紅梅町 きつね と たぬき 合戦
−−− 昭和4年の朝火事顛末記  古谷太郎氏・談


 昭和四年、紅梅町で朝火事


 私がまだ堀川小学校に通っていた頃、私が住んでいた紅梅町で朝火事がありました。それがいつのことだったのか、図書館に通って膨大なマイクロフィルムを検索していましたら、昭和四年六月二十八日付けの大阪朝日新聞に、小さな記事が載っているのを見つけました。

 ‥‥二十七日の午前五時三十分頃、北区紅梅町の塩崎印刷工場から出火。同工場二棟建坪約五十坪を瞬くうちに全焼し、さらにその南側なる大阪株式取引店主田島愛之助方の九十七坪の本宅と離れをなめつくし、結局周辺十一戸を全焼、三戸を半焼して六時五十五分鎮火した。(後略)

 たび重なる不思議な現象

 私の父は医者で、紅梅町で「古谷医院」を開業しておりました。天神橋三丁目商店街の「ヨシノヤ」の辻を東に入ると、清水木工店、洗い張り屋の「阿波源」、救世軍の建物があって、その東隣に私の家(古谷医院)がありました。

 実は、この朝火事の一年ほど前から、清水木工店で不思議な現象があらわれていました。清水さんには、病弱の若い娘さんがおられたのですが、まず彼女が心身の不調を訴えられました。さらに、ご両親、そしてお兄さんも原因不明で体調を崩されました。そればかりか、家にも異変が現われ、時おり地響きのような音が聞こえたそうです。

 相談を受けた私の父は、とりあえず家屋内外の大掃除を提案しました。さっそく実行されたのですが、店の奥の材木置き場を片づけていた時、腐った廃材の中から、壊れかけた小さな祠(ほこら)が発見されました。

 古老に聞くと、その祠は、もともとそこに祀られていたお狸さんであることが分かりました。祠は修復され、隣保(隣組)の人たちによって新たに「講」が結成されて、手厚く祀られることになりました。

 お稲荷さんとお狸さん

 清水木工店で不思議な現象があらわれる数ヶ月前のこと。北浜で成功した田島株式屋の一家が私の家の北側に移って来ました。田島証券は、東の通りに面して店舗付本屋があり、その奥は中庭、離れ屋がある邸宅になっていました。間口は狭いが奥行きがあって、敷地は私の家と阿波源を越えて、清水木工店の裏にまで達していました。

 田島証券は景気が良いとみえて、すぐに北隣の土地も買い占めました。そして私設の市場のようなものを建てはじめました。今で言えばスーパーみたいなものです。

 田島証券と、清水木工店、阿波源、そして私の家の境界線には昔からの古溝が流れていたのですが、田島側は市場を建てるにあたってその溝をコンクリートで埋めてしまいました。さらに、清水木工のお狸さんの祠と背中合わせに、一分の隙間もなく、稲荷社を造営したのです。それはお狸さんの祠の倍もあるような立派なものでした。

 土良丸大明神(どらまるだいみょうじん)の出現

 稲荷社が完成すると同時に、市場の開店祭りが盛大に行われました。ちんどん屋も繰り出して、大勢の買い物客で賑わいました。 開店の騒ぎが静まったある日、今度はお狸さんを祀った隣保会の講中(こうなか)一同が、祠の落慶式を行うことになりました。

 小学生だった私は、ムシロに座って、儀式の一部始終を興味津津で眺めていました。拝み屋さんがやってきて釜を焚き、祝詞をあげはじめましたが、しばらくするとその拝み屋さんの体が震え出したのです。形相も険しくなって、やがてなにかが取り憑いたような感じがしました。
 「あなたはどなたさまですか?」と清水さんが訊ねると、仰々しく「我はこのあたり一帯の溝に住む狸族の土良丸大明神である。この度は医者の古谷の計らいで、我ら一族は安住の場所を得た。たいそう喜んでおる。我らはこれから狐に対して仇討ちをするが、お前たちには一切危害を与えることはないから心配せずに見守るがよい……」。そう伝えると、土良丸大明神は拝み屋さんの肉体を離れたのです。長年住み慣れた溝を埋められ、狐の一族に土地を奪われた無念さを土良丸さんは訴えたわけです。

 その日以来、一体何事が怒るのか?私たちには不安な日々が続きました。そうこうして、昭和四年六月二十七日の朝を迎えたのです。

 不可思議な火焔

 昭和四年六月二十七日未明、明け方の空に半鐘が鳴り響きました。「火事や!」「火事や!」のけたたましい叫び声に私はたたき起こされました。火元から高く燃え上がった火焔は南に燃え広がり、私設の市場を焼き払い、そして稲荷社に燃え移りました。みるみる社が焼け落ちると、突然、風向きが変わりました。東に向きを変えた猛烈な炎は田島家の邸宅と店舗を焼き尽くしました。

 不思議なことに、お稲荷さんの社は全焼したのですが、背中合わせの土良丸大明神の祠は焼けませんでした。さらに、田島家の邸宅を焼き尽くした猛烈な炎は、境界の板塀をまったく焦がさなかったのです。塀に沿った松の木や雑木も、田島家側(北側)のものはすべて焼けたのに、南側のものは焼けませんでした。

 鎮火後、消防署による現場検証が行われましたが、結局、火事の原因は分からずじまいでした。不思議な燃え方をしたその火事が果たして土良丸大明神の仕業だったのか?それは誰にも分かりません。しかし私にとってこの朝火事は、その後の七十年間ずっと忘れることができない、不思議な出来事となりました。

 記憶の実在

 先日、昔の記憶をたどりながら紅梅町を歩いておりましたら、モータープールの一角に、祠があるのを発見しました。ご主人に伺うと、亡くなられたお父さんから、火災予防のお狸さんだと聞いているとのこと。小学生の時の記憶にある土良丸さんが、今でも実在していたことに私は感激してしまいました。

 土良丸講は終戦まであったそうです。しかし戦災で住民が四散されたため、今ではモータープールのご主人が一人で守っておられます。さらに詳しいお話を伺うと、初代の土良丸さんは昇位して白長(ハクナガ)大神に、二代目土良丸大明神には高弟を昇格させたということでした。その間、この土地の主である己さんの黒光(クロミツ)大神、黒龍(コクリュウ)大神を合祀して、現在では四神がこの祠に鎮座されているそうです。

(天満人 第2号 より)


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