京都・奈良


2月12日(月)晴れ  2月13日(火)晴れ

今回のふたり旅が記念すべき第一回の車中泊の旅で始めは車の中で寝ると言う事が家内はかなり抵抗があり、私は
以前から山行の時は常に車中で慣れていた。手始めに織田信長の最後の地「本能寺跡」と新撰組関連の名所を訪れて
みたく京都と決まりこの計画もやっぱり私、中心、自己中かな(笑)

一日目は丸一日、歩き通しでさすがの私でさえ足が筋肉痛で家内はと言うと職業病の腰痛に加えて以前から
腰からくる足の痛みが重なり私如きで散々、歩き回され怒ってばっかりで道の駅「ガレリアかめおか」にて
温泉があるとの事でそこで一泊
二日目は急遽、予定変更であまり歩かなくて良くて帰り道と言う事で奈良に変更、それでもかなり歩きました。

しかし、京都と言う所はあの中国じゃぁないけどバイクが多い場所ですね。車を運転していても気が気じゃない
バイクが一つの交通手段のようです。
二条城では英語が飛び交っていましたが奈良の東大寺ではもっぱら中国語や韓国語が耳に入ってきました。
京都はこれからも、何度と足を運ばなければならない場所ですね。

今回の反省点として
一、私の性格で折角、来たのだからあまり欲張らず一点に絞込みをする事

一、何事もあいまいな気持ちで直ぐに決断するべからず。

一、事前にしっかりと計画を立てるべし。

一、最低の歩行は我慢んすべし。

一、あまり怒らざる事

高速道路料金     2,200
給油         4,263
飲食         8,327
入浴         1,000
バス・電車      2,640
駐車代        1,450
見学料        4,200
みやげ物       5,580
         計29,660

走行距離km  給油リットル  燃費km/1
453.4    43.7    10.3




本能寺跡
天正十年六月二日早暁、本能寺に投宿していた信長に
あの、明智光秀、謀反により「敵は本能寺に在り」信長は
自ら槍を持ち奮闘したが、怪我を負い、居間に戻り自害した
といわれている(本能寺の変)享年49才、人間五十年、下天
のうちを比ぶれば夢まぼろしの如く也とよく舞った。
北付近 本能寺跡
以前は、廃校の「本能小学校」でしたが今は、立派な
老人施設に変わっています。もう一つ、「北付近 本能寺跡」
と言う碑が建っています。
私の歳も、とっくに信長よりも長生きをしたもんだ。
島原角谷
新撰組駐屯地からほど近い花町「壬生狼」(みぶろ)
とよばれ、市中を闊歩し恐れられた新撰組隊士らも
足繁く通い、数々のロマンスも生まれた。
一歩、狭い路地に入ると車、一台分がやっとの道幅、犬を
飼っているお宅や散歩をしている方をよくお見かけした。
この角谷にも犬の小便をかけて行くのはがっかりだ。
この様な名所はガイドブックではなく地元の人に
尋ねないと行けない。
新撰組壬生駐屯地跡(八木邸)
文久三年(1863)幕府の浪士募集に江戸から京都に入った
近藤、土方、芹沢らが組織を結成した新撰組発祥の地
「新選組局長筆頭」芹沢鴨は治安維持の命令を受けた身ながら
金銭横領や乱暴狼藉遣りたい放題で堪り兼ねた京都守護職に
芹沢を何とかしろと近藤勇に話をもちかけしかし、芹沢は
学問、剣術に腕が立ち、まともでは刃が立たず、酒癖の悪さを
利用して島原角谷にて泥酔いに酔わして
文久三年九月十八日
その深夜は大雨だった。近藤勇、芹沢鴨、平山五郎、平間重助の
粛正を決行する。愛妾のお梅らとともに布団の上から寝たままの
状態で暗殺されたしかし、芹沢は脇差を抜き応戦、文机に
蹴躓いて庭先にもんどり打って留めを刺され死亡。
八木邸にはその勉強机や柱の刀傷が今も残っている。
拝観料は1000円と高いがガイド、最後にお抹茶と和菓子が付く
一軒、見る価値あり。
壬生寺
新撰組の武術鍛錬所があった寺
沖田総司がよく近所の子供達と遊んだ場所
光緑寺(知恩院の末寺となる浄土宗の寺)
山南敬助と親交が深く、その縁で、局中法度にそむいた者は
前川邸で直ぐに切腹。境内には山南をはじめ、多くの隊士ら
の墓があり門前前には新撰組の観光地ではなくお参りして
頂ける方のみ供養料100円を払ってお入り下さいと触れが
書いてある。私は観光客だから入るか入らざるべきか
ためらって入らなかった(笑)
旧前川邸
元治2年(1865)2月、山南は局中法度に背き新選組を脱走
脱走の背景に新選組での確執の他に新選組に思想の違いを
感じていたとも言われる

大津にて沖田が山南を連れ戻しこの、前川邸で山南が馴染みにし
ていた島原の天神明里が駆けつけ今生の別れを告げた哀話もあるが
同年2月23日、介錯は山南の希望により、山南が弟のように
可愛いがった沖田総司。享年33。
私はNHKの大河ドラマ「新撰組」、前川邸八畳の間にて山南敬助
の壮絶の切腹シーンが脳裏に印象的に今でも焼きついている。
京都御所 蛤御門
金門の変(きんもんのへん)は、江戸時代後期の
元治元年7月19日(1864)8月20日に起きた
事件である。蛤御門の変(はまぐりごもん)
元治甲子の変とも呼ばれる。
京都御所 蛤御門
天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていた。禁門の変が
蛤御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であった
ためである。そのため今も門の梁には弾痕が残る。
元離宮 二条城
慶長八年(1603)徳川初代将軍家康が京都御所の守護と
将軍上洛の際、宿泊所として初めて入城。
慶長十六年(1611)豊臣秀瀬、家康と会見

二の丸御殿
慶応三年(1867)10月二条城に四十藩の重役参集し
大政奉還の会議がなされる。二の丸御殿大広間に
おいて十五代将軍慶喜が大政奉還を発表
小学6年生の修学旅行以来の訪問で改めて違った、感動が蘇る。
東大寺
奈良時代の中頃に聖武天皇の発願によって創建された。



大仏殿
大仏殿は創建以来、治承四年(1180)と
永禄十年(1567)に兵火に罹っていて、今の建物
は江戸時代に直された三度目のものである。
しかし、落書き、それも彫った落書きで絶対に消せない。残念!
近くにみやげ物やもありどうしたら見つからずに彫れるのか
不思議である。