屋敷貉−源助大明神

 新町の通称重屋(おもや)山本半右衛門家は、安永年間酒造業をしていた。

 春の日の昼さがり、杜氏が酒倉へ酒をとりに行ったところ、急にものに憑かれたものか、とりとめもないことをしゃべるようになった。

 主人が「お前は、どうしてこのようになったのか」と問うたところ、杜氏は、もう四つ這になって貉のかっこうになり「わしは、年久しくこの屋敷内に棲む源助という貉であります。今日、相川の二つ岩の団三郎親分のところから西三川の『鵜懸(椿尾の鵜懸で、オカケと訛っている)の長老』のところへ嫁入りがありました。ご当家は、代々本陣宿の格式あるお屋敷であるからといって、中食宿を頼まれました。そして、いま酒倉で酒盛りの最中に杜氏が土足のままでとびこんで来たので、このように憑いたのであります」と答えた。

 これを聞いて、主人はたいへん怒って「そのようないたずらをする者は、一日でもこの屋敷におくことは、まかりならん。さっそく棲家をとりこわしてしまうぞ」と、大きな声でどなった。

 杜氏の源助貉は、すっかり頭を地につけてあやまった。そして、「まことに申し訳ありません。さっそく杜氏を前通りにいたしますから、わしの棲家も今までと同じように、このお屋敷のうちにおいて下さいませ。そうしていただければ、そのご恩に報いるため、ご当家を末代まで永く守護いたし、毎夜夜番をつとめ、決して盗賊などを入れることはしません」と、しみじみ語った。

 それから杜氏は、裏の木戸から江川の川岸へ走り出て倒れた。しばらく蒲団などをかけておくと、正気になったということである。

 その後、弘化・嘉永のころ「佐渡の鼠小僧」といわれた吾吉という大盗賊がいた。

 山本家の川向こうにある山本籐九郎家の土蔵へ盗みに入り、捕らえられて相川町の佐渡奉行所の白州の上で吟味を受けた。
 この時、吾吉の白状するところによると、「実は、前夜半右衛門(はんねむ)さんへ忍んで入ったが、どうしたことか、一晩中人影が見えたり、人の咳払いが聞こえたりして、とうとう何もとることが出来ないで出てきました」と、いうことであった。

 これは、先年源助貉が約束したことを実行したものであろうと、今も語りつたえている。

 その後、昭和六年九月、新町大神宮の向かって左側に、石の祠を作って、祀ることにした。台石の後方に丸い穴のあいているのは、この貉の出入口だということである。


(山本修之助編著 佐渡の伝説 より)


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