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「奈良高1放火事件」の報道に接して、いろいろな意味で衝撃を受けました。
家庭医的な文脈では、マスコミの浅薄な分析からは窺い知ることのできない、複雑な「家族の力動」が、事件の発生に影響を及ぼしているものと想像できます。それゆえに、軽々しいコメントは差し控えたいのですが、わたし自身がこの事件の報道に接するたびに、ある種の「やるせなさ」を感じるのはなぜだろうかと自問しております。
ご両親が自分と同じ世代の「医師」であるから?
自分にも同じ年頃の男の子がひとりいるから?
もちろん、それも大いに関係していると思います。
しかし、わたしがこの事件に「感応」するのは、「医家の長男として生まれたものの憂鬱」について、30年前の自分の気持ちを、にわかに思いだしたからかもしれません。医家の長男に生まれながら、数学・物理・化学がからきし苦手で、得意科目はわずかに国語と社会だけ。あこがれの職業は「落語家」、「オーケストラの指揮者」、「ジャーナリスト」。これが中学・高校時代のわたしです。
わたしの両親は、「おまえはぜったい医者になれ」というようなプレッシャーをかけてきたことは一度もありません。その点はありがたかったと思いますが、強要されないということも、別な意味で「負担」でした。(なぜ、わたしの父は自分の子どもたちに「医者になれ」とせまってこなかったのか?
それは、彼自身が「開業医の長男の憂鬱」を背負って青春時代をすごしたからです。父は若いころ演劇にかぶれていて、ほんとは「医者」ではなく、「役者」になりたかったみたい。)
むしろ問題は「外野」である、近所のおばさんや担任の先生なんかであり、数学のできないわたしをつかまえて、「おまえは医者を継ぐ運命にあるのだ」という呪い(!)を、ことあるごとにかけてくるのです。「医者の息子」という存在が珍しい田舎の町ほど、自意識過剰気味の少年にとっては、とても「息苦しい」環境と感じてしまうもの。
今回の事件をおこした奈良の少年も、「医家の長男の憂鬱」をかかえて生活していたものと拝察いたします。言うまでもなく、彼の犯罪行為は許されるものではありませんし、「医家の長子・長男」の先輩として、少年を擁護するつもりで、この文章を書いているわけでもありません。
ただ、久しく忘れていた、幼き日の「息苦しい」・「閉塞的」な感覚を、この報道に接してにわかに思いだしたことは事実です。
また、自分も無意識のうちに、ただいま中3の息子に対して、圧力や負担を与えているかもしれないという危惧を覚えました。(「歴史はくりかえされる」というわけですね。)
医者もムカついていますが、医者の息子も、またムカついている。「医者ムカ」ならぬ「医者の息子ムカ」問題からも目が離せません。なぜなら、それは十代のころのわたしの主要な「テーマ」でしたので・・・

このひとたちも「医家の長男」です
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左:萩原朔太郎、右:中原中也
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「医家の長男の憂鬱」も
ふたりの詩人の手にかかると
こんな具合に・・・
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<われは指にするどく研げるナイフをもち/葉櫻のころ/
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり>
(萩原朔太郎・詩集「純情小曲集」より
「郷土望景詩・公園の椅子」)
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<汚れつちまつた悲しみは/なにのぞむなくねがふなく/
汚れつちまつた悲しみは/倦怠のうちに死を夢む>
(中原中也・詩集『山羊の歌』より
「汚れつちまった悲しみに」)
2006年06月17日 「お薬、お注射は、おビールか?」
医療関係者のみなさまにおたずねします。みなさまは、患者さんと会話するとき、薬のことを「お薬」と言いますか? さらに、注射のことを「お注射」と言いますか?
わたしは、薬のことを「お薬」と言いますが、注射のことを「お注射」とは決して言いません。なぜなんでしょうか? さらにつけ加えると、<注射のことを「お注射」と言うひとは、ビールのことを「おビール」と言うにちがいない>と、わたしは信じています。もちろん、自分ではビールのことを「おビール」なんて言わないもんね。
これが、<「お薬」・「お注射」は「おビール」か?>と名づけて、わたしが長年にわたり疑問に思っていた命題であります。つい最近になって、ふとしたきっかけから、この疑問がきれいに氷解するという、まことにスリリングな経験を味わいましたので、ここにご報告いたします。
★★★★★
5月の最終週、PLAMEDという会社が主催した、「医療コミュニケーション」に関するWEB討論会が開催されました。元来、「WEB討論会」なんてシロモノは苦手なんですが、日頃から敬愛している早野恵子先生(熊本大学医学部総合診療部)がコーディネーターであるということと、医者だけではなく国語学・言語学の研究者も多数参加されるということから、冷やかし半分の気持ちでエントリーいたしました。しかし、これが大当たり!
とても刺激的な1週間でした。
今回のWEB討論会で特筆すべきことは、これまでほとんど取りあげられることのなかった、<医療コミュニケーションにおける「方言」や「敬語」の使いかた>という問題を、医療関係者と国語学者のクロストークにより、真正面から討論できたということです。患者さんと上手にコミュニケーションをとるためには、「方言」も「敬語」も効果的に使いこなさなければいけないということが良くわかりました。その、「敬語」をめぐるスレッドで、国立国語研究所の吉岡泰夫先生に、<「お薬」「お注射」は「おビール」か?>問題についても、ちゃっかり質問してみました。
★★ 国立国語研究所・吉岡泰夫先生との問答 ★★
Q(宮崎):国語学の専門家のかたとディスカッションするチャンスなんて、めったにありませんので、わたしが長年にわたり気にしている、<「お薬」・「お注射」は「おビール」か?>問題について、ぜひ質問させてください。わたしたち医者は、患者さんに対して、「お薬をお出しします」、「お薬をお飲み下さい」なんて言いますが、この場合、「お薬」の「お」は丁寧語ですか?また、このようなセンテンスは「過剰敬語」なんでしょうか?
A(吉岡先生):敬語は5種類に分類できます。尊敬語、謙譲語、丁寧語のほかに、美化語と丁重語があります。美化語は、話し手の品位を保つ敬語です。小便、便所では品が悪いので「お小水」「お手洗い」、めしを「ご飯」などのほか、「お薬」「お皿」などの「お」も美化語です。ただし、外来語や長い言葉には付けません。「おビール」や「おすべりだい」は誤用です。「おいも」「おねぎ」はOK、「おほうれんそう」はNGです。「お注射」は微妙なところですが、女性ならOKでしょう。男が言うとオカマっぽいですね。美化語はほかの敬語と違って敬意を表わすことがありません。ちょっと特殊なので私は「品位保持敬語」と呼んでいます。ちなみに、丁重語は、改まった言い方をすることによって聞き手、読み手に敬意を表わす敬語です。「こちら(こっち)」「しばらく(ちょっと)」「よろしい(いい)」「ただいま(今)」などです。丁寧語と同じく対する相手に敬意を表わしますから、丁重語と丁寧語は「対者敬語」の仲間です。ちなみに、尊敬語と謙譲語は話題にする人物=素材に敬意を表わしますから「素材敬語」の仲間です。「お薬」の「お」は美化語です。「お出しします」は、謙譲語「お〜する」形式に丁寧語「ます」
が付いたものです。したがって、「お出しする」の「お」は謙譲語形式の一部です。「お飲み下さい」は尊敬語「お〜くださる」形式の命令形「お〜ください」です。したがって、この「お」は尊敬語の一部です。これらのセンテンスで使われている敬語はすべて適切ですから、過剰敬語ではありません。
Q:反対に、患者さんのほうから、「センセイ、元気が出る『お注射』を、ぜひお願いしますぅ」なんて、リクエストを受けることもあります(厚化粧系中高年女性に多し!)。
A:まあ、美化語の「お」は女性専用化粧品みたいなところがありますから、これくらいのリクエストは許してやってください。「おビール」や「おトイレ」は厚化粧過ぎて(これこそ過剰敬語)許せませんが・・・
Q:さらに、患者さんも医療者も、「お注射」とは言っても、「お点滴」、「お手術」とは言いません。なぜなんでしょうか?
A:上に述べたとおり、長い言葉だからです。「お注射」もビミョーですから、男性医師はやめといたほうが無難です。「この先生、おホモだちになれそう」と誤解する患者がなきにしもあらず・・・・
Q:ちなみに、わたし自身は、「お薬」とは言います(特に小児科のお客さんに対して猫撫で声で、「おいしいお薬ですよぉ、のんでくださいねぇ」なんて具合に使う)が、「お注射」という言葉を自ら発することには、抵抗があります。これも、なぜでしょうか?
A:それはまさに小児科で効果的なポライトネス・ストラテジーです。そのパラ言語、美化語、丁寧語、尊敬語が、子供にとっては心地いいのですから照れずに実行なさるべきだと思います。「お注射」を自ら発することに抵抗があるのは、宮崎さんが正常な男性だからです。
Q:これはまったくの「私見=偏見」ですが、注射のことを、「お注射」というご婦人は、「ビール」のことを、間違えなく「おビール」と呼ぶと思います。
A:それは偏見ではないと思います。「お」を使い過ぎるご婦人は長い言葉も外来語も見境なしですから。ついでに化粧もドギツイんじゃないですか?
★★ 以上、問答おわり ★★
<さすが、プロフェッショナル! わたしの疑問のすべてに対して、明解にお答えいただきました。「お薬」、「お注射」は、「美化語」というカテゴリーに属する敬語だったのですね。そして、『外来語や長い言葉には、美化語の「お」は付けない』というルールも、はじめて知りました。『長い言葉には、美化語の「お」をつけない』という現象において、言葉の「長い」「短い」は物理的なものではなく、「心理的な長さ」に依っているわけだ。「くすり」と「ちゅうしゃ」の比較では、確かに「くすり」のほうが短く、「ちゅうしゃ」は長いですが、「ちゅうしゃ」と「てんてき」との比較では、「ちゅうしゃ」のほうが物理的には長いのに、「てんてき」に「お」をつけないのは、心理的に「長い」、つまり日常語ではない・なじみが薄い言葉を「長い」と感じるからですよね。外来語に「お」をつけたらおかしい理由も、外来語であるがゆえに、心理的に「長い」言葉と感じる。例えば「メス」という言葉は短いですが、誰も「おメス」とは言わない。(宮崎)>
というような趣旨の書き込みをしたところ、吉岡先生の同僚である、国語研の相澤先生から、以下のようなコメントをいただきました。
<吉岡さんと宮崎さんのやり取り、面白いですね。一言(ひとこと)、ではなく二言三言(ふたことみこと)言いたくなりました。 (中略) 「くすり」と「ちゅうしゃ」の比較では、確かに「くすり」のほうが短く、「ちゅうしゃ」は長いですが、「ちゅうしゃ」と「てんてき」との比較では、「ちゅうしゃ」のほうが物理的には長いのにというのは、かな文字を見たときは確かにそのように見えますが、実際の発音は違います。音声の場合、物理的な長さというのは、それに費やす時間の長さですから、「ク・ス・リ」と「チュ・ー・シャ」はともに3単位、「テ・ン・テ・キ」は4単位になります。ちなみに、言語学ではこの単位を「拍」と呼んでいます。>
なるほど、文字数ではなく、音声の物理的長さ=「拍」で数えるんだ。「拍」とは音楽におけるリズムのことね。リズムのうえでは、「点滴」よりも「注射」のほうが時間的に短いというわけ。だから、「お注射」とは言っても、「お点滴」とは言わない。日本語って、ホント奥が深い。
WEB討論会のすばらしいところは、従来のメディアでは決して出会うはずのない、「田舎の開業医」と「プロの国語学者」の間で、このような「医療における言語コミュニケーション」問題について、かなり突っこんだディスカッションが成立してしまうところですね。医療コミュニケーションにおける「方言」と「敬語」の効果的な使いかたは、開業医療のフィールドでは、今後大変重要なテーマになりそうです。このWEB討論会で、吉岡先生から教えていただいた、「ポライトネス・ストラテジー」=「調和のとれた人間関係を築き維持するために行う、相手に配慮した言語行動」という考えかたはとても魅力的であり、宮崎医院での診療場面でも直ちに応用できそうです。
「志の高い医師が、より良い医療の基盤となる患者・医師の良好な関係構築のために、苦労して生み出してきたポライトネス・ストラテジーの数々をクローズアップし、そのスキルを学び、伝え普及させることが医学教育の課題の一つだと思います。」 (吉岡泰夫「ポライトネス・ストラテジー」より) ハイ、吉岡先生。スキルの向上をめざして、これからも日本語の能力を磨いていきたいと思います!
普請のドタバタ、春の検診シーズン、新たに拝命した看護学校の講義の仕込みなどの事情が重なって、(ネタは豊富にあるのに)、とてもHPの「院長日誌」まで手が回らず、4月〜5月は「ほぼ月刊」になってしまい申しわけないス。
じつは、わたくし、この5月をもちまして、お上から医師免許証をいただいて満20年になりました。おかげさまで、免許を取りあげられるような、医療事故や訴訟問題なんかに遭遇することもなく、何とか20周年を迎えることができました。医者としては、やっと「成人式」あたりまで育ってきたってことかしら。
そんなわけで、ちょっぴり回顧モードになって、20年前の自分がどんなことを考えていたかを証明する資料を発掘してまいりました。1985年10月発行の「病院」という雑誌に掲載されたわたしの原稿です。「病院」というのは、医学書院が刊行している主に病院管理者を対象としたお堅い月刊誌。当時卒業を目前にした医学部6年生のわたしのところに、「一般病院での卒直後2年間の臨床研修を考える」という特集の原稿依頼が、なぜか舞いこんできたのです。この原稿は、自分の書いた文章が初めて活字になって医学雑誌に載った、いわばわたしの「処女論文」なのですが、その17年後に「処女出版」を出してくれたのも同じ医学書院ですから、なにか不思議なご縁を感じます。
さて、はずかしながら、20年前のわたしが書いた文章を読んでみましょう。
<私は臨床研修とはよき臨床医にとって必要な "The principles and practice
of medicine" を身につける期間であると考えています。この言葉は著名なオスラー博士の内科書のタイトルから拝借してきたものですが、もう少し具体的に述べると、それは患者の抱えている問題を正しく把握し、問題解決への適切なアプローチを実行するのに必要なprinciplesとpracticeを身につけるということです。また、それは患者を全人的にマネージメントしていく、更にもっと広い意味でケアしていくためのものであるといってもよいでしょう。臨床研修の意義をこのように捉えるのは、よき臨床医
(effective clinician) をめざすという私の選択に依るところのものです。> (宮崎 仁:「施設・設備より、よき指導者のいる病院」; 病院 第44巻 第10号 1985年より引用)
うーん、言ってることは、今とほとんど変わりがないね。ここから、あまり進歩していないみたい。論文の最後のところも、ちょこっと引用してみます。
<好むと好まざるとにかかわらず、2001年の日本の医療の中堅として活動しなければいけないのは私たちの世代にほかなりません。今後は変貌する社会の中で、ますます臨床上の意志決定というものが難しいものとなってくるでしょう。そうした状況にあって、自発的な学習とたゆまない自己評価、そしてそれに基づくフィードバックを自分に課し、そのくり返しの中からよき臨床医としての自分を創造していくことが私たちの歩む道です。その第一歩として卒後2年間の臨床研修を実りあるものにするために、私たちはこれから厳しい眼で自己と社会とを見据えていかねばなりません。>
パチパチパチ(拍手)。若者らしい気負いに満ちた結びです。「今後は変貌する社会の中で、ますます臨床上の意志決定というものが難しいものとなってくるでしょう。」なんて予言は、ばっちり当たってますし。もし、この文章を書いていた20年前のわたしが、ホントに医療の「中堅」として活動している現在のわたしの姿を見たとしたら、どんな風に思うでしょうか?
「あまり『よき臨床医』としての自分を創造してきたとは言えないんじゃないの」なんて非難されてしまうかもしれませんね。
医学部を卒業したわたしは、この原稿に書いたような筋書きに従って行動し、母校の大学病院ではなく、よき指導医がワンサカいる「一般病院」に就職いたしました。医師国家試験の合格発表の日、先輩レジデントたちが「合格祝いだ」といって、築地の「チャコ」というステーキ屋さん(←いまも健在でしょうか?)でご馳走してくれたこと。病院からもらった初月給を握りしめて、祖母や両親へのプレゼントを探して歩いた、バブル前夜の銀座通り。すべてが、まだ「ほんの昨日のこと(オンリー イエスタディ)」のように思えます。<ああ
おまえは何をしてきたのだと 吹き来る風が私に云ふ >なんて、中原中也みたいな気分になっている今日このごろでありますが、「よく効く臨床医
(effective clinician)」をめざす創造の道は、まだまだ先へとつづくのです。これからの20年も、「厳しい眼で自己と社会とを見据えて」、気を抜かずにいきたいと思います。

これは就職して最初にもらったボーナスで買った
ウエルチ・アレンの「眼底鏡」です
★
諸先輩たちから
「内科医だって眼底をちゃんと診なきゃダメ」
と言われたので、同級生たちと一緒に購入しました
★
それ以来、20年間愛用している
診察道具です
仮診療所の診察室に入ってきた患者さんとわたしの会話。
「いやぁ、久しぶりにこの建物のなかに入ったけど、なつかしいなあ。」
「久しぶりって・・・ 以前ここで診察していたのは、少なくても40年以上前のことですよ。」
「そうさ、おれがガキのころ、先生のおじいさんに、ここで中耳炎を治してもらったのよ。」
60歳以上の患者さんたちにとって、いま仮診療所として使っている、「初代・宮崎医院」の建物は、子どものころの思い出がつまっている場所みたいです。わたしの祖父が診療していた時代の、診療所の内部の様子を、みなさんが克明に記憶されているのには、まったく驚かされました。
「ここは、いまみたいに部屋の仕切りはなく、大きなワンフロアーの診察室だった」
「あのあたりに、耳鼻科用の処置台がならんでいた」
「待合室は、今と同じ場所だったけど、畳敷きで火鉢が置いてあった」
「あのころ、このあたりには医者がなかったから、玄関の外まで患者があふれていたもんだ」
開院当時から通院している「御意見番」のような患者さんたち(もちろん、みなさん80歳以上!)が寄り集まって、お互いの古い記憶を引き出しながら、今から50年以上も前の医院を再現してくれます。
その会話を聞いていると、写真でしかみたことのなかった、創成期の医院の姿がリアルに浮かび上がってくるから不思議です。仮診療所として使えるように改造したとはいえ、昔の医院の面影やにおいを色濃く残している建物が、患者さんたちの脳のどこかに眠っていたメモリーを呼び覚ましてくれたみたい。
高血圧のために通院している初老の男性が、診察室に入ってくるなり、涙ぐまれたので、わけを尋ねると、
「昭和20年1月13日の三河地震のとき、わたしの母は大ケガをおいまして、この建物に運ばれて、前の大先生(注:祖父のこと)から手当を受けました。昔あちらにあった木造の病室に入院させてもらったのですが、治療の甲斐なく数日で亡くなりました。その当時、父は戦争にとられておりましたので、7歳だったわたしが、母に付き添っておりました。このなつかしい建物に入ったら、そのときの心細かった気持ちをふと思い出しまして・・・」
日頃は寡黙でめったに自分の感情を表に出されない患者さんの口から、このような物語が語られようとは、思いもよりませんでした。
尋ねたわたしは絶句してしまって、
「そうだったんですか、それはつらい体験でしたね」
と答えるしかありません。
仮診療所に引っ越してきて2週間になりますが、患者さんたちが語ってくださる、「宮崎医院とわたし」の物語りの数々を拝聴するにつけ、魔法のように人々の記憶を呼び覚ますことができる、古い建物の持つスピリチュアルなちからに、唖然としているところです。

1955年ごろの宮崎医院
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いま、この建物を「仮診療所」として使ってます
(そのまま残しておいてホントに良かった!)
★
写真のなかで自転車にまたがっている青年は
当時27歳の父であります

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