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大本山永平寺一乗谷朝倉氏遺跡

2023. 9.17


 低山ながらおもしろい山だと聞いた福井県の杣山へ行くことにした。これまでにも福井県の山へはいくつも登っているものの 観光地として知られる永平寺や一乗谷朝倉遺跡に行ったことがなかった。そこで今回 杣山へ登ってくるついでに訪ねることにした。 杣山は500mに満たない低山ではあるが うわさのハシゴあり、岩場・鎖場あり、展望あり、かつての山城の吊残がある評判通り変化のある山歩きができた。 時間的にも早く下山してきたので予定通り車で永平寺へと向かった。


 大本山永平寺

 駐車場は永平寺の門前口にたくさんあるが、事前に調べてあった無料駐車場を利用することにした。 駐車場の看板には『永平寺まで徒歩8分』と書かれていたが、山登りをする者にとっては何の支障もない。駐車料金の逆転現象も起きている。無料駐車場を出て100mほど行ったところに町営駐車場があって料金は1日400円とある。ところがさらに200~300m行った門前口の民営駐車場は1日300円というのである。土産物屋や永平寺そばなどの食堂が人を呼び込みたいという意図があるのかもしれない。 お店が並ぶ参道を行くと観光バスが何台も入ってきてたくさんの人が下りてきた。新型コロナによる制約からからある程度解放され、団体で観光地へ出かけてくるようになったようだ。このあと彼らと一緒に永平寺観光をすることになった。

 参道を上り突き当たりを右に曲がったところに龍門がある。
 〔右の写真〕永平寺の入口『龍門』
ここが入口で入るとすぐ左に立派な建物があった。 瑠璃聖宝閣といい木造風だが2002年にできたRC造の宝物館だそうだ。
さらに進むと手水舎があり、左へ石段を登ったところが 参拝者の入口・受付ということになる。参拝料は500円で、これが永平寺の大きな収入源であろう。
参拝順路の表示に従っていくと大きな建物である吉祥閣に入り、ここでスリッパに履き替え 靴はビニール袋に入れて持ち歩くことになる。この吉祥閣は 参詣者の観光の場であり、檀信徒が正信を養う研修の場、布教強化の研修道場だそうだ。 

    傘松閣の156畳敷き『絵天井の間』(1994年改築)          天井を飾る230枚の色彩画

 そして最初の見どころが傘松閣の2階にある156畳敷という『絵天井の間』。昭和5年(1930)当時の著吊な画家144吊による230枚の色彩画が天井に飾られているのだ。 傘松閣を出て順路の案内に沿って回廊を歩いていく。ところが 永平寺伽藍はパンフレットやWebで見ていたよりずっと広大で驚かされた。水平の回廊もあるが 山の斜面に伽藍が建てられているので階段の回廊もある。こんなに階段を上り下りさせられるのか とぼやく参拝者の声も聞こえてくる。もらったパンフレットの案内図を見ながら行くのだが自分の位置が正確につかみきれない。 山であればスマホのヤマレコアプリなどで地図・ルートを確認しながら歩けるし、コース外れも警告にしてくれる。しかし 永平寺の案内図だけでは見るべきものを見てきたのかも判然としなかった。そこで 家に帰って記憶を頼りに歩いた行程を伽藍配置とともに描き起こしてみた。以下はこの図の行程を追って記録しておくこととする。

 はっきりとした記憶がないのだが『東司(とうす)』すなわちお手洗いの横を通り『僧堂』のところに出る。 永平寺では日々の生活がすべてが修行。一人に一畳分の『単(たん)』と呼ばれるスペースが与えられ、座禅、食事、睡眠など 雲水が日常の生活を送るのがこの『僧堂』だという。僧堂から右折したところから左上に仏殿、正面には大庫院が見えた。回廊を行くとその大庫院に突き当たる。そこには 『帰路』という案内が右矢印で示していたので逆方向の左へ進み仏殿に向かった

       左上に仏殿、正面に大庫院を見る                大庫院へ通じる回廊

 『仏殿』は中央に曹洞宗のご本尊・釈迦牟尼仏、右に弥勒仏、左に阿弥陀仏が祀られており、向かって右から 過去・現在・未来の三世を現しているそうだ。せっかく永平寺へ来たのでここでお参りをさせてもらった。
     本尊が祀られた『仏殿』(1902年改築)              住持が法を説く道場『法堂』


            階段の回廊                           『承陽殿』

 仏殿から階段の回廊に出て上っていくときれいな中庭が見えた。その上から読経の声が聞こえてくる。参拝者たちが ここに集められて法要がおこなわれているのだ。その『法堂(はっとう)』は観世音菩薩が祀られ、住持(じゅうじ)が法を説く道場であり朝課や法要儀式が行われるところだという。まさに法要中で人物を写してはいけないというので内部の写真は撮れないし お参りもできず堂前の廊下を通過するのみであった。 法堂の先に承陽殿の案内標識があったので行ってみる。 『承陽殿』は道元禅師を奉祀する御真廟。承陽には仏法を承け伝えるという意味があるそうで 日本曹洞宗発祥の根源として聖地とでもいうべき場所だそうだ。承陽殿が参拝順路の最奥になるようなので ここで引返すことにする。

 法堂と仏殿の間の回廊を通り 大庫院の前から下って行くと斜面を見上げている人が大勢いた。高いところまで続く石段の先に松平家の廟が祀られているそうだ。 永平寺と徳川家の祖である松平家がどういう関係があるのか疑問に思ったのであとで調べてみてわかった。松平家は 福井藩主でもあったということと、永平寺は松平家の菩提寺であり、 道元禅師の教えに帰依し永平寺を支援してきたのだそうだ。
 〔右の写真〕石段の先に祀られている松平家の廟所



 うっかり見落とした感がある『浴室』の前から右へ行くと『山門』があった。1749年改築の永平寺最古の建物で 修行僧が正式に入門するときに通る門だそうだ。外へ出てはいけない と書かれていたので山門の写真はないが、門には四天王像が祀られていた。これが目を引く色鮮やかな像で持国天、増長天、広目天、多聞天である。また二階には五百羅漢が祀られているそうだ。
 〔右の写真〕山門を守る四天王のうち増長天と広目天

最後に『祠堂殿』に立ち寄る。この祠堂殿は宗派を問わず一般の人の紊骨や供養などの法要が毎日つとめられているところだという。大数珠は堂内にありますと書かれていたので入ってみたのだが見つからなかったのは残念だが紊経塔がある庭の眺めはなかなかよかった。

         『祠堂殿』の内部                  祠堂殿から見た庭の中に立つ『紊経塔』

 駆け足ではあったが約1時間で永平寺参拝はこれで終了。七堂伽藍のうち東司、僧堂、浴室、それに唐門の写真を撮り忘れるなど事前の調べが足りなかったのは後悔される。そのほかにも後で調べると『大すりこぎぼう』など見落としているものもいくつかあるようだ。山登りのついで永平寺参拝だったのでそれも致し方ないだろう。それでも山の斜面に想像していた以上の壮大な伽藍が並び奈良や京都のお寺をしのぐ大本山寺院は一見にしかずであり、今回遠くまで訪ねてよかったと思う。 また、永平寺は言わずと知れた曹洞宗の大本山。曹洞宗には大本山が二つあって一つは横浜市鶴見区にあろ總持寺、もう一つがここ福井県永平寺町にある永平寺である。私に信仰心はないが、一応檀家として親たちの墓が郷里の曹洞宗の寺にある。墓参りもめったにしない親上孝者であるが大本山の永平寺に参拝してきたので、多少義理が果たせ一区切りついた気持ちになった。最初で最後の大本山参拝ではあろうが。




 一乗谷朝倉氏遺跡

 山登りで福井県には何度も来ているが、この地方の代表的な観光地である永平寺と一乗谷遺跡には行ったことがなかった。 その気にならないとなかなか行けないものである。そこでこの日は福井県南越前町の杣山という山へ登るついでに永平寺と一乗谷朝倉氏遺跡を計画を組み入れ 思い切って訪ねることにしたということである。
 杣山登山と永平寺山参拝を予定通りすませて一乗谷へ行く。永平寺からは11kmと意外と近く18分で移動してきた。


 一乗谷

 一乗谷朝倉遺跡の見どころは2つで、朝倉氏の一乗谷城・館跡と復元された街並もあるかつての城下町。もう一つは 県立の一乗谷朝倉氏遺跡博物館である。見学ルートは少しだけ事前に調べてあり、復元街並、朝倉館を見たあと車で移動して博物館に行くことにした。
 駐車場はいくつかあるが、復元街並入口前にある第2駐車場に車を置いて出発。 最も一般的な順路だと聞いた(1)復元街並 (2)朝倉氏館 (3)湯殿跡庭園 (4)中の御殿 (5)諏訪館跡庭園 の順に回る。
見学受付でシニアの人は博物館の入場料も含めて360円だというチケットを買ってスタート。購入時に何年生まれか問われたがもし若く見られたとすれば喜ぶべきか???

 入ってすぐのところが復元された町屋群で その奥がこれも復元された中級武家屋敷群だった。最初の町屋群は現代のように一戸建て住宅で、寝起きする板の間と土間、庭には井戸と排水溝やトイレが備えられていた。 復元家屋の中には民家のほか紺屋と商家もあった。

      復元民家は庭付き一戸建てで井戸がある              町屋内部の板の間

 敵の侵入を妨ぐためにクランク状に付けられた道を行くと中級武士の復元屋敷に入る。こちらは民家に比べて屋敷や住居も広く主殿、蔵、使用人部屋もある。復元家屋には座敷が2つ、囲炉裏の間や土間もあった。 4つ並んだ便所も復元されていた。戸が付いていなかったが実際にはあったのではないかと思う。また、道を挟んで反対側が上級武士の屋敷だったらしい。パンフレットによると 屋敷もより広かったようで、復元された門を見ても階級によって格式が違っていたようである。450年前の戦国時代、ヒエラルキーがしっかり根付いていたことの現れだろう。
           中級武士の家の内部                    4つ並んだ便所


 復元街並の見学を終え、次に朝倉氏遺跡へ向かう。北入場口からいったん道路に出て一乗谷川にかかる御屋形橋をわたる。 突き当たって朝倉館にめぐらされた堀沿いに北へ。コイが泳ぐ堀の向こうに復元された唐門があった。 門から入るとそこは広大な朝倉館跡である。その朝倉氏については大河ドラマなどにもたびたび登場し、 明智光秀も一時身を寄せていたとか、織田との闘いとか断片的には知っているが、もらったパンフレットには《朝倉家の歴史》として下記のように記されていた。
           朝倉氏の歴史                      コイが泳ぐ堀と唐門

 橋をわたり唐門から入ると広大な屋敷跡が広がっていた。今は何もないが建物が立ち並んでいた当時はどれほどの壮観さであったろうか。発掘されきれいに整備された館跡を行くと今なお発掘整備が行われているところがあり 下の写真は小座敷跡らしい。その隣に池庭跡があった。


         今も整備中の小座敷跡                  小座敷跡の隣にある池庭跡

 朝倉氏館が広大すぎてその中を歩いて行っても全体像がとらえきれない。背後の山の方に道が続いていたので登ってみよう。ということで五代朝倉義景公の墓所の横から登って行った。 右の写真が上の方から俯瞰した朝倉氏館跡である。ここは第五代当主朝倉義景が住んだ屋敷跡だそうで、6,500㎡ほどの敷地があったといい、写真のさらに右と左にも広がっている。その中に常御殿、主殿、会所、茶室、蔵、庭園などなどが整然と配されていたという。それらの建物などが建ち並んでいるさまは壮観だったことであろう。
 〔右の写真〕高いところから見下ろす広大な朝倉氏館跡



 さて次へ行こう。ということでいったん朝倉義景の墓所まで戻る。だが、このあとは今行ってきた展望地と同じくらいの高台になったところなので少しだが登っていく。 まずは『湯殿跡庭園』。一乗谷で最も古い庭園だそうで、戦国大吊の庭らしく荒々しい石組で構成されている。今は枯山水だが導水路が発見され戦国期には池に水がたたえられていたことがわかったという。私も疑問に思ったことだが、 湯殿跡という吊称は戦国期にどのように使われた場所なのかは未だ解明されていないそうである。
 〔右の写真〕荒々しい石組の湯殿跡庭園





 次は『中の御殿跡』。湯殿跡庭園から木の橋をわたった先にある広場のようなところで、礎石が規則正しく配置されていることからここに御殿があったことがわかる。この上50mのところに展望所があるというので行ってみたが想像していた以上の眺めではなかった。 そして最後が『諏訪館跡庭園』。諏訪館というのは中の御殿からさらに南にあり、朝倉義景の妻の館だという。この庭園は上下2段になっていて一乗谷で最も規模が大きい庭園だそうだ。滝石組の横にヤマモミジが配されていて今日見た庭園の中では心地よい繊細さが感じられた。奥方の庭ということで女性に好まれる庭ではないかと思った。

    木の橋をわたった向こう側に広がる中の御殿           優しい感じがする諏訪館跡庭園

 これで一乗谷朝倉遺跡の見学はおしまい。急な階段を下り一乗谷川を西へわたり返したことろにある南入場口の駐車場まで戻ってきた。 本日最後の見学で一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ行く。


 一乗谷朝倉氏遺跡博物館

 一乗谷朝倉遺跡の見学を終え車で2.3km、5分かからないところにある『一乗谷朝倉遺跡博物館』まで移動してきた。1年前の2022年 10月に開館したばかりだと聞いていたが大きくて立派な建物にびっくりした。こんな田舎にといっては失礼かもしれないが周囲の風景とは異質の感がする。福井県がこの地域の活性化、観光振興のために大きな投資をしたということであろう。 観覧料は700円だが、70歳以上であれば一乗谷復元街並と合わせて格安の360円である。1階にミュージアムショップとカフェにガイダンスと遺構展示室、2階が主展示場で常設と特別展示室という構成。一通り見て回ったが、出土品などを中心とした展示で、私としてはそれほど興味を惹かれるものではなかった。


       2階展示場内部の様子             城下町のジオラマと展示物。右下は川湊の遺構

 一乗谷朝倉氏遺跡と遺跡博物館の見学はこれで終了。博物館といえばその地で発掘したものや当時の人の生活がうかがわれる遺品などを展示することになるのが一般的だろうと思うし、この博物館もその域を出ないものだと思った。 遺跡・遺跡展示に興味のある人にとってはおもしろいだろうが、私にそういう趣味を持ち合わせていないということであろう。 一方、広々とした一乗谷はハイキング気分で回ることができ、往時を思いながら歩いてくることができてよかったと思う。 その一乗谷の朝倉の城と城下町は地形的に広くなったところとはいえ山間の限られた平地にある。岐阜城とか、安土城とか 城自体は山の上にあってふもとの平地の広がりは広大である。当時はどのくらいの人がここに住まっていたのかわからないが、農作地も含めて一乗谷は範囲は限られたものである。それでも戦国時代の一国として5代100年も永らえたのは、重臣を集住させての能力主義、人材の育成といった家訓を生かし統率してきた当主たちの経営によるものであろう。しかしながら、平城の小国では精鋭大群の織田には抗しきれなかったことは当然のことかもしれないと感じた一乗谷朝倉氏遺跡であった。



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