日本の手話は耳の聞こえない人たちが日本の文化、生活の中から作り、 使ってきたものです。音声言語も国によって英語、中国語、フランス語とまちまちのように、 視覚言語の手話も世界共通ではなく、アメリカの手話、日本の手話と国によって違います。
現在、日本の手話は子どもから高齢者まで、多くの人の知るところとなってきています。
私自身も10年以上前から保育園から小、中学校、高校、専門学校まで手話指導に行っていますし、
小、中学校の手話クラブやトワイライトスクール(名古屋では、学校が終わってから子どもが遊び、
学ぶ場として学校内で行われています)にも2年間行って、1〜3年生の可愛い子どもたちに手話を教えてきました。
今は総合的学習で手話を体験している生徒が増えています。
先日も講演に親と一緒に来ていた小学生2人が「こんにちは」と手話で挨拶してくれて、手話で歌ってくれました。
「世界に一つだけの花」も沢山の人があちこちで手話をつけて歌っていますし、
歌手自身が1フレーズだけ手話をつけているのもよく見ます。
また、ろう者が主人公のテレビドラマ「星の金貨」のころは、画面の中の手話を見るだけだった人も、
「オレンジデイズ」では画面の中の手話をみて、自分の知っているのを見つけたり、
自分も使ってみるというように、日本手話が広まってきています。
赤ちゃん用のサインは最初にアメリカで考案され、数年前に日本でもその本が訳されて紹介されました。
赤ちゃんサインの効果に気づき、使い始めた人たちはその本に紹介されているアメリカのサインを
使っている人が多いようです。
また、今でも赤ちゃん用のサインはホームサインでかまわないという人もいます。
私の考えは一歩進んで赤ちゃんとのサインにみんなが同じ日本手話を使うようになればと思っています。
何故なら今は働く女性が増え、育児は親だけでなく、祖父母、保育士の方などいろいろな人が関わっています。
赤ちゃんが表すサインをみんなが分ってくれれば、赤ちゃんはどこにいても安心感が得られ、
早くからいろいろな人とコミュニケーションを楽しむことができます。
手話に関わり、ろう者に関わり、随分年数も経ちました。
1990年に名古屋市海外女性派遣団の一員として行ったオーストラリアには、障害があるから、
民族が違うからなど、様々な理由で差別を受けた人が訴える「反差別委員会」という組織がありました。
また遊園地に遊びにきていた女の子たちの乗っている車椅子は、
ピンク、イエロー、ブルーでとてもカラフルで可愛いものでした。
1996年3月、ろう者8名と一緒に再び行った時、そこの人々が耳の不自由な人に対して、
当たり前のように身振り、筆談(数字や簡単な英語、日本語)などで対応してくれるのを目にしました。
お店でも「この人は聞こえません」と伝えておけば、その後は私の通訳はほとんど必要ないほどの、
接し方でした。
いつか日本でも、ろう者が毎日の生活の場で出会う人が、このような対応ができ、
さらに簡単な手話ができたら・・・と願ってサークル活動、通訳活動を続けてきました。
しかし手話を学ぶ人の数は増えたといっても、一般の人のろう者への対応の仕方はまだまだと感じています。
手話通訳者の私は、赤ちゃんとのサインに日本の手話を使えば、手話を覚え、
サインや身振りで多くのことが伝えることできることを体験した子どもやその親が増え、
街のどこでも簡単なサインが使える社会、以前オーストラリアで見た社会に変わることができるのではと
夢みています。