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ほぼ週刊院長日誌
”MIYAZ@KI STYLE”

2005年4月21日 「今日は死ぬのにもってこいの日だ」

 開業医の外来診療では、ご高齢の患者さんが「不治の病にかかったら、不必要な延命治療は受けたくない、家族に見守られて安らかな最後をむかえたい」というご希望を表明される場面がしばしばありますね。もし、患者さんから「延命処置を拒否するという文章を、わたしが元気なうちに残しておきたいのですが・・・」という内容の相談を持ちかけられたとしたら、ドクターのみなさんはどうなさいますか?そんな場面で活用できるブックレット(小冊子)が、最近出版されましたので、みなさんにご紹介いたします。

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「リビング・ウィルのすすめ: 家族や友に見守られて安らかな最後を迎えるために」
著者:大野竜三
出版元:エム アンド ディー・ラボ
定価:1000円

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 「リビング・ウィル(living will)」とは、「未だ判断能力が十分にあるときに、ある状況になった場合に自分がして欲しい医療、あるいは、して欲しくない医療につき述べておく書類のこと」(本文より引用)です。自分が死んだ後のことに関して前もって指示をしておく「遺言状」とは異なり、自分がまだ生きている間におきることに関して前もって指示しておく書類を「リビング・ウィル」と呼びます。具体的な内容としては、「自分の力で呼吸ができなくなっても、人工呼吸器をつけないでください」などといった「終末期医療の中止を求める意思表明」が記されています。

 著者の大野竜三先生(愛知県がんセンター総長)は、わが国の白血病化学療法におけるリーダーとして非常に高名な内科医です。大野先生は3年前に「自分で選ぶ終末期医療 リビング・ウィルのすすめ」という本を朝日選書(朝日新聞社・刊)から出されていますので、お読みになられたかたがあるかもしれません。今回のブックレットは、この本をもとに書き改められたものですが、「主として70歳以上の高齢の方を想定して、活字も体裁も大きく読みやすくしたもの」です。つまり、この小冊子は、ふつうの高齢者にむけて、超一流の臨床医が書いた、「リビング・ウィル」の残し方に関する「HOW TO 本(ハウツー ぼん)」なのであります。

 本文は全体で70ページと短く、すぐに読めてしまいます。テクストは平易な日本語を使って、終末期医療の現状からはじまり、リビング・ウィルを残すための実際の手順に至るまで、本当にわかりやすく解説されています。巻末には「資料」として、<リビング・ウィルを書き残していることを知らせる書面、ないしは口頭でかかりつけ医や病院の主治医に話す例文>、<リビング・ウィルの例文(1)〜(3)>が、そのままコピーすればすぐに使えるかたちで掲載されているのが、このブックレットの最大の特徴です。さらに、この例文は出版元であるエム アンド ディー・ラボのホームページからダウンロードできますので、この文章だけでも、一読される価値は十分あると思います。ホームページを開いて、「大きなのっぽの古時計」が表紙の「リビング・ウィルのすすめ」の画像をクリックしてみてください。本の注文もここからできます。

 このブックレットを編集した佐藤好威氏は、もともと生化学の研究者で、某製薬会社開発部を定年退職された後に、グラフィックデザイナーである息子さんとふたりで、医薬関連の出版&デザインのプロダクション「エム アンド ディー・ラボ」を、京都の地で起業されたというユニークなキャリアの持ち主です。わたしは彼が医薬業界にいたころから、ご縁がありおつきあいしておりますが、「大野先生のリクエストで、このような本を作りましたが、正直なところどのように売ったらよいかわかりません。老人ホームや福祉施設の管理者に営業しても、反応はかんばしくないです。本を送りますので、何かアイディアを教えてください」との要請があり、送られてきたものを読んだところ、大変よくできたブックレットだったので、このホームページでも宣伝させていただきました。わたしは診察室に常備しておいて、尊厳死・安楽死やリビング・ウィルの話題が出たら、「こんな本があるんだけど」と患者さんにお見せして、リビング・ウィルの例文を読んでもらおうと思っています。

 わたしの家は、笑い声に満ちている。
 子どもたちも、うちに帰って来た。
 今日は死ぬのに持ってこいの日だ。

 このフレーズは本書の冒頭で引用されている、北米インディアンの古老による「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という詩の一部です。詩人の谷川俊太郎さんが編んだ死に関連した詩のアンソロジーである「祝魂歌」のなかから大野先生がセレクトされたもの。とても印象深かったので、孫引きになってしまいますが、ここに書きうつしてみました。自分が死を迎えるときに、このプエブロ族の古老のような境地になれるかどうかわかりませんが、自分の死にかたぐらい、自分で決めさせてもらってもわるくないと思っています。



「大きなのっぽの古時計」のイラストがなごみますね

イラストとブックデザインは
佐藤好威氏のご子息である
サトウヒロシ氏が担当されました


2005年4月16日 「カレーなる花見の宴」

 開花が遅れた今年の桜。ここ愛知県でも先週末にパッと咲いたと思ったら、あっという間に散っちゃった。ほんとに短い行楽チャンスを決してのがさぬように、10日の日曜日には、しっかりお花見をしてまいりました。去年の日誌でもご紹介したように、わが家のお気に入りスポットは山崎川(名古屋市瑞穂区)。名古屋グランパスの本拠地である瑞穂競技場のすぐそばから石川橋までの約2.5キロのあいだに600本の桜が植えられていて、のんびりと川べりを散歩しながらお花見を存分に楽しめる素敵な場所です。昨年のお花見シーズンはスギ花粉が少なかったので、無防備なスタイルで出かけても問題なかったのですが、今年はマスクとゴーグルで完全武装して外出しないと危険がいっぱいで歩けません。大きなマスクをかけて花粉侵入防止用ゴーグルを装着すると、レンズがすぐに吐息でくもってしまうので、桜が霞(かすみ)でけぶったように見えてしまって何だかとても風流な感じです。



今年も絢爛豪華に咲きほこる山崎川の桜並木

 わが家の花見において欠かすことができないのがカレー。なぜに「花見にカレー」なの? それは桜並木の終点である石川橋に、「クマール」というすばらしいインド料理レストランがあるからです。花見の散歩でお腹をすかせた後は、クマールで食事をするのがわが家のお約束。ここはインドからやってきたシェフが作る本格的なインド料理を、実にカジュアルな雰囲気で食べることのできるところで、フロアのサービス係もみなさんフレンドリーなインドの人たち(日本語はとても上手)です。食事をしながら階下に広がる桜並木を見下ろすこともできるので、お花見シーズンはさすがにお客さんでいっぱい。店のなかに大きな窯(タンドール)があり、それで焼いたチキン(タンドールで焼くからタンドリーチキンね!)やナンは絶品です。今回のカレーは、チリ・チキン(スパイスのきいた辛いチキンカレー)、ローガン・ジョシュ(やわらかい羊肉にスパイスをきかせたカレー)、シャヒ・ナウラタン(「宮殿の9つの宝石」という意味の名前がついている、まろやかな野菜カレー)の三品を注文して、家族で分けあって食べました。ねっ、カレーの名前と説明を読んだだけでも、「俺たちインドのカレーだもん。軟弱な日本のカレーとは違うもんね」って雰囲気をビシバシと感じるでしょ。何てったって、ただの野菜カレーが「宮殿の9つの宝石」になってしまうんだから。でも、おいしかった。複雑なスパイスのハーモニーが、脳味噌と胃袋を活性化してくれるようです。桜とカレーの両方を堪能して帰路につきました。

 最新の医学文献を紹介する「Journal Watch」という雑誌を見ていたら、「カレーはマウスのアルツハイマー様プラークを抑制する」という記事を発見。カレーのスパイスとして知られるターメリックには、「クルクミン」という物質が成分として含まれています。雑誌の記事は、カリフォルニアの研究チームが、このクルクミンをアルツハイマー病の実験マウスに注射したところ、アルツハイマー病に特徴的な脳のプラーク形成を抑制することができたという論文を紹介していました。簡単に要約すると、カレーの成分を注射したら、アルツハイマーにかかったマウスの脳の病変が良くなったということですね。クルクミンという物質とアルツハイマー病との関係は、以前からあちこちで研究されていたみたいで、ネットで検索してみると、日本の金沢大学のグループも試験管内の実験から、クルクミンの抗アルツハイマー効果を報告されています。これらの実験結果から想像すると、「カレーをたくさん食べればボケない」という、インド人もびっくり(古いギャグ!)のトリビアが生まれてきそうですね。カレーを常に食べているインドでは、認知症(痴呆)のひとが少ないのかな? 今度クマールに出かけたら、お店のひとたちに尋ねてみることにいたしましょうか。



インド料理店「クマール」のカレー

右側:「ローガン・ジョシュ」(やわらかい羊肉にスパイスをきかせたカレー)
左側:シャヒ・ナウラタン(「宮殿の9つの宝石」という名のまろやかな野菜カレー)

タンドールで焼きあがった熱々のナンを
このカレーにひたして食する幸せ!


2005年4月11日 「しりあす・とーく」

 うららかに晴れわたった4月3日日曜日の昼下がり、東京は本郷にある医学書院本社ビルの会議室へ出かけました。雑誌「medicina(メディチーナ)」の座談会に出席するためです。ここを訪問するのは二度目(初回は「糖尿病診療マスター」の座談会でしたね)なので、地下鉄「本郷三丁目」駅から迷わずに到着。「medicina(メディチーナ)」は、内科臨床をトレーニング中の若い医師を主な読者とする伝統ある医学雑誌で、わたしも研修中には毎号熱心に読んだものです。

 その雑誌の編集者であるTさんから、2月のはじめに突然メールが届いて、今回の座談会出席を依頼されました。もちろん、これまでTさんとは全く面識はありません。座談会のテーマは<「医師研修」と「感情」>。このテーマをみて、「ああ、医者ムカね」って思ったあなたは、もはや「院長日誌」のコアなファンです。わたしがこの日誌に書いた「医者がムカついてはダメですか?」(略して「医者ムカ」)という文章を、TFCメーリングリストで目にしたTさんは、医師研修と感情労働というテーマを思いついて、さっそくわたしとコンタクトをとったというわけです。「医者ムカ」騒動も、思わぬ方向に発展していきますな。

 この座談会は「しりあす・とーく」というタイトルがつけられた連載企画で、今年の1月号からスタートしたもの。「毎回若手医師や研修医に登場していただき、臨床現場の問題意識をストレートにぶつけていただきます。答えを見いだすのが困難だけれども、切実で根本的な問題を積極的に取り上げる討論企画」というのが、編集サイドからの説明です。これまでに、「臨床研修における危険と安全管理」、「内科医とプロフェッショナリズム」、「終末期医療と医師の倫理」などの高尚なテーマが取り上げられておりますが、「感情」と「医業」という話題も、確かに「答えを見いだすのが困難だけれども、切実で根本的な問題」ですね。しかし、わたしもまだ「若手医師」の範疇に入るのかしら?

 わたし以外のメンバーは正真正銘の若手医師で、編集部が選んだ新進気鋭のお二人。木村琢磨先生(卒後8年目)は、国立病院機構東京医療センター総合診療科で、上級医の立場から研修医を指導されています。もうひとりの児玉知之先生(卒後4年目)は、聖路加国際病院内科に勤務されており、この3月までは研修医のリーダーであるチーフレジデントをされていました。わたしも聖路加の内科で研修をうけましたが、あちこちで広言しているように、「昭和時代最後の内科チーフレジデント」をつとめましたので、児玉先生はわたしの17年(!)後輩のチーフレジデントというわけです。

 最年長のオヤジであるわたしが司会をして、この3名で約1時間半にわたり、医師の成長過程で遭遇するさまざまな「感情体験」について語り合い、「燃え尽き」や「自己嫌悪」に陥らないように楽しく仕事をするためにはどうしたらよいか、医療の現場で「感情」を上手にマネージメントする方略などについて意見を交換いたしました。これまで、医師が自分の「感情」、特に「ムカつく」に代表される「陰性の感情」について、公の場で真摯に語るということはほとんどありませんでした。むしろそれは「恥ずかしい行為」であるとされてきただけに、若いお二人の先生にしてみれば、何をどう話してよいのやら、戸惑う気持ちが強かったものと想像されます。しかし、話しているうちに、自然と会話が盛りあがってきたのは、「感情」と「医業」というテーマは、臨床医ならば誰にとってもリアルな問題だからにちがいありません。

 「無理に結論を出そうとか、まとめようとしないでけっこうです」という編集者の言葉に励まされて、なんとか司会進行の役をこなすことができました。鼎談のくわしい内容は「medicina(メディチーナ)」に掲載されたときのお楽しみに(掲載前になったら、この院長日誌で宣伝するから)! 久しぶりに若くて熱意にあふれる先生がたと接することができて、わたし自身も大いに刺激されました。木村先生、児玉先生、ありがとうございました。やはり、田舎にばかりこもっていないで、たまには東京でもまれてこないとダメみたい。「しりあす・とーく」が得意じゃないわたしに、こんなチャンスを与えてくださった医学書院雑誌編集部のTさんに感謝いたします。



医学書院本社ビルは本郷にあります

本郷には
医学書の出版社や
実験器具を売る会社なんかが
軒を並べているんです

   

医学書院から1分ほど歩けば
ホリエンモンさんの母校「東京大学」へ

天気がよかったので東大の構内をお散歩しました

左は赤門、右は安田講堂
赤門の前では新入生らしい女の子と家族が
記念写真をとりまくっていました
(そりゃ、うれしいだろうねぇ)

安田講堂の実物は初めて見たけど
かなり老朽化してコワイ感じ・・・


2005年3月31日 「花粉が目にしみる」

 やっと春らしくなって桜の便りもチラホラと聞こえてきました。それにしても、今年の花粉は噂にたがわず「猛烈」ですわ。花粉症はわたしの唯一の持病なので、医師免許を取得して以来、この季節になると、自分の体を実験台にして、さまざまな薬物を試してきましたが、今年ばかりはさすがに症状を十分コントロールできません。近年、患者さんが激増したために、製薬会社にとって花粉症治療は非常に大きなマーケットとなってきました。花粉症治療薬は季節限定の商品だけに、各社とも短期決戦で自社製品の売りこみに必死になるわけですね。おまけに、今年は10年ぶりにスギ花粉の大量飛散となり、ビジネスチャンス到来ということで、薬を販売するみなさんに課せられたノルマも非常に大きな数字となっているみたいです。

 しかし、いくら製薬会社のみなさんが背水の陣で売りこみにやってきても、わたしは自分自身で服用してみて効果が乏しかった薬を、患者さんに処方するということは絶対にいたしません。宮崎医院において、花粉症治療薬が採用される基準はただひとつ。「院長の鼻や眼の症状を改善することができる」という条件をクリアする必要があるわけ。世の中には、たくさんの花粉症治療薬がありますが、どれも同じように効くわけではありません。はっきり言って、よく効く薬と、あまり効かない薬があるの。これは値段が高いから効くとか、新しく開発された新薬だから効くというわけでもなく、古くて安い薬のなかでも効果の高いものもあれば、新しくて高いくせに効果の低いものもあるわけです。わたしは、あらゆる種類の花粉症治療薬を、実際に自分で服用してみて、そのことが実感できました。

 精神科医の熊木徹夫氏は著書「精神科医になる:患者を<わかる>ということ」や、主宰するホームページのなかで、「薬物の官能的評価」を収集しようと呼びかけています。「薬物の官能的評価」とは、熊木氏によれば「臨床の場で使用するなかで治療者・患者双方の五感を総動員して浮かび上がらせたもの(薬の<色・味わい・手触り>といったもの)、治療戦略における布置(他剤との使い分け)」と説明されています。昨今流行しているEBM(科学的根拠に基づく医療)では、巨大な患者集団を対象とした統計学的データに基づいて、その薬剤が有効であるかどうかが冷徹に検証されます。これに対して、「薬剤の官能的評価」では治療者・患者の「主観」が大きく介在する点がEBMとはまったく異なるところ。治療者である医師は、実際に患者さんに処方し、服用後の「主観的な体験」を患者さんから聞きだし、試行錯誤をくり返しながら、その薬物の特徴をつかんでゆきます。患者さんが語る服薬体験の感想をすくいとって、より良い治療に反映させるのが臨床医の仕事なのですが、このような「薬物の官能的評価」は、教科書や学術論文には決して書かれることはなく、各々の医師の胸の内に秘められているのです。そこで、熊木氏は精神科で用いられる薬について、医師と患者さんの双方から寄せられた官能的評価を収集し、蓄積することが有益であると主張されています。

 わたし自身が治療者と患者の両方の立場で、「薬剤の官能的評価」を下すことができるのは、花粉症の治療薬のみです。患者としていろいろな薬の飲みごこち、熊木氏が言われるところの<薬の色・味わい・手触り>というものを評価できるのが大変におもしろく、まさに「官能的」です。このような主観に基づく「官能的評価」と、客観的な臨床試験による評価は一致するのでしょうか? ここにひとつのユニークな臨床試験のレポートがあります。「パークスタディ」と呼ばれるこの試験は、2003年の3月に大阪にある万博公園にスギ花粉症の既往のあるボランティア113人を集めて、野外で2日間にわたって実際に花粉をあびてもらって、代表的な3種類の花粉症治療薬と1種類のプラセボ(治療効果のない偽薬)の効果を比較検討したものです。公園(パーク)に集まった人々がみんな同じ条件で花粉に暴露されるから、「パークスタディ」と呼ばれるわけね。このパークスタディにおいて、3種類の薬の間で治療効果に差がみられたのですが、その順位はわたし自身がそれらの薬を服用してみて感じた「官能的評価」の順位とぴったり一致していました。つまり、パークスタディという客観的な試験で、最もよく効いたと判定された花粉症治療薬は、わたしが実際に服用して主観的によく効くと感じていたものと同じ薬であったわけで、「官能的評価」もあなどれないものだと思いました。エッ?「その薬は何という名前ですか」ですって。それは宮崎医院に来てお薬をもらえばすぐにわかること。悩める花粉症患者のみなさま、診察室で治療薬の「官能的評価」について、わたしとじっくり語り合ってみませんか。



この花の名前は「セントレア ハッピーバースデー

開港したばかりの中部国際空港の愛称「セントレア」の
名を冠したデンドロビウム(洋ラン)です

洋ラン栽培がさかんな
愛知県東海市農業センターで生まれました

宮崎医院のなかで咲いてますので見つけてね


2005年3月19日 「個人情報ラプソディ」

 花粉症をわずらってるご同輩のみなさま、いよいよ最悪のシーズンが到来しましたね。わたしは先週あたりから眼の症状がひどくなり、パソコンの画面を長く見つめているのが正直ツライ。スギ花粉が舞っているあいだは、「院長日誌」の更新も滞りがちになるかも。ところで、春本番を目前にして、わたしたちの業界で話題を独占しているのが、来る4月1日より施行される「個人情報保護法」です。なんてったって、医療機関は個人情報が咲き乱れる「秘密の花園」みたいなところなので、それはもう大変な騒ぎ。

 「個人情報保護法」とは、個人情報を取り扱う事業者が、個人情報の収集、保管、利用を行うにあたって遵守すべき事項を定めた法律です。この法律は5000件をこえる個人情報を扱う事業者を対象としていますが、病院や診療所は厚生労働省が別に定めた「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取り扱いのためのガイドライン」が適用されるために、実質的にはすべての医療機関に「個人情報保護の努力義務」が課せられているのです。「ヒポクラテスの誓い」を持ち出すまでもなく、われわれ医師には職業上守るべき倫理として、診療の過程で知った患者さんの秘密やプライバシーを外部にもらしてはいけないという「守秘義務」があります。しかし、今回の新しい法律やガイドラインは、従来からある職業倫理としての守秘義務だけではカバーできない内容を含んでいるために、現場は大いに混乱しているわけです。

 このところ地区医師会や保険医協会が主催する個人情報保護に関する説明会が、たてつづけに開催されております。そこで勉強してきたことをまとめてみると、法律が施行される4月1日までに、宮崎医院のような零細な診療所であっても、院長であるわたしが準備しなければいけないことがいっぱいあるんです。まず、当院で収集・管理している個人情報は医療サービス提供の目的のみに利用することなどを明記した文章を作って、待合室に掲示したりホームページにアップしなければなりません。また、当院における「個人情報保護に関する規則」というものを制定する必要があります。さらに、従業員全員に法令や院内規則を遵守しますという内容の「個人情報保護に関する誓約書」を書いてもらう。検査センターなど出入りの業者さんには、個人情報保護の確認書を出してもらう。院内のコンピューターのセキュリティ管理のために、IDやパスワードを複雑にしたり、盗難防止用のチェーンロックまで用意しなければいけないようです。シュレッダーもたくさん買わなくっちゃ。ふぅ〜、これはえらいことになりましたね。

 この法律が施行されると、病室の入り口やベッドサイドにかけてある、自分の名前が書かれた名札をはずしてほしいとの申し出が入院患者さんからあった場合は、病院側の正当な理由(たとえば「患者さんをとりちがえてしまうリスクがきわめて高いので名札はぜひとも必要である」といった理由)なしには拒むことはできないようです。その話を聞いて即座に思いだしたのは、先ごろ惜しくも他界された石垣りんさんの詩「表札」です。この詩には個人の尊厳を守るためのきびしい意志がうたわれており、「個人情報保護」をめぐるドタバタぶりとは異なる高潔な精神を感じます。それでは名詩「表札」を読んで、花粉症でボケている眼と頭をシャキッとさせることにしましょうか。


自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことがない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵(かま)にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのときわたしがこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。

詩集「表札など」より)


2005年3月12日 「祖父安藤清の診察室」

 夕食後にテレビのリモコンをいじっていると、歌舞伎役者の中村勘九郎が「十八代目中村勘三郎」を襲名するまでの軌跡を追いかけた、フジテレビのプログラムに遭遇。勘三郎〜勘九郎〜勘太郎七之助とつづく中村家の芸を、テレビキャメラは丹念に記録していました。一方、落語の世界では、この3月13日に林家こぶ平が「九代目林家正蔵」を襲名するという大きなイベントが控えております。こちらは、正蔵〜三平〜こぶ平という親子三代にわたる笑いの系譜ですね。歌舞伎や落語といった古典芸能の世界は、親から子へ、子から孫へと伝えられる「家の藝(いえのげい)」の継承によって成り立っています。勘三郎襲名プロジェクトのドキュメンタリーをみると、代々医をなりわいとするわたしどもの世界とちょっぴり似たところもあるみたいです。

 3月6日の日曜日に、母方の祖父である安藤清(あんどう きよし)の二十七回忌法要があり、孫のひとりとして参列してまいりました。わたしの父方の祖父宮崎洪(みやざき ひろし)のプロフィールについては、このHPにおける人気コンテンツ(?)「宮崎医院の歴史」でくわしくご紹介しておりますが、母方の祖父も同様に開業医=町医者として生涯を終えたひとです。祖父は生粋の名古屋っ子で、京都府立医大を卒業し、内科医として名古屋大学の医局で研鑽をつんだ後に、名古屋の繁華街大須の近くで診療所を開きました。ところが、太平洋戦争の勃発により祖父の運命は大きく変わります。戦争がはじまると自分は軍医とし召集され、留守のあいだに大須の診療所はアメリカ軍の空襲により焼かれてしまいました。戦争が終わって復員してからも名古屋市内に戻ることがかなわずに、家族を疎開させていた現在の愛知県知多市岡田に新たな「安藤医院」を苦労のすえに開設。これまで縁もゆかりもなかった土地に住みついて、内科・小児科の開業医として天寿をまっとうしたのです。

 幼いころ、母親に手をひかれて安藤医院を訪ねると、ほの暗い畳敷きの待合室には火鉢が置いてあり、その奥の診察室をのぞけば、静かに患者さんを診察する白髪の祖父の姿をかいま見ることができました。いつも大ケガだ、手術だと、野戦病院のように騒々しい外科の宮崎医院とは、同じ医者の家でも全く雰囲気がちがうなと、子供ごころに不思議な感じを受けたものです。後年、小津安二郎監督の映画「東京物語」をみたときに、山村聡演じる開業医の自宅兼診療所の様子が、昔の安藤医院にそっくりだったので、思わず泣きそうになりました。祖父には文学、音楽、酒を愛するディレッタントとしての側面もあります。なかでも万葉集の研究から派生した短歌の実作は、若いころから最晩年に至るまで連綿とつづけられ、没後に「峯の道(みねのみち)」と題された私家版の歌集が編まれました。祖父が遺した短歌のなかで、開業医としての生活を詠んだものを選んでならべてみます。

 昼餉(ひるげ)すめば患者を診むとペダル踏むこの習性は何にかも似る

 諸々の病の愚痴をつねのごと今日も亦聞きつつ了(おわ)る勤労感謝日

 雪降れば一壺の酒ほろほろと酔ひて早寝す患者無ければ

 大学教授の肩書き打ちて壇に立つ友と吾とのへだたりを思ふ

 みどり児の熱下りしか打笑みて我が聴診器掴(つか)まむとす

 風邪風邪風邪に追はるゝ朝な夕な一九六八年正に盡(つ)きんとす

 薬包みてひと代すごせし老づまの指休めむと我も紙折る

 ひとりで自転車のペダルをこいで患家へ向かう往診が、ナースとともに自動車でくりだす訪問診療に変わり、オートメーション化された分包器の導入により、医家の家族が夜なべして薬包紙を折る必要のなくなってしまった現在でも、祖父の歌に詠みこまれた診察室の情景は、本質的には何ら変わりがありません。これが、わたしどもの「家の藝」たる町医者の診療スタイルなのです。

 リハーサルのときにはなかなか揃わなかった父子で舞う連獅子の所作が、本番の舞台でぴったりと決まったときに、勘九郎(現・勘三郎)さんはさかんに「DNAのせいだ」と言って喜んでいました。祖父と同じ内科の開業医となったわたしですが、患者さんを診察している刹那に、自分の血のなかを流れる「町医者のDNA」とでも呼ぶべきものを、ふと意識することがあります。この感覚は大学病院で血液専門医として働いていたころにはなかったものです。安藤清の男の孫は、わたしを筆頭にして4人おりますが、祖父が亡くなったあとに全員が医者になりました。祖父の薫陶をうけた4人の孫たちは、かなり頑固で、ちょっと偏屈、お金もうけは下手くそだけど、酒と芸術を大いに愛するという、祖父の「芸風」を忠実に継承しているようです。法事の長いお経が流れるなかで、先人から受けついだ「町医者のDNA」を、自分もまた次の世代へと伝えてゆくことになるのかしらなんて、ぼんやりと考えておりました。



祖父安藤清 最晩年のポートレート(安藤医院にて)


2005年3月2日 「わたしを工場へつれてって」

 なぜ、わたしは頭にブルーのキャップをかぶり、耳にイヤーホーンをはめて立っているのか? いやいや、中日ドラゴンズの応援に行くのではありませんぞ。



<撮影:安城医師会 野村俊之先生>

 さる2月16日午後のこと、わたしが所属する西尾幡豆医師会の主催により、「日医認定産業医研修会」がデンソー西尾製作所で開催されました。世間ではあまり知られておりませんが、開業医の仕事のひとつに、企業で働く人々の健康や安全を守る「産業医」としての活動があります。日本医師会(日医)の「認定産業医研修」というのを受講すると、「日医認定産業医」の資格が与えられるのですが、この資格は5年ごとに更新しなければなりません。資格更新のためには、「実地研修」が義務づけられており、現場に出かけて産業衛生の実際を勉強するわけです。以前にも産業医の実地研修として、名古屋市内にあるビール工場の見学に行きましたが、今回は地元でのイベントですので、参加しないわけにはいきません。

 宮崎医院から車に乗って20分ほどで、デンソー西尾製作所に到着。着いてびっくり、とにかく広い!自分のイメージのなかにある「工場」とはスケールがちがいます。総面積1,190,000平方メートルと言われてもピンときませんが、ここで日夜働いている従業員の総数は、8000人以上とのことですから、もはやこれはひとつの町ですね。デンソーは自動車部品を中心とする多彩な工業製品を製造している企業ですが、ここ西尾製作所の主力製品はカーエアコン、ラジエータ、ディーゼル燃料噴射装置などです。きれいなレセプションルームでオリエンテーションを受けてから、いざ工場見学ツアーに出発! 上の写真は工場見学者の「正装」です。頭上の危険防止のために、デンソーのロゴが入ったブルーのキャップをかぶり、大きな作業音のなかでも、引率者からの指示や説明が聞こえるように、イヤーホーンを耳に装着しなければいけません。広大な製作所内を移動するのには、わたしの後ろに写っている大型バスを使います。 



<工場内へ進む産業医ご一行さま>

 わたしたちを乗せたバスが到着したのは、「冷暖房製造1部」というところ。そこで、カーエアコンの一部である「エバポレーター」なる部品をつくるセクションを見学させてもらいました。工場内には人の気配が希薄で、工業用ロボットが製造ライン上をせわしなく動き回っているのが印象的です。オーディオ以外のメカには全く興味のないわたしは、製造工程にそったくわしい説明を受けたところでほとんど理解できません。そこで、ホームページのネタを求めて、デジカメで工場内の風景をパチパチ写して遊んでいたら、それを見とがめた引率者から、「工場内での写真撮影はご遠慮ください」ときびしく注意されちゃった! おそらく、挙動不審な男として目をつけられていたのでしょう。ゴメンナサイとあやまってデジカメはバッグにしまいましたが、見学者に化けてライバル企業の工場に侵入した産業スパイの気分を味わうことができた瞬間でした。そんな事情により、工場内の画像をここでお見せすることはできないの。

 工場見学が終わると、ふたたびもとのレセプションルームにもどり、「デンソー西尾製作所における産業保健の取り組み」、「従業員の健康管理」というテーマで、安全衛生担当者や、専任産業医の先生からのレクチャーを拝聴。そこで印象に残ったお話をご紹介いたします。

◇デンソーでは、工場内で発生した事故の程度をランクづけして報告するシステムがある。最も重い「死亡」にはじまり、「障害」、「休業」、「不休」とつづき、最も軽度の事故を「赤チン」と呼んでいる。つまり、「赤チン」でも塗っておけばなおるレベルの事故という意味。もはや医療の現場では使われていない「赤チン」という言葉に、こんな場所で再会するとは・・・
◇社内検診で糖尿病や高脂血症などの成人病が発見されると、社員は規定されたプログラムに従って患者教育を受けなければいけない。プログラム終了後の再検診では、検査データが正常に戻る社員が非常に多いというデータにびっくり。つまり、医者の言うことは聞かなくても、「会社」の言うことは聞くということですね。
◇デンソーの社員食堂で飲食すると、毎食ごとに総カロリー、塩分量などのデータがすべて累積的に記録され、社員はパソコンでそれを閲覧することができる。しかし、今のところ、会社が社員の昼食メニューの選択にまで口をはさむという事態にはなっていない。
◇デンソー西尾製作所では、社員の安全を祈願するため、毎月最初の稼働日には、幹部社員がそろって敷地内にある神社に参拝している。

 トリビアルなエピソードばかりで、申しわけありませんが、これらのお話をならべてみるだけでも、日本の「勝ち組」製造業の筆頭であるトヨタ自動車&系列企業の経営スタイルが見え隠れしていませんか? わたしが暮らす愛知県三河地方は、当然のことながらトヨタ系企業の影響が濃厚なエリアなのですが、かねてから関心を持っている、その「企業文化」の秘密にチラリと触れることができた午後のひとときでした。




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