西尾市茶業組合 EXPO
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概要
  幡豆郡製茶共同製造所

 愛知県製茶研究会の創設と前後して、明治41年5月幡豆郡製茶共同製造所が設立された。
おそらく市内最初の共同製茶所であろう。
製造書の設置場所は杉田鶴吉方で、役員は取締役所長に杉田鶴吉、会計に小野山善太郎が就任した。
この共同事業に参加した茶業者は、2名の役員のほかに太高吉五郎、清水奥太郎、稲葉庄松等6名で、いずれも上町の人達であった。
 この共同事業が始まった明治41年度の成績は、玉露茶の製茶量が675kg(売上高900円)、薄茶225kg(同420円)、煎茶187.5kg(同150円)、紅茶112.5kg(90円)であった(製茶量は1番茶のみ)。
注目されるのは、薄茶と紅茶の製造である。
ことに薄茶(抹茶)の製造については、市内の茶園で生産された生葉を加工して製造したものでは、製造販売高を記録した最初のものであろう。
 紅茶の製造は40年5月、三重県津市で開かれた全国茶業大会で、不況対策として新しい販路開拓と海外輸出振興のためにとりあげられた。
上町では杉田鶴吉のグループの一人、太高政吉が試作したが、数年で中止したという。
製法は生葉を軒下に積んで、蒸れて茶褐色に変色したものを加工したという。
従来市内の茶業者は、覆下茶園で生産した生葉は玉露茶に加工していた。
はやくから高級茶の製造を目標にしていた市内の茶業者は、その技術の導入、普及の点でかなりの成果をあげていたが、この時点で碾茶(抹茶の原料葉)の生産にふみきったとみられる。
杉田鶴吉の技術によったのであろう。
 全製茶量に対する割合では、玉露茶が約56%、薄茶(抹茶)が約19%を占めているが、総売上高では玉露茶が約58%、薄茶が約27%を占めている。
1kg当たりの単価をみると、玉露茶は約1円30銭、薄茶は約1円90銭となり、その生葉の単価当たり生産量は玉露茶より薄茶用碾茶の方がはるかに多収であった。
したがって当時としては薄茶の製品価値の方がはるかに高かったことがわかる。
これが、その後の西尾茶が碾茶中心で発展した布石となったのではなかろうか。
製茶共同製造所の「共同事業実施方法」をみると、
(1)蒸葉。生葉の摘葉期間中は、共同者2名ずつが交代で毎日午前4時から出勤する。
仕事は前日に各自持ち寄った茶葉を調査して、「製造人(茶師)の出席順より茶葉番号及び名札を入れ製造方へ渡し其の渡し番号札を受け取る事」とした。
(2)製造方法。杉田鶴吉を指導者として内地用に製造した。加工には「色沢水分香気に重きを置き、尚形状を作り乾燥を移【まま】す」。
生産量は「普通品1日一人に対し1貫目5培爐【18.75kg】を製造す」
(3)販路。韓国京城、東京、京都、長野の各府県、愛知県内では名古屋、豊橋、岡崎の各市および知多、碧海郡の商店へ販売する。
(4)薪炭購入方法。石炭は新川町(碧南市)より購入。炭は岡崎地方より購入した。その運搬は共同者が行なう。
(5)経費。「紙糊其の他一培爐に付き金一銭ずつ」徴収した。
とある。
 明治41年12月、所長杉田鶴吉が書いた製茶共同製造所の一年目の実施結果の報告は、「共同の便利なること。
製造は一定なる製造にして各家において製するよりも一層佳良なる製品を出すのみならず。
経費は各自製造するよりは一割位減ず」と述べている。
また、共同事業を行なっていく上での困難な問題点はなく、今後共同者は「尚倍に増加の見込みあり」と述べている。
 この共同製茶所がいつまで続いたかは明らかではないが、共同化によって品質の向上と生産コストを一割節減したことは評価すべきで、尚販路の拡大も期待できたであろう。

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