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ほぼ週刊院長日誌
”MIYAZ@KI STYLE”

2004年7月27日 「お熱いのがお好き?」

 妖怪の名前みたいな「エルニーニョもどき」のせいなのか、「ヒートアイランド現象」のせいなのか、何が何だかよくわかりませんが、とにかく「猛暑」です。40℃近い気温が毎日続けば、頭や体の調子がくるってしまうのは無理もないでしょう。熱中症で倒れたひと、冷たいものを飲みすぎてお腹をこわしたひと、クーラーで寝冷えをして熱をだしたひと、暑ければ暑いなりに、わたしたちの診察室はにぎやかになるものです。

 ある日、所用で真昼の炎天下をひとり歩いていたら、ふいに古い記憶がよみがえってきました。
 「この暑さは、マニラの街頭にそっくり!」
 アスファルトの道路から立ちのぼる陽炎や、湿り気をおびた熱気が、20年も前に経験した、亜熱帯にある都市の気候を思い出させてくれたようです。

 わたしは医学部の4年生と6年生の夏休みを、フィリピンのマニラですごしました。日本ではめったにお目にかかれない、腸チフス、コレラ、赤痢、マラリア、デング熱などの病気について勉強するために、マニラ市内にある熱帯感染症専門の「サンラザロ病院」で実習させてもらったのです。この病院は、当時アジア最大といわれたスラム街であるトンド地区に隣接しており、貧しい人々には無料で施療する施設なので、清潔で近代的な日本の病院では体験できない、刺激的な日々をおくることができました。下の写真はサンラザロ病院のホームページにある、病院の沿革から拝借してきたものですが、わたしが実習に出かけた当時の様子も、まったくこの古い写真のままでした。

 病人が入院すると、家族全員が病院に引っ越してきてしまって、狭い病室を占領し、そこでわが家のように炊事もすれば洗濯もする。しかし、少しでも回復して労働が可能となると、退院許可もおりていないのに、病人も家族も忽然と消えてしまって、病室はからっぽになる。狂犬病の患者さんを初めてみた病棟で、病人を咬んだ犬はどうなったのかと、家族に質問したところ、「腹が立ったので、その犬は殺して、家族みんなで喰ってやった」という答えが返ってきたことも。このように、なんともアジア的な状況のなかで、最初はおっかなびっくり病院のなかをウロウロしていたわたしですが、慣れてくると大胆になるもので、コレラ病棟の前の売店で、コーラなんかを立ち飲みできちゃうようになりました。

 最初にマニラを訪問した1983年は、まだマルコス大統領とイメルダ夫人のコンビよる独裁政権下でした。わたしたちのグループが日本に帰国した直後に、マルコスの政敵であったアキノ元上院議員(後にフィリピン初の女性大統領となったコラソン・アキノの夫)が、同じマニラ国際空港内で暗殺されています。このアキノ暗殺事件以後、フィリピンの民主化運動が高揚して、ついにマルコス独裁は終焉したわけです。2回目の実習旅行となった1985年は、マニラ滞在中に日航機が御巣鷹山に墜落するという事件が発生。「日本で大変な事故がおきたよ」と言って、病棟の患者さんが見せてくれた新聞には、レンジャー部隊に抱きかかえられた川上慶子さんの写真と、"JAL crash" という大きな見出しが踊っていたことが忘れられません。

 いつも何か不穏な空気をはらんでいた、80年代後半のマニラの夏へと、わたしを再び連れていったのは、近頃の暴力的な暑さの仕業です。日本の気候は、フィリピンのような亜熱帯のそれに近づいているのでしょうか。あちこちで発生している局地的な集中豪雨も、日本の優しい雨のイメージではなく、ジャングルに降る猛々しいスコールのようです。このまま、わが国の夏の平均気温が上昇し続ければ、マラリアのような熱帯感染症が、日本で流行する可能性を指摘している専門家もいます。わたしがかつてサンラザロ病院で勉強した知識が、日本の国内で役立つなんて時代にならないことを祈っていますが・・・
  



<思い出のサンラザロ病院(マニラ市) 正面ゲート:
このゲートの回りには露店がいっぱい出ていました> 



2004年7月14日 「強くこすりつけられるのは嫌い」

 ニュースのコーナーでもお知らせしましたが、全国的にアデノウイルス感染症が流行中です。その代表が「プール熱」の別名で知られる「咽頭結膜熱」という病気。咽頭結膜熱は、その名のごとく高熱、咽頭炎(のどの痛み)、結膜炎(結膜の充血、目やになど)の三つの症状が出現します。プール熱とは言うものの、必ずしもプールだけで感染するわけではなく、夏に流行するかぜ症候群(いわゆる「夏かぜ」)の一種と考えてよいものです。

 最近では迅速診断法が開発され、のどにアデノウイルスが感染しているかどうかを、15分程度で知ることができるようになりました。この検査では、患者さんに大きく口を開けてもらって、舌圧子(ぜつあつし)というヘラのような道具で舌を押さえながら、のどの奥のほうを細い綿棒の先でぬぐうことが必要です。しかも、扁桃腺(へんとうせん)や口蓋垂(「のどち○こ」のことですね)の裏側を、しっかりと綿棒でこすらないと、正確な診断が下せないと言われているのです。

 アデノウイルス感染症は2歳から5歳に最も多くみられる病気ですので、検査を受けるのは就学前の小さなお子さんたちです。診察室に入って来ただけでも、泣き叫んでいるような患者さんが相手では、安全かつ確実に、のどの奥をぬぐうのは至難のワザ。わたしが右手に綿棒、左手に舌圧子を持っただけで、敏感に状況を察知するらしく、恐怖に顔をゆがめながら、ギュッと口を閉ざしたまま大暴れという、お約束の修羅場が展開されることになります。

 「患児が暴れないように、介助者は保護者を含めて2名必要です。腰の強い綿棒で、両方の扁桃を中心に、丁寧にやさしく、綿球全体でぬぐい取るようにしっかり数回ぬぐってください。決して乱暴にやっているわけではないのですが、まず綿球には血液が付着し、おおよそ半数で嘔吐を誘発します。」 これは、迅速診断法の権威である、広島の小児科医 原 三千丸先生のやりかたですが、血が付いたり、吐いたりと、なかなか激しいものですね。こんな検査ですから、子供たちには恐怖の体験として記憶に残るようで、検査をしてから長期にわたり、医者ぎらい、診察ぎらい(特にのどを診られることをイヤがる)になってしまうのが困りものです。

 わたしは内科を専門とする医者なので、お年寄りであれば、100歳でも、120歳でも(そんなひと、いない?)、物怖じせず上手に診察できるのですが、お子さんが相手のときは、大変神経をつかいます。宮崎医院は「小児科」の看板をあげていませんので、小児の診察はレストランにおける「裏メニュー」のようなもの。通常のメニューにはのっていない、お店に通いつめた常連さんのみが、密かに注文できる「裏メニュー」であればこそ、定番メニューに勝るとも劣らない、絶妙な味わいが要求されているかも? ひょっとすると、これから何十年も(病気になるたびに)おつき合いするかもしれない、小さな患者さんたちですから、決して失礼のないように、小児科臨床のレベルアップにはげんでいる「シェフ」、ではなく、「院長」であります。



<アデノウイルスに感染した子供の咽頭(のど):
扁桃腺にべったり付いた白いところ(白苔)を綿棒の先でこする!
手前に写っているのは、舌を押さえている舌圧子(銀色)
→ アズウェル社「チェックAd」資料集より引用>



2004年6月25日 「オトナ語の謎。」と「やまのかいしゃ」

 午前の診療を終えたわたしに面会したいと、スーツ姿の若い男性が診察室に入ってきました。
 「お世話になっております」
 その男性とは初対面ですし、名刺に印刷された製薬会社とおぼしき企業の名前も知りません。ですから、わたしはこの営業職らしい人物や、彼の所属する会社に対して、なにか世話をしたことなど断じてない。しかし、そのひとは初対面のわたしに向かって、開口一番、「お世話になっております」ときっぱり述べる。これが「オトナ語」の世界です。

 わたしも一応「オトナ」ですので、「オレはあんたがたの世話なんてしたことないよ」などと突っ込むことなく、相手の話を聞いてあげます。
 「弊社といたしましては、厳しさを増す昨今の医療情勢を視野に入れつつ、バイオサイエンスの流れを見つつ、海外でのベンチャー企業の動向を横目でにらみつつ、将来的には業界のリーディング・カンパニーとなるべく、鋭意努力をいたしております」 
 最近の「会社」関係の口上にありがちなパターンですが、「弊社」、「視野に入れつつ」、「流れを見つつ」、「横目でにらみつつ」、「将来的には」などの言葉は、すべて「オトナ語」ですね。それが証拠に、「会社」のひとではなく「お医者」のひとであるわたしは、全くこのような言葉を使用しなくても、日々の仕事に支障を来すことはありませんから。

 「オトナ語の謎。」(糸井重里・監修、ほぼ日刊イトイ新聞・刊)は、社会人(会社人?)の使用する様々な「オトナ語」を採取した本で、もともとは、糸井氏のHPである「ほぼ日刊イトイ新聞」の人気連載をまとめたものです。 「なるはやで仕上げて、午後イチにはお届けできるかと」って、こんな日本語しゃべるひとホントにいるの? ご安心ください、ちゃんといるのです。少なくても、当院お出入りの業者諸氏があやつる言葉は、「オトナ語の謎。」に記載された実例そのまま。「会社」や「会社員」を一度も経験したことのないわたしにとっては、実に興味しんしんの世界です。

 ある日、堀江敏幸の「おぱらばん」のなかの、「のぼりとのスナフキン」という短編小説を読んでいたら、「やまのかいしゃ」という絵本の話が出てきました。「会社」を研究中のわたしですから、さっそく、アマゾンで注文。届いた絵本をながめてみると、絵(片山健)も文章(スズキコージ)も、とてもゆるくて素敵です。主人公である「ほげたさん」は、朝寝坊して会社に遅刻。昼すぎから電車に乗って出社するのですが、なぜか会社のある町の駅ではなく、山のなかの駅に着いてしまいます。山奥の駅に降りたほげたさんは、「こうなったら、きょうは、やまのかいしゃへいこう」と思い(!)、山道を登っていきました。その途中で、会社に出かける格好をして山から下りてきた、同僚の「ほいさくん」に出くわします(どうやら、ほいさくんの家はこの山にあるらしい)。ほげたさんは、「やまのかいしゃ」にいっしょにいかないか?と、ほいさくんをさそいます。 

 「ふたりは、このやまのちょうじょうが、やまのかいしゃだと、すっかりおもいこんで、しごとを、はじめました。」 さらに、ほげたさんは町にある本来の会社(「まちのかいしゃ」)の社長に連絡して、社長以下、全部の社員を「やまのかいしゃ」に呼び寄せるのです。 社長も「やまのかいしゃ」が気に入ったのですが、「ぜんぜんもうからない」ので、「やまのかいしゃは、ほげたさんとほいさくんにまかせて、ほかのひとたちをつれて、まちにかえっていきました。」 そして、ほげたさんとほいさくんは、いまでも山の頂上で「げんきにやっています。」というページでこの絵本は終わります。

 ほげたさんやほいさくんのいる「やまのかいしゃ」では、「オトナ語」を使う必要はないでしょう。(だから、「ぜんぜんもうからない」のですが・・・) 「オレ的にはアグリーできかねるんだよね」とか言うアホな後輩や、上司に「う〜ん、企画の意図が見えてこないな。部分的にはいいんだけどね。こう、遊びが足りないというか。ひとことで言うと、弱い。もっと軸になるものがないと」なんて責められることもないわけですね。ほげたさんが自宅を出てから「やまのかいしゃ」に着くまでの道中で、「革靴」、「メガネ」、「腕時計」といったオトナの世界に帰属するものが、からだからひとつづつはずれてゆくところが象徴的です。さすが、コージズキン。「まちのかいしゃ」で、毎日毎日、「オトナ語」を使いながら働いているみなさんも、ときには「やまのかいしゃ」にいる、「ほげたさん」や「ほいさくん」のことを思い出してみてください。

 あっ、それから、橋本治が書いた「上司は思いつきでものを言う」は、もう読みました? ビジネス書ではなく文化論(「会社」論)なのですが、わたしはとてもおもしろく読みました。なぜ日本の「会社」では、かくも微妙で複雑な「オトナ語」が使われているのか、その謎をとくヒントに満ちています。「会社」関係のかたも、そうでないかたも、ぜひご一読を!



<右が「ほげたさん」、左が「ほいさくん」です。
宮崎医院待合室の絵本コーナーでお読みください。>


2004年6月11日 「ブルーライト ヨコハマ」

 先週のウイークエンドは、土曜の診療を臨時休診にして、横浜市で開催された日本プライマリ・ケア学会に参加しました。「プライマリ・ケア」とは、地域の第一線で提供される、総合的、継続的な保健・医療サービスのことで、わたしたちが日常接する頻度の高い、「ありふれた」病気や健康問題を扱う領域です。

 学会の会場は、みなとみらい地区にある国立国際会議場「パシフィコ横浜」。内科学会などの大きな学会で、よく使われるの会場なので、わたしにとってはおなじみの場所です。これまでは、桜木町の駅からテクテク歩くか、タクシーというアクセスしかなかったのですが、今年2月に「みなとみらい線」が開通して、パシフィコ横浜の真下まで「電車でゴー」らしい、という情報を胸に秘めて横浜に乗り込みました。

 新幹線を降りて、市営地下鉄の新横浜駅で、みなとみらい行きのキップを買おうとしたのですが、路線図に「みなとみらい線」はない・・・ 田舎モノのわたしは、てっきり地下鉄とつながっていると思いこんでいたのですが、「みなとみらい線」は市営地下鉄ではなく、東急東横線と接続していることが判明! そういえば、「渋谷と横浜元町・中華街が直結」という記事を、どこかで読んだ記憶がよみがえってきました。地下鉄で横浜駅まで出て、「みなとみらい線」に乗り換えました。この乗り換えが、半端じゃなく遠い。どこまで歩いても、「みなとみらい線」のホームには到達せず。これなら、以前のように桜木町からランドマークタワーのほうへ歩いたほうがマシかとも思える距離でした。

 さて、学会ですが、例によって生涯教育のためのワークショップに参加。第1日目は「禁煙カウンセリングの方法」を受講しました。講師の高橋裕子先生(奈良女子大教授)は、この「院長日誌」でも何回かご紹介した、日本で最も高名な禁煙支援ドクターです。ぜひ一度、実際にお会いして講義を受けてみたいと、情報収集の網をはっていたところ、そのチャンスがめぐってきたわけです。

 高橋先生のワークショップは、隣に座っている初対面の参加者同士がジャンケンをして、負けたほうが、勝ったほうの良いところを「3つ」みつけて、ほめちぎるという「アイスブレーキング(参加者の緊張をほぐすためのワーク)」からスタートしました。禁煙支援では、相手を「ほめて、ほめて、ほめまくる」という技術がとても大切ですので、まずほめる練習からはじめましょうということでしょう。「楽しく」、「無理なく」、という先生の禁煙ポリシーそのままの雰囲気のなかで、やわらかな関西弁(奈良弁?)で語られる、高橋流禁煙カウンセリング法を、3時間にわたりみっちりと学ぶことができました。また、思いがけないことに、わたしが禁煙教室の講義用としてHP上の素材を拝借した、淡路島の山岡雅顕先生も、このワークショップに参加されていました。禁煙支援に関する「師匠」二人に同時にお会いして、その掛け合いをライブで拝聴することができるなんて、宮崎医院を休診にして、横浜まで出てきた甲斐があったというものです。

 2日目の日曜日は、朝から雨降りでしたが、観光もせずまじめに学会場へ向かいます。この日に選択したワークショップは、「外来での整形外科的診察法」。内科医にとって、最も苦手な整形外科ですが、腰・肩・膝の痛いお年寄りたちを診療するうえでは、わたしの最優先の学習課題。講師の仲田和正先生(西伊豆病院院長)は、自治医科大学の一期生であり、地域医療における実践的な整形外科診療では大変有名なドクターです。

 仲田先生のレクチャーで脱帽したのは、先生自身がご自分の膝に針を刺して、関節内注射のコツを指導してくださったこと。講義用の長机にヒョイと横になり、ズボンのすそをまくり上げると、先生の膝の皮膚には、膝蓋骨(ひざのお皿)やそれに付着する腱などが黒マジックでマーキングされていました。イソジンでその皮膚をちょこちょこと消毒し、穿刺のポイントを聴衆に伝授しながら、顔色ひとつ変えずに、約20mlの生理的食塩水をご自分の膝関節に注入されました。「ヒザに注入した食塩水はどうなるのですか?」という質問に対して、「2時間もすれば、吸収されてなくなります」と平然と答える仲田先生。「みなさんもお帰りになったら、ご自分のヒザで練習してください」とおっしゃる先生のパフォーマンスを見ながら、世の中にはすごい医者がいるものだと戦慄を覚えた、初夏の横浜でした。



ホテルの窓からは、みなとみらいのシンボルである大観覧車が真正面に!>




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