奈萬之奈

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奈萬之奈上卷

奈萬之奈と云る上野の國の利根の郡なる郷名に(あて)たる文字、和名鈔に男信と書るに就て、ひととせ(往年)京にて、高倉學寮に參り居て、物の序にある學匠に問て、此男の字を奈那とあらん言にもあて、信を之に填ても用うべくや、さて又是等の文字に、其音の假名附むに、すべて其字のひび()きのかな、「ナン」「シン」とも、「ナム」「シム」とも通じ用ゐて宜るべしや、本宗の諸書の中に、信心の二字の假名、(いつ)も毎も信には「シン」、心には「シム」と有て、之れが互ひに混ぜる無く、その餘すべて安は「アン」、闇は「アム」、因は「イン」、音は「イム」、延は「エン」、炎は「エム」、恩は「オン」、音は「オム」とあるなど、 阿行について云ふに是の如し。次々の「カン」「カム」「サン」「サム」等准へ考ふべし。 斯く同じ()ぬる韻の字ごとに、毎も「ン」とせると「ム」とせると、其定ありと覺しきは、其所以や侍る、と問ひしに、論示せられけるやう、「さればよ、凡そ萬葉集等の正しき古書どもをみるに、世にいはゆる撥る韻の文字どもを、和語にあてて借り用ゐたるやうマミムメモの音に填てたると、ナニヌネノの音に用ゐたると、きはやかに分れたり。 其古へナニヌネノの音にかれる韻の字どもは、「アン」「カン」「サン」「タン」「ナン」など假名附べき字也。 又マミムメモに(つか)へる限りは、「ハム」「マム」「ラム」とやうに附くる字どもと相分れたるぞ」と有き。 此誨へを諾ひ置、さて後書よむ毎に、意をつけつつ年月に考へつれば、頑魯ながらに漸く明められたり。

さて國學に名だたる本居氏の地名字音轉用例と云る書を看しにひと下りの如き意しらひして箸はせるならねど、これぞこの「ン」と「ム」との差別を古書どもについて考へ定むべきよきかたうど書には有ける。 但しさばかりの書箸はせる人なれど、意をここに用ゐざりければにや、その同作たる字音假字用格 五十四丁 に、韻のム之假字と標して、或説に「開口音の字にはンをかき、合口音の字には、ムをかくべし」と云るを妄説也と彈して、「その差別あるべき由なし。韻の假字にはムン通用すべし」と斷ぜるは、亦妄りなりかし。 但し之を助て、「ン」「ん」と形する字のなかりけん世には、之をいかがはせん。 其ともかくも書き別き難かりけん古へに遡りてこそ、用格者は然いへるならめといひ、又「ン」と鼻に觸るる音は、もと御國には無きことと云こと、この本居の辨論、乃ちその又箸はしたる漢字三音考などに(つば)らなれば、「ン」「ん」の假名の無りしは勿論、もと御國人の音聲に見はれぬ鼻音の文字の、あるべき理なきをや、とやうに云人もあらん乎。 そは何れも一概なる論にて立囘し、其鼻觸の音はふつに無しと云るは、うるはしき言の葉、謠ふべきものなどには、げに無りけめど、物の音響を寫さんとするに、所謂鼻觸の「ン」なかるべからず。 又古へ也とも言のいひ(つづ)きによりては、さすがに「ン」に近き音聲、人語にも必しもなかるべきにはあらず。 況や字音はもとから囀りを寫せるなるを、其から人の眞の口呼をうち聞くに、「ン」の音のさだかさるを、願くは(それ)さだかに寫しとらんと欲せざるべけんや。 其模し()らま()しからんには、「ン」「ん」と形せる今世の如き假名もじの無りしならば、聊にても似よれるをと思ひたらざるべけんや。 譬へば日本のニッ薩州のサッの如き、その(つま)る音の假名文字なけれども、然いへるひびき(韻尾)のあるによりては、且をくと書き傳る如く、「ン」もさる字形のなかりけんをりは、聊にてもそれをうつすにはこれよしと思はるる字してぞ書きけん。 奧に言はんかの萬葉和名などに、馬を牟麻と書るなどをも思べし。 是れをば近來かの(うなぎ)ナギともいへる類と意得て、只ウに通はしてムとも呼しことのやうに云る説あれど、そは失考なるぞ。 さて彼から人の眞の口呼にては入聲の韻は、すべて唯(つま)れるのみなめれど、其韻をば御國にて聞取るには、自らに其喉舌唇にふるる淺深の分れにて、「キ」「ク」「ツ」「チ」「フ」のしなの分るるが如く、彼から人の鼻にかかれる韻を聞うつすも、自らナニヌネノに親きと、マミムメモに親きとを、よくきき分けけるこそ御國の自然なる雅び也けれ。されば(かれ)が眞の口呼をきけるままに、或はナニヌネノ、或はマミムメモの便に隨ひて書分べきは、(おのづか)らなる理り然らずはあるべからず。 抑「ン」「ん」の形字はなくとも、上にいへる如く雅正なる御國言と()れるに非る音便の(よこなま)りは、古き代よりもかつがつありたるべきを、漸々にその鼻音の多くなり、つひには「ン」「ん」と形して、正しき五十音の外に、一つのかな文字さへいで來にたる世より方して、此は後に出きたる文字などは、その音は上古はたえてなかりし物といはんは、たとへば近ろ漢字三音考に、漢土の人の眞の口呼する入聲の如く、迫促する音をあらはす爲とて、ッを新製せるを、後もし廣く用ることになりにたらんをりに、このッのかなのなかりし代には、促る音はたえてなかりし者也といひて、日本參集など、みな二智(にち)(さち)の如、をさだかにいひしものぞと云んが如し。 ッと書き(あら)はすは三音考者の新作なれど、それにあたるつまる音、日本のニッ薩州のサッの類は、古くより人口にあるには非ずや。 されば觀津法兄のここを論じて、そも人爲の字形の未だあらざればとて、天然の音韻も無りし也といへるはうけられずといひ、かの凡音者生人心者也、情動於中故形於聲々成文謂音とかいひけん理りは、御國に在りとて然らずといふべしやは。 又「ン」はいづくにても正き人語とは云難く、これを書き形はせるも、正く文字とは云べからざるが故に、點畫などいひ、漢字も別にこれなくて、通雅に、聲氣不壞風力自轉五音皆官五行皆土臍鼻折攝爲◎などいへらんさまにぞ、から人もこころえらるめる。 ンの正字は漢土にもなければ、御國にてンの形定りて後も、此は唯點畫と名くべく、字とはいふまじきこと歟、といへるも、うべなる論也。 かの悉曇大底に、空點ँのことをば不可必有音といへりけんと合せ考ふべし。 但し今の世「ン」「ん」とかくがさだかなるに隨ひて、これをば片假名の「ン」、平かなの「ん」、と云も、強ちに惡しとも云がたきか。 かくて思ふに、「ン」「ん」と形する假名のなかりけん世には、男を「ナム」、信を「シン」とわきわきしく假名付るやうのことの、自在ならぬは飽ぬことながら、男の字の字のひびきと信の字の(ひび)きとは、おのづから混ずまじき差などは、昔は却りて、その漢字どもを呼ぶ聲も、その呼ぶをうちきく耳も、天然によくわかれてぞありけん。 さればこそ古書どもに、ナニヌネノにかれるはこれの字どもの尾聲、マミムメモに借れるはそれの字どもの尾聲と(わか)れて、これをば混じ用ゐたることのなきにはあるべけれ。 但し「ン」の字また「ツ」のかなのことは世の人種々の説をなせども、多は模象の議のみ也。 此こと奧 下卷卅六 に云ふべし。 今は且く、むかし顯昭法師のいひけんはぬるかなの字なしの言等をのみ、とかくに執ずらん人の爲めに是くまでは云也。 顯昭の言を壞するもさあさあにて、「ン」「ん」の形なしと云ことと人多くは思ふめれど、岡本保考主の意に依て考るに、此は「ン」「ん」の據る正き漢字なしとに乞。 されば「ン」「ん」は何れの字など云論は姑く措て、今正く此「ン」「ん」の形字の現在せるに就ては、之れと「ム」「む」とを定かに書別る乞古書どもに遡りて、素より別れし天然の音聲を辨明するよき便には有べけん。 焉ぞ之を通用すべしと斷ずべき。 況や男は「ナム」、信は「シン」、と樣に書別ること已に舊しきことなるをや。 猶下卷 廿五 合考。 彼轉用例を箸はすとき、ナニヌネノに轉ぜるは此字ども、マミムメモに用ゐたるは其字どもと、出し証する因に、などて意のつかざりけん。 惜哉。 用格に或説と指せるは和字大觀鈔のことならん。 大觀鈔は無相子也。 其同作磨光韻鏡字庫に諸の撥ぬる韻のかな、「ン」「ム」を付わたる樣、即ち彼開合に據れりとみゆ。 さて此別を云に、又一説あり。 或問字篇と云る書に、總て撥る字に「ン」「ム」のかなを用ること、皆定りあり、韻書の法に、上平聲下平聲と分つことあり、上平聲の字には「ン」のかなにてはね、下平聲の字には「ム」のかなを用うと云り。 大觀鈔の説には稍優るに似たれど、猶仙先の韻の字どもの韻を「ン」とせる例証少からねば、下平聲は皆「ム」也と云は通ぜぬこと也。 凡そ此差は漢籍にて辨へんとならば、韻鏡にて先邇く云はば、彼十六攝と云ことを以諸字諸音を統る中、臻山所攝と深咸所攝とにて其別るる所を知るを要とす。 今主とし據ること焉に在り。 さて正字通に、滿語十二字頭とかいへることのある其四に、訥因 塞因 などあるは、 な 也とみれば、また 路因 慈因 は ろ とぞおぼしき等を考るに、韻尾「ン」「ム」の別は、彼邦も降世紛はしくなれるなめり。 然に其「ン」「ム」紜はしき者に依て、有説に「ン」音或用因字亦可と云るは其意未審也。

今は上の論示に原き、さては轉用例に从て猶つらつら考るに古書どもに、彼撥る韻の字どもの其韻を、ラリルレロに轉用せるも定りありて、其れはナニヌネノに用る字とは相通じ、マミムメモに轉ずる韻の字どもとは通ぜず、 このナニヌネノとラリルレロとへは「ン」、マミムメモへは「ム」よりなるに、必然の理あり。 そは下卷に至り、悉曇の義を云處にて覺るべし。 又後に音便とて、種々に轉れるがある中に、はぬる韻の字を、「イ」の韻の如くに唱ふるあり。 冷泉をレイゼイと云たぐひなり。 それも古へナニヌネノに轉用せし字にかぎることと思はる。 思ふに、これは奈行の音は舌用多くかかり、麻行の音は唇用多かるを、すべて先アイウエオの五つにてわくるときは、次第の如く、この五つ、喉舌末唇末とわかるれば、さる舌音の故にもあらむ。 按ずるに、韻鏡なる十六攝の標識の中、 韻鏡はいと古き書にはあらねど、この書によりて考へもてゆきつつ、古音に遡るに、その正をうる益あること、人多く知るが如し。 此義奧に委く云べし。 臻と山との攝なる字どもは、記紀萬 古事記日本書紀萬葉集を云。 下みな同。 等の古書に、その韻をば、ナニヌネノに轉用せる例多くして、マミムメモに轉じたるは無く、深と咸との攝なる字どもは、マミムメモに轉じて、ナニヌネノに轉ぜる例更になしとみゆ。

さて臻山の所攝なる字どもの韻は、上に云る如く羅行の音にも(つか)ふ。 然のみならず、又は加行の濁音、或はの音の音にも轉ずとみえ、深咸の所攝の字どもの韻は、或は波行の濁音にも轉ずとみゆ。 是なん大かたの差別なる。 但臻山の攝なる字をば、マ行の音に用たる乎と覺しきが、古りにし世の物にもこれかれと見え、後やうやう方おほかるやうにも思はるれど、そはみなよく考ば不審もなきことどもなるぞかし。 そのよしは中卷にくはしく問答料簡すべし。 今先づ いとくだくだしけれど、猶圖しみれば、

圖略。底本七丁。PDF p.15。

如此になれる歟と思ふ也。

抑韻書に從ひてその入聲の字音より押て、其平上去の三聲なる字音どもの假名を定る傳へは、古よりのことなるを、 近々は字音假字用格の初めに、字音の假字の、つねにまがひやすきは多くはウと引く音にあり云云。 入聲の字などにても分かる云云と云へり。 この「ン」と「ム」の差別はた、それと同じ理りあることにて、右の臻山所攝は、その入聲の諸字の韻、漢「ツ」呉「チ」也。 深咸所攝の字どもの韻は、其入聲音「フ」也。その「フ」の韻なる字どもの平上去聲なるは悉く「ム」、その「チ」「ツ」の韻の文字ども平上去聲の諸字は皆「ン」也。 深攝にては、(おむ)(おむ)(おむ)(おふ)、咸攝にては、(えむ)(えむ)(えむ)(えふ)、臻攝にては(にん)(にん)(にん)(にち)、山攝にては、(はん)(はん)(はん)(はつ)のたぐひ、皆違ふことなし。

かくて此「ン」は「ニ」の如く、 まさしく「ニ」とよぶにはあらで、しかも「ニ」に近きなるべし。「ニ」にはやや近く「ム」にはやや遠きなりとぞいふべき。 「ム」は「ン」の如く、 まさしく鼻音の「ン」に非ることは固よりにて、又麻美牟女毛の正き「ム」のさだかなるにも非るべければ、「ン」に似たる「ム」など云べし。 その「ニ」は元來「イ」韻にて開音、「ム」は「ウ」韻にて合音なるを、その音の開合より考るに、開合といふは、音 發聲 のみにあらで、韻 尾聲 にも其別あること也。 さればこの「ン」「ム」のけぢめは「イ」「ウ」の分るるに同き趣き也としるべし。

さてかく十六攝の所攝によりて諸字の音どもの韻、本來「ン」「ム」の別あるを辨へおきて、立還りて御國の古書どもの漢字を(つか)へるさまの、いと(うる)はしきを詳にするに、まづナニヌネノ、そのさしつぎにはラリルレロの音に借り、さては加行の濁音、或は「ヂ」に轉はし、或は「イ」と云ふ音便の言葉にもかよはせる韻の字どもは、みな臻山所攝の文字ども、又マミムメモ、それに次ぎて、希には波行の音の濁れるどもにも借り用るは悉く深咸所攝の字ども也。 如斯きはやかに見え分れたるやう、よく味へば、いよよ奇しく妙なるわざなり。

今その明證どもを擧て云べし。

(かしこ)けれど、神の御名にて申さば、記に伊邪那命と記されたるを、紀には伊弉()尊とかき玉へり。 又記に 伊邪河宮に天の下しろしめしし開化天皇の段 タニハノ大縣主のことを(たに)波と書かれ、 後には丹波と書く萬十二 廿五 に丹波道之とかけるごとき、 又掛卷もいと恐こけれど、師木の水垣宮にましまして天下(あめのした)しろしめしし崇神天皇の尊號をば、紀には御間城入彦五十瓊殖()天皇と記し玉ひ、記には御眞木入日子()惠尊とかかれ、 同く玉垣宮に天の下しろしめしし垂仁天皇の御子にて、紀に五十瓊敷(しき)命とみえたる御名を、記には印色(しき)之入日子命とかかれ、さて三代實録四には、この御名伊色神とあるをも考ふべし。 さて又輕嶋の(あきら)の宮に天の下しろしめしし應神天皇の尊號を、紀には()田天皇と記し玉ひ、記には()陀天皇とかかれたり。 斯て同記 應神天皇の段なる哥 に、又本多能比能美古とも書くれば、品の字は(ほむ)とかけると同じきこと更に濫なし。 記玉垣宮段に、品遲部とあるをば、紀には譽津部とあるもホムといへるに品字をあてたるは同例也。 中にも品陀和氣宮天皇と申すは、紀にてみるに、もと上古の俗、鞆を號けて襃武多といひつる、それによせてたたへ奉れる尊號と聞ゆれば、音便にホときこゆるやうに申はあしく、まさしくホムと申べきにて、さるからに譽田とはかけるにて有めるを、それをしも、然かき玉へりし紀より前に出來にたる記に、品陀とあるにて、品字の音は、昔はかの舌に觸れ鼻にかかりて、「ホン」と呼べる字どもとは、素より同じからざりしこと、顯は也ともいと(しる)けきこと也。 これに因りて、後にただホと聞ゆるやうになれる世にても、今より七百年の古までは、此字に音のかなをつくるとき、「ホン」とはせずて、必「ホム」とかけりしは(うる)はしく(めでた)きわざとぞいふべき。 然に今の世はかかるけぢめの猥りになりにて、音博士とある人さへここを辨へずして、近ろ發行の國史略に品の字に ほん とかなつけたるだにあやしきを、又紀に從ては、譽田とかきながら、それにしもなほ ほだ と片假名せるなどは、あまりなる失にて、凡そ假名をつくるは、愚かなるもののためなるべきに、かなつけゆゑに、かへりて人の惑ひとなることをなせるは、そもいかなりけるぞと、あやしまるばかりになん。 但しさばかり悞ても耻らふともなかめるは、今の世は某國をしるとはなしに、守とも介とも名は負へる類なればなど、云ひらきや有らん。そは似たることながら謂はれぬ言なしみにして、實はいと快からぬわざにはあらずや。 さて又記 明宮のくだり に、高目郎女(こむくのいらつめ)とみえ、記に澇來田(こむくだ)の皇女とある、コク は地名なめるを、其地名を和名鈔には、河内國石川郡紺口(こむく)と郷名に出せるを見べく、又かの國の甘南備龍泉に、咸古祠とてあめる紺咸の字と、右の(こむ)といふ言とを考へ、 澇ム は麻行四段の活語なり。 紀には澇字のみならず、浸をもこの語して訓めるところあり。 澇は潦に同じ。 三代實録二の十九丁に武藏國去秋水澇とあるなど、コマン コミ コム コメ と活くる なほ神名帳に咸古(こむく)の神社とみえ、仁徳紀 十丁 に十四年掘大溝於咸玖()とみえたるをも思ふべし。 さて景行紀 四丁 に日向襲津彦皇子是阿君之始祖也とある阿牟を、舊事紀には()智君とある也。 さて又欽明紀に茅渟()の海とある、 允恭紀にも茅の宮、崇神紀には茅の縣陶邑、又記玉垣宮段には血池、他田宮段に智の王とみえ、萬には六卷に千沼囘(ちぬま)、また七卷陳乃海、九卷智壯士血壯陳壯士、又續日本紀十五、智の離宮などあり。 正くはかながきには、千載十一に、こひにはちのますらをならなくにとあり。 は和泉國の地名なるを、萬十一 十二 (ちぬ)の海の濱邊の小松とも、之海之鹽干の小松ともあり。 姓氏録に珍縣主とあるもこれにかなへり。 さて記に於能碁呂嶋とかかれたるオにあつるに、紀には()の字を用ゐて()馭盧嶋とかかせたまへり。 又紀に王の字「コキシ」とも「コニキシ」とも訓めること往々なるを、杜若力通典といふものに 和訓栞九の十二古事記傳の卅の六一ともに引。 犍吉支(こにきし)とあり。 又紀竟宴哥に惟宗朝臣、いつとものふみよむ人々だにやうにこれをむねとぞともにのりとるとあるは、得段楊爾の也。 さて萬にまにまにといふことを、五卷にはすなはち麻爾麻爾とかき、四卷 廿三 十三 十九 などには萬萬(まにまに)とかき、又三卷 一-五 四-十 五-十-二 ()とかき、 敏は下に「ミン」のところに出すが如く漢「ビン」呉「ミン」の音也。 さてミメは、津國の地名にて、萬六卷 十八 には見宿女(みぬめ)乃浦者とも、また三犬女(みぬめ)乃浦能奧部庭ともあり。 この三犬女を敏馬とかけるは、二字とも呉音を用たるなるに、此字音を訝りて、彼 三の十五 玉もかるみぬめをすぎて の歌をば、としめをすぎて とせる方よきやうに思ふは僻ごと也。 新拾遺の頃は(はや)く誤れるにぞ有ん。 又十一 十五 つらふ頬相(つらふ)色者(いろには)不出(いでじ)少文(すくなくも)心の中に吾()(おもは)() 、又 同三十五 ()(おもは)()、又 同丁 憎不有君(にくからなく) 卅八 十五 十二 卅五六 等亦あらな(くに) 同四又十九又十二の七左 千重に千遍(ちへ) 同卅九丁 (にこよか)を 爾故余()、又九 卅二 國問へど(くに)問跡、 郡を邦の誤かといふは非なり。又濁音の字とのみ思も非也。漢音は清也。但し古しは郡の字して、今世コホリとのみいふ限りしもクニともいひしときこゆれば、ここは正字にかけるにもあらむ。 又四 四十 しるかにを知() 但しこはしるさともよむめれど、なほの方宜しと思はる。 さて同卷五十丁に うつせみを欝() 空蝉とかけるは借音にあらず。 借訓なり。 又混ぜざれ。 此義中卷に詳にす。 又七 三十二 うねび(うね)飛、又十六 廿二 刎ねなむ(なむ) こはなからかむと、人多くよむところなれど、然には非ん。 又六 十六 いな(いな)野、 又七 十丁 神竝(なび)の里()南備乃里、十二 十一 ()(しな) を 吾者指南與(しな)、又 同卅一丁 だに今夕彈(こよひだ)、十三 九丁 何か(なげか)()可將嗟、又 十三 ()にか()に加、又なにはを處々に()波、 仁徳紀に那破、記に那波とかきてあり。 但し浪華とかくに付ては論あり。 中卷に問答ん。 又十一 三丁 あふさわにを相狹() こは四卷廿七丁に相佐和仁とある同語なり。 又十二 卅七 ゆくらかを湯鞍()、又 十二 ()可聞、又十三 二十二 今かへり來を今還(こむ) 但しかく將字欲字などに當りぬべきは、和語説畧圖に圖せる如く、メと活く語なれば、と云は後の音便にこそあれ、とのみかくぞ正しかる。 さればテ、ケ、ナ、ラとかけるなど、卷々におほかり。 二の十九同廿四丁、十一の二丁同四丁同十丁同十七同四十同廿五同廿九丁、七の四十、十二の十一丁同廿五丁、六の初丁、四の五十一丁などに念三覽などの字を用たる、いづれも深咸所攝の字どもなるを考ふべし。 ついでにいはん。 かくさだむるほどならば、この所にもやがてそのことを明にして、曰は 示さ などこそかくべきに、曰は 示さ とやうにもかけるは、みづからはみだり也と云人もあらん。 されど、こは強ちにわかんとはせざる所以は別に論ぜん。 今むねと「ン」「ム」をわきて書べき由を示さんとするは、漢字にかな付るにつきてのこと也。 なほ奧 下の終 なる辨へ見るべし。 又續紀 五の十四 に紀朝臣音那() 郡とせる本は非ならん。 意美奈(おみな) 十三の八丁然り。 但しこれ婦人の名にて、五卷のは只老嫗のことの樣にもあれど 通ぜる如き、又神名式に伊勢國壹志郡敏太神社とみえ、和名鈔に壹志郡民太 三乃太 とあるも、敏民はミに借り用ゐたる者なること、今世すでに伊勢にて、松坂の西美濃田村なる神社なるべきにて知るべし。 古へはミヌタと云へりしを、和名鈔の頃は、既くヌをノと云ことになれるなるべし。 さて此神名式、今の印本にトシタと訓るはひがことにて、かの萬三なる敏馬乎過を、としまをすぎとよめるに似て、それよりも甚き謬りといふべし。 又神名式に又伊勢國八部郡汶賣神社とある此汶も 打任せては音問なれど、又は岷字に通用することも有れば に填たる者也。

斯てこの諸字をかの韻鏡に照し見れば、 ほむひむこむきむこむきむおむいむは、第卅八開轉に在て深の攝也。 なむだむなむぜむかむかむたむたむこむこむえむせむてむねむでむは、皆第卅九開轉に在て咸攝の字ども也。

さて此れらの字は、上に辨ぜる如く、其韻をばマミムメモの音に借て用ゐ習へる字ども也。 このマミムメモに用へる「ム」の韻の字どもは、奈行の音に通ずることは決まりてなきことなり。 奈行の音の外にはいと希に波行の濁れるには通ふことありと思はる。 其義は下 本卷卅三 に云べし。 いんちんみんびんは第十七開轉にあり。 みんひんも岷に通ずるときは第十七轉の明母に屬す。 磤は第十九開轉、(くん)(くん)は二十合轉にありて是皆臻攝犍は廿一開轉、まんばんは廿二合轉、たんかんさんたんなんだんへん廿三開轉、たん 清むはただ姓也。 濁るは分段又姓ともに はんわんくわんは廿四轉にあり。 是皆山攝にして、此等は所謂ナニヌネノに用ゐ習へる字ども也。 このナニヌネノと轉ずる尾聲「ン」は、既にも云る如く、ラリルレロに通ずるは素よりにて、又稀々加行の濁れる音へも通ずるなど、みな上に圖せるが如く也。 さて又上に擧げたる字どもの左傍に、廿二廿三などと數の字どもを(ささ)やかに記せるは、韻鏡何れの轉に在にやと、尋まほしからんに便りともなれとてのしわざ也。譬へば萬の字は廿二合轉にあるを、「ン」にて「ム」に非ずとしり、或は難は廿三開轉に在りて「ン」、かくては開轉合轉には抱らで、「ン」の韻なる字どもは、幾らもありとしる類のことを要とす。 されば彼「ン」「ム」の差別を、四十三轉の開合の(しる)しにてわかるるやうに云は、げに當らぬ説なることは、宣長の斥せる如く也と知べし。 抑韻鏡などに開轉合轉と云るは、音に付てのことにて、韻に付てのことには非る也。 されど韻にはたえて開合の別なしと云にはあらず。 其趣きは上に已でにいへる如く、「ン」は開「ム」は合也。 然るにその開の「ン」韻にて、「カン」「サン」など云る音に、開轉所屬の字もあれば、合轉所屬の字もあり。 又合の「ム」の韻の字どもにても、「タム」「ナム」などいへる音に、開轉の字合轉の字どももある。 さるは韻書の開合轉は、只其發聲の音に依て、其尾聲の韻には關らざれば也。 ここのけぢめ、ゆめ思ひ混ふること勿れ。 くだくだしけれど猶いはば、「イ」韻は開、「ウ」韻は合なれど、四十三轉の圖に渉りて、開轉なる字どもは「イ」韻、合轉なるは「ウ」韻とは定らざるを考へて曉むべし。

さてついでに云ん。 萬十の四十四丁に、秋山乎・(ゆめ)懸勿(かくな)・忘れ西(にし)黄葉(もみぢば)乃・所思君、このはての句、おもほゆるきみとよめる本は、近ろ人の論むる如く、げに不可ならめど、おもほゆらくもとよむべしと云も、なほ宜しからじ。 君は「クム」にあらず臻攝にて「クン」なれば、こはおもゆらくにと訓むをぞ優れたりとはとるべき。 くもと讀みては深咸攝なる「クム」の字の例になる也。 斯ることもあれば、此「ン」「ム」の辨へは萬葉哥學にも關る也。 猶奧 中の廿 合考

かく記紀萬の古き正き書どもの記し樣、其差別あるが故にや、かの倭名抄はやや降れる世の記載なれど、諸國竝に郡郷の名などに填てたる字ども、古くよりのをさて出せるなめるを、其記し樣種々にて、ふとみればもと定格なきことと思はれぬばかりなれど、此撥る韻の字どもを(つか)へるに、その韻をナニヌネノラリルレロに轉じたる 此は唯臻山攝 と、マミムメモに轉ぜる こは深咸攝に局る と、明に分れたり。 序に云。 此れに准へて思へば入聲字の「フ」なるをハヒホと轉用せるも、又「チ」韻「ツ」韻なるをタテトと轉用せるなども、同じ赴きなるべし。合志()雜賀()邑久()とやうにつかひ、設樂()伊達(いた)益必(やけひ)とせるなど、さて又「キ」「ク」を美作(みまさ)信樂(しがら)益必(ひと)色麻()とやうに物せる、その例証ども和名抄に多かるを、近くは地名字音轉用例に類聚せるを見て知るべし。

然あれば漢籍にあれ御國書にあれ、漢字どものあるが中に、撥る韻の文字に附る其かなも、臻山攝にてナニヌネノなどに轉る方の韻は「ン」、マミムメモに轉る韻にて深咸攝なる字どものは「ム」、と書わくべき理りはた箸し。

さてかう思ひ掟てたる上に、又見及べば、かく云に(おのづか)ら相似たる説を云る人ほかにもありけり。 秇苑日渉といふ書 村瀬拷亭源之 十三 云、七十五字之外、、讀若(うん) 合口以鼻轉 此爲鼻音。 即ム 音之別、唯尾聲有此音。 凡元文刪先等收聲開口鼻者爲ン。 侵鹽覃凡等尾閉之音、聲盡而閉此者爲ム。 而ン二音、開合之輕唇。 東冬江陽諸韻、唐音收聲眞元諸。 國讀皆收。 蕭豪相似。 蓋ンム二音ウ之轉聲耳ウ乃正喉音第三位。 喉音唇而所生、ンム又唇音第三位ウ所生輕唇爲ム重唇爲ブ、其鼻爲ン。 故無武等字、唐音ウ國讀漢音ブ、呉音ム、一轉 といへるは、大觀鈔假字用格などに優れること懸かに隔れり。 此書總ては音韻明めたりと云叵く、已でに五十音の喉音三行をだに互に錯置せれば、本かな(づか)ひ等、用格者に掛くても及ぶ所ならねど、其が中乍らさしも「ン」「ム」の別を云るは、却て用格に勝れるは、思ふに稟る所有てにこそ。 但し「ン」を唇第三音と云ひ、吽を「ン」、或は國語助ラン二合ケン二合蘭甄と云へる(ごとき)は誤りにて、殊に萬の借字の法 本卷十三丁示之 に反せる失也。 猶中の廿下の九合考。

さて又近ろ漢呉音圖説音圖口義などいへる書を考へみれば、それには、三内の撥かな古へは音博士ありて正しかりしを、中古已來亂れたるを復す 云云 、と云て辨ぜることども皆大に(もち)うべき也。 秇苑日渉假字用格等の亦かくても及ぶ所に非る也。 且その書の殊に精しげなるは、入聲「フ」韻は漢呉ともに「フ」なるを、かの「チ」「ツ」と「キ」「ク」とは各漢呉二つづつに相分れたるに例して、「フ」韻の平上去聲は漢呉とも「ム」の韻、「チ」「ツ」の平上去聲の韻は、漢「ヌ」呉「ニ」と別ち物せる等、 入聲「キ」「ク」の其平上去の三聲は「イ」と「ウ」とに別るるもよくその例協ふと先にみえて げに理りありげなれど、今は从はず。 さるは始めにいへる如く、信の如き、すべて漢呉ともに「ン」とせると「ム」とせるとの差別の、本宗の典籍いと嚴整に見えたるをば、さる故やあると、其れ考るなん詮なればぞかし。 音圖の如くにのみいへば、「ン」は「ニ」「ヌ」のみならず、「ウ」「ム」何れもの云べく、さては本の理りはいかにもあれ、いま字音に假字をふらんとするに付て、「ン」と「ム」との二つをわくべしとはいひ得じやうにもかつはなりなん。 はた讃を「サヌ」丹を「タニ」などはなほ「ン」をばなだらめたるにてそれを直に漢音呉音也と云べきにあらず。 其義は奧なる悉曇に付ての議論を考へても知べき也。 凡そ古書どもに讃をサ丹をタとやうにせるは、「ム」に異りて「ン」とすべき韻の文字の限りに在りて、かの信をシ訓をクとせると同じさまの轉用の例とこそ思はるれ。 敏は漢「ビン」呉「ミン」也。 これをば漢呉にて「ニ」「ヌ」を別んとのみせば、漢にはすべてマミムメモの音のなきをいかにせん。 敏馬のミなどは、越の字をば越後越前など云をりに、音は漢にて韻は呉かとも聞ゆる如き例と云はんか。 そは異樣ならずや。

さてとよ深咸所攝の韻どもは、ナニヌネノなどには更には通はで、唯マミムメモに局り、臻山所攝のは、ナニヌネノラリルレロ をむねとし、兼て希には加行の濁音、あるはの音など に通ふなるは、そも何なる故ぞと考るに、古人の耳に異邦の人の眞の口呼を聞けんとき、撥る韻の字ども其(おむ)、多くの韻書 當時は未だ嘗ても世に見えざりしして、遙後に見はれしにても、古音を考るにその韻書ども の收る所、開轉なる文字にあれ合轉なるにあれ、何れも鼻にかかるそれをば、今一段(こま)やかにきけば、同じ鼻に係れる中にも、本より音聲は人心の情のうちに動きて外聲に形はるる、其聲先喉より出るが初めなるを、其出る即に鼻にかかりつつ、先舌に觸るると先唇にあたるとの(けぢ)めある、それは自ら(おのづか)らのことなるを、心留め居てから(さひづ)りをうち聞に、其舌にふるると唇に觸るるとの差別、さだかに分れて聞えしなるべし。 さればこそかの臻と山の攝なる(かぎ)りの文字はその入聲漢「ツ」呉「チ」の韻となり、深咸の攝なる字どもの入聲は兩音とも「フ」の韻となれるを、其入聲「フ」の平上去三聲を鼻にかけてよべば、必其韻は「ム」となり、其入聲「チ」「ツ」なる音の平上去の字の韻は、必「ン」と分るるやうになれること、自然の理勢實に奇妙と云べし。

さて其鼻に關り舌にも係る韻の字どもは、後漸皇國言にかり用うるに、其韻をばナニヌネノ・ラリルレロ 兼てはガギグゲゴ の音に轉用のせられ、その唇に觸れて鼻に係れるは、マミムメモ 又バビブベボ に轉用のなりもてゆける者也。 さるはもと五十音の中にて、マミムメモは唇音にして且は鼻にかかる音、ナニヌネノは舌音にしてまた鼻にもかかること淺らざる音也。 今試に二指をもち鼻つまみをりて五十音をば一行づつ呼びわくるに、右にいへる理り自然の聲音よくしらる。 そは鼻をつまむこといかに緊くても、アイウエオカキクケコサシスセソなどいへる音どもは、其音聲聊もるところなく溷ることなく有りのままに曰はるるを、ナニヌネノマミムメモの二行は鼻塞りては定かには呼ばれず、其中マミムメモは本來唇音にて、唇をたたかでは出で來ぬ音故、鼻つまめば口鼻とも閉られて、其音の出難きは固よりのことなるべきに、さる唇にかかづらふことなきナニヌネノしも、鼻つまみ居てはいとど呼び叵きは、舌音ながら鼻に關れることの深き音ゆゑなるべし。 さればナは鼻に入故に、「陀羅尼の中に鼻音と註せる事なり」と近く正濫鈔 一の十一 にもみえたり。 さていかに口をば(つぐ)みをりても、事も無くいづるは「ン」也。さるはこは本口語の正き音にはあらで鼻音なればぞ、斯て其「ン」と出る外には、諸音聲の更に出でぬさまに緊く箝める口を開くとき、唇用かかりて先遄かにいはるるは、マミムメモと波行の濁音、かくて鼻ふたがれば出にくきも、加行の濁音と奈行の音と麻行の音と也。 さて口も鼻もさてありつつ呼び試みるに、「ン」は舌「ム」は唇にあたること已でに箸し。 かかれば撥る韻の字どもに、今其音の假名を附るとき、「ン」と「ム」との別なくばあるべからざる理り復彌明けし。

さて彼から人の眞の口呼を聞けんに、舌にあたりつつ鼻にかかれるは、皇國言を冩すときナニヌネノの音に用ゐ、唇にふれつつ鼻にかかれる韻の字どもは、マミムメモにつかふことと、おのづから分れにて、韻鏡など云書は名も未だ聞えざりけん代の古書ども、すでに然書き別きてあるを、遙かなる後にかの邦よりまゐ來て傳はる韻鏡に照しみれば、かの臻山の攝はこのナニヌネノ、彼深咸の攝は此マミムメモと、さる字どもの明かにわかれてあるは、返々も奇く妙なる者にて、是に就ても思へば(いと)欣ば敷は上れる代の人の口耳よ、韻書どもの未だ參來ざりけむ世乍ら、さばかり聲韻の()く別れたりけんこと(いと)も畏きことどもに乞。 猶本卷 廿三 中卷 五丁 に云かの支那 牟尼 無宇 等を按ずれば、漢土の古へ亦其口耳の識別類似矣。

さて上來「ン」「ム」の別ある、文証も理証も既に明也と雖へども、さらに和名鈔に載れる國郡郷の名どもを擧て、殊に蒙士の疑を除らしめん。 和名鈔にみえたる地名の文字の種々なるは、彼轉用例に云るが如く、和銅中より好字嘉名を取て必唯二字にと定め玉へる故也。 此事弘仁の民部省式に見ゆ。 延喜式はそれをさてうつせるにこそ。

先彼上野の郷名ナに填たる二字、男は那含反にて、韻鏡に驗すれば卅九轉、即ち咸の攝にて、舌音の平聲清濁行第一等の泥母に收まれる字也。 圖面にては南字の同窠なる字にて、假名は「ナム」と付べき音の字なる故に其韻をば「マ」と轉用せる者也。 但此定位の入聲を驗し、反切の含の字を考へ、又此定位入聲の納の同音なる衲字の音のことをば、和名鈔に衲奴答反亦作納俗云能不とあるをみれば、此字の音「ノム」なるべく思はるれど、よく按ずれば、それは却りて轉音にて、本音はなほ「ナム」なり。 さればこそ俗云とは云たるなれ。 之によるに含の字の音「コム」なるなども本轉音にぞ有む。 ただし俗云とあるを必しも俚俗のこととのみはこころうまじきなり。 當時いひならはせるを云にこそ。 是は ナ などは轉じも用うべけれど、ナ とやうには、ふつに(うつろ)はざるに局り定まれる字也。 又(しな)は息晉反にて、韻鏡にては、臻攝たる第十七轉齒音去聲清行第四等心母に收りて、假名は「シン」とつくべき字なる故、其韻を「ナ」と轉じたる者にて、此外に シ などすべて奈行の音に借りたる例は多かれど、此字を シ とも シ とも シ とやうにも用へる例は未だ之あらざる文字なるぞかし。

此二つを今廣く考へわたすに、其奈行に轉ずる方は、先國名に()濃、 和名鈔に之奈乃。 陸奧の郡名() 志乃夫。 和泉の郷名()太、 今之乃太とよぶ也。 この信太の註、和名鈔に臣太とあり。 されば信も臣も「ン」を「ノ」とすることみつべし。 上野郷名に男() 奈萬之奈。 さて此信の如く、「ン」の韻なる字どもを用へるやう、先國名に() 以奈八。 遠江の郷名に() 伊奈佐。 伊勢の郷名に() 三乃多。 又和泉の信太を註して、和名鈔に()多とみえたる、此信因引民臣などは韻鏡十七轉に在りて皆臻攝の字ども也。 全齋云「姚秦のとき諸蕃西土を秦といふ。秦の音舌内ゆゑに士奴が支那にもなる。 後因て西土の稱となる。 シヌを信濃、イバを因幡とかけるなど、皆同じ。」と云る、げに然ることなるを其秦も十七轉也。 又大和なる山名に雲飛() 萬七の卅一丁に雲飛山仁吾印結(うねびやまにわれしめこひぬ)とかけり。 同國郷名に() 宇奈天。 山城郡名に乙(くに) 但し和名鈔には於止久とあれど、此は本オチクニと云處なりしが、後にオトクニと訛りしより、終に弟國とかけるなるべし。 記紀ともに玉垣の段に見えたるが上に、今現にオトクニとよべる地名也。 さて訓は ク なること、右かなを書けるに照し見、又次にいふ訓世養訓の類を見合すればいと明かなり。 安藝郷名養() 和名鈔の現本訓養とあるは全く寫誤れる顛倒字なるのみ也。 山城の郷名訓世を註して郡勢()とかける、 さるは和名鈔にみえたるを、此訓の字も郡の字も填たるものと云ことは、此地名、日本後紀に國背()とみえたるにて明かなり。 さて備後の郷名訓養、 也萬久爾とあり。 二字倒せるは後の謬り歟。 初めより然り乍らヤマを先云る所に填たる歟。 此若狹の郡名遠敷() 乎爾不。 また國名に()波、 太爾波とあり。 この國名を記垂仁段には旦波とかき、弘仁式にもなべては丹波とかけれど、希には廿三廿四など但波ともかかれたれば、旦但の「ン」なることも因みに覺るべき也。 () 佐奴岐とあり。 序にいはむ。 サヌギとキもじ濁りてよむべしと云説あれど、續日本紀には此を借字に書て紗拔(さぬき)ともあれば、古へも猶キもじ清みて呼しなるべし。 さて此紗拔にて讃はサヌなること彌明し。 大和郷名に(さぬ)吉、伊勢郡名に(ゐな) 爲奈倍 などある此文字どもの中に、雲訓郡は、韻鏡二十轉、遠は二十二轉、旦但讃散は二十三轉、員は二十四轉にありて、これみな臻山の攝也。

斯の如く臻山の攝なる字どもらは、ナニヌネノに轉用せる例は地名に限らず、すべて其例多るは、上に記紀萬を引ていへることを始めとして、半月をハハリ、 は半をなだらめしもの、ハリは張りの義をもてせる名なるに、ハニワリといふは俗の訛舛なるよし、和名鈔二卷 五丁 に見ゆ。 半插をハサフ この字音をなだらめたるをやがて和名と名けて匜の字を擧たる處に、其名を出せること和名鈔十四にあり。 錢をゼニ、 和名鈔に一鏹鎔の註にあり。 又仲文集に瀬を錢にかけたり。 但し板本にはセとあれど古寫本には地う獄のかなへにもこそにえたゆへ多くのせにな落しむひぞとあり。 隱をオ 和名鈔に云四聲字苑云鬼居偉反 和名於爾 或説云隱字 音於爾訛也 鬼物隱而不欲顯形故呼隱也 云云。 紫苑をシヲ 和名鈔古今集六帖順集等。 紫檀をシ 伊勢集。 雁緋をガヒ、 伊勢の御の集に沖なかにひのまた愚かにひとのとありこの二首は一つは拾遺にもいでたり。 蘭をラ 拾遺・和名鈔・元眞集・順集・等 牽牛子をケコシ、 古今拾遺 木攣子をムクレジ、 和名鈔 宴をエ 元輔集 紋をモ 亦元輔集 訓をク 宇津保藏開卷には、字音にて「クン」と云べきをなだらめて爾云り。 此外クニと云ことに此字をあてて書るは、弟國を乙訓などの例すでにも云ること也。 近衞をコヱ、薫衣香を 源氏蓬生卷などに エ香 とも エ香 とも いひ、盆を 蜻蛉日記 印本 下之中 五丁 亦枕册子歌。 庚申をカウシ 元輔集などにみえて、庚申の二字をカウシと云ることもあれば、は語辭のニにやとも覺しけれど、猶()をシと云ことしるき處もあん也。 と云るなど、 またかくし題を歌に、備前筑前豐前などの前をゼニと云ること歌仙集一にみゆ。 人丸の哥と云はいかがしけれど、猶古くての例なることは(うつな)ければ此等も類例とすべし。 其字音をなだらめ云る類ひらも考へ合せて、ナニヌネノに轉用するは、都て臻山の攝なる字どもぞと云ことの、徒しからざるほど察らめてよ。

さて古今集物名に、クタといへるあり。 これは苦丹亦は木丹なりなど云る説に依れば、爰にいへる趣によく符へり。 苦膽也と云 説は物産家にて、さる方に爾る樣なれど、 は合ひ叵し。 膽は咸の攝にて「タム」にして「タン」に非ればと既くより猶豫(おもひやすら)ひしを、近ろ考へ得たりと覺ゆるは、先彼ちりぬればのちはあくたにといへる歌は、遍昭僧正のなるを、其僧正は慈覺大師の資、安然和尚の師也。 師 慈覺 安然 ともに悉曇にも達せられしなれば、さはいへど漢土の音韻御國の(おのづか)らなる音韻をも、(つね)ならず明らめられたるべきを、此僧正はた其れ審詳にせられけんほど想像すべし。 殊に世の間なめて假名づかひの、大かた嚴正なりし當時のこと也ければ、右の歌のクタは、木丹にして苦膽に非ること、即ちこの韻のかなを辨へて曉るべき也。 從上は()の類ひを擧たる也。 自下は復亦()の屬を出さん。

さて麻行に轉ずる方は、彼男字の類、上總國にあめるイジといへる地名のこと、記に伊自とあるを、紀には伊(じむ)とあり。 其處を後には伊志 この三字和名鈔にみゆ。 と云る郷名とせる。 それを夷()の二字と定められたるを見つべし。 又播磨の郡名に印() 伊名美。 同國の郷名に志() 之々美。 こは紀には縮見とある處なり。 さて相模また上野の郷名伊() 伊佐萬。 又かの上野の()信、出雲の郷名は惠() 此は和名鈔には註みえざれど、かの國の風土記に惠伴とあるにて、トなること知べし。 信濃の郡名安() 和名印本安都之とあれど、之は三の誤也。 姓氏の安曇阿豆三と訓ぜる合せ考ふべし。 又ある人いはく、筑前郷名に阿雲と今の和名鈔にあるは、阿曇の誤字にて、阿都三也と云り。 出雲の郷名()佐、 これも和名鈔にただ南佐とのみ見えたれど、風土記に滑狹とあれば、南はナメにあてたるなることしるべし。 同國又郷名玖() これも風土記云、忽美(くたみ)神龜三年改玖()といへり。 されば和名鈔の澤の字は誤りなること明けし。 同く郷名()冶、 これも風土記に此を止屋()ともかけるにて知るべく、文字も和名鈔に鹽沼とある沼は、冶の誤なること風土記にて知らる。 同郷名美() 和泉地名の淡輪村のことを、紀の雄略卷 十九丁 に、田身輪()邑とある田身も淡の字に當れり。 又大内宮城十二門の仲に談天門あり。 こは阿波國の玉手氏所造故雅其音曰談天門。 これ壬生氏所造なるを以て美福門と名る例にて、玉を談とかけるならば、これ又談は「タ」にして「タン」には非るに由れる也といふべけん。 上野郡名甘樂 加牟樂。 但馬郷名美(くみ) 三久美。 美濃地名和蹔() 天武紀に和蹔とかけるは萬二の三十四丁には和射見我原、十六和射見能、十一 卅四 和射見とある處也。 伊勢郡及郷名に()藝、 郡には阿武義、郷には阿無木とあり。 備後郡名又大和の郷名に品治 郡名には保牟智、郷には保無智と註せり。 河内の郷名紺口、 こは和名鈔にコクとの註はなけれど、記に高目()とかき、紀澇來()と書ける地名なること上に云しこと也。 さて隱岐郷名() 安無加。 とある是等みつべし。 又和名鈔にはみえねど、豐後直入郡に玖覃郷といへるある由、かの國の風土記にみえたるを、()は紀に來田邑とある處と聞ゆれば、此はタに覃字を填たる也。 ()くて此甚灊深の三字は、韻鏡第三十八轉に在て深の攝なり。 參男曇南覃潭奄紺咸は卅九轉にあり、甘監談蹔は四十轉にて、ともに咸攝の字ども也。

深咸二つの攝なる字どもは()くマミムメモに轉用せる例、地名に限らず總て多かることも、又上に記紀萬を引ていへることを初めとしてなほ印南野をイナノ、 拾遺物名 花柑子をハナカジ、 同上 龍膽をリウタ 古今拾遺を初め之を物名にせること、歌仙集等に多し。 皆ムなること証すべきにて、ニなること無し。 灯心をトウシ 和名鈔 三郎をサラウ、三衣匣をサエノハコ 和名鈔。 汗衫をカザ、至心をシシ、とやうにいへる類をも考へ渡して、深咸の攝なる字どもは、マミムメモに轉用するぞといへるが、浮たる義には非るほどを明らむべし。 但し右に擧たる膽三は直ちにその音のままなれば、かく別に出すは用なきわざとも云べけれど、すべて「ム」の韻、今世の口語多くは「ン」と紛ひて別り難きに、彼サラウの三などは、たまたま「ム」をさだかによべるに依て、これ本臻山の攝なる諸字の「ン」の韻なるとは異也と云ことをば知らするに宜しと思ひ、リウタは哥の方てメの活用語なるからはなるぞと云義を示んとて也。

さて此奈行の音に轉用する字の(かぎ)りは羅行の音どもにも轉ずるぞと云る証を出さば、先掛卷も恐こけれど、孝元天皇の尊號をば記には大倭根子國玖流命とかかれ、紀には大日本根子國牽天皇と記し玉へり。 牽を玖流にあて玉へるは、音「ケ」が通音にて「ク」に轉じ、韻「ン」が「ル」に(つか)はれたるなるべし。 記傳二十一卷には、牽をばククラルルとよむべき義より訓用にてクルにあて玉へるならんと釋けれど、いかがあらん。 さて又持統天皇の尊號ウノノサララノヒメオホキミと申にあてて、紀三十卷に鸕野讃良()皇女とかかせたり。 さて萬葉七卷 八丁 走井(はしりゐ)を八()井と記し、同十一卷 十八丁 思へ思篇來師(おもへけらし)と記し、 但し仙覺本には おもひにけらし とあれど、今は近ろ改し方をよしとよりしたがひいふ。 又昔すでに國名のスルガに駿() 須流加 の二字をあて、ハリマに播磨の二字をかける、 この播は己れ既く思しは、「ン」をにあてしにはあらで、こは美囗作(みまさか)の如きなるべし、其故は播に北潘切「ハン」の音なきには非ねど、そは物遠き也、本此字は補過切「ハ」をうち任せての音と云べければ也と思ひしかど、それは幡と書こともなきに非れば、播はなほ「ハン」の字をとり、其「ン」を「リ」に用ゐたるなるべし。 遠江の郷名幡多をば和名鈔に判多とも註せれば、幡字を古へは「ハ」に用しのみならず、「ハン」にも用ゐしことはしられ、さてそれと同く播も國名のハに填たることは、「ハン」の音に從ひてなるべしと今はおもひ定めつかし。 又大和郡名に平() 倍久里。 これと同ことにて、同大和又筑前の郷名の平郡倍久利とあり。 上野の郡名に郡馬() 久留末 河内郡名に(さら) 佐良々。 越前郡名に敦賀() 都留我。 伊勢郷名に訓覇() 久留倍。 安藝の郷名訓覓 久留倍木。 常陸郷名に幡麻() そは和名鈔には細註なけれど、幡麻は常陸志にハタマとも有て、今は又阿玉と曰ふと有人にきけり。 さるはただタをリと(なま)り來れるならんとも、かつは思はるれど、猶そは反へざまにて、そのハタマともアタマとも云は俗訛にて、本はただしくはハマといひしなるべきこと和名鈔にて知らるるを、此外にもかの辨圓と云し修驗者の、常陸國上宮村の人なめりしを、ハリマノキミ辨圓と云しなどをも思ふべし。 これ播幡の字はいづれを書けるにあれ、古へハマ云し故と乞思はるれ。 さて世にサルガクと云て、即猿樂とも書く其稱東鑑にもあなる、之を中昔の物語書などにはサガウといへるを、文字には江次第にかうさんとかき、なほ古くは三代實録七 廿三 などに、散樂とあるよりみれば、散はサともサとも轉ずる由有てのこと也。 北陸道のことを崇神紀に、くがのみち と訓み、西宮記北山鈔などにも久加乃道とあるは、これは字音にはあらねど、奈行の「ヌ」と羅行の「ル」の通ふ一の例とも云べし。 是等を見つべし。 中にも敦賀の如きは、記に角鹿()とある處なれば、其ヌをルと後に呼習へるにて、これ即ヌとルと通ふなるを、それに填たる敦は「トン」の轉音「ツン」にて「ツム」には非ること知べし。 又「ン」の韻の字にかかはらでも、古はツヌガと云しを、ツルガと云やうになれるは、もと奈行音と羅行音とはともに舌音にて通ふ由あれば、丹波の郡名伊加留加を鹿いかるいかにとかけるはイカの「ニ」を「ル」に通はせるものとぞ思はるる。 斯て信は韻鏡第十七轉にあり、駿敦は十八轉、郡訓文分は二十轉にありて山攝なれば、何れも彼ナニヌネノに轉用する字ども也。 彼マミムメモに轉用する字どもは、()くラリルレロに轉用すること更になし。

次に加行の濁音にも轉ずとは、近江の地名にシガラキを信樂と書る類猶有げ也。 但し此は亦ガは字外にと云説も可也。 下卷に至て出すべし。 能く考へまほし。 本來「ウ」「ヌ」「ム」は三つのけぢめあることにて、亦本互に親き故、和音にては「ウ」と引とのみ覺えらる中に、東冬江の韻陽唐庚耕清青蒸の韻なる「ウ」は、豪爻宵尤侯などの韻の「ウ」とはかはりて「ン」に親しかめるを、其「ウ」をばガギグゲゴと轉ぜること、相をサガ當をタギ雙をスグ宕をタゴの類もこれかれとあるを思ふに、「ン」は加行の濁音に通ふ縁由あること明し。 此例に違へる歟とみえたるは、高を かく にせること萬にあれど、そは又高の字の郭に通ぜる方よりのことにて別なり。 思混ること勿れ。 このことは音圖口義に審か也。

又次にヂとなるも「ン」にて「ム」には非ること和名鈔に國名の但馬を太萬と註し、河内郷名丹比太知比とあるにて知べし。 「チ」にあつるは「ン」を用ゐたる也。 其「ン」は鼻と舌との音なれば「ニ」と變じ、「ニ」は舌音にて「ヂ」も又舌音なれば、更に變して「ン」を「ヂ」ともするにやあらん。 いま韻鏡に驗するに、丹の字の入聲には怛、但の入聲に達の字をば紉せる、その呉音「タチ」なるを、「チ」と「ニ」とは舌の(なから)に觸れて、齶を彈するとの異のみにて、竝に舌内の音ゆゑ通ずとみえたり。 但し此ヂとなるも直に轉ぜるには非らんと云義あり。 下卷の末合せ考べし。

さて又此「ン」はに通ふと云る故は、諸の音どもの世々經るに隨ひ、漸に音便の轉用と云なるが種々あるなかに、紫震殿をシシデン、冷泉をレイゼ もとは冷然なりしを、火災によりて泉に改めましし由天暦御記にみゆとぞ。 抑然と泉とは音韻同らざれども、センと云口呼の同きより通じて用るなめり。 元輔集に古寫本には冷泉とかきためる處を、正保板の本には禮勢院とかけるをみれば、泉をゼイとは古くより云習ふこととみゆ。 面目を 物語書などに ボク、仁多をニタ、 山雲郡名。 和名鈔に爾多。 など云るを按ずるに、何れも臻山所攝の字ども也。 震仁は十七轉にあれば臻攝也。 面は廿一轉、泉は廿二轉、然は廿三轉に在て、これらは山攝也。 何れもナニヌネノ又ラリルレロに轉ずべき韻の字ども也。 但し此「ン」とイと爲るは、義又異あるか。 下の末合考。

さて又漢字音の「イ」韻を轉じて「ン」といへるあり。 ()をリ()木をレ()をキンの如き、これ必「ン」にて「ム」にはあらじと思はる。 其故は和名鈔 十二 ()子をレ 鈔云即丁反字亦作欞和名禮邇之 と註せるをみるに、「イ」韻は奈行音に轉ずとしらるれば也。 此中、鈴磬櫺は青の韻にて唐音は即「ン」韻なれば、素より其れに隨ひたるにて、轉音と云までも無るべしと云べきに似たれど、櫺はさにあらず、唐音とても「ン」韻には非るなれば、此「イ」を「ン」とせるは、すべて皇國にての(おのづか)らなる音に、「ン」と「イ」と互によしみのあるより、「イ」を「ン」と轉じて呼習へる者と思はる。 猶いはば遠江郡及郷に蓁原とかき、波八良と註せるなどを考ふるに、蓁はハなるを、ハとも云ひハともいへるは「ン」は「イ」「リ」に親しければ也。 さて「ウ」と轉ずるは、「ン」「ム」兩なからなり。 それらのことも奧に料簡すべし。

さてマミムメモに轉ずる深咸攝の字どもの韻は、波行の濁音に(つか)ふことまれまれあり。 さるはもと波麻の二行は唇音の輕と重なるを、波行も濁るときは之も麻行の音の如く、唇にふるること重くなるによりて、御國言の上にて互に通へるは珍しからぬことにしあれば、其例は旅人(たびと)と聞えし(きみ)の御名を淡等(たみと)とかき、(さむ)郎をサラウとよぶなどこれ也。 萬五 十一 に淡等とあるは續紀に多斗とかけるよりみれば、()を多に填しなること箸し。 等は斗にあたれり。 これをば等はヒトシの下略なれば比斗にあてたるもの、淡はただ多といふ一音にあてたるならむといへるは不可也。 この外に又土俗によりて霍亂をハクラ 或はラ と云が如きは、山攝ラにてラには非る字なるをやと不審する初學もあらめど、むげの俗態は論外のことにてとかく通釋するにも及ぶまじきことぞ。 これにて深咸攝の字どもの韻はマ行音に轉じ、まれには又波行音の濁れるにもと云へる、上の圖説徒設(むなし)からざること復又知るべし。

さて又ナニヌネノラリルレロに通はすべき臻山所攝の字は其字どち、又マミムメモに轉はすべき深咸所攝の字は亦其字どちと、(つか)へることのいとさだかに(うる)はしき例、記紀の二書にすでに明也。 そは記に允恭天皇の御時、新羅よりまゐ來つる大使のことをば、金波鎭漢紀武と記せると、紀の神功卷 七丁 微叱己知波珍干岐、また 十三 微叱旱岐とみえたる等とを觀て、(かん)(かん)(かん)はいはゆる臻山攝の「カン」どち なほ紀の諸卷におほく 通じて、深咸攝の「カム」へはさらにわたらざるを見べきがうへに、記傳卅九 所引の北史と東國通鑑とにて、波珍()と波珍()とさへ通用すとみゆるは、音 「カ」と「サ」と 異なりながら、韻はともに「ン」ゆゑ相通ぜるをも考ふべく、波鎭と波珍とをも准へて知べき也。 珍鎭もともに「チン」にて「チム」には非る也。 但し此波珍を波とかけるは誤りなる由などは記傳卅九 九丁 にて明むべきなり。 されば金には「コム」、鎭珍は「チン」、漢干旱は「カン」なるを、これを「() はち(波鎭) (漢紀) ()と押なべて、「ム」のかなつくるなどはもと麁謬と謂べし。

かにかくに臻山攝の字は、深咸攝なるはと書別くることの判然たるこそたふとけれ。 但しこれにつきて、亦妨難となるべきに似たる義ども、亦なきにしもあらず。 故に自下問答を設けて更に具さに料簡すべし。

奈萬之奈 中卷

問上來の所論にあるときは、字音に「ン」「ム」の假名を附くるに、必其差別をなすべき證は、 原由漢籍に在めれど今 まづ皇朝の正史、次には萬葉諸書に據るべしと聞えたり。 然るに又退きて案ずれば、古史のうへになほ疑しきことどもあり。 したがひて考れば、和名鈔につきてその證或は成し難からんとおもはるるもあり。 請ふ審かにせよ。 いでまづ紀推古に小妹子(いもこ)のことを因高とかき、 紀廿二十三十五年云云。 小野臣妹子遣於大唐云云。 唐國號妹子臣曰蘇因高、即大唐使人云云。 持書云云。 其書曰、皇帝問倭皇使人長史大禮蘇因高等至云云。 の文みつべし。 肥前の地名ミラクを日本後紀にらくみんと書けるなどは、「ン」の韻を麻行音に通じ用ゐたるには非ずや。

答然らず。 われ(はや)く思しは、深咸攝の字は固く局りてマミムメモに轉じてナニヌネノにはさらに通ぜねど、臻山攝の字どもはまづはナニヌネノに轉ずとみゆれど、希希には麻行音へも通ずることあり。 畢竟してこは寛狹通局の辨をなすべしと思ひしかど、なほつらつら按ずれば然らず。 これも局て通ぜぬこと(おごそ)か也。 まづ肥前の地名はもとミラク也。 萬十六廿六に美良久の埼とあるをみよ。 そもそも旻は「ミン」なるをミにあつること、かの()をウとせると全く同じこと也。 これ即ち「ン」は奈行の音に(つか)ふ格の證に乞あれ。 然に萬の()()の誤とするは、後の誤りによりて古き正きを改んとする顛倒の説とぞ謂べき。 蜻蛉日記袖中抄やや古き書なれどそのかみはやくよこなまりて、ミミラクといひしによれるなめれば、そを正すに萬の禰をもて來べきにこそあれ。 又紀の因高は、妹子の文字を唐人どもの不雅也と嘲らんことを思ひて、遽力に好き字を思つきたるにて、通例をも(さだ)むべきにあらずとも云べきがうへに、 記紀萬の中にも定例にたがへる假名希々まじり、字鏡と記とにて互に違ひつつ、その書其書に於ては固く定れる、或は又千年に近き諸書にいはゆる古假字とは思ひ定めがたきがをりをりあるなども強ひてえらびがたき類とも云べく、 異邦にしてのことにしあれば、この細かなる音韻のところよりも、まづかしこの人の多く()れる孟子離婁に所謂爲高必因丘陵の義などをばふと思出でて、對問せしにてもあるべし。 さはこれをにて「ン」「ム」の別を妨ぐることは能はじものぞ。 さてこの二難に比すれば、さしも妨難と云べききはにもあらねど、なほ初學のためにその或はいぶかしみを()さんかと思はるることのおもほゆるどもを自下に問答へてん。

又問寒蜩を和名鈔十九俗云加世美、同書安藝郷名丹比多比、また催馬樂にとさかうさまを止散加宇散と書ける、或は(ふん)をなだらめてはフと云べきさまなるにフとのみつねにいひ、頓をトノルトテと勢語古今などに見えたる、又正身をサウジ、又丁半をテウハ 半は既にもいへる如く、ハサフといへること有て、そは「ハ」のかなよく(かな)へるを、枕册子にあさましき物の條に、てうはにどうとられたるとあるが如きは、「ン」を麻行の音につかへるにて例異なりと云べきに似たり。 さてナハを難波とかけるはもとより然るべき理りは上にいひし如くなれど、此名はもとナミハヤにて浪速とかき後には浪華とかく。 さるはナハなれば、さては()の字にては合はぬに似たれど、その難の字書くはナミハヤをナハと云ことになり、記紀すでに那波 那破 などかける如く、專ら「ニ」とのみいへるに定まれるからに、「ナン」の音の字填てたるは聞えたること也。 されど本に就ていへば浪華()とかけるも由あること故、そのミの轉とおぼしくて、催馬樂には名波乃宇美とかけるも、ただナハをナバと音便にいへる故のことのみにはあらで、これらは臻山攝の「ナン」が、深咸攝の「ナム」に通ぜるものと云べきさま也。 いかに。

答さらに然らず。まづ寒蜩丹比は カ と書くべき正字のなき故に、やむことをえずしてただ音呼のうへにて、其(あた)らずといへども遠からぬをとりてかける物也。 和名鈔にかかる類例夥し。 さて丹比を多比とかけるは、丹の た を直にしか註せしには非じ。 こはタ一たび轉じてタヂとなり、そのヂの口呼がときこゆるそをあらはさんに、いはゆる の漢字なければ、旦く無とかけるにこそ。 すべて「イ」韻の音どもの「ン」となれるを形はすには、無无牟の字をつかふ例此卷末に云を期ちて了るべし。 和名鈔などの如く、漢字してかけるもの而已ならず、就中を類聚名義鈔─の部になかについて なかむつくとかけるなどをみれば片かなしてかけるにすら、「ン」と口呼するところを「ム」とせること古くの人にあるに非ずや。 なかつく とかければとて、「ニ」と「ム」と奈麻二行にかよへるものと云べけんや。 さて催馬樂のとさ かうさを散の字してかけるものとみるは失考也。 かれはその謠ふところ()さに()かうさに()なるべし。 然るはとさまに 斯うさまになるを、の音の()にて、とさ かうさとなれるを形はすためにさにさんとはかけるに乞。 とさかうさと謠ふこそ調おのづから宜きを、とさ かうさともうたへらんは、亦又訛れる者と云べし。 又フは文の音を なだらめたるならば、かの錢 ゼニ の如く、和語のさまにしてもなほ濁りてあるべきに然らずは、 なだらめたる字音語にはあらで、別にさだめたる趣きあるなるべし。 但し含みと云義也と云ひ、或は古キヲミルの訓義などといへるは模象のひが説にて用られず。 此訓義は別に考ふべし。 かにかくに「ブン」の音にあらざることは、書の字詩の字などにあたるも此語あるに類推せば、文はモニと云べき例なるを考べし。 猶いはば文をモニと云も、もと一轉せる音をなだらむるにてこれが原音によりてならば、ムニなぞ云べき。 さるは釋迦牟尼佛を釋迦文佛とも申すにて先知るべし。 かく云を人或はいはん、文は原音なほモンにて、牟は即「モ」なるを証するに文佛と申すを考ふべきにてこそあれとも云ん乎。 されどもそは不可也。 そのこゑは韻鏡の第廿轉を披けば、雲君分など横呼の諸字あり。 相照して「ムン」の音を曉むべし。 ついでにいはん。 音圖口義に、『「左昭公七年傳」に、楚子之爲令尹也、爲王旌以宇斷之、曰、一國兩君其誰堪之、云云。 「新序八」、文者荊之鹿者也。 於雲旗之長地。 劔齊諸軫斷之。 これ一事の異聞にて、宇はすなはち文也。 但し文の音呼漢 ブヌ 呉 モニ なれば無于の譯に切ならず。 當時の譯語轉訛せるらん。 (はね)假名は古へより訛り易きことを知べし。』とやうにいへり。 これと類せることにて、上の件りにいへる文と牟尼とは切當なる趣考ふべし。 又トミは、もと形状言疾き利き等の如く とく とし とき と(はた)らく語にて、そをトミと云ふは、(とほ)(きよ)み などと同じきが、(おのづか)ら頓の字の音呼に近く聞ゆるからに、これを頓の音とのみこころうるやうにもなれるなるべし。 又正身は、マサシミのマの省りたるに、後又音便にて例のウのそはれるならんといへる或説の(ふる)きによりてもあるべく、 問正身をマサシミといへるは、かの但馬をタダシウマ也と或るえせ書にいへるにひとしき孟浪の説には非や。 答などさる人わらへなることならん。 マサシミの説は、本居記傳廿八の廿八もふつに捨ざりげに聞ゆるも理りにやや趣あること也。 そは其語をつかふ處を考へなばおのづからにしられぬべし。 然れどもこをいとよき説とも用ゐがたければ、或は 又こは猶字音にはあれど、サウジといはんは、世人のなべてゆゆしみきらふ言のふり故、わざとに轉じて呼習へるものとも云べし。 これより思へば ト も、トと云んは不雅にてききぐるしく、テウハ はますますあやしげなれば、これをも字音にてといふべきを、にわざと轉ぜしものと云べきにや。 又これらはなほ皆上にことわれる如くなるか。 さて難波を名无波とかけるは、さしもことごとしく物むつかしげにいふべきことかは。 こは猶專らナハと呼ぶとになれる上へにて、音便訛りてナバと云るままをあらはさまほしきを、例のの正字のなきからに无をかりて書けるにて、かの和名鈔にを加とせる同例也。 卷末合考

又問、奈行音へも羅行音へもともに漢字の「ン」韻通ずるを示すにつきて御國言にてもすでに此二行の音相通ふといへるにより思ふに、麻行と奈行とはいよよ親く通ふべくやあらん。 乃ち美作の郡名、或は相模また但馬の郷名オホハを大()とかき、 こは奈行のニが麻行のに通ぜるならずや。 山城郷名カハタを()幡とかける 是亦奈行の麻行のムに通ぜるならずや。 (ごと)き例も少からねば也。 さて又これも字音には非れど、信濃の郷名芹田は世無田、安藝の郷名刈田は加無田とみえたるなども、子がいへる如くならば、の音は奈行の音にこそ轉ずべきに、無となれるは例に異なりて、麻行のに通ふ例になれるにあらずや。 如何。

答麻行奈行はげに互に親き由ある音なり。 ともに鼻にあづかることさきにもいへるが如し。 然るにその親き中にして、而もまた明かに相別れたるがうるはしきに非ずや。 譬へば六親はたがひに親きこと云もさらなれど、若し兄弟姉妹の禮を紊り義を亂し、人非人の行ひをなさば、人齒すべからざるはもとよりにて、すべて男女椸枷を同じくし湢浴を共にせば、亦咎と云べきに非ずや。 親く眤きが中の差別は、ことに嚴ならずばあるべからず。 七音四聲の音韻わかれ、「ン」「ム」親くして、而も明に差別のたち、御國言を書記すに借る例はた、ナニヌネノ 亦ラリルレロ亦ガギグゲゴさてはイまたヂ に用ゐると、マミムメモ 亦バビブベボ に用るとのけぢめ、判然としてつゆまがはざるはまことにうるはしきことなりけり。 然に其親き方にていへば、記紀萬などにユカを匂ヒテユカ、テをイザムスビテなどいへる類少からず。 そは椸枷湢浴を別にする男と女となれど、かたみに家榮を思ふためには、力をともにしなづめど、志を同くして行ふところは、又親きかた他に異なるにぞ譬ふべからん。 但し萬二十六暮山鹽滿來奈住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手、この哥一首の中にてナとテとあり。 これは後の音便にはにながらと聞ゆる所なるを、鹽のこといへるは他のもののこと故とし、苅テの方は(みづか)らのことゆゑとある也。 かく云は詞玉緒七廿五に、「はみづからの事にも他のうへをおしはかり疑ふやうの事にもわたりていふを、此はただみづからしかせんとする事にのみ云て、他のうへをおしはかり、疑ふやうの事にいへる例はなし。 これとのたがひめなり。 十七卷に『道のなか云云たまは』、これは云云、奈は尼か年かの誤にて、たまはにはあらざるにや」といひ、古事記傳卅一廿二にも、「()を那と云る例、書記萬葉の哥に多し云云。 但し()と云は、己がうへにも人の上にも物のうへにも廣く用る辭なるを、此()はただみづから然せんとすることにのみ云て、他のうへにはいはぬ辭なり。 これ牟とのけぢめなり。」といへるに从て云也。 ここに又こののことを一書には「すべてナンをといふことあり。 そはナムのの略かれたるに乞」といへる説もみえたれど、すべてナンといふことはなきを、かのむすびてななどいへることはあるをも思ひ、又ナンにはもと二ありて、一は將然言をうけ一は連用言をうけること、和語説畧圖に示し其義は活語雜話に云るをも考ふべし。 萬五 卅八斯奈(欲死也)等思騰」、また「出波之利伊奈(將去也)思騰」、また九 廿一 「風祭爲奈(まつりせ)」、また十五 十丁「比利比弖由賀奈(欲行也)」。 これらの奈は皆ナムとしては見られぬ奈にて、ただ()としてみればよく聞ゆる奈也。 その哥一首々々の趣きにてよくしらるるうへに、上にいへる如く、かの玉緒記傳の辨を用ゐて考れば、猶といへることありと云てあらんぞ宜しかるべき。 ここにといへるは皆のこと也。 そもは麻行音は奈行音なるを、ここの詞にてかくは自他通じてひろく、は自に局りて狹かるけぢめなどもあることなるは、もと「ン」といふ鼻音に親きと、やや疎きとのわかれのありしが故ならんかし。 もと互に奈行麻行ともに鼻にかかはる方よりは通ふ有故也。 さて爲奈はセムナなどにてムの意のナと云は宜らじ歟と云義もあり。 其評論は活雜三編に出也。 然れども此れ等は奈行の音と麻行音と親しとは云ふべく通すとは云まじき也。 (つか)ふ所の意致 本居の辨の如 已に(けぢめ)有るを思ふべし。 かくて顧り視よ。 大庭蟹幡など何れも、もとは此字にあたれる言の如く()()なりしが、後に音便のよこなまり「ン」となれるそれを彰はすに無とかくは、これも加世美の無などの同例なり。芹田を世無田なども准知して、かにかくにかの男女衣裝を通ぜず、井を共にせざるが如く、和漢ともに古へすでによくわかれたる所の妙たるを思へ。

又問。 上來種々轉音の證として出せる字どもにつきても、やがて訝らるることどもあり。 まづ初めに証せる上の御名のナに轉られたるの字はもし冉などの誤にや。 さても而琰切なれば「ネム」「ノム」などは云べけれど、「ナ」の音は出がたきを、況や紀にとあるままにては、ナミとすることいと未審し。 从肉从冉彼又躰册はいとよく似たれど、他酣切にて「ナ」とはさらに出ねば是らならぬはいふもさら也。

答。 こは那の異體にして、音は「ナム」なるを用ゐ玉へるなめり。 さて那はもと冉にて、其れに「ナム」の音ある義は彼本居の考説まづうべなり。 いはく、「は佐久ノ音なれば、那美にはいと通し。 云云耼ノ字、集韻に『乃甘ノ反正韻に那含反音男』とあれば、此れならんかともおもへど、なほ史記管蔡世家に、周武王の同母兄弟十の中に、冉季載といふがあるを、正義に『冉音奴甘ノ反或作那音同』といへる此字にて、奴甘反呉音那牟を那美に轉じ用られたる也。 史記は古へより世に普くみる書にて、殊に是は人名なれば由ありとおぼしくてぞ取用ゐられけん。 那牟を那美と轉用するは、諾の 奴各反那久なる其 久を岐に轉じて那岐とせるに同じ。 然るを今の本に、或は冊或或は再などかけるは、皆那美に由なき字どもの冩し誤り也。 又南字を誤れるならんともいへる説もあれど、南字は用ゐらるべくもおぼえず。 已上記傳三四八及神代紀髻華山蔭取意 」とやうにいへるは卓見といふべし。 但しと書るをむげの誤とせるは失驗にて、こは戸田通元の考に、むかし冉をば一體とかけりとみゆと云へるを()として、なほその冉の那と同じきを考へて、紀のはまさしく那をと書せるならむと云る説にぞ从ふべき。 通元別になむ一卷あり。 其略にいはく、「とみえたるを、山崎闇齋松下見林などの改めて册とせしも、再とかける元々集なども、又白井宗因の神代私説に、竝字をかきて字畫似たれば誤れる歟と云へるなど、皆通えぬことどものみ也。 こは類聚國史に再とあるを考異に作冉爲正體とあるをみれば、冉を古へ再またとかけりけん。 源爲憲君の口遊(くちすさび)は天祿元年冬十二月の序あれば今を距ること八百六十七年なるを、其人倫門に孔門に九哲をのせて、伯牛有とかけるにて知るべし。」といへり。 顧ふに、口遊の一書、尾州大須に傳はれる本は、弘長三年の謄寫なめれば、件のよしや當時の書躰にて、天祿のにはあらざりとも、今をさること六百年になんなんとす。 抑紀の現本に普通ならぬ異躰の字ども、彼神功卷十九敦加恩惠とみえたる惠はあやしげなれど、古くよりの一躰なること字原考に云る如くなるに類して、とし、藤を荍とせる 天武卷卅四等 何れも依る所なきには非るべく、さてはももとむげの誤りならざること察るべし。 なて件のの冉の異躰といへるを()と取るうへに、なほ考のをかしきは、その冉をやがて那ともかける、その那の異躰ならむと云考へぞいよよよけん。 其説にいはく史記正義に或作音同といへるは、つねに用る那也。 字典に設問を引て本作那俗作といひ、高麗本の藏經に、那の異躰をなど書けること往々にあれば、いはゆる奴甘反「ナム」なる冉をとし、そのを那とする、其那を册とかけるなめり。 抑冉はもと冄なるを、又那とも()くは、説文に西夷國安定有朝那縣とあるをみるに、縣の那とせるからに邑に从ふ字とはなれるにこそ。 然るにその邑偏を除去ればにて、すなはちこれ冉。 そのもと之が篆文にて、隸變冄となり、那耼等みな此に从ふなるを、經典相承て冉と()けるあし九經字樣廿二に見えたる如し。 説文には「毛冄也象形」とあり、かくて此冄冉にも、また「ナ」の音ありてみえて、説文那の註に、「从邑冄諾何反」といへり。 さて又那字に「ナム」の音ある的証は、篇海邑部に「那與一字」といひたる次に、「那含切音南國名省那」とあるがうへに、此那を歐陽詢はと書き、李邕はとせし類あまたを、集占蹟邑部に驗し、或は干録字書を考ても、もと冄冉にとつながるからに、 皆同きなるを、又智証大師の筆とある經本に、那をと有し歟と覺ゆと有人のいへるは未だよく驗せねども、實に爾らばいとどさだかなり。 猶いはば楠の正字はこれ从冄を、その音を集韻韻會正韻ともに那含切音南といへり。 又喃も諵もとも作るを考ふるに、もと冄に南染の兩音あるからに、史記正義には或作る音同といひて、冉もも奴甘の反なるを示し、字典に説文を引ては本作那俗作とし、麗藏の經本に那の異躰をとなせるなりけり。 さて紀に、ナミにあつる字の()けるにてもとより撰者のしかし玉へるにもやあらん。 記傳に「人名なれば由ありとおぼしく」云々といへるになぞらへ云はば、西魏有那椿字典に廣韻を引りといへるを考へ合すべし。 かかれば口遊に、有などあるも、那はもと冉より出て、形異るに似たれど、音同く、其冉に同き那をば神號に用ゐ玉ひし紀の意をあらはせるものとも(たた)へつべからん。 類聚國史に冉とあるは、那の異躰のなると全く同已上といへるは、累年藏經を麗本に對校の事に從ひ居る丹山法兄の説にて、戸田の字考を諾ひてのうへの考なるを、これげに又精きこととぞ覺ゆる。 すべて冉那同字同音、それが形を一にとせることあるが故に和名鈔大須本 享和辛酉の板本にはみえねどそれが原とある寫本 に、溝をとかけるやうの例もあることなり。 されば字形は紀現本のままのにて、これ即ち音「ナム」の字なるをナに用ゐ玉へるなるべし。 ただし篇海に那與本一字而今類字者作兩音兩義といへるなぞひにて、世に冉は「ゼム」「ネム」、那は「ダ」「ナ」と多くおぼえをる意にては、冉那ともに「ナム」の音ありとは知られぬうへに、あやしうと書してナミに用ゐ玉へるからに、古へより人あまた訝り來しことなるを、奴甘反とある冉の音註をば考出せるは、さはいへど名だたる翁の功勞なり。 然るに今又よく思へば、冉は奴甘反といへるによらでも而琰切にても「ナム」と呼んこと、御國の古へにかなふべからん。 其故はこの切韻の琰は、韻鏡第四十轉喉音去聲喩母第四等にあるを、その同等にて平聲にある鹽の字して、出雲の郷名かの國の風土記に、夜夜とみえ、紀には()屋の淵とある處のことを、()冶とかくを見、また喩母の第四等は、也行の定位なるを考ふるに、琰の音すでに「ヤム」なれば、()()切「ナム」也。 ここに篇海をみれば、琰の反切以冉なり。 このとき冉を「ネム」とよべば、琰は「エム」なれど、「ナム」と呼べば即「ヤム」なり。 されば冉を以て琰の「ヤム」を証し、琰を以て冉の「ナム」を証しとも相ふべき歟。 故に之が韻は麻行の音に轉ずべく、それが同音の那をナに用ること素よりなるべきことと思はるる也。 日母所屬の字はすべて第四等にはなけれども、今且く切韻の字によりていふ。 さて本居の考の冉「ナム」の音も、韻鏡にては第四十轉泥母第一等空圍に當れり。 然れども收入して呉音「ナム」なることをしるべき也。 さてここに又一説、「はなほ「サク」音の字なるをナとせるは音には關はらず、説文によるにはもと象形物をならふる字なれば、ナム()の訓も出づべければ、訓用にてナとはせるにこそ」と云るも謂れたるやうなれど、なほ二神の御名につかへる字みな音用なるうへに、ナギも諾なる「ウ」韻の「ク」をキにせるなれば、ナも「ウ」韻の「ム」をミにせるなるべし。 なほ考ふべし。

又問。 先に引る伊勢の郷名員辨(ゐなべ)の員は圓と同音の字也。 韻鏡に考るに、彼第二十四轉喉音平聲に在て去聲なる瑗と同等、即ち喩の三等にあり。 世に員數(ゐんすう)など云は訛音ぞと乞覺えしか。 是を爲奈に用ゐたるはいかに。

答げに字音を正せば「ヱン」なれども、ワヰウヱヲ相通じて「ヰン」とし、それを爲奈に借たる者にて、 ()ンと唱ふるも同じ。 例せば「トン」敦をタチツテト相通じて「ツン」の音として、都留賀と云ふ越前郡名に用ゐ、又含を「グム」の音として、さて具美の假名に用ゐたるが如し。 (かか)るは總て多ることなれば、今次でに例としがてら、上に引出たる字どもの(かぎ)りの、然る類をば判り置べし。 を「ヅム」に用ゐ、を「クチ」に、を「ヤム」に、を「アム」に轉用せる等、みな同行相通ずる者と知べき也。 同じ「エム」の音なれど、奄は「アム」となり、鹽は「ヤム」となるも格例あることにて、奄は影母の第三等に在りて、こは阿行の音の定位、鹽は喩母の第四等に在て、これは也行の定位なれば也。 此也行の定位と云ことは、われ此書を草稿してける頃、されに心もつかざりしことにて、ここに至り惑はしく思ひをりしを、江戸にてかの漢呉音圖の作者とある全齋の話を面りに聞もし、其考書どもを獲もして、從來の疑を除きつ。 抑此人の辨論どものあるが中に、「ン」を三内にわたるとせるが如きは、いかがとも云べけれど、まづ韻鏡の四十三轉に渉りて、影喩の第四等は開轉合轉ともにただ也行の音の定位なりと云などは、實に發明从はざるべからず。 その説の梗概は漢呉音圖説にみえたり。

問。 萬十二卷十二に「念西餘鹿齒(おもひにしあまりにしかば)」の歌の左に、「或本曰門出而吾反側乎人見監可毛(かどにいでてわがこいふすをひとみけかも)」とあるよりみれば、監は「ケム」に非るが如し。

答然らず。 此はひとみけかもにて、ケルに監字をあてたるにはあらず。 萬葉の印本偶誤にてけると假名つけせるのみ也。 かの一首の趣味ふべし。 ひとみけるかもに非ること自らしるべし。

又問。 蝉は韻鏡第廿三轉に在て圖面なる鋋と同窠の字なれば則ち山の切也。 然に此をセと云は、又臻山よりは深咸へ通ずることある一つと云べしや。

答然らず。 此は市連反「セン」の音をなだらめてセといふにはあらでもと漢語漢字に關ることなく、本より和名なるべし。 其證は新撰字鏡に「蝉世にもにも世、又嘒世乃己惠」といひ和名鈔に本艸を引て「蚱蝉奈波世」、同書に「馬蜩無末世」とあるを考ふべし。 「セン」セミ セビ 皆鳴く聲に由るか。 此はハクはぐの類にて、御國固有の名と其漢字音と自然に近く通ぜる也。 なほ斯紛しげなる類無くしもあらじ。 皆右に判れる趣き、其他種々の例あるべければ、何れも意しつつ考へてよかし。 すべて漢字を主にせることと、和語を主にせることとの辨へ其例ただ一つにあらず。 月艸に辨ぜるが如し。

又問。 躬恆集にかくし題にてシヲニをよめるよしに正保板の本にはみえたる歌、よひのまと思つるまに秋夜はあけしをにしに月のみゆらむとある、うち見るに紫苑は此くよく(きこ)ゆれど、此題をばしをにらにと一の古寫歌仙集の本にはあり。 其本之が傳來は玉緒卷の繰分に曰へる如くにて板本より佳きこと多かれば今も從ふべき歟。 若其れに從へばみゆらむといへる處、蘭をかくせる也と云べし。 さては蘭は ら 兩方に古人も意得しには非るか。

答然らず。 古寫本の板本よりは不可なることもこれかれあり。 ここをも唯シヲニとあるぞ正きなるべきを、何人かラニとは漫りに(だい)へ書入しなるべし。 抑此哥は、唯紫苑にて、これが前にシラニの哥有て、秋わひしらに今ぞなくなると隱し詠めり。 さればそれが次へ又シヲニ ラニと二艸を一首に入べくもあらぬが上に、伊勢集に、シヲニをば、うけとむる袖を緒にてつらぬかば涙の玉のかずはみてましと詠れしに、帝の御返し、露だにもおくとも見えぬ秋の夜はふけしをにしに月のみゆ なるらんとよませたまへりしよしみえたる、此御製かの躬恆集なる哥と大かた同ことなるを、これが題ただシヲニなるをも考ふべき也。

又問。 古今集秋部の貫之の筆跡と傳るに、 紀氏の眞跡にはあらじとの末落葉の考げに爾るべく、彼主の筆とは信ずべからずと云へども、古代の人の筆なることはもとよりなれば、又古きことの考には備ふべし。 文屋朝康のことを、フヤノアサヤスと書けるをみれば、文の字をば「ブム」の音ぞと意えて乞古人も者しつらめと云人あり。 如何。

答不可也。 それは發音の「フ」をも清みて、フミヤと云べきをば「」の音轉じてと爲り、の音(よこなま)りて濁ることには爲れるなるべし。 さての轉じてとなれるは、神風をカカゼと云類也。 乃ち所引の古筆に、フヂハハラノカチオ或はナリヒラノアソなど書るをも觀つべし。 朝臣はアソなること濫れなきに非ずや。 されば其に轉じてアソと云るにて、此は字音に非ること箸し。 フミヤも然にて、文の字の音に(かか)はりて云べき處にあらず。 混雜すること勿れ。

又問。 淡路の郷名()家を久宇希とし、戎()をカイセとし、 貫之集にかいせううせぬとききてとあり。 一本にはそれをかいせんうせぬととあれど、大和物語にも戎仙はカイセウとよびけん証しあ也。 ()を物語書などにロといへるなどよりみれば、「ウ」と轉ずるも「ン」なるが如くなれど、又かの緑()をロウサ()檎をリコウ、龍()をリウタといへる類を考れば、 龍膽は、古今物名に、とりうたとあり、素より「ム」の韻の字なるを元眞集なる物名のうたにてはりうたとせり。 これらよりみれば、 ウとなるは「ム」韻の字なるべきにも似たり。 如此(かかれ)ば「ン」「ム」は畢竟別なしと云べき乎。

答ウと轉ずるは「ム」よりも「ン」よりも轉ず。 然のみならず給ヘを思タマヘと云類。 も、其餘種々の音のうつりてはウとなれる例少からぬこと也。 豈之れにつきて字音の「ン」「ム」までを本より差なしとはいひ紊るべき。 但し因みに曰はん。 漢呉音ともつねに「ウ」韻と聞えたる諸字をば、 (すん)江の鱸の松の如く。 撥る韻に轉ぜるは、「ン」にて「ム」には非ん歟。 龍膽をリンダウと云ときリムと書は宜らざらむ類。 今答問する撥る韻の字をとなだらむるは、「ン」「ム」二つともよりなると其左右通局考ふべし。

又問。 草菴集なる物名歌に、茶盆を秋風の吹にしのちやほに出るふるのわさたの庵はもるらん、三衣をさびしさにえやはしのばん云云とあり。 ()は韻鏡第十八轉に在て臻攝の字なれば、上に云る如く、蜻蛉枕册子などに乃ちボとせる、固より理りにて論もなけれど、()は第四十轉に在て咸攝の字なればサとは云まじきに非ずや。 これ若不可ならずば、深咸より臻山へ通ずること亦ありと云べきに似たり。 未審し。

答草菴集は哥こそ佳かめれ、もの學びの方には凡べてさばかり(たの)むべきものならず。 さる書に依て古への義を云んとするは、古學に疎きがわざにしあれば、是はとかく論ずるにも及ぶまじきことぞ。 但し頓阿法師ばかりなる名譽の歌よみにすら、然る物ぞこなひのあるにて、字音の「ン」「ム」よく辨へ置べき者なる義、いよよ戒むべことと思べき也。 これは(ことさ)らに斷りぬべくもあらぬことなれど、世にかの集をめづる餘りに、かかることまでもうち任せて例とすべき書のやうに思ふ人有て、即ち此書を艸稿せし頃、現にかく答問せしことのありし故に、かくまで記し置になん。 音圖口義に、言語のの謬りとていへるやう、「犬子集に、闇の夜も香でやしらんの花盛、 これは俳諧の句なればことごとしく云べくもあらねど、見當りたるまま此句にていふ。 蘭は漢ラヌラニ也。 句のシラしらむ(將知)也。 是も舌内、は唇内なればつかひ誤り也。 もししらぬ(無知)の方にて、闇の夜や香でもしらん(知無)の花盛とせば、花を賞する心は絶てなく、鼻塞りたる者の句となれども、文字の義は叶ふ也。 蘭をらぬと云は漢音なればなり。」と云るは、「らぬは漢音」と云一言は、猶質すべきながら、すべての論辨いとよし。 蘭は古今集をはじめ卅六人の家集などに折々物名によめれど、皆ラとのみあるは、古人はかかることげによく(おのづか)らも云分ちたる者としらるるを、語辭のラメと活らくラムに、蘭をよみ合せたる歌の近き世にはをりをりみゆるぞ心苦き。 歌よくよまんと志さん人心せざるべきことかは。

又問。 頓をトミ身をシミなどは、ト とては餘りにきき苦きを厭ひてとも云れぬべけれど、寒蝉 丹比などは、カセミ タヒ と云たらん乞宜かる可らずや。

答げに爾也。 其れに就て惟ふに和名鈔にの字或はの字してかけるは、必しも「」と明かに呼を記せる者とは思はれず。かの鼻音の「ン」を寫せるあるべし。 これもと萬に傚ひて然る歟。 その義下に云べし。 さ思ふ故は、和名鈔に「ム」と云ふ音の字無牟などして書ける處種々にて、彼ヌマをも、離してはマと云べき者とは更には思はれねど、三瀦といへる郷名のときは、ミンマと聞えけんに當てて、美無萬とは書たりけんとも思はる。 なほヒト()と云ことを、ムトと云べき理りはふつに無けれど、今世音人卿をおとんど(音人)と云が如き唱へ、古くも有てしならんと思はれて、和名鈔に、丹波郷名川人とある註をみれば、加波無土と註し、備中郷名間人を萬無土と記せり。 此等は恐くは無をたしかに「ム」とは云まじく、「ン」と唱るにぞあらん。 かの顯昭の末はねたる音のかなの文字なしと云けんは、「ン」ん の其本字なしと云義なること、是に於て亦又しるべく、「ン」は() ん は に をはねたる者と云るなどは、本その漢字なきを明めざるからの定めとしるべし。 近ろかのニに 或は无または毛などいひ來しを皆()らずして、其自説には、「片假名平かなともに云の字より作り出ししなるべし。 云の下を省きて上のの下をはねてとし、又上のを省きて下のをくづしてとはせしならん。 「云は古の雲」、「云分切言也語辭也」と字書に見えて、皇國にて らん てん なん けん などいふ皆語辭にて、外にあることなければ、字義といひ文字の省略して作れるなどよく合へり。」と示せる書もあれど、亦さらに用られぬことどもにて、かくまで()ふもうるさけれど、事の序になん。 さて似て濫らはしきことなれば簡ひて辨ふべきは、「ン」ん は漢字の據るなしと云が正きにはあれど、毛无を ん と極艸にかけることは亦又あるとぞ。 そは下卷末に云べし。 大庭埴生(など) オホンバ ハンフ と聞ゆる故に於保波 波布と樣には記るしけん。 靜に和名の記し樣を考るに、信濃郷名芹田とかけるに世無多、安藝郷名刈田に加無多、參河郷名度津を和多無都などある、こは古くは「リ」の音を顯はにして、セタ ワタツなど云けん。 さればこそ芹田度津とやうに書ることなめるを、漸に音便にくづれて、ワタヅ セダとやうに呼ぶことにはなりにけん。 然るを明かに記さま欲しかれど、かの「ン」に填つべき漢字のなき故に、姑く無の字して、其「ン」と云となへを知せたるなるべし。 右の芹田、今の世には千田と書馴ふめり。 そは却りて宜きに適ふとや云べからん。 又芹田とかける中にも、加賀のは和名鈔の頃も未だ音便にくづれざりしに由て、當時のとなへに從て、そは世利多と書たりし者と思はる。 抑「イ」韻の音どもは、都て「ン」となれるが多かること、庸人もよく云ことなるを、そは既く和名鈔の頃已でに然りしことと聞ゆ。 又猿樂のオボシ()をオンボシと謠ひ、捨テケリを捨テンゲリなど謠ふ類、即ち俗言にもマナカをマンナカと云る、此類も和名鈔のころ(はや)く有しことなめるを、其屬ひのこと皆唯無の字などして乞書りけめ。 そはまづ信濃郷名日野の註に比無乃また海部に安末無倍などあるを觀て知るべし。 伊勢の郷名太介無倍のは、(たけ)の變の「ン」にや。 又猶ヒノの類にや。 然るは地名耳ならむや。 さて凡そ「い」韻の音どもの「ン」と爲れるを形はし示すは無牟の字して也と和名鈔にみえたる大凡は、

いんいき 伊無美 筑前郷名
たけんたけし 太介無倍 伊勢郷名但健□部にもや
たんたぢ 多無比 安藝郷名。前に論ぜり
はんはに 波牟布 下總郡名
んとひと 加波無土 丹波郷
んそみそ 布加無曽 上野郷
んべいへ 也末無倍 信濃郡也。同じ二字にても上總のには也間以倍と註せり
わたんわたり 和多無都 參河郷

斯の如き皆准知せよ。 萬葉集に馬梅をマ・メとせる如きが稀に雜れるも、いづれにも通ぜるにてもなく、又後世のかな違の屬にても無るべし。 是即とよぶ其口語の(まま)を寫さんとするに、「ン」に當る文字は更に得ざる故に姑くなど書るなるべし。 和名鈔に馬をマともマとも書ける、又上の件に出せる如く地名の彼此(これかれ)に、「ん」の口呼を(あら)はす爲に牟とも無とも書るが多かるも、もと萬等古書に傚ひてに乞。 なほ下卷の末合せ見べく本卷四丁に名義鈔を引ていへることをもよく考ふべし。

五右歌仙集云云上卷廿五紋をモ云云 こは元輔集天祿四年七月七日一 〓〓のあふき合すあやのもに()()らせたりし とあるをばわきつけの如くなる一の校本に依て書きし也。 印本のみ見ん人の訝んことを思て爰に斷り置く。 又此詞書拾遺十七には天祿四年云云七月七日云云 扇にはられて侍りけるうす物に織りつけてと樣に見えたるを考るに薄物と云へるは即綾の紋のことに乞。

奈萬之奈下卷

上來辨論せる如く、撥る韻の文字どもの有るが中に、ナニヌネノ又ラリルレロに通じなどせる字どもと、さてマミムメモに轉用せる字どもとの差あること明かなれば、漢字に就きて其音のかなを附んにも、必漫にせず(つね)に意を用ゐつつ、男は必「ナム」信は唯「シン」とやうに別ずはある可らず。 但し()(さだ)むるを聞てば、詩よく(つく)る輩などは、侵鹽覃凡に屬せるを除て餘は皆「ン」也とだに意得なば、やがて如何ぞや覺ゆることも無かるべけれど、幼學の輩の爲には、各字を故らに出し置んも、むげに益なくしもあらじ歟と、己が魯鈍に比べて猶思ふ處しあれば、心有ん人の可笑(をかし)く思ひ嘲らんは顧りも視ずて、此れぞ其れぞと、今爰にさる文字どもを出し置んとす。 それに就きて意うべき事を條々にいはん。 此も識者の爲には更に用なき贅言どもなれど、なほ初學の爲にと勤め、且は(みづか)ら廢忘に備んとてぞ。

底本九丁から廿八丁、PDF pp.10–30 右まで字の一覽を一先づ略。

從上の所擧に準じて、總べて世にはぬる韻といひ習へる字どもの「ン」「ム」を辨ふべし。 希々互に背けりと覺しきが古書にあらば、そは別に故ありやと尋ねもて行べし。 櫻などの(かへ)り花とか、秋立て復咲があればとて、櫻は春の花と定め叵しと云べきかは。 將門記に(けむ)(ちむ)(いむ)などの韻には「ム」を施し、(えん)(せん)(たん)等には「ン」を附せる差、凡そ明なる中、獨り朕の字に「チム」とあるのみは如何ぞや覺ゆる如き、是らはかの正身(さうじ)の別に由ある義上に論ぜし屬也。 さは(もと)別に研精すべき也。 必麁論すること勿れ。

右「ン」韻の字どもは、韻鏡にては臻山攝の字どもなるを、此は上 上卷七丁 に粗云る如く、皆其入聲必しも漢音は「イツ」「シツ」とやうにいひ、呉音は「イチ」「シチ」と樣に云字ども也。 ナニヌネノラリルレロタチツテト、各舌音なるを考ふべき也。 譬へば信は第十七轉齒音去聲心母第四等に在るを、其同轉同音の入聲にて、同行同等の悉の字漢「シツ」呉「シチ」なる等也。 此「ツ」「チ」漢呉の辨別、かの地名字音轉用例、及び同作の字音假名用格五二等、みな夢々也。 和名鈔などは更にもいはず、總べて物語書歌集なにくれに考ふべし。 但し越は、漢「ヱツ」呉「ヲチ」なるに、越前越後の如きは、音漢にて韻は呉によべど、此等は別に由あることにて訛舛にもあらず。 入聲字どもは(さふ)をサに用ゐ、益をヤ(いふ)をイに、樂をラ用へる類也。 然るに總べて漢呉ともに「チ」とも「ツ」とも云べきやうに思ひて、越は呉「ヲツ」也、乙は「オツ」也など云んは孟浪と謂ふべし。 然れば入聲の「チ」「ツ」の韻なる字の平聲上聲去聲なるは、悉く「ン」にして「ム」に非ずと知るべし。

又上に出せる「ム」韻の字どもは、皆深咸二攝せる字なるを、此は又其入聲必しも漢呉兩音ともに「フ」韻の字ども也。 マミムメモ、ハヒフヘホ、唇音なるを考へよ。 又譬へば心は第卅八轉齒音平聲心母第四等に在るを、其同轉同音の入聲にて、同母同位の靸字の音「シフ」なる類也。 されば入聲の「フ」韻なる字どもの平上去なるは、皆「ム」にして「ン」ならずと知べし。 ()()などの字音のかなをば、「シム」「ナム」とやうに施し、()()などに「シン」「ナン」など附せんは、入聲の()()などに「シフ」「ナフ」など施し、()()などに「シツ」「ナチ」とやうに附したらむが如し。 其謬り又(おのづか)ら復明なるにあらずや。 さて入聲「キ」「ク」なれば平上去は「ウ」なると、此「ン」は「チ」「ツ」、「ム」は「フ」なるとの對へることなほ下に至て云べし。

斯く韻書の規といひ、古語用字の矩といひ、(いと)も正き物なるをや。 解經祕藏と云る書に、韻鏡をば誤り多かる書也と駁して、七音の別をなすを破れれど、己が短綆の深底に至らざる愚かさのみ見ゆるわざにぞありける。 その音韻を明めんこと、韻鏡に及く書あらじ。 但し上がれる代より流布せるものに非れば、記紀萬など書されし當時(そのかみ)、之れに依憑せしに非ることは固より也。 されど其記紀萬などの記しざまの、(おのづか)らなる音韻の條理の正しきと、此韻鏡の規矩とあることどもと、奇しき迠も暗に合へるは、彼方も此方も、正きことは正きどち、たがはぬものよと信ずるにいとど貴し。

さて更に遡て之を梵音に考ふれば、 近くは字記捷覽に空涅槃三内各別の圖と標して左の如く顯示せり。

圖略。底本三十丁、PDF p.32。

此の如く喉舌唇三内の空點、其韻已でに其別有て、相濫ずまじき理り又彌明かなることぞ。 但し余未だ之をここに詳にすること能はざりつるを、鄙稿脱するに迨て、適に直諒の益友に遇ひて其考覈の趣を得聞つれば、乃ち記して、亦同志に謀んとす。

曰く、「悉曇字記創學鈔 杲寶草を起さんとしかど、七上に止りしを、賢寶闕を補てと二卷となせる其 七下廿五云、 一梵唐韻類配事、者音韻韻多端也。 彼此相如何。 答藏第二(今本廿四丁)云又如眞五十韻、今悉曇十六韻、皆悉攝盡、更彼羅此阿々彼支之伊々彼魚虞此鄔々彼佳齊皆移灰此翳彼蕭宵周幽侯肴此汗東冬江鐘陽唐京爭青清蒸登春臻文魂元先仙山寒琴岑覃談嚴添鹽、及以入聲字、此暗從韻皆。 又反音抄承澄云。

梵字を表記できないため底本三十一丁から四十丁、PDF pp.33–42 途中まで略。

於是首を囘して考ふれば、彼漢土の韻書どもに、臻山(しんさん)深咸(しむかむ)と、其所攝を分てるは季世の事ながら、其定めたる式にしも其太古より固有にして、撥る韻を帶べるに填たる諸文字どもの分明に符ひて、正く「ン」「ム」の別あるは、彼邦自然の音律の然る也。 さて御國の古書もろもろに、異邦の字を借り(つか)へるに、現にナニヌネノラリルレロに轉ぜると、マミムメモに轉ぜるとの差別のあるは、本來自然の音韻雅正なるが故にて、是即彼梵音に、喉舌唇の三内の別あるに符合すれば、炳焉として三國揆一なること、妙と稱せざるべけんや。 ()しも三國押渡ての音律いと(うる)はしかれば、「ム」「ン」通用すべしと云は彌非也と明むべし。 然るを悉曇を修し韻學を講ずる者もここを明にせず、又國學者とありて、記紀萬などよく讀も得し人すら、却りて妄斷して「其差別あるべき由なし」とさへいへりしは、返々も遺憾ならずや。 但し彼轉用例こそ、さはいへどかしこき書にして、此「ン」「ム」の別を云助けとも自然としてなれるは亦貴むべし。

又古き世には、すべて男信などの字音をば、()()などの語と、(もは)ら同じく、「ム」を顯はに云りしを、後に音便の訛變にて、な・しなども呼ことにはなれるにても有べしと云る説などは、從ひ難きに非ずや。 峯を古へ談峯とかけりしなどは、是即談は咸攝にて、入聲「フ」韻なる故也。 然にこれと混じて、「ツ」「チ」入聲の韻なる字どもの、平上去の「タン」「チン」などをさへ、「タム」「チム」と「ム」を定かに云しものとしも斷ずるなどは、甚しき謬なり。

然れば彼(なむ)は奈にあて、(しん)は之奈に填たる類、古人は皆天然の音律、(おのずから)に口呼嚴正也し故の云爲と知べし。 但し此「ン」と「ム」とを別くとて、彼韻鏡開轉に出たる字には「ン」合轉のには「ム」と假名せるなどは、かの悉曇に三内、韻書どもの所攝、古書なる假名(づか)ひのさま、何れも齟齬して更に正きに的ることなし。

誠や爰に能々辨へ置くべきことあり。 其故は、上來論定せるは、唯漢字の音韻に就きてのことぞ、然るを此に泥みて蛇足を畫きて、御國詞の上まで強ちに認めつつ、毎に を別んとせば、却りて僻事をぞ引出なん。 かくいはば人ありて、「また(きか)書んは、彼香でやしらんのの謬に同也。 「ン」は本「ヌ」なる故にとも云ん歟。」 然らず、今は「ン」「ん」の其變態し以て來し所の本はとまれ、唯別に一の鼻音となれるがうへにてのこと也。

凡そ御國詞の雅正なるには、本鼻音の「ン」の無りし者と云る(さだめ)は、彼三音考の如しと、且は曰はでもえあらじ者ぞ。 但し顯昭の在しそのかみ「ン」「ん」の形なかりしやうに謂へるは用ゐ難く、又其れよりいと古く、「ン」「ん」のいまだ見えざりし世とても、鼻に溷る「ン」音たえてなかりし者、と云るは全くは从はれねど、 其れに付ては此れ彼れ 上田秋成なども 妨難も起りしかど、遮遺また審詳なること、亦本居の呵刈葭等みつべし。 先づ萬などに、今イハ キカなど云に、正字と填たるは、將また欲なるを、其れをば、コソの應とするときは、と云なれば、今「ン」と音便に聞ゆるも、本は麻行の活きにて、ハモゾノヤなどの應とするときは、と云なるべき理りは 和語説略圖に示せる如く (いふ)もさらにて、即ち萬十一 十七 一首の歌の中に、「ム」に二つあるを、偕に()の字して、吾戀之事毛語名草目六(かたらひなぐさま)()使ひ()待八金手六(まちやかねてむ)とかき、同一 十二 吾勢枯波何所行良武(いづちゆくら)已津物(おきつもの)隱乃山乎(かくしのやまを)今日香越等六(けふかこゆらむ)と、一首の中に、一は 字音にて 良武、一は 正訓にて 等六と書ける、 或は四の卷 四十 於毛保(さむ)(かも)と、()(おもほさ)()()の「ム」して書る、 又歌仙集一卷 一卷なる歌ども皆人丸の也や否やは別の論にて、それ何れにまれ、卅六人集と翫榮せるは古くよりなること、千載集にても知らるるを、其一卷十六丁 に武藏を隱せる歌に、しをりせむ さして尋ねよ 足引の山のをちにて 跡を留めんとあるなどにても、將然言なること明けし。 ツフサ ツ カツケ 准へてを知れ。

然れども上古とても、季世の全く口ふたぎ居つつも呼るる鼻音の「ン」にこそ同らざりけめ。 將欲などにあたるは、流石に聊は鼻にも係て云しにて、 頭にありては カシ、 中にてはシロ、 下にては タノなどの如く、定々(さださだ)と「ム」と呼べるに少しのかはりもなきには非りけらし。 將曰をイハと云へるにさのみ異るとはなしに、又はイハともいへりしなどをも思ふべし。 そも欲將などにあたるかのと活用するは、もと鼻より出る「ン」と唇音なる「ム」との間の音なるを、それ(まさし)く知らする文字の、昔も今も未だあらぬによりて、筆傳し叵きにぞあるべき。 この間音と云ことは、譬へば今世にて抗州(ぱんちう)音を傳ふるに、齒舌音の字ども、日母に()ける儒然などを、()りにまづ「ジユイ」「ジユン」とやうには物すめれど、それ正く寫す假名のなければ、止こと得ず姑く「ジ」と書傳ると同趣なるべし。 但しも、ともに等く今云「ン」に當りはすれど、 既にもいへる如く、 は己がことにも他のことにも通じて云る例しるく、は他の上にいはずと云る本居の考へ、げに精きことと謂べし。 上に玉緒を引るが如し。 但し玉緒にひける給はなも、文字の寫誤ならじ歟とも思るる趣などは、玉緒くり分にくはしく云り。

さて後々はやや鼻に係る音便の多くなり、又鼻にての渾りのやうやう深くもなりもてゆきては、終にはと云とは(いた)く異なる樣になり、正くといへば、却て異樣に聞ゆることにさへ成りたるを、 今も陸奧人出羽人の言を、京わたりの人はいとあやしうのみきくめれど、かしこに入てみやこ方人の語をききなんには、其れ却て異樣にもききなし、いみじきは笑ひぞ嘲りなむ。 中昔も其れにあつべき正字なかりしに因て、止こと得ず、且く無牟の字してそのかみ人の書置るは、 上に和名鈔を引て云る如く、此無乃 世無田 などの無もじよ、サシロなどのの如く呼ぶならんやは。 況や活語にさへハベリを波倍里と書るなどは、もし牟をさだかにいふべくは、倍は(おのづか)らも濁音字は書まじき理ならずや。 ここに於て考れば、三音考 五一細字 なる説は、將見をミと書く類、侍ルをハ牟ヘリ 止而をヤテなどかける類とをわかぬにて、更に从ひ難く、「ン」の形はなくとも「ン」の聲はありしこと、「ッ」の形なき今も(つま)る音なきに非る乞たぐへ思ふべけれ。 かにかくに 字外の音を口傳にせる は日本をしばらくニツポンとかければとて、ツを正く云べきには非ると全く同き にあらずして何也。

さて其音便の語は、本は咸雅正ならぬながら、 「ン」「ん」を自在に(つか)はるる 今に在ては、ヒノ セ()ンベリ など記せんかた却りて宜く、此を セダ ヒノ ハベリ とやうに書んは、中々に宜らずとも云べし。 まして ()テ オモス ソラス などのと聞ゆることになりにたる方を傳ふとして、ヤデ 重ズ 暗ズ とやうに書は、 これも古くよりのことなれど いとど宜からずと云べき歟。 然れども猶 (オモ)()ムデ など書けるもむげに近世のことには非んなる 正安の帝の觀經大御書に、止を ヤデ の類の多るなどは、なほ抑末也にて、それより古くよりある例によらせ玉へるものとぞ見奉らるる。 を案ずるに、いづれも彼眞字書に、セダ を 世田 侍ベリ を 波倍里、 伊勢年中行事櫻宮烏名子歌 とかける彙ひにて、 「ム」を唇音さだかに云べきにはあらで、鼻聲の厠りて「ン」と出るなるべき也。

かくて此趣きと、かの曰ハ(將曰) キカ(欲聞) 書カ(將書) などは、口語は正く「ム」と呼ぶこと能はずとも、書付ん文字は、とせん乞正く麗き乍ら、猶音便(よこなまり)の儘にと書んも亦強ちに(きら)ふまじきなるとの差異をも惟ふべし。 (シキ)の「ゐむ(將座)」を一字假名にならば、「ヰ」の音の字を乞用うべきに、古し()の字をしも書きし類も、「ム」訛りて「ン」となりしをさて(其儘)寫せる耳也。 此等に由て諸字の「ン」「ム」通ずと()執じそ。 彼善惡をゼンク或はゼンクと樣に假名附る習も無きに非る等をも考へ合せて可ならん。 さて「ン」「ん」の形は、何れの字と云論も舊りたることなるを、其「ン」は上にいへる如く悉曇家所用仰月のँ點と云こと明なれば、亦之の變と云べき歟。 但し此は漢字 を極艸にせる亦さる形となれり。 凡そ數百年來の物に、生れをマレ、(とも)をトなど書る古筆夥く、印本のものにていと近くは、蜻蛉日記に、()()テ 等を サク トシテ とやうに書るをみるに、无を「ム」「モ」兩音にて「ン」と書りともいはめど、亦必字也とは云れざるにも非る也。 猶 也 の説も難捨歟。 さは艸書の冫は、言氵冫、何れもの崩也と云べき類ぞ。 然れば、「ン」「ん」は(つか)ふこと(もは)ら同かれど、其形の由りて出る所は異る者乎。 さはれと書きと形せるを、今は其原の論めは閣きて、かのころころなど、皆音便に崩れたる口語のをとては、と書て有べし。 さればこそ 何れの字に據るとなしとは顯昭も云ためれ。

斯る由もあれば、字音の「ン」「ム」を精嚴に差別すべきに(なづ)みて、御國言どもを()へ強ひて分ち書んとせば、動もせば蛇に足を添ふるが如き僻事もや出來なんとは思はるる也。 されど亦書き別くるには文理ともに明證あることを()く意得置かずは、彼香でやしらの如き過ちにも陷なん。 返々も此處を精細に辨知して、彼れをも此れをも謬り認ること勿れ。

此書は、凡そ卅年り前に、高倉學寮にて近頃は香樹院嗣講と聞ゆる徳龍師の、眞宗假名聖教の校合の事に從ひをられし程に、七寶の七集記の集の如き、惣て連聲の時の口呼はいと分ち難けれど其字音のかなを物すとて、「チ」「ツ」「フ」互に濫ずべからぬよりみれば、()()の類ひの混へふま敷も、必其所以あらん、と思へる心より問起して、聊聞る事を本にて、何くれと考へ、文化の五とせにか、先一わたり脱稿せし本をば、さて廿とせ斗經ての文政七年〓〓〓の事にて江戸に出けるに、思の外の長ゐと成ぬるのかへりての事に、ゆくりなう全齋太田方とて備後福山人の、音韻の學に賢きに偶しに固て、即みせけるに、己が考る趣と大旨暗〓〓〓ちつつ、其自撰の漢呉音圖竝に音圖口義などしをも示し、猶口説を惜まぬとしさいと懇也ければ、しばしば往ては侍たる益のあるを、件の稿本に書入などもして、もてし後再治したるを、遠くも近くも親き人らにに議り相しかば、戸田通元と云るみさと人、近江今津法慶寺觀津、越前糸生淨勝寺丹山などいふ法兄達、又江戸に岡本〓〓助と聞ゆる文人のやごとなき際なる保考ぬし等より、わが云さの聞にくき、或は考証の足はぬ、又はと先にしてよき、省て宜きなど、すべてよからぬ處々をといひかへね、かく改めよとにまめやかにめ遣せられけるは、とりどりに忝きいさめどもにし有ければ、從ひて刪りもし補ひもして、〓〓〓りのしたるは、天保六年六月廿二日、上の件りにたたへたる六人と、又彼轉用例者とのいをた〓〓り。 さて又一雲の誨をつつ、執たる筆を白雪樓に閣くと云は、若狹妙玄寺義門。

國史經籍唐本法帖 交易賣買所
西京寺町通四條北入 大文字町
聖華房 山田茂助