五月雨

(一)

池に咲く菖蒲かきつばたの鏡に映る 二本ふたもと ゆかりの色の薄むらさきか むらさきか 濃むらさきならぬ 白元結しろもとゆひ きつて放せし金の高髷も好みは同じ 長の櫻もやう 淡泊あつさり として色を含む姿に高下かうげ なく心に隔てなくかき にせめぐはらから はづかしきまで思へば思はるゝ水と魚の君さま無くは我れは何とせんイヤ われ こそは大事なれとみにしつ頼まれつ 松の花房はなぶさ かゝる主從しゆうじうの 中またと有りや梨本なしもとの 何某といふ富家ふうかの 娘に優子いうこと 呼ばるゝ容貌きりやう よし色白の細おもてにして眉は霞の山がたといはゞと たとへ を引くもこちたけれど二ぐわつ ばかりの薄紅梅あわといふか何か知らねど濃からぬほどの 白粉しろいもの に玉いろの口紅を品よしと喜ぶ人ありけり 十九といへど深窓の育ちは 室咲むろざきも同じこと 世の風知らねど松風のきは通ふ 爪琴つまごとのしらべに 長き春日はるびを 短しと暮す心は如何ばかり 長閑のどけかるらん 頃はらくくわの 三月じんちれば 誘ふ朝あらしには吹のしろ妙も流石に袖は からで てふうらの 麗朗うらうらとせし あまあがり ぬれゑん 先に猫のたま輕く抱きて首玉の絞り ぱなし結ひ換ゆるものは 侍女こしもとの お八重とては優子に一ツ劣れど劣らず負けぬ 愛敬あいけう片靨かたゑくぼ 誰れゆゑ寄する目元のしほの 莞爾につこりとして 手を放しつ不圖見返りて眉を寄せしが ことさらに ホヽと笑つて じやうさま 一寸ちよつと 御覽ばせ此マア 樣子やうすの 可笑しいことよと面白げに いざなはれて 何ぞとばかり立出づる優子お八重は何故に 其樣そのやう なことが可笑しいぞわたし には何とも無きをと惱ましげにて子猫のヂヤレるは 見もやらで庭を眺めて茫然たり孃さま今日も 不快こゝろわるう 御坐いますか否や左樣さうも 無けれど何うも此處がと押して見する胸の うちには何がありや 思ふ思ひを知られじとか詞をかへて八重やお前に問ふことがある春につきての はなどりで 比べて見て何が好きぞ さても變つた おそれ心々こゝろごゝろで 御坐いませうが歸鴈きがん が憐れに存じられますりとて 異なことぞの春を見捨てゝ行く じやうなしがお前は好きか 憐れといへば深山がくれのの心が さぞかしと察しられる 世にも知られず人にも知られる人にも知られず さきて散るが 本意であらうか同じ嵐に誘はれても思ふ人の宿に咲きて思ふ人に思はれたら 散るとも怨みは有るまいもの谷間の水の便りが なくては流れて知られる頼みもなしマアどの位悲しからうと入らぬ事ながら 苦勞くらうぞかしとて 流石に笑へばデモ孃さまはの心を く御存じ私しが 歸鴈を好きと云ふは我身ながら何故か知らねどの山の 曉月夜あかつきづきよ さては春雨の夜の床に鳴て過ぎる聲の 別れがしみじみと身にしみて悲しい樣な寂しいやうな來る秋の契りを思へば 頼母たのもしいやうにもあり こきやう へ歸るといふからしてき親の事が思はれますと打しほるれば夫は ことわり わたしでさへも母の事は少しもれず 今も在世いたなら甘へるものを と何ぞにつけて戀しければ子の身では如何ばかり心ぼそくも悲しくも有らうなれど 及ばずながら私しは力になる心姉と思ふてよと頼むは可笑しけれど上なれば其約束ぞ 何時も何時も云ふことながら私しは 眞實ほんの同胞と思ひますと 慰められて嬉しげに御あればこそ親どもばかりか 私しまでめぐり廻つての御恩海とも山とも口には如何にも申されねどお前さまの おさしさは身にしみて れませぬ勿躰もつたい なけれどしゆう樣といふ ゑんりよもなく 新參の身のほどもれて云ひたいまゝの我儘ばかり 兩親ふたおやの傍なればとて 此上は御座いませぬ左りながらしきは 生來の鈍きゆゑ到底とても 御相談さうだんの相手には なされて下さるはづもなし 別ものにばすと知りながらお恨みも申されぬ身の 不束が恨めしう存じますとホロリとこぼす膝の露を優子 不審いぶかしげに打まもりて 八重は何が氣に障つてか思ひもよらぬ怨み言つもりて見よかし何の隔てゞ 隱しだてをするものぞ母さまにさへ申さぬこともひに 話さぬ時はなき今日に限つて其やうな事いはれる覺えは何もなけれどマア何と思ふてぞと いふ顏じつと打仰ぎて夫々それが矢ッ張りお隔て何故その樣にお くし ばす兄弟と仰しやつたはお僞りか、 僞りでは無けれど隱くすとは何を、デハ私しから申しませう 深山がくれののお心と云ひさして 莞爾につことすれば、 アレ笑ふては云はぬぞよ

(二)

思ひ入る路は一ト筋なれど夏引きの手引きの糸の乱れぐるしきは戀なるかや優子 元來もとより才はじけならず 柔和をとなしけれど 悧發りはつにて物と ことわりあきらかに 分別わきまへながら闇らきは れぬ胸の雲にうつうつとして日を暮らすをお八重 しかぞと見て取りぬ我れも思ひの無き身ならねば他人ごとなりとも悲しきを 假初かりそめならぬ 三世さんぜおなじ房の 寄りし身なり山川さんせん く隔たりし故に在りし其の日さへ東の方に足な向けそ受けし御恩は 斯々此々かくかくしかじか 母の世にてはりもあえぬに 和女そなたわすれてなるまいぞと もの がたりに云ひ聞かされ 幼な心の 最初そもそもより 胸に刻みしお主の事ましてや續く不仕合に寄る方もなき 草の我れ 孤子みなしご流浪るらう の身の力と頼むは外になし 女子をんなだてらに心太く みやこの地へと志ざし 其目的には譯もあれど思ひはお主のもとへ見出されて二度の恩あるが中にも取分けて 孃さまの 御慈愛おいつくしみは 山のうちの 峯たかきが上も高く海の中の沖深きが上も深し お可愛かあいや 誰れ人のやうに思しめして 御苦勞やら我身新參の勝手も知らずお手もと用のみ勤めれば出入りの他人多くも 見知らず想像さうざう には此人かと見ゆるも無けれど好みは人の心々何がお氣に そみしやら云はで思ふは 山吹の下ゆく水のわき返りて胸ぐるしさも嘸なるべしお愼み深さはさることなれど 御病氣ごびやうきにでも 萬一もしならば 取かへしのなるべきならずぬし誰人たれひとえぞ知らねど 此戀なんとしても叶へ參らせたし孃さまほどの御身ならば世界に苦もなく憂ひもなく 御心安くあるべき筈をさりとては苦の世の中やと我身に比べて 最憐いとおしがり心の限り 慰められ優子眞實たのもしく深くぞ染めし はつはなごろも 色にはいでじとつゝみしは 和女そなたへの 隔心かくしんならず 有樣ありやう打明うちあけてと幾たびも 口元までは出しものゝ恥かしさにツイ云ひそゝくれぬ 和女そなたはまだ昨日今日とて 見參らせし事の無きならんが 婢女をんなどもは蔭口に お名は呼ばずて光氏みつうぢ さまといふとかやお姿は察せよかし夫に引かれてゞは無けれど彼の人は とゝ樣無二の御懇意とて 恥かしき手前に薄茶一服參らせ そめしが中々の物思ひにて 帛紗ふくささばきの靜こゝろなく 成りぬるなり扨もお姿に似ぬ物がたき御氣象とや今の の若者に珍らしとて 父樣のお褒めばす毎に我ことならねど おもて赤みて其坐にも 得堪ねど慕はしさの數は まさ りぬ左りながら和女そなたにすら 云ふは始めて云はぬ心は描かぬ もおなじ事御覽じ知る筈も あらねば萬一もしやの頼みも 無きぞかし笑はるゝか知らねど思ひ そめ最初はじめより この願ひ叶はずは 一生いつしやう一人で 過ぐす心憂きに送る月日のほどに思ひこがれて死ねばよし命が若しも 無情つれなくて 如何にるはしき 夫人おくがたむかへ給ひぬとも 愛らしきちご生れ 給ふとも聞く身のつらさが思はるゝぞとてほろほろと打泣けばお八重かなしく身を寄せて お前さまは何故そのやうに御心よわい事仰せられるぞ八重は 元來もとより愚鈍なり 相談はなしてからが 甲斐なしと思しめしてか馴れぬ御使ひも一心は一心 先方かなたさまどの樣な 御情けしらずで有らうとも貫かぬといふ事ある樣なし何ともしてお望み吃度 叶へさせますものを 御内端おうちは すぎてのお物思ひくよくよ斗りばせばこそ昨日今日は 御顏色おいろもわるし 御病氣おわづらひでも ばしたら御兩親おふたかた さまは更なる事なり申すも 慮外りよぐわいながら いもとおもふぞとての御慈愛に 身は姉上をもうけし心お前さま大切なほどお案じ申さずには居りませぬ忌しや 何ごとぞ一生一人で世を送るの死んで思ひを がれたしのと 着きつめた御心に必らずお成りばすなと なだめる身さへ眼はうるみぬ、 堪せよかし 和女そなたにまで苦をかけて あらぬ思ひに心を盡くすが我が身ながら口惜しきなり左りとても彼の人の事 斷念あきらめがたきは 何ゆゑぞ云はで止まんの決心なりしが新設な詞きくにつけて日頃の愼みも なくなりぬと 漸々やうやうせまりくる 娘氣むすめぎむせびて 良時ややありしが、 八重さぞ打つけなと あきれもせんが 一生の願ひぞよ此心傳へては給はるまじきや嬉しき御返事聞きたしとは 努々ゆめゆめ思はねど 誰れ故みじかき命ぞとも知られて果てなば本望ぞかしと打しほるれば、しても 其樣なことを御前さま此々とお傳へ申さば きお返事は知れた事なり 最早もうくよくよとは おぼしめすな、 否や否やそれは八重が知らねばぞ杉原さまは其やうな 柔弱にうじやく放埓ほうらつなお人で 無ければ申出してからが心配なり不埓者いたづら者と御怒りにならば何とせん、 夫は餘りのお取こし苦勞岩木の中にも思ひのなきかは 無情つれなき仰せの有る筈 なし扨も 御戀人おんこひゞとは 杉原さまとやお名は何とぞ、三郎さまと申のなり此頃來給ひしは 和女そなた丁度ちやうど 不在るすの時よ 一ト足違ひに御歸宅ゆゑ知らぬは理と云ひかけてお八重の顏さしのぞき此願ひ 若し叶はゞ生涯の大恩ぞかし くどうは云はぬ 心は是よと合はす手に嬉しき色はあらはれたり

(三)

雲雀ひばりのあがる 麥生むぎふなゝめに見渡しながら 岡のすみれを摘あらそひし昔しは何の苦が有りし野河の岸に菊の手折とて流れ一筋 かち渡りし給ふとき我はるかに下の身のコマシヤクレにも君さまの袂ぬれるとて 袖襷かけて參らせしを如何に人にも笑はれけん思へば其頃が浦山し君さま東京へ歸給ひし のちさまざま續く 不仕合に身代は 亂離骨廢らりこつぱいあるが 上に二タ親引つゞきての病死といひ憂きこと重なる無月 袖にもかゝる時雨空に心のしめる我れを取らへて群長の せがれづらが 些少いささかの 恩鼻にかけての無理難題やり返して遣りたけれど 女子をなご の身は左樣さうもならず 柳にうける宜きことにして金やらん せうになれ行々は妻にもせんと 口惜しき事の限り聞くにつけても君さまのことが懷かしく或る夜にまぎれて國を出でつ 漸々東京こゝへは 着きし物の當處あてどなければ 御行衛おゆくゑ更に知るよしなく 樣々の憂き艱難かんなんも 御目にかゝる折の褒められぐさ にと且つは心に樂しみつゝ賤しい仕業も身は清し行ひさへ汚がれずばと 乙女みやこおとめ の錦の中へ木綿着物に 菅笠すげがさ脚絆はづかしや 女子をんな身不似合の くだもの賣りも一重に 活計みすぎの爲のみならず 便りもがなねたやの一心なりしが ゑにしあやしく引く方ありて 不圖呼び入れられし黒塗塀もお勝手もとに商ひせし時 あとにて聞けば御稽古がへり とや孃さまの したる車勢ひよく 御門内ごもんうちへ 引入るゝとて出でんとする我と行違ひしが何に觸れけん我がさしたる櫛車の前にはたと 落しを知らず曳しかばなど たまるべき 微塵になりて恨みを地に殘しぬ孃さま御覽じつけて 氣の毒がり給ひ此そこねたるは我身に取らせよ代りに新らしきものを取らすべしと の給ひしかど元來もとより 落せしは我が粗忽なり曳かれしも破損そこねしとて 恨みもあらず ましてや代りをとの 望みもなし是れは母が 紀念かたみなれば 人に奉るべき物ならずとて拾ひ あつめて懷にせしを いとゞしく御不愍ごふびんがり 扨は親も無き人か憐れのことや まづ庭口より我が部屋まで 來よ身の上も聞きたしとて連れ給ひぬ今こそ目馴れたれ御座敷の結構お庭のたゝづまひ 華族さまにやと疑ひしはいつ に孃さまの 御言語容姿おものごしにも 依りし物か其お美くしき孃さま御親切にも 女子をなご同志は 互ひぞとて御優しき御詞我もしきりに嬉しくてぬる人ありとこそ明さゞりしが 種々いろいろとの 物語に和女そなたの母御は 斯々の人ならずやと思ひ寄らぬ御問ひに誠に若かぞ何として御存じと云へばれて 成るべきか和女そなたと 我れとは兄弟ぞかし我れは梨本と優なるをとて手を取りての御喜びは扨は母が を參らせたる 君なりしか御目にかゝりし嬉しさに添へて落ぶれし身はづかしと打なきしに 榮枯は時なるものを歎く事かは よろづは我れに まかせよかし惡るき 樣にはなすまじければ今日より此處に身を落つけずや 母樣ははさまには 我れ願はんとて放し給はず 夫樣おくさま くれぐれの仰せに其まゝの御奉公 みやこなれぬ身とて 何ごとも不束なるを彼は彼此は此と陰になりてのお指圖に古參の 婢女ひとも侮らず 昨日の我れれし樣な樂な身になりたるは孃さまの御情け一ツなり此御恩 何として送るべき彼の君さまに廻り逢はゞ二人共々心を合せてお話相手になるべきをと 何につけても忍ばるゝは彼の人の事なりしが思ひきや孃さま昨日今日のお物思ひ 命にかけてお慕ひなさるゝ主はと問へば杉原三郎どのとや三輪の山本しるしは 無けれどぬる人ぞと知る悲しさ御存じ無ければこそ召使ひの我れふし拜みての お頼み孃さま不憫いとしやと 思はならねど彼の人何としても取持たるべき受合ては立ちし物の此文には何の 文言どういふ風に書きてあるにや表書きの常盤木のきみまゐるとは 無情つれなきひとへといふ事か 岩間の清水と心細げには書き給へど扨も扨も御手のうるはしさお姿は申すも更なり 御心だてと云ひお學問と云ひ欠け處なき御方さまに思はれて嫌やとはよもや 仰せられまじ我れ深山育ちの身として比べ物になる心はなけれど今日までの憂き苦勞は 何ゆゑぞ逢はんと思ふ夫一ツに萬の願ひをかけ置きしに今目の前に逢ふ日は切ても逢ふが 悲しき事義に成りぬ孃さまの御恩は泰山の高きも物の數かはよしや蒼海に珠を探れと 仰せらるゝとも夫に違背はすまじけれど我が戀人 周旋とりもたんこと どう斷念あきらめてもなる事 ならず御恩は御恩これは是なり いつそお文取次いだる体にして 此まゝになすべきか否や否や夫にてはがたゝず實は斯々の中なりとて打明けなば 孃さま御得心の行くべきか我こそは夫で宜けれど彼れほどまでに思しめし入れたもの 左らばと云ひて斷念あきらめ のつく筈なし我身の願ひが叶へばとて現在お心知りながら夫もつらし是れも憂しと 迷ひに心も夕暮の空お八重つくづく ながむれば明日も はれひか 西の方のみ紅ゐの雲たな引きぬ

(四)

男も女も法師はふしも 童も容貌かほよきが きぞとは誰れ色好みの 言の葉なりけん杉原三らう と呼ばるゝ人面ざし清らかに 擧止優雅けにくからず たが目に見ても美男ぞと見ゆればこそは罪つくりなれ我ゆゑに人二人まで 同じ思ひにくるしむ共いざやしら樫の若葉の露かぜに散る夕ぐれの散歩がてら梨本の娘 病氣にて別莊べつそう出養生でやうじやうとや 見舞てやらんとて柴の戸おとづれしにお八重はじめて 對面たひめんしたり 逢はゞ云はんの 千言ちこと 百言もゝこと うさもつらさも胸に呑みて恩とも言はず義理とも言はず沸かへる涙も人事にして 御不憫おいとしや 孃さま此程よりのお煩ひのもとはと云はゞ何ゆゑならず 柔和おとなしき 御生質たちとて 口へとては出し給はぬほど さらに御いとほしお心は 中々我が云ふやうな物にはあらず此お文御覽ぜばお分りになるべけれど御前さま 無情つれなきお返事 もしばされなば彼のまゝに居給ふまじき御決心ぞと見る目は如何につらからぬ事が 久し振にて御目かゝりし我が身の願ひ是れ一ツなり叶へさせ給はゞ嬉しかるべきをとて 取次ぐ文の思ひ切りても涙ほろほろ膝に落ちぬ義理といふもの世に無かりせば 云ひたきこといと多し別れしよりの辛苦は如何に或る時はあらぬ人に迫まられて身の のがればの無かりし時 操はおもし命は鵞毛がもうの夜に刃手に取りしことも有りけり或時は お行衛ゆくゑたづねて 詫て恨みは長し大河おほかは の水に沈む覺悟も極めしかど引れし後ろ髮の 千筋ちすぢにはあらで 一筋に逢ふといふ日を頼みにして今日までも過せし身なりと云ひたけれど 孃さまの戀も我が戀にも淺さ深さのあるべきならず我れまだ其事を口にせねば 入譯いりわけ 御存じなきこそ周旋とりもち なるをあだしごとは 思ふまじ左るにても君さまのお心氣づかはしと仰ぎ見れば端なくも男はじつと 直視ながめゐたり ハツと俯向うつむ櫨紅葉はぢもみぢのかげ るはしき 秋の山里にたけがりして びし昔しは蝶々髷も夢とたちて姿やさしき みやこふう たれに劣らん色なるかは愁ひを含めど愛らしき雨の撫子しほれて床し三郎の心 何と知らねど優子の文を手にとりつ淺からぬお心 かたじけなしとて 三郎喜こびしとて懷中ふところ に押いれつゝこそと坐に立つに扨は孃さまの心汲とり給ひてかと嬉しきにも心ぼそく 立上る男の顏そとうかがひて ホロリとこぼすなみだくし 孃さまにもぞ お喜び我身とても其通りなり御返事吃度まちますと云へば 點頭うなづきながら 立出る廻りゑんのきばの 橘そでに薫りて何時いつしか 月に中垣のほとり吹のぼる若竹の葉風さらさらとして初ほとゝぎす まつべき夜なりと やをら降たつ後姿うしろすがた 見送る物はお八重のみならず優子も部屋の障子細目に明けて云はれぬ 心を三郎一人すゞしげに行々吟ずる からうたきゝたし

(五)

便りまつ一日ひとひ 二日ふたひ 嬉しきやうな氣づかひな八重に ゑんりよは入らぬものゝ 言ひ出すかと思はるゝも恥かしくじつと こらゆる返事の安否 もしやと思へば 萬一もしやになるなり 八重は大丈夫とは受合へど夫は氣やすめの詞なるべし の文とても御受取に なりしやならずや其場でそのま御突き戻しになりたるを 我れに力落させまじとて八重の繕ひて居るにはあらずや否や否や八重として其樣のこと ある筈なし人を疑ふは罪ふかきことなり 一日ひとひ 二日ふたひ 待給へ好き返事の參るはぢやう ぞと言ひしに違ひは無かるべし若しさうならば何とせん八重は上もなき恩人なれば 何ごとなり共氣に入ることして悦ばせたしは下なれど分別ある人とて ことば少なゝれば 願ひは有や望みはなしや知れ難きを何とせん扨も人妻となりての心得は娘の時とは 異なる物とか御氣に入らば宜けれど若し飽かれなば悲しき事よ まづそれよりも 覺束なきは の文の御返事なり 御覽にはなりたり共其まゝ押まろめ給ひしやら却りて御機嫌そこねもして愛想づかしの 種にもならば云はぬにまさらさそかし 君さまこそ無情つれなしとも 思ふ心に二ツは無し不孝か知らねど父樣母さま何と仰せらるゝとも 他處よそほかの誰れを 良人をつとに持べき 八重は一生良人は持たずと云ふものから我が身とは自づから異りて 關係かゝはることなく 心安かるべし浦山しやと浦山るゝ我をば知らで吐息をもらしぬお八重はつくづく 有し日の事を思ふに男心の頼みがたさよと我れ 周旋とりもちする身として 事整ふは嬉しけれど優子どのゝ心宜く見えたり三郎喜こびしと傳へ給へとは餘りといへど 昔しをれ給ひしお詞なりトおもふ我が身の妬みにやお 主樣しうさまゆゑには身を 殺して忠義を盡くす人さへ有るを我一人にて受きをしのばゞ 何處いづくも事なく 納まるべきなり何氣なき孃さまが八重や八重やと 相談相手はなしあひてばすを御恨み申は罪のほども恐しゝ何ごとも殘さずれて おしうさまこそ二代の 御恩なれ杉原三郎といふお人 元來もとよりの お知人しるひとにもあらず ましてや契りし事も 何もなし昨日今日逢しばかり若かも おしうさまの戀人に 未練のつながる筈はなし御首尾よく整のへて睦ましく暮し給ふを見るが めての樂しみなり 我れは望みとて無き身なれば生涯この に御奉公して 御二タ方さま朝夕の御世話さては 嬰子やゝさま生まれ給ひての 御抱き守り何にもあれ心を責めて仕へんか夫は何としてもなる事ならず兎ても角ても 憂き世なれば人はぬ 深山の奧にかき籠りて松風に耳を澄まさば宜かるべけれど夫すら彼の人見捨てゝは 入り難かるべしとてつくづくと打歎けど人に見すべき涙ならねば作り笑顏の 片頬さびしく物案じのしう 慰めながら我れ先づ乱るゝ ねぬなわの戀はくるしき 物なるにや成るとは見えて覺束なき人の便りをまつとは云はず杉原さまはお廿四とや およりは老けて見え給ふなり 和女そなたは何と思ふぞとて 朧氣なこと云ふて見る心や流石に通じけんお八重 一日あるひ 莞爾にこやかに お孃さまお喜びばすあり當てゝ御覽じろと久し振りの たはぶれ言さりとは 餘りに廣すぎて取り處が分らぬなりと微笑ば左らば端を少し聞かし參らせんお前さま 何より何よりお嬉しと思しめす事が有べし夫なりとて 容易たやすくは言ひもせず 夫ぞとは知れど猶も知らぬ顏に八重が つねに似ぬことよ先づ 云ふて聞かしても宜さそうなと打怨ずれば其やうに御いそぎなされますなと 打笑ひながら彼の君より御返事が參りしなり是がお嬉しからぬ事かと囁かれて耳の根 くわつと熱くなりつ胸とゞろかれて噛む袖の下に と置く藻しほぐさ にはかには手にも取らぬを お八重察して進めつゝ取まかなひて封を切らすに文にはあらで 一枚ひとひらの 短冊なりけり兩女ふたり ひとしく見る雲形

茂りあふわか葉にくらき迷ひかな みるべきものを空の月かげ

意味の存する處何方いづこ ぞやと茫として闇きわか葉のかげいとゞ迷ひは茂り逢ふばかりるゝよし無き空の月の 心に判じて見れど何れ眞意と得ぞわき難く 喜こぶべきか歎くべきかお八重はお八重優子は優子斯く云はれなが斯くせんの決心 たがひに堅けれど 思ひの外なる返しには何と定めて何とせん未練は流石ありそ海のおきて見つ取りて 見つながめに飽かねど吐息されて八重はマア何と思ふぞ人の詞を待て見るあな覺束なの 三十一文字みそひともじ

(六)

怪しや三郎の便りふつと聞えず成りぬ待つには 一日ひとひも侘しきを 不審いぶかしかりし返事の のち 今日や來給ふ明日こそはと そらだのめなる日を重ねて 十日とうか月さては 廿日憂き身につらき卯月も過たり五月雨ごろのしめり がちに軒の 忍艸しのぶは我が類ひの引きては 葺かねど池のあやめの根ながき思ひにかき暮らされて袖にも水かさの増さりやすらん此處は 別莊べつそう人氣ひとけも少くなく氣に入りの 八重をおきては 別莊べつそう守りの 夫婦のみなれど最愛の娘病氣との事なり本宅よりの使ひ たへま無ければ事によそへて 杉原のこと問はするに 本宅かしこにも此頃さらに 參り給はずといふ左るにても何とし給ひしにや我心をさなくて 卒爾うちつけに文など 參らせたるを如何に厭はしと思しながら返しせざらんも情けなしとて れよりは 夫となく御出のなきか此頃のおの心は 如何に茂るわか葉の今こそは闇らけれど時節を待たば空の月の逢みるべきぞとならば 嬉しけれど若しやの願ひに左樣見ゆるにや いつらからば一筋ならで 頼みのあるだけ まどはるゝなり扨もお便りの聞えぬは何故我れ厭はせ給ひなば此處へこそ 御入來おいでなく共本宅へまで 御疎そゑんとは 不審いぶかしゝ 夫ほどまでに御嫌ひになるほどなら優しげな御詞なぜ仰せおかれけん八重が思ふも 恥かしきまでの時は 嬉しかりしを此まゝに見返りもし給はずは今さら面ても向けがたし悲しき事よと 娘氣むすめぎに頼みをかけて 見つときつ思案にもつるゝ 撚糸よりいとの八重が歎きは 異なり茂る若葉の妨げと仰せられしは我が事ならずや闇き迷ひと歎じ給へど夫れ 悟りたればこその御取持ちなれ思ひ合ふ中の お兩方ふたかたに我が 生涯の望みも頼みも御讓り申して思ひ置くこと 些少いさゝかなきを 何はゞかりての御慮ぞや身を くわんずればお恨みも 未練も何もあらずお二タ方さま 首尾しびとゝのひし曉には 潔よく斯々かうかうして流石は 貞操みさをを立るとだけ君さまに 知られなば夫でおもひでの 我れなるに此身ある故に孃さまの戀叶はずとせば何とせん身退ぞくは知らぬならねど 義理ゆゑ斯くと御存じにならば 御情おなさけぶかき御心として 人は兎もあれ我よくばと仰せらるゝ物でなし左らでも御弱き お生質たちなるに 如何いかにつきつめた 御覺悟をもばすまじき物ならず御最愛の お一人娘ひとりごとて 八重や何分たのむぞと 嚴格むづかしい 大旦那さまさへ我身風情に仰せらるゝは御大事さのあまりなるべし 彼につけ是につけ氣づかはしきは彼の人の事よ有りし日の對面の時此處に居給ふとは 思ひがけず里のことは我れ聞きたり辛苦さこそなるべけれど奉公 大切だいじに勉め給へと 仰せられしが耳の殘りてられぬなり れほどにお優しからず 是れほどまでにも歎かじと斷ち難き絆つらしとて人見ぬ暇には部屋のうちに伏し沈みぬ 何れ劣らぬ双美人そうびじんに 慕はるゝ身嬉しかるべきを何を厭ふてか三郎かき絶て影も見せず疑念は重なる 五月雨のくも、薄らぐべき由もなくて、世をうみ 梅實うめおつる音、 そゞろ淋しき日を 幾日いくひ、 をぐらき窓のあけくれに、をち返りなく 山時鳥やまほとゝぎすの、 から紅ゐにはふり出でねど、涙に袖の色かはるまで同じ歎きを別に知る 主從しうじうの思ひさても 果敢はかなし優子はいとゞ 世を知らぬ身のお八重が素振り得も察せず氣の毒や我身大事にかけるとて痩せ見ゆるほど 心配させし和女そなたの情は れぬなり左りながら如何ほど盡くしてくるゝ共なるまじき願ひとぞは 漸斷念あきらめたり 夫につきて別に父樣母さまへの御願ひあれど御二タ方なり 和女そなたなりに 歎きをかくるがらきぞとて しみじみと物語りつお八重の膝に身をなげ伏して隱くしもやらぬ口説きごとにお八重 われをれて抱き合ひ詞もなくよゝと泣きしがお前さまに其やうな御覺悟させますほどなら 此苦勞はいたしませぬ 御入來おいでの無きは 不審いぶかしけれど 無情つれなき 御返事といふにもあらぬを早まつての御考へは御前さまの樣にも無し今しばしの 御辛抱ぞ其うちには何ともして吃度お喜こばせ申べし八重が一心を憐れとも 思しめして其やうな悲しいことをお聞かせばすなとて力を添へぬ 優子嬉しく手に手を取りて前の世では何でありしやら兄弟にもなき親切 こののちとも頼むぞや 是よりは別しての事何ごとも そなたの異見に隨はん 最早もう今のやうな事 云ふまじければ ゆるしてよと わびらるゝも勿体なく 待てば甘露と申ますぞやと輕るげに云へど義理は重し袖にれ間は見えぬ 物の限りあればにや今日珍づらしく とびなきて 雨の餘波なごりに 軒ばの露に照る日あたらしく玉をみがきて庭の木かげも心地よげなるを 籠居たれこめてのみ 居給ふは御躰おからだにも 毒なる物をとお八重さまざまいざなひて ほとりちかき野の景色 田面たのもいほの侘たるも をかしかるべし御覽ぜずやとわりなくすゝめて柴の戸めづらしく伴ひ出でぬ人の 心のうやむやは知らずや茂る木立すゞしく袖に葺く風むねに欲しゝ うえはたす小田の 早苗青々あほあほとして 處々ところどころに 鳴き立つかわずの 聲さまざまなるれも 歌かや可笑しとてホヽと笑む しうに我れも嬉しく 彼方かしこかやぶき こゝの垣根お庭の うちに欲しきやうなり は何ならんと 小走りして進み寄りつ一枝手折りて一輪は しう一輪は我れかざして 見るも機嫌取りなり たがひの心は得ぞしらず あぜみちづたひ 行返りてぶ共なく暮す日の鳥も寐に歸る夕べの空に行く 雲水くもみづの僧一人 たゝく月下の門は何方いづこぞ 浦山しの身の上やと 見送みをくれば 見かへる笠のはづれ 兩女ふたりひとしくヲヽと叫びぬ