といふは木曽といせ路の追分なるべし ここにもお六櫛をひきてひさぐ」と書かれている。

道標の手前150m、左手から東海自然歩道が合流する。この道は以前踏破した道である。いつか東海自然歩道踏破のH・Pを作成するつもりでいる。

「道 標」・
   左 伊勢名古屋 (現国道19号・経由)
   右 西京大坂   (中山道)

 西行坂(中野坂)・この石畳道を登ると”西行の墓”が
 ある


      ”西行の墓”入口 

   大木の中に”西行の墓”・五輪塔が立つ

 ”槙ヶ根一里塚跡(北塚)”・榎はなく雑木が生えている

   ”西行の森”・桜が多く植林公園


    ”槙ヶ根立場跡”・付近の中山道

 ”槙ヶ根立場跡”・今は何もなくただの跡地

  ”道標・左 伊勢名護屋 右 西京大坂 と彫られている
      
ここから林間の道幅の狭い道となり、道祖神石造を見て、”みたらしの坂”を行く。
「下街道」・
昔は、先の道標から中山道を上街道といい、分れて左の下る道を下街道と呼んでいた。
下街道は竹折・釜戸から高山(現土岐市)、池田(現多治見市)を経て伊勢名古屋へ行く道である。
この道は、途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家もあり、その上、名古屋までの距離は上街道より4里半近いので、下街道は一般旅行者に加えて商人・伊勢神宮参拝者も多く大変賑わった道である。

幕府は中山道の宿場保護のため、下街道の商人荷物の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することは出来なかった。幾度も訴訟裁定を繰る返した。

先の、道標から500mのところが祝峠(H=380)といい、周囲の見晴らしが良いところから、中山道を通る人はしばしの休憩をした峠である。
この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多く付き、子持ち松といった。この子持ち松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。
そのためお姫様の通行のさいなどに、ここに仮御殿を建てて休憩される事が多かった。

「祝峠の姫御殿跡」・
文化元年(1804)、12代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さざのみや)の時は、六畳・八畳の二間の仮御殿を建て、文久元年(1861)14代将軍家茂に下向した和宮は、岩村藩のご用達蔵から運んだ檜の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて休憩所とした。地元の人は、この御殿を漆塗りであったと伝えている。

また近くに首なし地蔵堂があり、地蔵が安置されている。

「首なし地蔵跡」・
この地蔵は宝暦6年(1756)、地元(武並町美濃)の人達が、旅行者の道中安全を祈って立てたものである。
その後、地蔵は下街道沿いの丘の上に移され、春の桜の頃に地元の人達が、集まって、盛大な祭典を行っている。

この地蔵には、昔、二人の中間がここを通る途中、夏のことで汗だくとなり、松の木陰で休んでいる内に、いつの間にか二人は眠ってしまった。暫くして一人が目を覚ますと、もう一人は首を切られて死んでいた。吃驚して辺りを見まわしたが其れらしき犯人は見当たらない。怒った中間はは刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。それ以来、何人かの人が首をつけようとしたが、どうしても付かなかったという。

”乱れ坂”の石畳道を上下すると、乱れ橋に出る。

「乱れ坂・乱れ橋」・
大井宿から大湫宿までの三里半には、西行坂とか権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめると十三峠という。
この乱れ坂も十三峠の一つで、この坂が大変急であるため大名行列が乱れ、旅人の息も乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために、「乱れ坂」というようになった。
麓の川を昔は、乱れ川といい、享和2年(1802)には「・・・石○○○音するすさまじき流れあり」。というほど流れの速い川である。
ここに架かる橋を「乱れ橋」あるいは祝橋といい、長さ7.2m 巾2.2mの土橋で、昔は飛脚たちが出資して橋を架けて荷駄一頭から二文ずつ銭をとる有料橋のときもあった。 古書に「石はしる音すさまじきながれあり わたせる橋をみだれ橋といふ」とある。

   祝峠・姫御殿跡・今は石柱のみ立つ

       祝峠付近の中山道 

   ”首なし地蔵跡”・石柱と地蔵石造が立つ

   ”首なし地蔵跡”・二体の地蔵

    ”乱れ坂”・の石畳道


乱れ坂”・の乱れ橋・昔は飛脚たちが金を出し合い架けた
乱れ橋を渡ると、中山道は次第に登り道となる。次の坂は”お継原坂”、またの名をうつ木原坂という。ここを登りつめると、人家も見られる四ッ谷部落に出る。

部落から1.2km先に、紅坂一里塚跡がある。道の両側にあり、塚には雑木が生えている。江戸から89番目の一里塚である。
この後、”黒すくも坂”を下る。左手にぼたん岩と呼ばれる大岩がある。
その先250mの所に神明神社がある。境内に芭蕉句碑がある。”山路来て なにやらゆかし すみれ草”。

先に昔の馬方が休んだ馬茶屋跡がある、昔の馬方が休んだところで、今は普通の民家があるのみ。
少し西へ歩くと、藤村高札場跡、その近くに深萱立場跡がある。

「藤村高札場跡」・
高札場は村の内、人通りの多く目につきやすい場所に、一村が一ヶ所立てるのが普通であるが、この藤村や竹折村のように二ヶ所建てられた村もある。
高札場の管理は藩に命じ、村人には決まりを厳しく守らせ、この前では笠など取られせ礼をさせるなど厳重に取り締まらせていた。
高札には親子・キリシタン・毒薬・火付け・徒党・駄賃銭など多くの札があるが、藤村のこの高札場には二枚掛けてあった。(享保元年(1801頃)
高札・定 (上段右)
キリシタン宗門八年御禁制たり、自然不審者成るもの有之○申出へし、御褒美として銀百枚 えてれんの訴人銀五百枚 いるまんの訴人銀三百枚 立帰者の訴人 同断 同宿の宗門の訴人 右之通下さるへし たとひ同宿宗門の内たりといいふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所○るゝにおゐては、其所之名主井五人組迄―類共に可被行罪科者也
  正徳元年五月日      奉行

高札・定 (下段左)
― 火を付る者をしらべ早々申出へし 若隠置におゐて○其罪重かるへし 申出るにおゐて○其罪をゆる
   され急度御褒美下さるへき事
― 火を付る者を見付は これをとらへ早○御代官 地頭へ召連来るへき事
― あやしき者あら○せんさくをとけて 早○御代官 地頭へ召連来るへき事
― 火事の節 刀 長刀 脇差等ぬき身にすへからさる事
― 火事場其外いつれの所にも 金銀諸色ひろひとらは御代官 地頭へ持参すへし 若隠し置他所○あら
   ○るゝいおゐて ○其罪重かるへし たとひ同類たりといふとも 申出る輩は其罪ゆるされ 御褒美下さ
     るへき事
      右条○可相守於相背○可被行罪科者也
        正徳元年五月日         奉行


「深萱立場跡」・
小橋を渡り川沿いに行くと、右手に馬茶屋跡の家があるところ。
この立場には数軒の茶屋があり、多くの旅人たちの憩いの場となっていた。特に立場本陣は、和宮をはじめ多くの姫君や大名行列の殿様がお休みになった家である。
この道は大井宿と大湫宿の三里半を結ぶ十三峠という。
しかし今は立場の説明板のみ立っているのみで、他に民家数軒があるのみ。

昔の石畳道が続き、屋敷跡と思われる石垣が見られる。やがて三ツ峠で市境である。
 
  三ツ峠・市境・恵那市武並町→瑞浪市釜戸町
  

  恵那市武並町四ツ谷部落・中山道休憩所

 同 四ツ谷部落・中山道沿いに数軒の民家がある

  恵那市武並町・紅坂一里塚跡(北塚)

   恵那市武並町・紅坂一里塚跡(南塚)

   紅坂の石畳道・中山道

 恵那市武並町・藤村高札場跡 
           近年復元されたと思われる
 
               
              三ツ峠(市境)・付近の石畳道 昔の屋敷跡の石垣が見られる

市境を過ぎると分岐となり、左・中山道  右・東海自然歩道
先の路傍に標石があるが、ばばが茶屋跡の標石。何やら刻まれているが字体は不明。
ばばが茶屋跡から下る道を、”茶屋坂”という。右手に見える山が権現山(H=592)で、裏手に刈安神社がある。

今度の登り坂道が、”権現坂”でかなり急な坂道で、一部は階段状になっている。
権現坂の途中の岡上に馬頭観音が安置されている。

この付近が大久保部落で、昔、観音堂・炭焼立場・瑞浪(権現山)一里塚跡があった。
坂の途中に観音堂・弘法堂がある。観音堂は一見民家風で、弘法堂には石造・弘法大師坐像が安置されている。

    ”ばばが茶屋跡”・標石と中山道

   観音坂の馬頭観音・岩上に安置されている

    観音坂と馬頭観音仏(左上の岩上)

   恵那市武並町・大久後部落を通る中山道

 大久後部落の西はずれ・観音堂(右)・弘法堂(左)


   大久後部落・弘法堂 一見民家風
鞍骨坂”を下ると、炭焼の立場跡があるが、今は民家が数軒あるのみ、天気に恵まれると、十三峠の中では特に親しまれる場所。
ここから”炭焼きの五郎坂”を登り、更に”かしの木坂”を登る難所である。
まもなく瑞浪一里塚跡に出る。江戸から九十里目の一里塚で、道を挟んで、南塚・北塚とあるが、どちらも榎はなく雑木林である。

200m先、右手に僅かに清水が湧いている。順礼水と呼ばれ、歩いて来た旅人は十三峠のお助け水と呼んでいた。

   ”炭焼立場跡”・今は民家が数軒あるのみ

      ”五郎坂の石畳道”

    ”瑞浪(権現山)一里塚跡”(南塚)

   ”瑞浪(権現山)一里塚跡”(北塚)

  ”順礼水”・標石に説明文が彫られている

 中山道 順 礼 水

坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出る
          順礼水という
常にはさのみ水も出ねど 八月一日には必ず
          出するという
むかし巡礼の者 此の日此所にて なやみ伏
          しけるが この水を飲みて
命助かりしより 今もかかること ありといえり

                 太田南畝

  中山道 順礼水と標石・説明板脇に溜水場


 中山道 順礼水と標石・説明板脇の”溜水場
       八月一日には必ず溜まるという
ここの巡礼水から、”曽根松の坂””おつるが茶屋の坂”を登り下りする。
おつるが茶屋とは、昔、この坂でおつるという女の茶屋があったことから付いた名である。
やや広い平坦なところ奥に石室があり、その前に”阿波屋の茶屋”の標石がある。その奥に石室があり、”十三峠の阿波屋観音石室”と呼ばれている。

続いて地蔵坂を下る途中に”尻冷やしの地蔵”がある。

”十三峠・阿波屋観音石室”・
三十三体の石仏が安置されて、阿波屋の観音さんと呼ばれていた。険しい十三峠で倒れた旅人や馬の霊を慰めた。
大湫宿の伝馬役や各地の定飛脚が建立したもので、寄進者の中に、定飛脚・才領中や中馬連中の名がある。

”尻冷やしの地蔵”・
後から清水が湧いている。尻を冷やしているように見えるところから、この名が付いた。

 阿波屋の茶屋跡標石・がある
   奥の石室に三十三観音を安置


  石室に安置される三十三観音・
    十三峠で倒れた旅人たちを
供養する 

  石室に三十三観音を安置

   尻冷やし地蔵・標石 横に清水池がある

 尻冷やし地蔵・横の木に根元にある小さな清水池

再び登りの道は、”しゃれこうべ坂”、続いて”牛かほら坂”を下り、”山神坂”を登る。右手の山の頂上には金毘羅大権現が祀られている。
この山裾を下る坂は”寺坂”、ここを下ると、途中大湫宿の町並みが見える。また、この坂の途中に”是より東 十三峠”の標石が立っている。
いよいよ大湫宿の入口である。

     地蔵坂の中山道

      ”是より東 十三峠”の標石
                
                寺坂を下る途中に立つ・”中山道 大湫宿”の入口・標石

47「大湫宿」・(瑞浪市大湫)
古書に「駅舎のさま細久手に似て、それよりも人家すくなし」、また「宿悪敷 山中にて不自由成宿也」 この大湫は、慶長9年(1604)
に中山道に新設された宿で、それまで大井・御嵩間に宿駅はなかった。
大湫の湫の字は湿地の意味で、殆どの道中記には大久手と書いている。

「本陣跡」・
大湫の町並に入る入口付近の一段高い現小学校の校庭が昔の本陣跡。当時は間口39.6m、奥行き27mの建物であった。
また、部屋数23、畳数212畳、別棟部屋6という広大な建物であった。
皇女和宮の御降嫁のため、文久元年(1861)10月一夜を過ごしたのもこの本陣である。
小学校校庭隅には、和宮歌碑が立つ。

「問屋場跡」・
白山神社入口左手にある。
問屋場とは、宿役所との宿継ぎに関する荷物の輸送・人足や伝馬の調達・大名宿泊時の宿舎割りなどを主として取扱い、問屋役・年寄り・書記・人馬指などの宿役人が詰めていた。

「脇本陣跡」・
問屋場先にある石段上の門構えの家。昔は部屋数19、153畳、別棟6という広大な建物、今は半分程度に縮小されたが、二階の白壁に家紋を描いた建物は昔の面影を残している。

「高札場跡」・
宿の終わり付近にある。最近復元されたと思われ、上段3面、中段3面、下段4面にわたり村の掟・通知事項など掲載されている。

ほかに、昔の旅篭屋風・漆喰壁の家があり見ごたえある町並みである。

 大湫宿・大湫の町 正面高い建物が小学校
      昔の本陣跡があった

 大湫宿・大湫の古い建物がところどころに見られる  

 大湫宿・昔の本陣跡があった・今は小学校校庭

  大湫宿・小学校校庭隅に立つ・和宮の歌碑

 大湫宿・問屋場跡(左手の家) と中山道の通り

  大湫宿・脇本陣跡 石段上の門構えの家

   大湫宿・漆器塗り壁の古い家

   大湫宿・宿終わり付近に立つ高札場跡
高札場跡で今回の行程は終わり、南へ下る道をJR釜戸駅へ。距離もかなりあるので、付近の民家よりタクシを呼んでもらう。
 
  14時40分終点 JR釜戸駅 15時20分着
    L=12.4 km  27,600歩